【魔杖職人の朝は早い】第9話 青アザを冷やしたり温めたり

第9話 青アザを冷やしたり温めたり

 
 
 ご主人様があまりにわたしを強く抱き締めて泣かれるので、ようやく頭のもやが晴れて現状を把握できても、「怖かったです」と縋り付くことさえできませんでした。それと、けっこう苦しかったです。自分のために泣いてくださっているのに言い出し辛くて、黙っておりましたけれど。
 わたしの耳元で声を忍んでひとしきり涙を流されたご主人様は、暫くして泣き止むと少し体を離し、普段は決してお見せにならないような情けない表情で、わたしの瞳をじっと覗き込んできました。先に、その鼻水を何とかしていただきたい。端正なお顔立ちが台無しです。わたしは白いフリフリエプロンの前ポケットからハンカチを取り出して、ご主人様のお鼻をちょんちょんと拭って差し上げました。あ、ダメです意味がない。
「どうぞ、お使いください」
「うん、ありがとう」
 ハンカチを差し出すと、それを受け取ったご主人様は、至近距離で鼻をかまれました。申し上げたいことはたくさんありますが、今は特殊な状況ゆえ、やはり黙っておきます。
「わたくし、憲兵をお呼びしてまいりますわ」
 ご主人様の後ろでわたしたちの様子を静かに見守られていたマルガレーテさんが、ここへ来て初めて言葉を発されました。ご主人様は振り返って「ああ、頼むよ」と頷きます。マルガレーテさんも頷き返し、小走りにお部屋を出て行かれました。
 その時です。ハンカチの間から小さな何かが零れ落ちて、コツンと床に着地します。何だろうと思って拾い上げてみると、それは半球形をした薄桃色の宝石でした。マルガレーテさんをお家に案内した際、後で戸棚へしまっておくようご主人様から申し付けられていたものです。あれれ、ヒビが入ってしまってる。最初からでしたっけ? それとも、お預かりしている間に傷付けてしまった? だとしたら、どうしましょう。あわあわし始めたわたしと、指先の宝石とを交互に見て、ご主人様がハッとしたお顔をされました。
「なるほど……『それ』のおかげだったか」
 何のことやら、さっぱり分かりません。わたしが小首を傾げていると、ご主人様が控え目に微笑んで説明してくださいます。
「その石はゲルトが制作した物なのだが、持ち主の身体に外から加わろうとした魔力を、ある程度打ち消す効力があるのだよ。奴は、今フィーが嵌められている首輪を介して忘却魔術を掛けようとしたようだが、その石が無効化してくれたのだろう」
 えっ。わたし、忘却魔術なんて掛けられそうになっていたのですか。危ないところでした。忘れたとしても問題ないような記憶ばかりではありますが、せっかくご主人様のために覚えたお菓子のレシピが頭から抜けてしまうのは、少々勿体ない気もしますから。
「そうでしたか。ゲルトさんには、後ほどお礼を申し上げておきますね」
「そうだな。落ち着いたら、二人で行こう。まずは――」
 ご主人様は、わたしの背中に回していた左腕はそのままに、右腕を膝下に差し込むと、ご自身も立ち上がりつつ、わたしを横抱きに抱え上げました。
「憲兵の到着を待って、君を医者に連れて行かねばな」
 そのような必要はございません、と訴えても、どのみち聞いていただけないのでしょう。いろいろあって怖かったですし、鳩尾は少々痛みますし、大柄なご主人様の腕の中は安定感があって心地良いので、今ばかりは少し甘えさせていただくことにします。
 立ち上がったご主人様が、縄でぐるぐる巻きにされて気を失っている男性を横目で睨み付け、彼の鳩尾にわりと思い切り蹴りを入れてらっしゃったのは、見なかった事にしました。
 
