黒猫雑貨店 第一幕 黒猫雑貨店 3. 甘い星屑

3
 私の住む土地であるマヤから、隣国イルークスのリュフェーシカまで鉄道で行くには、およそ一時間を要する。マヤの駅には大抵、一日に四回汽車が停まるが、内、リュフェーシカ直通のものは一本のみだ。
 午前九時ちょうど、私たちは自宅を出発した。風のない、晴れた日だ。坂の一本道を自転車で下り、マヤの駅へ到着したのは、三十分後 ―― 九時三十分だった。
 線路沿いの駐輪場に銀色の自転車を停め、駅舎へ入ったのは九時三十五分。窓口にて、九時四十分着、十時発 「トリチュア・イルークス横断鉄道ファイラクア経由リュフェーシカ行き」 の切符を二枚購入した。一枚には 「大人」 、もう一枚には 「小人」 と書かれている。
 私たちが駅のホームへ出たのとほぼ同時に、汽車は到着した。私たちは、黒光りする外装に沿ってコンクリートの上を歩き、最後尾の車両、すなわち四両目のドアーをくぐった。
 水曜日ということもあり、空席が多かった。できる限りドアーから遠いところを、と、私は車両中央付近の座席を選び、右傍らに張りついている少女に勧めた。自転車を降りてこの方、私の黒いコートを掴んで離さなかった彼女だったが、ようやくその小さな掌をそっとひらいた。
 少女は私を見上げ、一つ楽しげな微笑を送ると、ひょいと座席に飛び乗った。私も、左手のアタッシュ・ケースを座席の上に載せてから、少女の右隣に静かに腰を下ろした。
 発車の汽笛が高く響き、外の景色が流れ始める。すると、少女は体をひねって、座席の上に膝を乗せ、窓のほうへと向きなおった。外の景色が物珍しいのか、十分ほど、そのままの体勢でガラスと見つめ合っていた。
 が、やがて飽きたのか、少女は一旦座席から降りると、今一度前を向いて座りなおした。たどたどしくスカートの裾をなでつけ、居ずまいを正す。そして、私を見上げて、満面の笑みを浮かべた。
 マヤを発ってから、二十分後。傍らの少女は、私の左膝を枕に、静かな寝息を立てていた。私は、少女の頭へ中途半端にかぶさっている、白い飾り帽子をそっと取ると、アタッシュ・ケースの向こう側へ置いた。
 その手で、ケースの中から静かに一冊の文庫を取り出し、適当なページをひらく。一行目には、こう書かれていた。 「汝が名は?」
 ほどなくして、ファイラクアの駅に到着した。
 同じ車両に乗っていた人々の大半は、ホームへと発っていった。同時に、約同数、あるいはそれ以上の人間が、車内へと流れ込んでくる。一時的に周囲がざわついたが、少女は目を覚まさなかった。
 停車してから二十分後、ドアーが閉まり、再び発車の汽笛が鳴った。
 ファイラクアから次の駅までは、大体、十分ほどだ。私は再び本のページに視線を落とし、続きを読み始めた。
 十ページと三行を読み進めたところで、列車はハンスクの駅に到着した。ファイラクアより、人の出入りはなかった。
 十分間停車した後、汽笛とともに、車窓に映る景色は再度、流れ始めた。
 次の駅が終点だ。
 私は、まだ読んでいない行の一行手前から、物語の続きを読み始める。 「否、それは遥かなる星辰の一片だ」
 否、それは遥かなる ―― 。私は、パタン、と本を閉じた。
 文庫を持った右手を座席に、左腕を背もたれの上に、静かに載せると、私は小さく息を吐いた。そして、向かいの窓に目を転じる。
 ガラスの向こうを、ウィスキーの宣伝看板が流れていった。ミモザがその後を追う。続くは、赤い屋根、芝の緑、煙突、自転車に乗った子供が三人。
 不意に、汽車が減速を始めた。十分が経過したらしい。私は、アタッシュ・ケースに本をしまい、ぐっすりと眠り込んでいる少女の、亜麻色の髪を梳いた。
 少女は目を覚まし、ゆっくりと上体を起こす。
「んー、りゅふぇーしか?」
