黒猫雑貨店 第一幕 黒猫雑貨店 5. 扉と粉雪

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 この季節になると、ほぼ毎日がそうであるように、空は一面、白い雲で覆われていた。おそらく数分もすれば、街には雪がちらつき始めることだろう。私は空に向けていた視線を前に戻すと、一つ、短く白い息を吐き、再び歩き出した。
 右隣には、ぴったりと寄り添う、赤いコートを着た少女。リュフェーシカの駅を出てからずっと、白い兎革の手袋をはめた小さな手で、黒いロング・コートの裾を握り続けている。
 時刻は正午前と早かったが、この路地裏に人影はない。
 二、三分、歩を進めたところで、私たちは再び立ち止まった。
 向かい合ったのは、古びた緑色のドアー。赤いインクで 「閉店中」 と書かれた板切れが下げられている。左斜め上に目を転じると、店名が浮き彫りしてある金属板の取り付けられた、猫の形の黒い看板が目に入った。
「黒猫雑貨店」 。それが、この店の名だ。
 三段ほどの小さな石段を上ると、一つ小さく深呼吸をしてから、私はドアノブに手をかけ、回し、押した。
 カランカラン、と、涼やかなベルの音が、建物の中に反響する。
 私と少女は、そっと、店内に足を踏み入れた。入るなり、木の床が放つ、湿った匂いが私の鼻腔をくすぐる。
 灯りがないためか、店の中は薄暗い。ストーブにも、火が入っていなかった。私は小さく息を吐き、周囲を見回す。
「お客さん、申し訳ないが、今は閉店中だよ」
 不意に、右手のカウンターから、老女の眠そうな声が聞こえた。私は、振り返る。
 カウンターの上に置かれた赤いクッションの上で、一匹の黒猫が、大きなあくびをしていた。
「なんだ、誰かと思えば、人形職人さんかい。久しぶりじゃないか」
 言って、黒猫は前足をクッションの外に投げ出し、小さく伸びをする。
「それに、フロリーナも。元気にしていたかい?」
「はい!」
 フロリーナは、溢れんばかりの笑みを浮かべて返事をした。その様子に、満足げに頷く黒猫。
「そうかい、そうかい」
 尾の先をパタパタと振り、金の瞳を薄く閉じた。
「本当にしばらくぶりだねぇ。半年ぶりだったかね?」
「はい」
 フロリーナが私を見上げて微笑み、黒いコートの裾を軽く引っ張りながら、首を縦に振った。
「秋には、スヴェーナがお世話になったね。その節はどうも、本当に助かったよ。あたしも、急な用事だったものだから」
 その言葉に対して、私は頭を一つ下げただけで、口に出しての返事はしなかった。しかし、黒猫は特に気にする風もなく、 「急な用事」 の内容について話し始める。
「南の海へ出かけていてね。前の晩に綺麗な満月が出ていたから、 『月の滴』 が流れてくるんじゃないかと思ってねぇ」
「つきのしずく、ですか!」
 私が相づちを打つより早く、フロリーナが、驚きと喜びの入り交じった声を上げた。黒猫の話への興味からか、大きな虹色の瞳が、キラキラと輝いている。黒猫は、 「ああ、そうさ」 と、小刻みに二つ、頷いた。
「明るい満月の夜は特に、海の水が月の色に光るだろう? ありゃねぇ、月の表面についてる滴が、海に落っこちているからなのさ」
「それが、ながれて、くるのですか?」
「その通りさ。海岸まで流れ着いた月の滴をぶどう酒の瓶に詰めてね、それをまた、海へ流すのさ。滴を瓶に詰めるのはタイミングが肝心だからね、なかなか難しいんだよ」
 黒猫は、得意げに語った。彼女の話に、パチパチと手を叩く少女。
「それは、すてき、ですね!」
 いかにも面白かった様子だ。キャッキャと笑い、足踏みまでした。
