【クラミノ×Ωバース】 らしくない

牧物(つな天)にオメガバース設定を持ち込んだクラミノ小説です。
BL・妊娠要素、強い差別表現はありませんが、特殊設定が前提の、若干変態寄りなR-18小説です。
ふたなり(一言二言)、ソフトSM、男性受(基本は女性受)などの表現が含まれます。
作中でオメガバースについての詳しい説明はしておりません。

これから同じ世界設定で、R-18小説2~3本と、漫画1~2本(変動あり)を追加の上、全体に加筆訂正して同人誌化予定です。
サイトのコンテンツへは、同人誌化後に追加予定です。

このコンテンツは性的な表現を含むため、18歳未満の方の閲覧を禁止しております。
当サイト管理者は、閲覧によって生じたいかなる損害にも責任を負いかねます。
以下のリンクをクリックした時点で上記に同意されたものとしますので、ご了承ください。
私は18歳以上です【ENTER】

01 プロローグ

 
 
 それは、まさに「雷に打たれたような」衝撃だった。彼女と目が合った瞬間、脳天からつま先にかけて走った電流に圧倒され、クラウスはギルドの入り口前に突っ立ったまま、石のように固まってしまった。
 ようやく動き出せたのは、数秒後。それも、唇だけ。
 ぎこちなく息を吸い、言葉を吐き出そうとした――が。
 彼の目の前で同じく硬直していた少女は「ボンッ」と爆発音でも聞こえそうな勢いで顔を真っ赤にした後、一瞬でその場から走り去ってしまった。
 
 
 済ませるつもりでいた用事を全て投げ出し、急ぎ踵を返したクラウスは、バタン、と強かに閉めた玄関扉に背を預け、痛いほどに早鐘を打つ心臓に「落ち着け」と命令する。しかし、一向に鎮まる気配はない。
(そんなはずがあるか。千に一だか万に一だか知らないが、おそろしく「低確率」なんだろう……!?)
 そうだ。そんなことが、自分の身に起きるはずはない。
 動悸がおさまってきたところで、彼は先刻の出会いを「なかったこと」にしようと決めた。ご都合主義の物語が、既に綴られ始めていることにも気付かずに――
 
 

02 再会

 
 
 閃光の如き邂逅から、一週間後。再会の場面は、意外にもあっさりと訪れた。
 午前の仕事中、ノック音に手を止めて自宅の扉を開ければ、そこには先日の「彼女」がちょこんと立っていた。
 初対面にもかかわらず、数秒以上じっくりと見つめ合った相手である。お互いがお互いの顔を忘れているわけもなく、声に出すことはなかったものの、二人揃って「あ」の形に口を開いた。
 その後、暫時顔を向き合わせて硬直したままでいたのは、前回と同じ。しかし、今度は少女のほうが逃げなかった。一瞬で頬を赤らめたのは言うまでもないが、彼女は続けて「こっ……こんにちは……」と蚊の鳴くような声を絞り出した。
「えっと……高原の牧場地に引っ越してきた、ミノリといいます。……あの……今日は、ご挨拶に……」
 クラウスの眼下で、赤いバンダナを被った小さな頭がふるふると震えている。体の芯が熱くなるのを感じた彼はごくりと固唾を飲み、頭の中は混乱してぐちゃぐちゃなまま、しかし意識的に落ち着いた声音を降らせた。
「……そうか。噂には聞いていたが……お前が、新しく来たっていう牧場主か。オレはクラウスだ。この町で調香師をしている。……これから、よろしくな」
「はっ……はい。よろしく、お願いします……」
 そこで限界を迎えたのか、彼女は傍目にも作り笑いと分かる固い笑顔で「……では」と短く宣い、足早に帰っていった。その背を見送りきった後で、そっと口元を抑えるクラウス。
(一体、何なんだ……?)
 
