黒猫雑貨店 第二幕 幻想夜想曲 1. 満月の涙

6
 シルバー・ブロンドの長髪を軽く梳くと、私は手にしていた木製のブラシを、そっと洗面台の上へ置いた。時刻は、九時ちょうど。
「おやすみなさい」
 私は、鏡の向こうの青い瞳の少女に向かって小さく呟き、バス・ルームの灯りを消した。
 ドアーを開くと、ギィ、と古めかしい音がする。廊下に灯りはなかったけれど、月明かりに照らされていたので、恐怖は全く感じなかった。
 バス・ルームを出て、今度は左脇にあるドアーを開き、ダイニング・キッチンへ入る。この部屋も、廊下同様、薄青色の光で満ちていた。
 リュフェーシカと比べたら、マヤでの夜はかなり静かなものになると思っていた。しかし、どうやら、その予想は外れたようだ。今、この家を撫でている陸風の口笛は、おそらく毎夜聞かれるものなのだろう。
 北の窓のカーテンをそっと開け、外を覗き見る。そこには、銀細工のようにキラキラと輝く紺の海が、一面に広がっていた。
 しばらくその光景に見入ってから、私は静かにカーテンを閉じた。
 ダイニングから西の廊下に出ると、向かいが書斎のドアー、右斜め前が寝室のドアー。どちらも閉まっていたが、寝室のほうは、わずかな隙間から細く灯りが漏れていた。
 金色の丸いドアノブに手をかけ、寝室のドアーを開く。こちらのドアーは、押しても音を立てない。私は、静かに寝室へ入った。
 右手を見れば、親方とフロリーナは、既にベッドの中だった。気配に気付いたのか、フロリーナは半身を起こして私のほうを見ている。
「スヴェーナ!」
 ナイト・テーブル上のランプの、やさしいオレンジの灯に、虹色の瞳が煌めく。
「こんやも、おはなしを、きかせて、いただきたい、です!」
「分かりました」
 私はベッドに腰掛け、上履きを脱いだ。上掛けの中に潜り込むと、同時に、フロリーナも枕に頭を沈める。
 私がこの家に来たのは、一週間前のこと。その日の夜からずっと思っていることではあるけれど、セミ・ダブルのベッドに3人では、少々狭い。
「ねえ、きょうは、どんなおはなし、ですか?」
「そうですね」
 知っている話を思い出しながら、私は横目で親方を見た。上を向き、まぶたを閉じていたが、まだ眠ってはいないようだった。親方が眠っているか否かは、寝息のあるなしで判定できるということを、昨日、フロリーナからこっそり教わったのだ。
 もしかすると親方は、狸寝入りをしているのかもしれない。
「では、今夜は 『満月の涙』 のお話をします」
「まんげつのなみだ、ですか!」
 フロリーナは、その大きな瞳を私に向けた。
「ええ」
 私は、ありきたりなプロローグを紡ぐ。
「ある街に、一人の女性が住んでいました」
 
