黒猫雑貨店 第一幕 黒猫雑貨店 4. 夕風に花

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 私が仕事部屋で、白い生地にミシンをかけている時のことだった。突然、玄関の呼び鈴が涼やかな音を立てた。
 振り返って時計を見ると、時刻は十二時三十分ちょうど。このような時間に ―― 否、このような時間でなくとも、今日、誰かが尋ねてくる予定はない。突然の来客だ。
 作業を中断し、私は椅子から立ち上がった。同時に、左手にあるドアーの向こう側から、パタパタという、慌しい足音が聞こえてくる。続いて、ガチャリ、と、玄関扉のノブを回す音。
「こんにちは!」
 はきはきとした、少女の声。
 私はドアーを半分だけひらいて廊下に出ると、玄関扉の向こうに立つ客人と顔を合わせた。
 白い肌、シルバー・ブロンドの長髪、そして、澄んだディープ・ブルーの瞳を持つ、年の頃十歳ほどの少女。
 スヴェーナ嬢だった。
 紺色の夏物ワンピースの上から、いかにも高級そうな、レースのカーディガンをはおっている。彼女は身の前で革製のボストン・バッグを持ち、石段の上に両足をきちんと揃えて立っていた。
「こんにちは」
 言って、迎えに出た少女と私とを順に見て、軽くおじぎをする。
「突然に申し訳ありませんが、今晩、泊めてはいただけないでしょうか」
 私に対していつもそうであるように、いたって事務的に尋ねた。
 本当に突然のことだ。私は、咄嗟に返事をすることができなかった。
 少しの間を置いて、スヴェーナ嬢は続ける。
「お店の都合で、お婆様 …… いえ、祖母が、遠方へ出かけることになりまして。私は一人でも大丈夫だと言ったのですが、祖母が店を発つ前に、こちらを尋ねるように、と申したのです」
 彼女の祖母の心中は察し得なかったが、私は 「そうですか」 と言い、小さく頷いた。
「駅からここまで、かなり歩いたでしょう。迷いませんでしたか?」
「ええ、一本道でしたので」
「客室がないのですが、構いませんか?」
「はい。ありがとうございます」
 深々と頭を下げるスヴェーナ嬢。私は、彼女のボストン・バッグを受け取ると、壁に寄りかかっていた少女に、客人の案内を頼んだ。
「ね、スヴェーナさんは、きょう、と、あした、いっしょなのですね!」
 少女は嬉々として私に言い、廊下の突きあたりの扉へと、スヴェーナ嬢の手を引いていった。
 その後姿を見送ってから、私は、ひらいたままの玄関扉に向き直る。ドアノブに手をかけ、静かに引きながら、昼食のメニューと、午後の予定について考えた。
 
 
 午後一時、私たちは昼食の用意を始めた。
 メニューは、シーフード・リゾットとミルク。ただし、少女の食べ物は普段通り、白い皿の上に盛られた七色の金平糖だった。
 それぞれの食事が、四角形のテーブルに並べられる。私と少女、そしてスヴェーナ嬢は、それぞれの席に着くと、静かにスプーンを動かし始めた。
 殺風景なダイニングに、カチャカチャと、食器の立てる微かな音だけが響く。
 北の窓から流れ込むのは、微かに潮の香りの混じる、爽やかな海風。
 バター風味の帆立貝を一つ飲み込み、私は口を開いた。
「食事が終わったら、街へ買出しに行きます」
 それだけ言って、また一さじ、陶磁器の中身をすくう。
「買出しですか」
 動かす手は止めないまま、スヴェーナ嬢は淡白に応えた。対して、その右隣に座る少女は、瞳を輝かせる。
「かいだし、ですか!」
 嬉しそうに声を上げ、カチャン、と、スプーンをテーブルの上に置いた。天井を仰いで少し考える風を見せた後、指折りながら、普段街で購入している物品の種別を挙げる。
「にちようひんと、たべものと、ほしくず、ですね!」
「はい」
 私は、下を向いたまま答えた。
 
