黒猫雑貨店 第三幕 追憶夢見草 3. 赤い封蝋

 この家には、一本の大きな桜の木がある。ウッド・デッキの左に植わっていて、家の屋根と共に、ちょうどよい具合に西日を遮ってくれる。特に、今日のような真夏日には、なくてはならない存在だった。
 私は花に水を遣る手を止め、後ろを振り返る。ロッキング・チェアーに腰掛け、頭を垂れた親方の姿が目に入った。先ほどまで読まれていた本が、デッキ上に落ちている。
 拾いに行こうか否か一瞬迷ったけれど、起こしてしまうと悪いと思い、私はそのまま水遣りを続けることにした。
 少し離れた芝地には、一人楽しそうに紋黄蝶を追いかけるフロリーナ。世話しなく動き回る白い麦わら帽子が、陽の光を反射して白く光っている。
 私の視線に気付いたのか、フロリーナは足を止め、私に向かって大きく手を振った。私も、少し微笑んで、小さく手を振り返す。
 その時、庭の北側から、キキッ、と、自転車のブレーキ音が聞こえた。
 同時に、男性の声が届く。
「こんにちはー。郵便です」
 手にしていたピッチャーをウッド・デッキの段上に置き、私は小走りに門へ向かった。
「こんにちは、アディンセル嬢。今日も暑いですね」
「ええ、本当に」
 この家に郵便物を届けてくれるのは、いつも同じ配達員。感じのいい、三十代前半の細身の男性である。
 郵便物が届くことなど月に一、二度しかないので、彼がやってくることは滅多になかったけれど、会う度に軽い雑談を交わしている。
「こちらが郵便物です」
 彼が差し出したのは、一通の封書だった。
「ありがとうございます」
 私は、お礼を言って受け取る。
「親方さんには、お変わりありませんでしたか?」
「ええ。今は、そちらのウッド・デッキで昼寝をしておりますわ」
「なるほど、これだけいい陽気ですからね」
 このような調子で五分ほど会話をした後、配達員は 「では、失礼」 と帽子をとって挨拶し、町のほうへと戻っていった。私はそれを見送ってから、改めて封筒に目を向ける。
 高級そうなアイボリーの紙に、柔らかい字で住所と宛名が書いてある。住所はこの場所に間違いなかったけれど、宛名のほうは、驚くべきことに、私の名前になっていた。
 裏を返して、差出人を確認する。
 アリフレート=O=エイプルトン。
 どこかで聞いたことのある名だ。しかし、相手の顔が思い出せない。
 封筒は、赤い蝋でしっかりと封をされている。封蝋には印が押されていたけれど、それがどこの家のものなのか、まるで見当がつかなかった。
 こめかみに手を当て、私は真剣に記憶の糸を探る。
 そうして、どれほどの時間、その場に立ちつくしていただろうか。ふと気付けば、私のスカートの右側を掴み、フロリーナが不思議そうに私を見上げていた。
「スヴェーナ、どうしたのですか?」
 私はフロリーナに笑顔を向け、静かに頭を振る。
「いいえ、何でもありません」
「てがみ、ですか?」
「はい」
「だれ、から、ですか?」
「それが、分からないのです。差出人に、覚えがないのです」
 答えて、再び封筒に視線を移す。
「おやかた、なら、しってる、かも、です!」
 私も、同じことを考えた。しかし、気持ちよさそうに居眠りをしているところを起こしては悪いと思い、後にしようと考えたのだった。
 ところがフロリーナは、止める間もなく、ウッド・デッキのほうへ走って行ってしまう。仕方なく、私も歩いてその後を追った。
「おやかたー! おきて、ください!」
 フロリーナは、ロッキング・チェアーの左側の肘掛けに飛びつき、椅子を軽く揺らした。可愛らしい呼び声に、親方は小さく唸り、右手で額を抑えながら、ゆっくりと上半身を起こす。そして、左手に何も持っていないことに気付くと、ばつが悪そうに落ちている本を拾い上げた。
「何ですか」
 親方は、寝ぼけ半分で尋ねる。ただでさえ思考能力が鈍っているであろうに、そこへ、更に親方を混乱させるような、フロリーナの一言。
「スヴェーナの、てがみ、だれ、から、わからない、です」
「手紙、ですか」
「はい!」
 親方は、少し困ったように、額に置いていた手を後ろに回し、軽く髪をかき回す。やはり、フロリーナが何を言いたいのか、よく分からなかったようだ。
 私もウッド・デッキに上がり、親方に手紙を差し出した。
「私宛てに手紙が届いたのですが、差出人に覚えがないのです。この方をご存知ですか?」
 右手を前に回し、親方は封書を受け取る。表を一見してから、裏返して、問題の差出人の名前を興味深そうに眺めた。
「意外と遅かったですね」
 そう言って、親方は封書を私に返す。
「何がですか」
「もう少し、早く出してこられると思ったのですが」
 どうやら、私に向かって言っているのではないらしい。私は、質問を二度繰り返そうとして、止めた。
「お尋ねの件ですが、彼はマヤの領主のご令息です。以前、注文を受けたことがおありでしょう」
 親方の言葉に、ようやく喉のつかえが取れた。名前にのみ覚えがあったのは、つまり、そういうことだったのだ。
 あの時は、実際に人形を作る以外、受注から納品処理まで全て親方が行なってくれたので、私が依頼主と顔を合わせたのは、納品の時のほんの少しの間だけだった。それも、相当緊張していたので、ほとんど相手と目を合わせていない。覚えがないのも無理はなかった。
「領主のご令息、だったのですか」
 今更になって、初めての依頼主の素性を知るとは。私は、驚きと恥ずかしさとでいっぱいになった。
「それならそうと、あの時に仰ってくださればよかったのに」
 親方は、しれっと言う。
「重荷になると思いましたから」
 確かに、親方の言う通りである。私は、何も言い返せなかった。
「それで、どのような内容なのですか」
 興味津々といった様子で、親方が開封を促す。差出人の肩書きに驚いてしまい、中身のことなどすっかり忘れてしまっていた私は、少々慌てて封を切った。
 封筒の中には、また高級そうな便箋が二枚。広げれば、宛名書きと同じ柔らかな筆跡で、文面が書かれていた。
 私は、黙ってその手紙を読んだ。しかし、一度では理解できず、もう一度、今度はゆっくりと、最初から読み返した。ようやく内容が理解できると、更に信じられない気持ちでいっぱいになる。
「ええと、これは、もしかして、恋文、というものですか?」
 私は顔を合わせないまま、親方に手紙を回した。
 比較的落ち着いてはいたものの、私の頬は赤くなっていたかもしれない。もちろん、夏日だからということもあったけれど、それにしても暑かった。
 顔よりはいくらか冷たい両の手を頬に当て、私が頭を冷やしている間、親方は黙って手紙を読み進める。
 そうして、一通り目を通し終えたところで、親方は便箋を私に返し、静かに告げた。
「どうやら、そのようですね」
 楽しそうだ。
「こいぶみ、とは、なに、ですか?」
「相手への恋心を綴った手紙のことです」
 フロリーナの質問に、すかさず、親方が答えた。その表情は、相変わらずほとんど動いていない。しかし、本当に、心から今の状況を楽しんでいるのであろうことは伺える。
「スヴェーナ、こいぶみ、いただいた、のですか?」
 私は、何も言えなかった。
「それで、どうされるのですか」
「とにかく、お会いして、何かの間違いでないか確認してみます」
 口にすると同時に、私は新しく生まれたその重要な予定を、頭の中に書き留めた。
 
 
「間違いではないと思いますが」
 親方の呟きを、私は聞かなかったことにした。