 ***
 
「奴は、私が宮廷魔術師だった頃、同じ研究室で働いていた同僚でね。しかし何時からか、脳に作用する魔術――いわゆる禁術の研究に傾倒していった。その内、奴は国籍を持たない者との主従契約を悪用して、人体実験を始めたのだ。奴の身辺で奇人を見掛ける事が多くなり、怪しいと考えて個人的に調査をしたところ、奴の行いに気付いた。確信を得る頃には、この国の一般市民も含めて、二十名を超える犠牲者が出ていたよ」
 わたくしは、ごくりと唾を飲みました。ベッドで横になっているフィーさんも、同じ反応をされています。
「酷いお話ですわね……」
「ああ、全くだ。だから私は証拠を揃えて上層部に告発したのだが、奴の凶行は揉み消された。侯爵家の三男坊だったからね。醜聞が立つのを避けたかったのだろう。正式な裁判は行われずに内々で処理され、結局、奴は呪文の詠唱を禁ずる刺青を喉に掘られて、宮廷魔術師の資格と貴族籍を剥奪されただけだったよ。犯した罪に比べたら、生温過ぎる罰だ。何せ、多くの者の人格を理不尽に奪ったのだからな」
 ベルンハルトさんは苦々しげなお顔で、静かに語られました。
 なんということでしょう。同じ貴族の間でそのように恐ろしい事件が起き、民を牽引する者として恥ずべき対応が為されていたなんて。信じたくはありませんけれど、この真面目そうなおじ様が仰るのですから、おそらく事実なのでしょう。
「それで、ベルンハルト様は宮廷魔術師をお辞めになったのですか?」
 フィーさんの問いに対して、ベルンハルトさんは苦笑でお答えされます。
「いや。おかしな話だが、私も同時に資格を剥奪された。風紀を乱したとか何とか言う理由でね」
「本当に酷いお話ですね」
「ああ。しかし、あのように腐った組織、こちらから辞めてやるつもりでいたからな。むしろ、口封じされん内に去る事が出来て良かったよ」
 おじ様は、深々と溜息を吐かれました。
「それにしても、まさか十年以上も経った今更、報復される等とは思ってもみなかった。君たちを巻き込んでしまって、すまなかった」
 深々と頭を下げられたわたくしとフィーさんは顔を見合わせ、同時に首を横に振りました。
「ベルンハルトさんの所為ではありませんわ。悪いのは、全てあの男なのです」
「そうですよ。結局、何事もありませんでしたし」
 いえ、あなたにはあったのではなくて? とお尋ねしたくもなりましたが、ここは何も申し上げずにおきます。ベルンハルトさんが、さらにへこまれてしまうでしょうから――と思いきや、本人自らご指摘なさいました。
「いや、君にはあっただろう。怖い目にも痛い目にも遭わせてしまって、本当に申し訳ない」
 フィーさんは、傍目にも分かるほど大慌てされています。
「そんな、お顔を上げてください! 全然、ベルンハルト様の所為なんかじゃないんですから。それどころか、すぐに助けに来てくださって。ありがとうございました」
「それに」とフィーさんが続けます。
「お医者様へも連れて行ってくださって。えっと……あの、国籍を持たない人がお医者様にかかると、確か、追加の料金が発生してしまうのですよね……?」
 あら。きっと、ここでベルンハルトさんは……
「その事なのだが……」
 コホン、と咳払いをされます。きましたわ!
「わたくし、席を外させていただいたほうがよろしいかしら?」
「ああ、うん……そうだね」
 心なしか、ベルンハルトさんのお顔が赤くなったような気がいたします。わたくしは、満面の笑みを送って差し上げました。見知った方々が幸せになるのは、喜ばしいことです。
「では失礼して、下の階で寛がせていただきますわね!」
 