 そして、再度、かみしめるように繰り返す。
「つきの、しずく」
 少女が声を発したところで、会話は途切れた。
 私と黒猫は、お互い自然とうつむき、視線を反らし合う。私たちが黙り込んでしまったことを不安に思ったのか、フロリーナは落ち着きなく、店内を行ったり来たりし始めた。時折振り返っては、私たちを不安そうに眺める。
 その時、私には、いくつか考えるべきことがあったのだ。おそらく、黒猫にしてみても、同じような理由で下を向き、黙していたのだろう。
 やがて、しばらく経った後、黒猫が静かに口を開いた。
「人形職人さん、あんたに一つ、頼みがあるんだがね」
 黒猫は、顔を上げる。先ほどとは一転、真剣な眼差しが私に向けられた。
「何でしょうか」
 私は、あえて尋ねる。
 黒猫は、再びうつむいた。しばらく間を置いてから、意を決したように、面を上げる。そして、ゆっくり言葉を続けた。
「スヴェーナのことなんだがねぇ。あの子が、あんたに弟子入りしたいと言っているんだよ」
「はい」
「 …… どうだろう。連れて行ってやってはくれないかね?」
 もちろん、私の答えは決まっていた。そのことは、黒猫も、スヴェーナ嬢も、既に理解しているだろう。
「人形職人になりたいのですか」
 何の気なしに、私は尋ねた。返事は、店の南側に位置するドアーの奥から返ってくる。
「はい」
 たった今開かれたばかりのドアーの向こうには、革製のボストン・バッグを持ったスヴェーナ嬢が立っていた。
「人形職人になりたいのです」
 フロリーナが、はたと動きを止める。そして、不思議そうにスヴェーナ嬢を見上げた。
「なぜ、ですか?」
 率直な問いに、少し考える風を見せるスヴェーナ嬢。しかし、答えが返るまでに、それほど時間はかからなかった。
「人形が作れるようになりたいからです」
 スヴェーナ嬢は、青の瞳で真っ直ぐにフロリーナを見つめる。その眼差しには、一片の曇りもない。
「そうですか」
 私は、小さく息を吐いた。そして、フロリーナに手を差し出し、これからまた、歩き出すことを無言で告げる。
 そして、スヴェーナ嬢に向き直った。
「では、行きましょうか」
 今度は、彼女に向けて言う。
「何か、置き忘れてしまったものはありませんか」
「ありません」
 静かに頭を振る少女。私は、少々申し訳ない気持ちになった。
 優しげな眼差しで、黒猫が私たちを見つめている。
「頑張っておいで」
 黒猫は金の目を細め、スヴェーナ嬢に言った。否、それは、私に向けられた言葉だったのかもしれない。とにかくも、スヴェーナ嬢と私は、同時に頷いた。
「では、私たちはこれで失礼します」
 感謝の気持ちを込めて一礼すると、私は踝を返した。後には、フロリーナが、そして、スヴェーナ嬢が続く。
 ドアノブを静かに回し、引くと、カランカラン、と、涼やかな音がした。
 先にフロリーナを通し、扉を押さえていた私の手を、スヴェーナ嬢の白く細い手のひらと替える。スヴェーナ嬢の手がドアーを捉えたことを確認すると、私は静かに手を離し、石段に足を踏み出した。
 スヴェーナ嬢は、ほんの少しだけ、後ろを振り返る。
 そして、ぽつり、と呟いた。
「さようなら」
 
 
 ひさしの下から出ると同時に、フロリーナの髪に、真っ白い粉雪がふわりと舞い降りる。
「ゆき」
 私は、コートの内ポケットから小さな赤い毛糸の帽子を取りだし、フロリーナの頭にかぶせた。フロリーナは、眩しいほどの笑顔を私に向け、空を指さす。
「ゆき、きれい、ですね」
 
 
 後ろで、スヴェーナ嬢が、静かに店の扉を閉めた。