黒猫雑貨店 第三幕 追憶夢見草 5. 桜色の空

 馬車の窓から入ってくる風は、若芽の青い香りに満ちていた。
 白い帽子の頭を抑え、少し外に顔を出せば、目の前には一面の草原が広がる。植物の一本一本が風になびいて揺れる様は、さながら白波のようだった。
 御者台の先には、草原の真ん中にぽつりと立つ、水色の外壁の一軒家。
 私が領主家に嫁いで、五年目の春だった。
「おかあさま、すてきなおうち、ですね!」
「ええ、そうですね」
 私は、膝の上に座っている小さな少女 ―― 私の娘に微笑みかける。夫譲りの亜麻色の髪に、私譲りのディープ・ブルーの瞳。人形のように愛らしい顔立ちは、どちらに似たのか分からない。
「玄関の前のミモザ、随分大きくなりましたね。五年前は、ほんの苗木だったのに」
「本当に。ちょうど花の綺麗な時期に来ることができて、良かったですわ」
 夫と私も、目を見合わせて笑った。
 空は青く晴れ渡り、点在する白い雲を浮き立たせている。そのコントラストが、例えようもなく美しい。
 風に乗って北よりやってきたのであろう、一羽の鳶が、時折、高い声で歌う。
 途中の景色を楽しみつつ馬車に揺られていると、ほどなくして、私たちは親方の家へ到着した。
 馬車を降り、小さな門を越えると、そこは、かつて歩き回った、記憶のままの庭。
「今年は、畑にストロベリーを植えたのですね」
 私は思わず、誰にともなく呟いた。
「おかあさま、おやかたは、どこ、ですか?」
「さあ、どこでしょうね」
 私は、迷わずウッド・デッキのほうへ目を向ける。満開の桜の、煙るような薄ピンクが目に飛び込んできた。
 ひらりひらりと花びらの舞い降りるデッキ上に、ロッキング・チェアーが一つ。そこに腰掛けているのは、鮮やかな周りの色彩とは対照的な、黒いベスト、白いシャツ、黒いトラウザース、全身にモノクロームをまとった痩せ気味の中年男性。
 私の視線の先に気付いたのか、娘が、スカートの左脇を軽く引く。
「ね、おかあさま、あのかた、おやかた、ですか?」
「ええ、そうですよ」
 遠くに見える親方の頭は垂れていて、側の床の上には、一冊の本が落ちている。どうやら親方は、また居眠りをしているらしい。
 突然起こして驚かせては悪いと思い、私は、静かに親方の元へ向かおうと考えた。
 ところが娘は、止める間もなく、ウッド・デッキのほうへ走って行ってしまう。仕方なく、私も歩いてその後を追った。
「おやかたー! おきて、ください!」
 娘は、ロッキング・チェアーの左側の肘掛けに飛びつき、椅子を軽く揺らした。可愛らしい呼び声に、親方は小さく唸り、右手で額を抑えながら、ゆっくりと上半身を起こす。そして、左手に何も持っていないことに気付くと、ばつが悪そうに落ちている本を拾い上げた。
「何ですか」
 親方は、寝ぼけ半分で尋ねる。その問いに、溢れんばかりの笑顔で答える娘。
「あそびに、うかがった、です。こんにちは!」
 まだ頭が回らないようで、親方は何も言わずに声の主を見つめた。数秒を置いて、ようやく相手が確認できたのか、親方は目を丸くする。
「フロリーナ」
「はい!」
 娘は、キャッキャッと笑った。
 一歩遅れて、私もウッド・デッキ上に上がる。
「お久し振りです、親方」
 スカートの両端をつまみ、軽くお辞儀をした。親方は、驚いた表情 ―― もっとも、それは私にしか判別できないであろうほど、無表情に近いものであったけれど ―― のまま、右手を頭の後ろに回し、髪を弄ぶ。
「ああ、スヴェーナさんでしたか」
「ええ。突然にお邪魔してしまって、申し訳ありません」
「構いません。エイプルトンさんも、遠方はるばる、ようこそいらっしゃいました」
「ありがとうございます。何かと忙しくて、式の日以来ご挨拶にも伺えず、本当にすみませんでした。お元気そうで何よりです」
 ハンチングを取り、胸に当て、夫は穏やかに笑って会釈をした。そして、どちらからともなく右手を差し出し、二人は握手をする。
「こちらの可愛らしい少女が、ご令嬢ですか」
 私、夫と挨拶を済ませた後、親方は先ほどから気になっていたらしい、隣で瞳をキラキラさせている私の娘に顔を向けた。
「はい。娘のフロリーナです」
 夫は、少し照れくさそうに答える。
「こんにちは!」
 娘は、再び挨拶をした。今度は、私の真似をしてスカートの両端をちょんとつまみ、たどたどしい所作でお辞儀をする。
 それを受けた親方は、珍しいことに、実際に口角を上げて微笑んだ。
「こんにちは」
 挨拶を返し、前屈みになってフロリーナの頭を撫でる。
 喜んだフロリーナは、親方の膝の上に座ろうと、黒いトラウザースを登り始めた。
「フロリーナ」
 私が諫めるように名を呼ぶと、ぴたりとその動きは止まる。しかし、親方は 「構いませんよ」 と、フロリーナを抱き上げ、自分の膝の上に降ろした。
「ね、おやかたは、すてきなおはなし、たくさん、ごぞんじ、です、よね?」
 期待を込めた眼差しで、フロリーナが尋ねる。すると親方は、少し考えるように、桜の木を見上げた。
「そうですね。いくらかならば、お話しできるかもしれません」
 いくらか、の中に、これから先の物語が入っているか否か、私には分からない。いずれにせよ、親方はまだ、風の精の唄を追い続けているのだと思った。
「立ち話も何です、まずは、お茶にしましょう。外に椅子とテーブルを出します。スヴェーナさん、お茶の用意をお願いできますか」
「はい」
 私が頷くと、親方はフロリーナを静かに下へ降ろす。そして、ゆっくりと、椅子から立ち上がった。
「エイプルトンさん、どうぞ、お付きの方も呼んでいらしてください」
「これはご丁寧に、どうもありがとうございます」
 夫は心底嬉しそうに頭を下げ、小走りに馬車のほうへ駆けていく。その背中を見送ってから、親方は回れ右をし、椅子とテーブルを取りに行くため、ウッド・デッキと繋がっている書斎へ向かった。
「ああ、そうだ、スヴェーナさん」
 家の中へ入る直前、親方は立ち止まり、振り返って、玄関へ回ろうとしていた私を呼び止める。
「星屑、いつもと同じ場所にしまってありますから」
 そう言って、少しだけ微笑んだ。
 私も微笑み返し、黙って頷く。
 一瞬だけ、耳に響いたような気がした。風の精の唄が。
「ほしくず!」
 フロリーナは、嬉しそうに声を上げた。
 
 
 ざあっ、と潮風が吹いて、桜の花びらたちを、遠くへ連れて行く。
 空までもが、桜色に染まっているかのようだ。
 
 
「きれい、ですね」
 私は、誰にも聞こえないよう、そっと呟いた。