 
(一体、何なんでしょう……?)
 ミノリは火照った頬を両手で押さえ、ぶるっと肩を震わせた。口を開けば、はあ、と熱い吐息が漏れる。何故か、体の奥がムズムズした。
 彼と偶然顔を合わせるのはこれで二度目だが、二度とも、彼に背を向けた直後はこのような状態に陥ってしまう。
(確かクラウスさんは「調香師をしてる」って言ってましたよね……)
 彼からはとても良い匂いがするし、もしかすると、何かアレルギー反応を引き起こす香料を扱っているのかもしれない。それくらいしか、この症状の原因が思い付かなかった。しかしそれでも、同じ町に住んでいる以上、何かしら対策を講じて良好な関係を築いていきたい。今後彼と対面する際は、マスクを付けてみようか――
 そんなことを考えつつ、ミノリは次に挨拶をすべき住民の家へと向かったのだった。
 
 
 
 
「最近この町に引っ越してきた『ミノリちゃん』って子、知ってる?」
 仕事を終えたクラウスが、学生時代以来の腐れ縁――マリアンと雑談を交えつつ自宅でワイングラスを傾けていると、ふと、相手がそんなことを尋ねてきた。思わずワインを噴き出しそうになるクラウスだったが、すんでのところで回避し、跳ねる鼓動を押し隠しつつ「ああ」とだけ答えた。
「今日、診療所へ挨拶に来てくれたんだケド。とっても可愛い子よねぇ~」
「お前のところへも行ったのか」
「ええ。みんなのお宅を回ってたみたいよ」
「……そうか」
 それで自分の家をも訪ねてきたのか――と、クラウスは密かに納得した。だとすれば、先日の邂逅を踏まえた上で何らかの目的を持って――例えば、もう一度自分と話をするために――ここを訪れたわけではなく、今日再び自分と顔を合わせたのは、彼女にとっても全くの想定外だったのだろう。クラウスは自覚しなかったが、意識の外でほんの少しがっかりした。
「初対面の印象だけど、彼女、ちっちゃくてふわふわしてて、ウサギちゃんみたいよね。あんな子が知らない町へ来て一人で牧場主をやるだなんて、大変よね。守ってあげたくなっちゃうわ~」
 マリアンがくねくねしながら、空中にハートマークを撒き散らす。対するクラウスは呆れた様子で、はあ、とわざとらしく嘆息した。
「……まあ、そうだな。若いのに殊勝なことだ」
「あの子も、アンタと『同じ』じゃない?」
 旧友のその言葉を聞いて、途端に眉根へ皺を寄せるクラウス。
「仮に『そう』だったとしても、だから何だという話だろう」
 突き放すような口調で言い放った彼もまた、心の内ではマリアンと同じことを考えていた。同時に「しかし自分とは違い、見るからにか弱そうな子のことだ、危ない目に遭わないよう注意して見ていてやらなければ」とも。
 
 
――が、ところ変わって夜のレストラン。その「見るからにか弱そうな子」は、さっそく危ない目に遭っていた。
「君、Ω性でしょ? 珍しいね~」
 酔って絡んでくる観光客の男性に対し、カウンター席でペスカトーレを食べていたミノリは引き攣った笑みを浮かべつつ「そうですか」と答える。そしてすぐに視線を皿へ戻し、フォークに麺を絡めて一口頬張った。
「匂い、っていうのかな……? やっぱり、他の子とは違うんだね」
 肩に腕を乗せ、無遠慮にうなじを嗅いでくる男。おそらく、彼はβ性なのだろう。ミノリは少しうんざりした表情を浮かべてパスタを飲み下すと、やんわり彼の腕を退けた。
 そこへ、これはまずいと悟ったレーガが、皿を洗う手を止めて助けに入る。
「ちょっと、お客さん。ここは『そういうお店』じゃありませんよ」
「ああん? 本人が嫌がってないんだから、別にいいじゃないか。なあ?」
 男に問われ、ミノリは小さな声で恐る恐る「嫌がってます……」と答えた。気分を害した相手は、「チッ」と舌打ちする。
「上位性の助けがあれば、大きく出れるってか? Ωのくせに」
「ほらほら、本人が嫌がってるだろ? お客さん。ここではみんな平等に美味い料理を食べる権利が与えられてるんだ、人の食事の邪魔をするなよ」
 レーガがポンポンと彼の肩を叩けば、男は渋々ながらようやくミノリから体を離し、席を立った。そしてレーガをひと睨みすると、今一度舌打ちをしつつ黙って店を出て行く。激しいドアベルの音と共に扉が閉まりきるのを確認した若い店主は、ふう、と一つ溜息を吐いてミノリに向き直り、軽く頭を下げた。
「この町へ来て早々、オレの店で嫌な思いをさせちまって、ごめんな」
「いえ、大丈夫です」
 ミノリも、苦笑で答える。そして、静かに食事を再開した。
 その様子を見たレーガはすかさず冷蔵庫からプリンの乗った器をもってくると、コトリとペスカトーレの皿の横に置く。
「これ、サービス。ああいう手合いの客は、珍しいほうなんだ。これに懲りずに、また食べに来てくれよな」
 ミノリは途端に元気を取り戻し、瞳をきらきらと輝かせて「もちろんです!」と答えた。
 