 
 全員が食事を終えたのが一時四十五分。食器を片付け、家を出たのは二時二十分だった。
 普段の買出しならば、銀の自転車の荷台に乗せるのは、少女一人だ。しかし今は、少女と、少女を抱きかかえるスヴェーナ嬢との二人を乗せていた。少々、ペダルが重い。
「降りて、歩きましょうか?」
 感情の乏しい声が、背中にかかった。
 私は振り返らないまま、スヴェーナ嬢に答える。
「いいえ、大丈夫です」
 半ば無理矢理に発した言葉は、こころもち掠れていた。私は、向かい風でずれてしまった頭上の黒いソフト帽を、右手で軽く押さえる。
「がんばって、ください!」
 明るい激励とともに、少女が右腕を大げさに振り上げ、前方を指差した。示す先には、三叉路。
「もうすぐ、くだりさか、です!」
 私が頷く代わりに、自転車が、ガタン、と大きく揺れた。どうやら、小石を踏んだようだ。キャハハ、と、少女が楽しそうに笑う。
 間もなく、下り坂に差し掛かった。
 同時に、眼下に広がる、マヤの街並み。そして、海の青と空の青。
 スヴェーナ嬢の息を呑む音が、微かに聞こえたような気がした。
「きれい、ですね」
 口にしたのは、少女のほうだった。
 一陣の潮風が、耳をかすめていく。
「そうですね」
 スヴェーナ嬢は、薄い溜息混じりに答えた。ガタン、と音を立て、自転車が再び大きく揺れる。
 それからしばらくは、誰も何も話さなかった。
 ヒューヒューと唸りをあげる風たちが、両耳の仕事を邪魔したためでもある。
 やがて、二つ目の三叉路に差し掛かった。
 私は慎重にバランスを取りながら、前輪をわずか左へ向ける。車輪は、マヤの中心街へと転がり始めた。
 時々ペダルを漕いでは、水平線に視線を移す。一艘の船が、海上を漂っているのが見えた。が、その舟がこちら側の港へ向かうものなのか、それとも、水平線の向こう側へ向かうものなのかは、全く判断がつかなかった。
 間もなく、道は小石交じりの白砂から、暗色の石畳に変わった。
 
 
 午後三時。私たちは、マヤの中心街に入った。
 中途半端な時間ということもあり、駅前通りを歩く者は少なかった。しかし、もう二時間ほど経てば、この場所も、駅を出入りする人間で込み合うことだろう。買い物は、早めに済ませることにした。
 まずは 「エリツィナの日用品店」 の店先で、自転車を停めた。私は後部座席に回りこみ、スヴェーナ嬢の膝の上に乗っていた少女を持ち上げる。
「にちようひん」
 宙に浮いたまま、ぽつん、と、少女が言った。私は彼女を、そっと地面に下ろす。
 続いてスヴェーナ嬢が、軽い身のこなしで、ふわりと地面に降り立った。さり気なく手を脇に回して、生地を軽く引っ張り、スカートの皺を伸ばす。その様子を、亜麻色の髪の少女は目を輝かせて眺めていた。
 少女から視線を外し、私は店の外壁を見上げる。わざと不規則に積まれた、微妙に色合いの違う茶褐色の煉瓦が目に鮮やかだ。二階部分に見える緑色の窓枠からは、小さな向日葵が顔を覗かせている。
 その店で購入したのは、歯ブラシ、チューブタイプの歯磨き、食器洗い用のスポンジ、クレンザー、洗濯洗剤、そして、3冊のノート。用事が済むと、私たちは早々に店を出た。
 次に向かうのは、マヤの市場。 「エリツィナの日用品店」 からは、徒歩10分ほどの場所にある。少女を後部座席に乗せ、私とスヴェーナ嬢は、並んで南通りを歩いた。
 時折、車輪が段差をまたぎ、前部のバスケットに収まっている紙袋が跳ねる。その都度、少女が楽しそうに足をばたつかせた。
 しばらく行くと、連なっていた人家の切れ目から、色とりどりな露店の天幕が顔を覗かせた。同時に、少女は呟く。
「たべもの」
 私は黙って自転車を押し続けた。
 まだ、夕方までは多少の時間がある。しかし市場では、夕食の買出しにきたのであろう人々が、徐々にその数を増していた。
 あらかじめ決めていた食料品を、私はいつもと同じ順番 ―― 豆、木の実と香辛料、調味料、野菜、果物、肉類、魚介類、といった順 ―― で店を回り、買い求める。露店の前で車輪を止める度に、バスケット中の紙袋の数は増えていった。
 全てを揃え終えると、私はスヴェーナ嬢に、他に何か食べたいものはないかと尋ねた。スヴェーナ嬢は、静かに首を横に振って返事に代えた。
 
