黒猫雑貨店 第三幕 追憶夢見草 4. 夜闇と猫

 私はダイニング・キッチン南側の窓越しに、夜の海を眺めていた。
 海面は、白い月光と無数の星たちを写し、静かに揺れている。以前人形の瞳に用いたことのある、ラピス・ラズリに似ていると思った。
 時刻は、真夜中過ぎ。親方 ―― とフロリーナは、とうに寝てしまっている。
 とても静かだ。
 灯りは一切つけていなかったものの、窓から差し込む月の光が部屋の中を青く照らし出していたので、暗さは感じない。
 ただ、すっかりストーブの余熱が冷めきっていた室内では、真冬の寒さが肩に凍みた。
「どうしたんだい、スヴェーナ。眠れないのかい?」
 どこからともなく黒い猫が現れ、ちょこん、と私の隣に座る。
「明後日は晴れの日だろう。こんなに遅くまで起きていると、肌が荒れてしまうよ」
「お婆様。お久し振りです」
 私は少し微笑んで、彼女を見下ろした。黒猫は、床の上で楽しそうに尻尾を遊ばせている。
「本当に久し振りだねえ。8年振りだったかね?」
「はい」
 私は、ガラスの向こうに視線を戻した。
「途中で音を上げて帰ってくるんじゃないかと心配していたが、よく頑張ったよ」
 穏やかな溜め息を一つ吐き、黒猫は金の目を細める。
「よかったよ、本当によかった」
「親方のおかげです。そして、お婆様の」
「なに、あたしゃあ何もしてないよ。人形職人さんと、スヴェーナ、お前自身の働きによる結果だよ」
 黒猫は左前足を舐め、二、三度顔をこすった。洗い終えると、今度はしなやかに体を折り、その場で丸くなる。まるで、黒いクッションのようだった。
「いい人そうじゃないか」
 私を見上げ、悪戯っぽく片目をつむって見せる黒猫。私は、ゆっくりと首を縦に振る。
「ええ。とても良い方ですわ。穏やかで、優しくて。私などには勿体ないくらいです」
 本当に心の底から、そう思って言った。ああ、そうだね、と、黒猫も頷く。
 北からやって来た陸風につつかれ、窓がカタカタ鳴った。
「もう、シルフィアイの紋章はすっかり消えてしまったのかい?」
「はい」
 黒猫の問いに答えて、私はナイト・ドレスの袖を、肩口までまくる。そこには、青白い素肌があるだけで、つい一昨日までそこに刻まれていた、あの紅い幾何学模様はなかった。
「もう、私には風の精の唄は見えません。満月の涙のストケシアを咲かせることもできませんし、結局、虹の破片を使った人形も作れるようになりませんでした」
「いいんだよ、それで。それでいいのさ」
 でも、と、私は月を見つめたまま、続ける。
「私は、全部忘れませんわ、お婆様。全部」
 ほんの少しだけ笑いを含んで、そう宣言した。そして、右脇の床に、ちらと視線を送る。
 黒猫の、大きな丸い目と出会った。
 相当驚いたのか、黒猫は少しの間、そのまま目をパチパチさせる。そして、突然、くくっ、と笑い出した。
「いい心がけだよ。唄の先まで見えなくとも、それで、また唄を聴くことくらいはできるだろうさ」
「ええ、そう願っています」
 本当に、静かな夜だった。
 
 
「それじゃあ、あたしはそろそろお暇しようかね」
 よいしょっ、と小さく声を立て、黒猫は身を起こす。
「元気でやるんだよ」
「はい。お気をつけて、お婆様」
「ありがとうよ」
 少し立ち止まり、振り返ってそれだけ言うと、黒猫は夜闇の向こうへ消えていった。
 
 
「 『ツケ』 は、これで返していただけたことになるのでしょうか?」
 私は、誰もいない暗がりに、答えの返らない問いを投げかけた。