黒猫雑貨店 第三幕 追憶夢見草 1. 憂鬱な日

 ベージュのカーテンを左右に分け、それぞれタッセルで束ねると、私は静かに窓を開いた。さあ、と頬を撫でる、ひんやりとした潮風。
 朝の気分に似つかわしくなく、空はどんよりと曇っている。
「いい天気ですね」
 サニーサイドエッグとアスパラガスが仲良くジュージューと音を立てているフライパンを手に、親方は言った。
 その目は、パンの底に向けられたまま。窓の向こうなど、全く見ていない。
 私は小さく溜め息を吐くと、窓の側を離れた。
 踵を返して、三人で使うにしては少々大きめのテーブルに向き合う。上には、ランチョン・マットが三人分、ナイフとフォークが二人分、ティー・スプーンが一人分。中央には、バスケットに盛られた数個のクロワッサン。ここに、二人分のサイド・ディッシュとホットミルク、そして一人分のカップ入り金平糖が加われば、朝食の準備は万全だ。
 私は静かに椅子を引き、席に着いた。
 同時に、ギィ、と西側のドアーが開く。
「おはようございます!」
 明るい声を上げてダイニング・キッチンへ入ってきたのは、赤いエプロン・ドレスに身を包んだ少女 ―― フロリーナだった。
 私と親方の声が重なる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「きょう、も、いいてんき、ですね」
 ちらと窓を見た後、フロリーナは満面の笑顔で言った。それに答える親方。
「そうですね」
 肯定の返事だった。しかし、視線は相変わらず、フライパンの底に注がれている。
 それでも、少女を喜ばせるには十分な返答だったようだ。嬉しそうに親方に向かい、フロリーナは大きく頷いた。
 私は腰を上げ、パタパタ音を立てて走り寄ってきたフロリーナを抱き上げる。羽根のように軽い。亜麻色の髪が、ふわり、と私の鼻をくすぐった。
 そっと椅子の上に降ろすと、フロリーナは、きらきら光る虹色の瞳で私を見上げる。
「スヴェーナさん、ありがとう、ございます!」
「どういたしまして」
 私は微笑み返した。
 そうこうしているうちに、卵が焼けたようだ。アスパラガスとサニーサイドエッグの載った白いプレートを左手に二つ、ホットミルクの入ったマグカップ二個と、金平糖の沈んだティーカップ一個を右手に持ち、親方がテーブルへ向かってくる。いつものことながら見事なもので、かなり無理のある行動ながら、危なっかしさは微塵もない。
 それぞれの席に、決まった食事を手際よく置き並べる。仕上がった食卓を一度見渡してから、親方は席に着いた。
 これで、この家の住人全員が、ダイニング・テーブルに揃ったことになる。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます!」
 同時にそう述べると、私たちは一斉に食事を始めた。
 まずはアスパラガスに手をつけ、熱いミルクを一口すする。ちらと前を見ると、親方も全く同じ動作をしていた。
 クロワッサンを一つ食べ終えた後で、私はいつも通り、親方に尋ねる。
「今日のご予定は」
 そして、答えの予想を始めた。
 今日が休日であることを考慮すれば、予定は、洋服や雑貨、仕事の道具や材料を買いに町へ出るか、海岸まで昼寝をしに行くか、家で各々勝手に過ごすかの、いずれか一つであると思われる。
 ただし、外は今にも雨が降り出しそうな曇り空だ。親方の返事は、おそらく、 「特にありません」 だろう。
 ところが、実際はこうだった。
「今日は、教会へ行きます」
 それだけ言って、マグカップへ手を伸ばす親方。私は、思わず唖然としてしまった。
 
 
 親方の漕ぐ銀色の自転車の荷台で、揺られること三十分あまり。私たちは、マヤの駅に到着した。
 家を出てからというもの、フロリーナは始終、 「きょうかい、きょうかい」 と小さく歌い続けている。
 発つ前、彼女に尋ねたところ、教会へ行くのは初めてなのだそうだ。だとすれば、親方が前回教会へ足を運んだのは、少なくとも一年前ということになる。
 切符を買い、汽車に乗り込むと、私たちは空いている場所に座った。もっとも、今日が火曜日だからなのか、どの車両も空席ばかりではあったのだけれど。
 席についてからしばらく経った後、重厚な汽笛の音と共に汽車が動き出した。
 一呼吸置いて、私は口を開く。今度こそ、返答の予想はついていた。
「信徒でいらしたのですか」
 案の定、親方は無表情で答える。
「いいえ」
 ならばなぜ、とは聞かなかった。おそらく親方は、単にリュフェーシカへ行きたいだけなのだろう。
 私は、小さく溜め息を吐いた。
「スヴェーナ、げんきが、ない、のですか?」
 そう、心配そうな様子で私の顔をのぞき込んだのはフロリーナ。私は頭を振り、少しだけ微笑んで見せる。
「いいえ」
 否定の返事に、フロリーナの表情がぱっと変わった。
「げんきなら、よかった、です!」
 一つ頷いて前へ向き直ると、再び小声で歌い出す。
「きょうかい、きょうかい」
 とても楽しそうだ。
 対して親方は、相変わらず無表情のまま、向かい側の窓の外を眺めている。流れ行く外の景色が面白いのかもしれない。
 私も、車窓から見える風景を楽しんで、一時間をやり過ごすことに決めた。
 