 呟きながら、眠そうに目をこすった。きょろきょろと周囲を見回した後、私の顔を仰ぎ見る。
「はい」
 私が答えると、少女はにっこりと笑った。
 一つ、長く汽笛を響かせ、汽車が停まる。
 私はドアーがひらいてから立ち上がり、右手で、アタッシュ・ケースを持ち上げた。同時に、私の黒いコートの左側へ、少女が楽しげに笑って取りつく。私は席上の白い帽子を取り上げると、彼女の頭上に載せた。
 駅の構内を出れば、すぐ目の前は大通りだ。駅舎出入り口のひさしの下まで行き、私は脇へ避けて立ち止まった。
 左下へ目線を落とすと、少女が不思議そうな顔で私を見上げている。私は屈み、彼女と目線を合わせた。
「ここから、三十分ほどの時間がかかります。自分で歩きますか? それとも、背負いましょうか?」
 小さく小首を傾げる少女。しかし、次の瞬間には、ぱっ、と笑顔に変わる。まるでスライドのようだ。
「せおって、いただけますか?」
 私の問いに対する返事は、数秒の間を置いて返ってきた。私は小さく頷くと、少女を自分の背に乗せた。襟の後ろから、小さな腕が回される。
 私は、再び石畳の上を歩き出した。ひさしの外へ出る。
 不意に、視界が白一色に染まった。
 目を細めて立ち止まった私の顔を、少女が左肩から覗き込む。
「まぶしいのですか?」
「はい」
「では 『えきのでぐち』 になります」
 言って、少女は、全ての指を隙間なくつけた両手の平を、私の額にかざした。目の周囲に、小さな影ができる。
「ありがとうございます」
 私は歩を進めた。
 自動車の切れ目を狙って駅前通りを渡り、商店街の歩道を、ひたすら真っ直ぐ行く。すれ違う人々の内、幾人かは、何が珍しいのか、妙な表情で私たちを顧みていった。
 駅を出てから、十分ほど歩いた頃だろうか。私たちは、噴水広場に到着した。
「あれは、なにですか?」
 少女は、私の額につけていた両の手を離し、一旦、私の肩上に載せてから、右腕を上げ、飛沫をあげる水の柱を指差した。
「噴水、です」
 私は答えた。
「ふんすい?」
「はい」
「きれい、ですね」
 そう言って、少女は微笑んだ。
「そうですね」
 私は、前を向いたまま答えた。
 噴水の脇を通り過ぎ、北の大通りに入る。左手のクレープ・ショップから漂う甘い香りが、鼻腔をくすぐった。背中の少女は、店頭に並ぶ子供たちを振り返る。
「くれーぷ」
 通りをしばらく歩くと、ようやく、右手に 「カバラフ精肉店」 の看板が見えた。私は、その手前の小路へと足を向ける。
「ここをまがるのですか?」
「はい」
「もうすぐですか?」
 期待に満ちた口調だった。目的地へは、正面の狭い石段を上れば、ほんの二、三分で到着する。
「はい」
 私は、石段の一段目に右足を乗せた。
 二段、三段、四段 ―― 「かいだんの、うえ、なのですか?」
「はい」
 今日、この石段の段数を数えることは諦めた。頭の後ろで、少女が楽しげに笑っている。
 階段を上りきる頃には、額にうっすら汗が浮かんでいた。暑さには強いつもりだが、やはり、体を動かすと少々暑い。
 私は屈んで少女を降ろすと、コートの左ポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。そして、一息ついた後、ハンカチを元の場所にしまい、今度はその手で少女の右手を取って、再び、道なりに歩き始める。
「くろねこざっかてん!」
 突然、少女が嬉しそうに声を上げた。前方に、目指す店の看板が見えたためだった。彼女は私を見上げながら、小さくスキップをする。
「ね、ここですか?」
「はい」
 少女は、虹色の瞳を、ぱっ、と輝かせた。
 店の前までくると、私たちは三段ほどの小さな石段を、揃って上る。そして、私がドアノブに手をかけた。