 ***
 
 フィーはベッドに横になったまま、きょとんとした表情でフォン・シュヴェルスタット嬢の背を見送った。そして私に視線を戻し、小首を傾げて無言の問いを投げ掛けてくる。可愛らしい。
 私は密かに一つ息を吐いてから、逸る気持ちを抑えつつ本題に入った。
「……実は、君が我が国の国籍を取得できる目処が立ってね。君さえ望めば、明日にでも手続きを行う事が出来るのだが……どうする?」
 ベッドの中の少女は目を丸くして「え」と声を漏らした。
 予想通りの反応に、口角が緩む。
 しかし彼女は私を見詰めたまま、それ以上、何も言わなかった。
 思いの外長い沈黙が続き、結論を急いた私は耐えきれず、口を開く。
「もちろん、選択は君の自由だ。故郷を捨て難いなら、無理にとは言わない。だが、この先もこの国で暮らしていくつもりであれば、市民権を得ておいて損は無いと思う。医者にも自由にかかれるようになるし、財産を持つ事も可能になる。就職や結婚だって出来るようになる。だから、その……どうだろう?」
 返事は無い。
 私は、少々不安になってきた。先ほど自分で述べた通り、自由の身になるのなら故郷へ戻りたいと考えているのだろうか。それとも、何か他に渋る理由でもあるのだろうか。
 下を向いて指を組み、心を落ち着かせながら回答を待っていると、数分ほど経ってようやく、フィーが言葉を発した。
「……それって、主従契約が解消される、ってことですよね……?」
 私は、思わず固唾を飲む。彼女に国籍を与えようと行動した時点で承知していた事ではあったが、改めて指摘されると、胸が詰まった。
「……そうなるね」
 私の側は、契約が破棄されても、今まで同様二人で暮らしたいと考えている。しかし法的には何の繋がりも無くなるので、フィーが望めばいつでも私の元を去る事が可能になる。同時に、私も彼女に対する一切の責任から解放される為、彼女からすれば、私が自分を追い出すつもりでいると捉えられてもおかしくはない。信頼関係は築いてきたつもりでいたが、もしそのように考えて答えに詰まっているのであれば、説得するしかない。
「しかし、私は君を追い出したりするつもりは無いよ。ただ、具合が悪ければ気兼ねなく医者にかかって欲しいし、買い物だって自由にして欲しい。一般市民にとっては当たり前の生活を、君にも送って欲しいだけなのだよ」
「…………」
 フィーは私から視線を逸らして、再び黙り込んでしまった。
 そして、長い沈黙の末。
「ありがたいお申し出ですが、お断りさせていただきます」
 ハッとしてフィーの顔を見れば、彼女は心なしか悲しげな表情で私を見上げ、蜂蜜色の瞳に潤いを湛えていた。
「何か、理由でもあるのかい?」
「わたしには勿体ないお話かな――と。それだけです」
 私は首を横に振り、掛ける言葉を必死で探す。
「勿体ないなどと言う事は無い。君にはそれだけの価値があるし、何より……私が、君と対等な立場になりたいのだ。主従として、お互い気を遣い合う間柄では無く」
「ですが、ご主人様。わたしは、ご主人様の所有物のままでいたいです」
 まさか、このような展開になるとは思ってもみなかった。初めてぶつけられた我儘らしい我儘が、よもやこのようなものであろうとは。私は、思わず眉根に皺を寄せる。
「フィー。しかし、それでは君が一方的に不利益を被るばかりなのだよ。解ってくれないかね?」
「それで構いません。構いませんから、今まで通りの関係のまま、お傍に置いてください」
「だから、主従契約は解消されても、追い出すつもりは無いと――」
 言いかけて、私は言葉を切る。ここへきてようやく、彼女が小さく震えている事に気付いた。
「……すまない。答えを焦りすぎていたようだ」
「いえ。ですが、待っていただいてもお返事は変わりません」
 お互い、意地になっていたのだと思う。私はあからさまに溜息を吐いて見せた後、「分かったよ」と、あえて冷たい声で言った。
「ならば、主人として命じる。国籍を取得しなさい」
「そんな……!」
「だが、君の意見も尊重しよう。それほど主従関係で居たいと言うならば、君が市民権を得た後で雇用契約を結ぶ。雇用条件は、君が私の元で住み込みで働く事。対価として、私は君の衣食住の保障をするし、君の行動の全責任を負う。私は君の行いに不満があればいつでも君を解雇出来るが、君は自分から契約破棄を申し出る事は出来ない。これで今までと変わり無いだろう」
 自棄になって言い捨てておいて、胸が痛む。しかし、フィーは真顔で頷いた。
「ご厚情に感謝します。ですが、もう一つよろしいですか」
「何かね」
「ベルンハルト様がわたしのご主人様であり、わたしはいつ何時もベルンハルト様に従います。そう明記しておいてください」
 今まさに、その文言を破っている最中であろう。一体、どちらが主人だと言うのか。私の従者は存外理不尽で、頑固なのだと知れた。
「それで君に何の得があるのか知らんが、君が望むのであれば、そうしよう」
「ありがとうございます」
 ここへきて初めて、フィーが笑顔を見せる。非常に悔しいが、丸い両目に薄らと涙を湛えながらのはにかみ笑いは、思わず喉を鳴らしてしまう程に愛らしかった。