黒猫雑貨店 第二幕 幻想夜想曲 5. 遠き約束

10
 昨晩まで降り続いていた雪は、見事に止んでいた。窓枠に切り取られた空は、澄んだブルー。私はゆっくりと体を起こし、ベッドの上に座る。
 吐く息は白い。早朝の寒さが、身に染みるようだった。思わず身震いし、枕元にたたんであったカーディガンを取って、ナイト・ウェアの上に羽織る。
 窓の外は一面の銀景色。庭の花壇も、その間を走る小道も、そのずっと向こうの原っぱも、林も。朝日を浴びて、全てがキラキラと輝いている。
 私は小さく伸びをすると、ベッドから降りた。
 ベッド・ルームを後にし、ダイニング・キッチンの扉を開く。部屋は、しん、と静まりかえっていた。耳が冷たい。私は、冷えかけた両の手を揉んだ。
 食器棚の引き出しからマッチ箱を取り出して、暖炉に火を入れる。しばらくの間をおいて、火は勢いよく燃え始めた。
 続いて、シンクに歩み寄ると、小鍋をコンロにかけ、ミルクを注ぐ。熱いココアをいれるためだ。
 湯を沸かしている間に、私は慌ててベッド・ルームへ戻り、普段着に着替えた。今日の服装は、ブルー系のタータン・チェックのロングスカートに、フリルのついた白いブラウス。肩にかけた毛織物のショールは、若草色。
 上履きを、茶色のロング・ブーツにはきかえ、次は洗面所へ向かう。顔を洗い、台の上に置かれたブラシを取って、シルバー・ブロンドの髪を軽く梳いた。
 ダイニング・キッチンへ戻ると、鍋の中には、適度に温まったミルクが。ココア・パウダーを取り出し、ミルクを少量加えて練りながら、私は窓の外に目を向けた。
 時刻は、七時十五分。
 パウダーを練り終えたところで、マグカップ八分目まで、熱いミルクを注ぐ。ティー・スプーンでくるくるとかき混ぜれば、ふわっと立ち上る湯気。香りが甘い。私はカップに口をつけ、できあがったココアを、そっと一口すする。
 不意に、カランカラン、と、涼やかな音でドア・ベルが呼んだ。
 私はカップをテーブルの上に置くと、足早に店舗部分へ向かう。
 陳列棚の並んだその部屋に着いてみれば、玄関のドアーはまだ開かれていなかった。
 私はドアノブに手をかけ、静かに引く。
「おはようございます」
 扉の向こうに立っていたのは、見知った青年。彼は朝の挨拶を述べ、帽子を取って軽く会釈した。
 路地の奥から、青年の立っている場所まで、石畳をすっかり覆っている雪の上に、点々と足跡がついている。
 挨拶を返そうとして口を開いた瞬間、ふっ、と、白いもやが私の頬を撫でて流れた。
「おはようございます。今日はまた、ずいぶんと早いのですね」
「はい。これから、行きたいところがありますので」
 青年は、いつになく楽しそうに微笑んでいる。
「ただ、その前に、ぜひいただきたいものがあるのです」
 彼の様子からして、また何か風変わりな注文が飛び出すであろうことは、容易に想像できた。しかし、毎回のことだったので、むしろ興味をひかれ、私は尋ねる。
「何ですか」
 答えは、意外なものだった。
「 『虹の破片』 です」
 その言葉に、私は、まじまじと青年の顔を見つめてしまった。
「 『虹の破片』 …… ですか」
「はい」
 青年は頷く。
「置いてありますか」
「いいえ」
 私は即答し、首を横に振った。
「申し訳ありませんが、虹の破片はまだ拾ったことがないのです」
「そうですか」
 青年は、少し残念そうに笑う。
「人形の瞳に使いたいと思ったのですが」
「人形の瞳に虹の破片を使うと、何かあるのですか」
 何故、と思った時には、既に質問をしていた。私にしては、とても珍しいことだ。今日は、何か特別な日なのかもしれない。
 私の問いかけに気をよくしたのか、青年は嬉しそうに語る。
「私も今まで思いつかなかったのですが、虹はたくさんの色からできているでしょう。その破片を瞳に使ったら、あるいは、色のある世界が見えるのではないか、と考えたのですよ」
 確かに、と、思った。そして同時に、この店に虹の破片が置いてあればよかったのに、とも。
「では」
 言って、私は小首を傾げる。
「次にお客様がお見えになる時までに、十分な大きさの 『虹の破片』 を用意しておく、というのはいかがでしょう」
 そう伝えた時の私は、微笑んでいたかもしれない。
 青年は、突然、黒い革手袋をした両手で私の右の手を取り、ぎゅっと握った。
「はい、ぜひ、お願いします」
 まるで、子供のように輝く瞳。
「私も、次に伺うときには 『ツケ』 ていただいていた分の何かを用意してきます」
 私は、思わず失笑する。
「ええ、ぜひ、お願いします」
 軽く頷いて言った私の言葉に、青年は、いつもの穏やかな笑みで答えた。そして、そっと手を離し、おもむろに踵を返す。
 去り際、軽く帽子をかぶり直して、 「また伺います」 と、呟くように言い残していった。
 サクサクと雪を踏み、路地裏の奥へと消えゆく青年の背中に向かって、私は、至極小さな声で呟く。
 
 
「頑張っておいで」