 ―― が、ドアノブは逃げた。
「いらっしゃいませ」
 ひらかれたドアーの向こうには、シルバー・ブロンドの頭髪の少女。名は確か、
「こんにちは!」
 私の脇に控えていた少女が、はきはきと挨拶した。その様子を見てか、雑貨店の少女は、軽く微笑む。
「こんにちは」
 そうだ、スヴェーナ嬢だ。彼女はドアーをいっぱいにひらくと、私たちを店の中へ通した。
 私は、ゆっくりと店内を見回す。およそ半年振りに訪れるが、全くと言っていいほど、変わった箇所は見受けられなかった。
 カウンターの上には赤いクッション、その上には黒い猫。丸くなったまま動かないところを見ると、睡眠中のようだ。
「お婆様、以前お越しになった人形職人の方がいらっしゃいました」
 言って、スヴェーナ嬢は猫の背をそっと撫でた。黒猫は、ゆっくりと頭をもたげる。
「おやおや、遠いところをよく、まぁ。スヴェーナ、椅子を出して差し上げなさいな」
 そう、しわがれた高い声で言った。スヴェーナ嬢は一つ頷くと、素早くカウンターの後ろへ回り込み、すぐに二脚の丸椅子を引き出して、私と少女の前へ置いた。
「どうぞ、おかけください」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
 それぞれ礼を述べると、私たちは椅子に腰を降ろす。その様子を、逐一、黒猫は金の双眸で見つめていた。
「それにしても、早いものだねぇ、まだ半年しか経っていないじゃないか。もう喋れるようになったのかい?」
「はい」
 虹色の瞳で、少女が私を見上げる。ストーブの脇に立ったまま控えていたスヴェーナ嬢は、傍の丸椅子をカウンターの横へ移動させると、左手のドアーの向こうに消えていった。
「もう、関節の継ぎ目も残っていないじゃないか。相当の腕をお持ちのようだね」
「いいえ、破片の質が素晴らしかったおかげです」
 私は、心からそう言った。
「お嬢ちゃん、名前は何ていうんだい?」
 今度は、少女に顔を向ける黒猫。問われた少女は、困った表情を浮かべる。
「 『なまえ』 ? 『なまえ』 とは、なにですか?」
 私に答えを求めた。
「 『海』 や 『噴水』 のような、ものの呼び方です」
「では、わたしのよびかたは、なにですか?」
 返答に困る。
 ほんのわずかの間、沈黙が場を支配した。
 それを破る、老女の声。
「まだ名前を決めていなかったのかい?」
「はい」
 黒猫の口調はいたって穏やかだったが、何故か、叱られたような気分になった。
 不意に、左側のドアーがひらく。スヴェーナ嬢が、大き目のトレイを右手に持って現れたのだった。トレイの上には、カップが四つと、角砂糖の入った小瓶、そして、ミルクの入った小瓶。
「おや、ありがとうスヴェーナ。気の利く娘だね」
 黒い尻尾の先が、パタパタと動く。スヴェーナ嬢は、黒猫に軽く頭を下げた。
 トレイをカウンターに置き、白い無地のコーヒー・カップを手に取ると、無表情でそれを私に差し出す。
「ブラックです。お砂糖とミルクは、ご自由にどうぞ」
「ありがとうございます」
 私は、両手で受け取った。芳しい香りが鼻をくすぐる。どうやら、挽きたてらしい。
 続いて、スヴェーナ嬢は、野苺柄の小さなティーカップを、ソーサーごと持ち上げた。しかし、カップから湯気は立っていない。
「どうぞ」
 一言発して、私の左隣に座る少女に手渡した。
 ティーカップの中を覗き込んだ途端、少女は、ぱっ、と瞳を輝かせる。
「 『ほしくず』 ですね!」
 嬉しそうにスヴェーナ嬢を見上げた。
「ええ、 『星屑』 です」
 スヴェーナ嬢は微笑む。
 
 
 ティーカップの底に沈んでいたのは、紅茶ではなく、三十余粒の金平糖だった。
 私は黙ってコーヒーをすすりながら、少女の名前について考えていた。