 

03 発情期

 
 
(……きたか)
 うららかな晩春の昼下がり。仕事机の傍に立って調香用の器具を整理していたクラウスは、突如、下半身に熱が集中して体の力が抜けるのを感じ、その場にへたり込んだ。じわりと上がる、脈拍数と体温。息苦しさから、はあ、はあ、と荒い息を吐く。
(下腹部に違和感があったから、近いとは思っていたが……)
 彼はコート内側の胸ポケットへそろりと手を伸ばすと、小瓶を取り出した。急いで蓋を開け、掌の上で軽く振れば、小粒の錠剤が数粒ほど転がり出る。水なしで飲めるタイプのその薬剤を、彼は二粒ほど摘まんで躊躇なく飲み込んだ。
 性別由来のこの体質とも、もう二十年来の付き合いになる。発現には慣れていても、やはりその苦痛には慣れないものだった。
 五分ほど経ってようやく薬が効き始め、少し息が落ち着いてきたところで、今日は運悪く、玄関扉がノックされる。居留守を使うことに決めたクラウスは黙ってその場に屈み込んだまま、扉の向こうに感じる人の気配が遠のくのをじっと待った。
 しかし、暫く待っても客人の去る様子はなく。代わりに、聞き覚えのある可愛らしい声が聞こえてくる。
「あのー……クラウスさん? ミノリですけど……お留守ですか?」
 少し困った音色のその声に、クラウスはびくっと全身で反応した。それは都合良く獲物が現れたことに対する歓喜の震えだったが、本能に反して頭だけは「こんな時に限って」と苦々しげな感想を打ち出した。
 何も答えず、早々に踵を返してくれることを願っていたクラウスだったが、またも意に反して、ガチャリとドアノブの回る音が。
 静かな室内に、ギィ、と木製扉の軋む音も響く。
 ほどなくして「おじゃまします……」という囁きに、その後を追う足音。
 屈み込むクラウスと、マスクを着用し、採れたてのカブを抱えたミノリの目が合ったのは、それから更に少し経ってからだった。
 苦しげな家主を目にするなり、ミノリは「クラウスさん、どうかしましたか!?」と慌てて彼に駆け寄り――マスクを通り抜けて鼻を掠めた甘い香りに、くらりとよろめく。
「あっ……あの……?」
 発情中のΩ性のフェロモンに中てられたミノリの体が、かあっと熱くなった。芯は疼き、鼓動も早まったが、それが性的衝動と気付かぬ彼女は辛くも持ち直す。そして、ふるふると頭を振ってカブの束を床に置いた。
「えっと……大丈夫、ですか……? どこか、具合でも悪いんですか……?」
 観念したクラウスは、しかし未だ性欲と戦いながら、弱弱しく頭を振る。
「……心配ない。ただの、発情期だ。こんな外見だが……、オレは、Ω性なんだ」
 そこまで言われてようやく事態を察し、ハッと息を飲むミノリ。途端に、二人を包んでいた異様な空気が、淫靡なものだったことを悟る。彼女は薄らと目に涙を浮かべ、あわあわと言い訳を始めた。
「あっ……あの……。勝手に入って、ごめんなさい! えっ、えっと、あの、カブ、お差し入れなんですけど。いなかったら、中に置かせてもらおうと思って……!」
「……そうか。ありがとう」
 口では礼を言ったものの、泣きたいのはクラウスのほうだった。実際、彼の瞳も潤んでいた。それでも確実に薬剤は浸透しており、体の火照りも息苦しさも、かなり収まってきていた。
「……はあ。悪いな、せっかく来てくれたのに」
「いっ、いえ。わたしこそ、ごめんなさい。間の悪い時におじゃましてしまって……。もう帰りますね。本当に、おじゃましました……」
 ミノリは暇を告げると、申し訳なさそうに退散していった。再び一人になったクラウスは、「はあ……」と一つ深い溜め息を吐く。
(それにしても……やはり、彼女もΩだったのか)
 薬を飲んだ後だったとは言え、直後では漏れ出るフェロモンも相当なものだっただろう。それを受けて何ともなかったということは、間違いない。
 自身と同じく発情期を迎え、艶めかしく色香を振り撒く彼女を妄想して甘い身震いをしてしまったのは「そういう時期」だからなのだと、クラウスは誰にともなく言い訳をした。
 