 
 いつの間にか、眠っていたようだ。親方に起こされたときには、既にリュフェーシカに到着していた。
 黒いコートの生地の様子から察するに、どうやら、私はかなりの間、親方の左腕を枕代わりにしていたらしい。しかし、そのことに関して、親方は何も言わなかった。
 駅舎を後にし、親方がフロリーナを背負うと、私たちは人の合間を縫って、真っ直ぐに教会へと向かう。
 フロリーナは、また歌を口ずさみ始めた。
 噴水広場へと続く大通りには、見覚えのある光景が広がっている。
 リュフェーシカの地を踏んだのは実に三ヶ月ぶりであったけれど、それほど懐かしさは感じなかった。親方の家の静けさに慣れてしまったせいかもしれない。
 噴水広場に出たら、今度は北の大通りに入る。リュフェーシカの教会堂は、この道を真っ直ぐ四十分ほど歩いたところに建っていたはずだ。
 広場の北にあるクレープ・ショップを通り過ぎてから、およそ二十分が経った頃。右手に、 「カバラフ精肉店」 が現れた。
 ふと、立ち止まる親方。
 私も立ち止まった。
 前を向いたまま、親方は言う。
 
 
「このまま、真っ直ぐ行きますよ」
 
 
 今、この瞬間、彼は少しだけ微笑んでいるかもしれない。
 この場所で、そう宣言する、たったそれだけのために、高い乗車賃を払ってリュフェーシカまで来たのだとしたら、あるいは。
 私は親方を喜ばせたくなかったので、一言だけ返す。
「ええ」
 
 
 その後、私と、親方に背負われて楽しそうなフロリーナ、そして、不機嫌な空気を漂わせている親方の三人は、予定通り教会へ向かった。
 何を祈るでもなく聖堂へ足を踏み入れたところ、私と同じくらいの年齢の少女たちが、ちょうど聖歌の練習をおこなっているところだった。他にすることもなかったので、私たちは長椅子へ腰を下ろす。
 澄んだ歌声に耳を傾けること、およそ三十分。聖歌隊の練習が終わる頃には、親方の機嫌は直っていた。
 親方はいつも通りの無表情で、祭壇を見つめたまま呟く。
「そろそろ、帰りしょうか」
 私たちは、席を立った。
 教会の外へ出ると、入る前よりも、少し肌寒く感じた。見上げれば、今や、空は完全に黒雲に覆われてしまっている。
 不意に、ぽつり、と頬に滴が落ちた。
 左手の指先で、私は頬の濡れた部分に触れる。ゆっくりと足下を見れば、石畳の地面に点々と浮かび上がる、黒い模様。
 雨だった。
「傘を持ってきませんでした」
 親方は少し下を向き、右手で黒いソフト帽を被り直す。
「あめが、ふる、とき、かさが、ないと、どうなるのですか?」
 親方の背中で、フロリーナが尋ねた。彼女の瞳は、純粋な興味から、きらきらと虹色に煌めいている。
「濡れます」
 短く答え、親方はフロリーナを背中から下ろすと、手早くロング・コートを脱いだ。そして、それを私に差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 コートを受け取りながら私は、家を出るとき、傘がないのをあえて指摘しなかったことについて、少しだけ反省した。
 親方は、コートの下に着ていた黒いカーディガンも脱ぎ、今度はフロリーナに被せる。
「ありがとうございます!」
 虹色の瞳を輝かせ、フロリーナは余り余った袖を振った。親方は無言で、彼女の頭にソフト帽を載せる。
 親方がフロリーナを背負うと、私たちは、足早に来た道を戻り始めた。
 雨脚は、秒単位で強まっていく。
 歩きながら私は、親方が風邪をひくであろうことを確信した。
 
 
 
 
 翌日、親方は三十八度の熱を出し、寝込んだ。
 この日の天気は快晴だった。