 
 最後に私たちが向かったのは、市場から更に五分ほど歩いた場所にある小さなスイーツ・ショップ、 「甘い星屑」 だった。砂糖菓子を専門に取り扱っている店だ。
 十数歩手前まで近づくと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ほしくず! ほしくず!」
 少女が、自転車の後部座席から、はしゃいで声を上げた。
 毎週そうしているように、私は店先に自転車を停めた。ショーケースの中には、美しく繊細な砂糖菓子が、規則正しく並べられている。
「そろそろ来ると思ってたよ、人形職人の兄ちゃん」
 視線を上げると、カウンターの向こうに馴染みの顔があった。その小太りの中年男性は、両頬にえくぼをつくり、人当たりの良い笑みを浮かべている。彼が、この店の店主だ。
「いつものでいいかい?」
 慣れた手つきでスコップと紙袋を手に取りながら、店主は私に尋ねた。
「はい。お願いします」
 答えるが早いか、店主は素早く右手を動かし、 「1.00/100g」 と走り書きされたカードの向こうの、小さな砂糖の星屑をスコップですくう。紙袋の中に砂糖菓子を落とすと、ザーッと、潮騒にも似た音がした。
「そっちの繊麗なお嬢さんは、お客さんかい?」
 動かす手を緩めつつ、彼はスヴェーナ嬢をちらと見やって、私に目配せをした。私は軽く頷き、ショーケースを眺めながら答える。
「はい。知人のご令孫です」
「兄ちゃんが誰かを連れてくるなんて、初めてじゃないかい?」
「はい」
「この辺じゃ見ない顔だね。お嬢さん、どちらから?」
 店主はスコップをカウンターの上に置き、紙袋の口を折りながら、スヴェーナ嬢に視線を移した。私と店主が話している間、ずっと自転車の脇に身じろぎせず立っていたスヴェーナ嬢は、表情一つ変えずに答える。
「イルークスのリュフェーシカです」
「へぇ。そりゃ、ずいぶんと遠いところから来たね」
 言って、紙袋をトントンとガラスの上で跳ねさせる。
「リュフェーシカというと、あれだ、大きな噴水のある街だったかな?」
「はい」
 スヴェーナ嬢は、こくんと頷いた。
「どうだい、ここは。リュフェーシカから来たんじゃ、だいぶ静かに感じるかい?」
 私に紙袋を手渡しながら、店主はスヴェーナ嬢に尋ねる。
「そうですね。いくらか静かに感じます」
 スヴェーナ嬢は答えた。その答えに、店主はカラカラと笑う。
「やっぱりそうかい。俺は生まれてこの方、この町から出たこたぁないが、リュフェーシカって言ったら有名な街だからね」
 私は内ポケットから黒革の財布を取り出し、金平糖の代金を支払った。
「はい、どうも、毎度ありがとう」
「では、失礼します」
 私は帽子を取って軽く一礼すると、自転車へ向き直る。
「あいよ。また来週!」
 ストッパーが、ガタン、と音を立てて跳ね上がった。全ての買い物を済ませた私たちは、マヤの中心街を後にした。
 
 
 帰りは上り坂がきついため、自宅までは徒歩で帰らなければならない。中心街を出てから五十分ほど歩き、ようやく街外れに到着したのは、午後六時を回った頃だった。
 ちょうど夕凪の終わる時間だったらしく、涼しい陸風が、面に吹きつけ始める。陽は沈みかけているとは言え、まだ辺りは明るかったが、おそらく、あと30分ほどで日没となるだろう。
 私は、無言で自転車を押し続けた。
 と、唐突に、スヴェーナ嬢が切り出す。
「名前は、もう決められたのですか」
 その不意の質問に、私は思わず、はっと息を呑んだ。スヴェーナ嬢が青の瞳で真っ直ぐ私を見つめ、答えを待っている。
 私は前を向いたまま、黙って頭を振った。耳元で、夕風がヒューヒューと鋭い声で抗議をする。
「決められないのですか」
 その問いに対して、私は何も答えなかった。否、答えられなかった。
 すると、自転車の後部座席に座る少女が、まるで返事を促すかのように呟く。
「なまえ」
 私は、小さく溜め息を吐いた。そして、スヴェーナ嬢の顔に、ゆっくりと視線を移す。ここで初めて、黒猫の孫娘を、自分の両眼で見た、ように思った。
 僅かに躊躇ってから、それでも、やはり、と、私は思い切って告げる。
「スヴェーナさん、貴女が考えてはくれませんか」
 口にしてから、少々哀しい気分になった。
 スヴェーナ嬢は、小さく頷いただけで、それ以上、何も言わなかった。
 
 
 私たちは黙したまま、家まであと15分という地点までの道のりを消化した。既に陽は沈み、月明かりと自転車のライトだけが、足下を照らしている。
 三叉路に到着したとき、スヴェーナ嬢は、おもむろに口を開いた。
「名前の件ですが」
 私は相づちの代わりに、静かに首を縦に振る。
「フロリーナ (花) というのはいかがでしょう」
 至極、一般的な名前だった。私は、思わず口角を上げる。
「ふろりーな!」
 いかにも嬉しそうな声が、背中越しに聞こえた。
 
 
 
 
 私たちの足下では、秋の訪れを告げる一輪の白い花が、広がる短草の中、夕風に吹かれて揺れていた。
 スヴェーナ嬢が帰ったあとのことを考え、私は、何とも言えない気分になった。