 

04 夏の川辺

 
 
 ミノリは桟橋に座ってさらさら流れる川に足を浸し、茹だるような暑さと、体力が尽きた後の暇な時間とをやり過ごしていた。その背中へ、不意に低い声が掛かる。
「特等席だな。オレも隣に座っていいか?」
 顔を上げて相手の姿を認めたミノリは、ふふっと笑いながら「どうぞ」と快諾する。その相手――クラウスも彼女に微笑み返し、いそいそとブーツ、靴下を脱いで下衣の裾を捲ると、言葉通り彼女の隣へ腰掛けた。
 彼女も自分と同じ希少なΩ性だと確信して以来、一方的に親近感と同情の念を抱いたクラウスは、保護者のような感覚で、何かと彼女を構うようになっていた。おかげで、出会ってからさほど経っていないにもかかわらず、二人はすっかり打ち解けている。
 最初の頃こそ顔を合わせる度に原因不明の興奮状態に陥っていた彼らだったが、幾度も言葉を交わす内にそれも収まり。未だに双方とも出合い頭に軽い動悸を感じることはあったものの、あまり気に留めなくなっていた。
「こうしていると、子供に戻った気分になるな」
「クラウスさんは、この町の生まれですもんね。わたしは都会育ちなので、こんな風にのんびり水浴びするのが夢だったんです」
「そうか。……こうやってそういう夢を自力で叶えちまうんだから、お前はすごいな」
 想定外に褒められ、ミノリがエヘヘとはにかむ。そんな可愛らしい表情を向けられたクラウスは衝動的に彼女に触れたくなったが、思考が追い付くより早く、その欲求をなかったことにした。
「……それでも助けが必要な時や危ない目に遭った時は、いつでも頼るんだぞ? こんなおじさんにできることなんぞ限られてるが、見た目だけは、多少凄味があるからな」
 冗談めかして言えば、ミノリが再び、鈴を転がすような声で笑う。
「はい。困った時は、お願いします」
 
 
 その後も他愛のない話で盛り上がり、二人が川から足を引き抜いたのは、日も傾きかけた頃だった。
「すっかり話し込んじまったな」
「あんまり楽しかったので、つい……。クラウスさんは、予定とかありませんでしたか?」
「ああ。オレも暇だったから、大丈夫だ。ミノリはこの後、家へ帰るのか?」
「いえ。レストランで早めのお夕飯を食べてから、もう少し仕事をするつもりです」
「そうか。それなら、オレも同席していいか?」
「はいっ!」

 
 すっかり二人の世界に入り込んでいた彼らは気付かなかったが、道すがら擦れ違って一連のやり取りを目の当たりにしたジョルジュが、後日「まだ出会って間もないはずなのに、まるで恋人のようだった」とマリアンに語ったのは、また別の話である。
 
 

05 誘引香

 
 
 ここ半月ほど、クラウスは辟易していた。何に対してかと言えば、これにだ。
「で? アンタたち、まだ付き合ってないの?」
 街頭で出くわすなり飛んできたマリアンの追及に、クラウスは「はあ……」とあからさまな溜息を吐く。
「だから、何度も言ってるだろう。オレとあいつは、そういう仲じゃない」
「じゃあ、どういう仲なのよ?」
「歳の離れた友人だ。これも、何度もそう答えてる」
 しかし、納得いかない様子のマリアン。彼は「へえ~?」と意味ありげに呟きつつ、依然、訝しげな視線をクラウスへ向けたままだ。
「大体、若い女の子が、こんなオッサン――しかも同じΩ性の中年を『そういう対象』として見るわけがないだろう」
「どうかしらね~?」
 笑ってはぐらかす旧友に対し、自分で「恋愛対象になるはずがない」と言っておきながら凹んでいたクラウスは、多少苛立った。
「そもそも、オレの恋愛事情なんぞ、お前の知ったことか」
「まあ、それはそうね。ただの興味本位よ」
 でも、とマリアンは続ける。
「それだけ仲がいいんだから、付き合っちゃえばいいのに」
 クラウスは周囲を見回して誰もこちらを見ていないことを確認すると、学生よろしく、マリアンの額を手の甲でぺしっと軽く叩いた。
 