 
 ある街に、一人の女性が住んでいた。
 私と同じ、シルバー・ブロンドの髪と、ディープ・ブルーの瞳を持つ、年の頃十八、九の、細身な女性だ。彼女はその街で、小さな雑貨店を営んでいた。
 今から、六十年ほど前の話である。
 彼女は、慌てて駅へと向かっていた。家を出るのが、予定していた時刻より少々遅くなってしまったためだ。美しい満月の浮かぶ、夏の夜だった。その手には、革製のボストン・バッグが一つ。中には、財布と、膝掛けが一枚と、枕、水筒が一つ、そして、緑色のガラス瓶が一本、詰め込んである。
 走りに走って、ようやく駅の改札までたどり着いた彼女は、手にしていたボストン・バッグを、ドサッ、と石畳の上に置いた。
「マヤまで、一枚」
 肩で息をしながら、声を絞り出し、三枚の銀貨をカウンターの上に置く。ガラスの向こうの駅員が、疲れ気味な様子で、無表情に一枚の切符を差し出した。
 彼女は切符を受け取ると、拾い上げるようにボストン・バッグを持ち、慌てて汽車に乗り込んだ。同時に、背後でドアーが閉まる。まさに、間一髪だった。
 一息ついて周囲を見回すと、その車両には、彼女の他、誰もいないようだった。出発の揺れが収まってから車内を移動し、彼女は長い椅子の真ん中に腰を下ろす。
 目的地であるマヤに到着したのは、それから、およそ一時間後。
 ホームへ降り立つと、彼女はまず、腕を大きく天へ伸ばし、深呼吸した。潮の香りが胸に染み渡る。
 スカートのポケットに入った懐中時計を見れば、時刻は九時ちょうど。理想的な時刻だ。彼女はマヤの駅を後にすると、迷うことなく、東側の海岸へ向かった。
 真夏の夜は蒸していたが、絶えず陸風が吹きつけてくるため、それほど暑さは感じない。むしろ、涼しいくらいだった。一定の律動を刻む波の音も、体感温度を下げる手助けをしているのだろう。
 彼女は中央通りを北へ下り、中央桟橋の前 ―― 東西に延びる海岸通りに出ると、右折し、煉瓦敷きの道を真っ直ぐ歩いた。右手には、所狭しと倉庫や工場、商店などが建ち並んでいる。しかし、この時間でも灯りのついている建物は、ほんの少数だった。
 駅を発ってから、四十五分ほど経った頃。ようやく、整備された道が途切れた。中央桟橋付近では多かった建物の数も、今や、遠くに点在している程度。
 眼前の土手の下には、キラキラと輝く白い砂浜が広がっている。
 十数段の石段を下り終えると、急に足場が悪くなった。彼女は砂に足を取られないよう注意して、慎重に二歩目を踏み出す。
 不意に、突風が襲った。
 巻き上がり、吹き付ける銀砂。左腕で目を庇いながら、彼女はよろよろと歩く。
 数歩行ったところで、風は、はたと止んだ。どうやら、階段の下が吹きだまりになっていたらしい。彼女は思わず、ふう、と息をついた。
 海岸沿いを、更に五分ほど歩く。そこで、彼女はふと立ち止まり、茶色い革製のブーツを、そして靴下を脱いだ。
 昼の太陽の余熱でか、砂がわずかに暖かい。その感触は、足の裏に心地よかった。
 ブーツを手に、彼女は再び歩を進める。時刻は、十時を回っていた。
 右手には、緑の丘と満月、左手には、青白く光る海面。どちらにも、自分以外の人の姿はない。
 午後、十時四十五分。
 彼女は、ようやく目的の場所へ到着した。
 既に分かってはいたが、再度、周囲に誰もいないことを確認する。そして、手にしていたボストン・バッグを、そっと砂の上へ置いた。
 鼓動が高鳴るのを感じつつ、彼女は慎重にファスナーを開き、中を探る。取り出したのは、コルク栓のされた、空のガラス瓶。
 ひんやりと冷たいその瓶を、彼女は両手で静かに回しながら、眺める。その手つきは、まるで繊細な飴細工を扱うかのようだった。
 ポンッ、と、小気味のよい音を立てて、コルク栓が抜ける。ほんのり漂う、ぶどう酒の香り。彼女は真面目な表情で、後ろを振り返った。
 月に、雲はかかっていない。今が絶好の機会だ。
 手早くスカートの裾をたくし込むと、彼女は波打ち際へ走り寄り、浅瀬に足を漬ける。直後、ワイン瓶の口を、海面の光る部分に浸した。すると、月の輝きが、見る間に緑色の瓶の中へと流れ込んでくる。
 銀の光を六分目まで詰めたところで、彼女は瓶を引き上げ、しっかりと栓をした。
 回れ右をし、足早に陸へ戻る。
 立ち止まって、一 ―― 二 ―― 三 ―― 四 ―― 五。逸る気持ちを抑えるため、ゆっくりと心の中で数える。更に、深呼吸をしてから、彼女は思い切って、瓶を顔の高さまで持ち上げた。
 月明かりに透かされて、同じ銀色の液体が、変わらず輝いている。
 成功だった。
 思わず、その場でステップを踏み、声をあげて笑った。
 その液体は 「月の滴」 という。月の表面についた滴が、海へ滴り落ちたものだ。特に、この日彼女が集めた月の滴は、真夏の晴れた満月の夜、北の海岸にしか流れ着かない上、採取が極めて難しいという、とても珍しいものだった。
 それもそのはず、これは 「満月の涙」 なのだから。満月は、滅多に涙を流さない。
 彼女は満月の涙を採取するために、一昨年から、年に一度、毎回ここへ通っていたのだ。
 そして、三年目の今日、念願叶って、ようやく望みのものを採取できたのだった。小躍りするのも無理はない。
 少し気持ちが落ち着いてくると、彼女はワイン瓶に、軽く口づけをした。そして、もう一度、感慨深くそれを眺める。
 次の瞬間、彼女は右手を大きく振りかぶって、手にしていたワイン瓶を、海に向かって勢いよく放り投げた。
 緩やかに弧を描く、銀の光。
 瓶は、パシャン、と音を立てて着水した。周囲で弾けた水しぶきも、中身と同じ、銀色だった。
 しばらく、その場で浮きつ沈みつを繰り返した後、緑色の瓶は、波の動きに合わせ、徐々に沖へ向かって流され始めた。
 流した瓶が戻ってこないことを確認すると、彼女は、柔らかく微笑む。
「良い航海を」
 それから彼女は南へ歩き、砂浜を後にした。草地に入ると、足に付着した砂を払い、靴下、そして茶色い革製のブーツをはく。
 二十分ほど行った辺りで、丘の上の適当な場所を見繕い、持ってきた枕をそこに置いた。仰向けに寝転がり、膝掛けを上掛け代わりにする。
 満天の星空だった。
 動き回った疲れが出てか、眠気はすぐに訪れた。鈴虫の音色を子守歌に、ゆっくりと瞼を閉じる。彼女は、そのまま、吸い込まれるように眠りについた。
 
 
 そして、翌朝。
 
 
「彼女は、寝坊してしまいました」
「ねぼう、ですか」
 きょとん、とするフロリーナ。
「はい」
 私は、小さく頷いた。
「でんしゃ、は、だいじょうぶ、だったのですか?」
「はい。彼女が慌てて西へと向かっている途中、横切った草原の中の一本道に、なぜか一台の銀色の自転車が置かれてあったのです。彼女はそれを拝借し、丘の上を、線路沿いにひたすら西へと向かいました。間一髪でしたが、何とか始発に間に合いました」
「だれかが、しんせつだった、のですね!」
 そう、フロリーナは瞳を輝かせて言う。私は、思わず吹き出してしまった。
「そうですね」
 
 
 親方の寝息が聞こえてきたのは、それから、およそ五分が経った後だった。