 
(……そうだ。オレとミノリは、そういう仲じゃない)
 クラウスは自分に言い聞かせるように心の内で復唱し、一人頷く。そんな彼の額には薄らと汗が滲み、心臓はドクンドクンと早鐘を打っていた。だが、それも仕方のないことだ。何しろ今の彼は薬こそ服用しているものの発情期の真っ最中であり、あまつさえ彼の家の浴室からは、「歳の離れた友人」がシャワーを浴びる扇情的な音が漏れ聞こえていたのだから。
 
 
 
 
 話は、マリアンと別れた直後に遡る。
 うんざりした顔つきで貿易ステーションを目指していたクラウスは、こちらへ向かって走ってくるミノリの姿を見つけると気分一転、高揚し――直後、目を丸くしてその場に立ち止まった。彼女もクラウスに気付くと、彼の数歩手前で立ち止まる。
「こんにちは、クラウスさん」
 満面の笑みで挨拶したミノリだったが、対するクラウスは同様の挨拶を返す前に、驚いた様子で「どうしたんだ? その格好は」と尋ねた。なぜなら、ミノリの両腕、スカートの裾、両膝から下には、生乾きの土汚れがびっしりと付着していたからだ。指摘されたミノリは、何でもない風で「ああ、これですか」と答え始める。
「さっき貿易ステーションでやわらかい土を買ったら、袋に穴があいてまして。その場で土がドバーっとこぼれてしまったので、片付けていたんです」
 エヘヘ、と苦笑する彼女。クラウスは「そうか」と相槌を打った。
「家まで、その格好で帰るのか?」
「はい。すぐに帰って着替えないとです」
 それを聞いたクラウスは顎に手をやり、「うーん」と考える素振りを見せる。
「どこか、近くにシャワーを借りられるところでもあればいいんだが……」
 しかし、いかにこの町の住民が善良な者ばかりとは言え、Ω性のミノリを無防備な状態で預けることができるほど信用に足る人物は少ない。それでも、真っ先に思い付く場所と言えば。
「ギルドに寄ってみたらどうだ? ベロニカさんなら、快く貸してくれるだろう」
 クラウスがそう提案してみたものの、ミノリは気乗りしない顔だ。
「でも、こんな格好でギルドに入ったら、中を汚しちゃいますよね。それは申し訳ないので……やっぱり、家まで帰ります」
 別れを告げ、帰途に着こうとするミノリ。しかしクラウスはその腕を引き、尚も引き止める。
「それなら、お前が嫌でなければ、だが……オレの家で浴びていくといい。高原までその格好じゃ、さすがに気持ち悪いだろう?」
「えっ……でも、そうするとクラウスさんのお家が汚れちゃいますし……」
「構わないさ。どうせ今日明日は定休で、客もない」
 そうやって押しに押され、ミノリはようやく渋々ながら、彼の提案に乗ったのだった。
 
 
 ところが、いざ軽い親切心からうら若い乙女にシャワーを提供してみれば。前述の通り、後悔したのはクラウスのほうであった。
 反響する水音、動いた際の微振動、シャンプーの香り。五感の捉える全てが性欲を刺激する。止めようと思っても、扉の向こうで晒されているであろう滑らかな肌への妄想は止まらず。ごくりと生唾を飲んだクラウスは、慌てて頭を振った。
(薬は効いている。大丈夫だ。この程度なら、問題ない)
 しかし、身体はあまり大丈夫でなかった。攻める側だろうが受け入れる側だろうが、よもやそんなことは些末事で。とにかく体を重ねて快楽を貪り、熱を解放したいという欲求が、下半身を苛み、脈拍数を上げ、体内を巡る酸素の量を減らしていく。それでも、その苦しさを言葉にして恋人でもない相手に縋ることは、理性あるヒトとして恥ずべき行為であったし、また、自らの身を亡ぼす愚かな行為であることも重々承知していた。
 それにしても、とクラウスは思う。
(今回は、発情が重すぎるな……。いつもなら、いくら「そういう状況」とは言え、ここまで苦しくはならないんだが……)
 発情はホルモンの働きによる本能的なものであるから、いつも同じ程度とは限らない。それでも、比較的規則正しい生活を送っている彼は「ホルモンバランスが崩れるようなことはしていないはずなのに」と首を捻った。
 が、普段より重い発情の理由は、意外にもすぐに解る。
「シャワー、ありがとうございました」
 ガチャリと扉を開け、脱衣所からミノリが現れた。土で汚れきったタイツとエプロンは身に着けておらず、スカートとブーツの間からは、素の脚が覗いている。洗い立ての肌は潤いを帯びて艶めいており、そこから立ち上る香りが、クラウスの鼻腔をくすぐった。
 その香りに、彼は「ああ、これのせいか」と一人納得する。
 石鹸の香料に混じって匂い立つ、甘い芳香。彼女特有の体臭なのであろう、頭の芯から蕩かすような、蜂蜜のような甘さと若葉のような爽やかさ、そして夜開く花のような淫靡さを併せ持った、複雑な香りだった。
 温められた清浄な肌の発する香気を、発情期を迎えて鋭敏になっている嗅覚が捉えて初めて気付いたが、きっと初対面から既にこの香りに反応し、魅了されていたのだろう。
 もっと近くで嗅ぎたい。その邪魔な布を剥ぎ取って、滑らかな肌と幽香に包まれたい――そんな欲望が、脳を支配していく。
「あの……クラウスさん?」
 名前を呼ばれ、香りに酔っていたクラウスはハッと我に返った。
「あ……ああ。どういたしまして」
 同時に、如何わしい気持ちが一瞬で鳴りを潜める。
「……スカートの裾は、どうにもならないな。だが、全身汚れたままよりはマシだろう」
「はい。おかげで、さっぱりしました。まだ服は土だらけなので、すぐにお暇しますね」
「ああ。また後で、ゆっくりお茶でも飲みに来るといい」
 隣人の下心になど全く気付かぬ無邪気な子兎を、クラウスは普段通り、紳士の顔で見送った。
 
 

06 痕と牙(前)

 
 
 冬も深まり、雪の精が山も町も一面真っ白に染め上げた頃。平和な樫の木タウンで、その騒動は突如として起こった。
「痛っ……!!」
 白日の貿易ステーションの一角に響いたのは、ミノリの悲痛な叫び声。不意にうなじを襲った痛みに、彼女は後ろ首を抑えてその場にしゃがみ込んだ。あまりに突然の出来事に、ぽかんと口を開けて現場を眺める周囲の人々。そして、山小屋の国の露店主マリエル。
「みっ、ミノリさん!? どうかした!?」
 慌てて大声で問いかけ、彼女が状況を確認しようとミノリの周辺を一目すれば、不審な人物はすぐに見つかった。
 ミノリから数歩離れた地点に、唇に付着した血液を手の甲で拭う男が。見知らぬ顔であるからして、おそらく観光客だろう。
「あの人!! あの人が、噛んだ!?」
 マリエルに指先を向けられた男は、じり、と一歩後ずさって、ニヤリと笑った。
「……そうだ。これで、ミノリと俺は、つがいになった!」
 高らかな宣言を聞き、数秒置いてその意味を理解するマリエル。彼女の顔が、さあっと青くなる。同じく現場近くにいた数人も、同様の反応を示した。
 ざわつく山小屋の国の露店周辺へ、徐々に人が集まり始める。別の露店で買い物をしていたミステルもそれに気付き、何事かと様子を見に現れた。
「どうしたんです?」
 彼が人だかりの外辺にいた一人に尋ねると「女の子が首を噛まれたらしい」という答えが返って来る。面倒事に関わるのは本意でなかったものの、事態の収集にあたる人間がいないのだろうと現状から推測したミステルは、「ちょっと、通してください」と人混みの中へ入っていった。
 輪の中心のミノリは、怪我が相当痛むのか、未だに患部を抑えたままうずくまっている。
 おろおろするマリエルに、その場を動かない加害者、そして、この状況をどうしたら良いものかわからず、ざわつくだけの観光客。ミステルは自分を落ち着かせるために「ふう」と一つ溜息を吐くと、まずはミノリに語りかける。
「ミノリさん。返事はできますか?」
 すると、「はい」と蚊の鳴くような声が返ってきた。ひとまず安堵したミステルは、周囲の人だかりに向けて指示を出す。
「どなたかギルドへ行って、ギルドマスターのベロニカさんを呼んできてください。貿易ステーションでトラブルがあった、と」
 すると、すぐに数人が貿易ステーションの出口へ向かって駆け出して行った。ミステルは次に、マリエルへ向き直る。
「マリエルさん、怪我の応急処置ができるものはありますか?」
「えっ……えっと! 救急箱なら、ある!」
「それを出してください。ミノリさん、手を退けて傷を見せて貰っても良いですか?」
 ここへきてようやく、加害者の男が二言目を発した。
「おい、お前、余計なことをするな!」
 罵声を発するだけのところを見ると、どうやら凶器等は所持していないようだ。そう判断したミステルは、なるべく相手を刺激しないよう、静かに会話を試みる。
「止血と消毒をするだけですよ。あなたは、ミノリさんのお知り合いですか?」
「そうだ」
「そうなんですか、ミノリさん?」
 首を動かせず、視線を地面に落したまま「はい」と肯定するミノリ。ミステルはそれだけ聞いて、早くも「痴情のもつれといったところか」と予想し、少々うんざりした表情を浮かべた。
「では、ベロニカさんが到着したら、お二人でゆっくり話し合ってください。ボクは怪我の手当てだけしたら、すぐに退散しますから」
 そう言って加害者の動きを止めつつ、ミステルは意識してゆっくりと、ミノリの首に滲む血液を消毒液の染み込んだ清浄綿で拭き取り、歯型にガーゼを当て、首に包帯を巻いた。すると、ちょうど手当てが終わる頃、息を切らしたベロニカが現場へ到着する。時間配分は完璧だった。
「ミステルさん、ありがとうございます……」
 ようやく顔を上げることができ、心底申し訳なさそうに礼を言ったミノリの肩を、手当てした青年は無言で、ポン、と一つ叩いた。
 
 
 
 
 事件のあらましは、こうだ。ミノリが樫の木タウンへ引っ越してくる前に住んでいた土地の隣人が、ミノリに対して一方的な恋心を抱いていた。しかし、それに気付かぬミノリは、彼に軽い別れの挨拶をしただけで引っ越しをしてしまった。ミノリに執着していた彼は引っ越し先を突き止めると、この町の貿易ステーションを訪れ、運良く早々にミノリを発見した。α性の男は、無理矢理にでも彼女を自分のものとするため、不意を突いてその後ろ首に噛み付いたのだった。
 ギルドの二階でなされた話し合いは三時間にわたったが、後日弁護士を挟んで加害者の男がミノリに相応の示談金を支払う、という内容で一応の決着を見せた。そこそこの社会的地位にあった相手の男は、警察に被害届を出さないことを条件に、二度とミノリの前に姿を現さないと誓った。
 
 男が立ち去ってしばらくしてから、ミノリもベロニカに重ね重ね礼を言った上で、ギルドの一階へ降りていく。すると、待合所で待機していた別の長身男性――クラウスが、真っ青な顔で駆け寄ってきた。
 ミノリの前に立った彼は、何か言いたげに口を開く。が、無言のまま一旦視線を外した。ミノリも、黙って彼の言葉を待つ。
 クラウスがようやく声を発したのは、およそ十秒も経過した後だった。
「……その……、怪我は、大丈夫なのか?」
「はい」
 それだけ答えつつ、こくんと頷くミノリ。クラウスは「そうか」と相槌を打って、再び視線を外す。
 そして、また十秒ほどが経った。
「……あー……、話はついたのか?」
「はい」
 ミノリは、またそれだけ答えつつ、こくんと頷く。クラウスもまた「そうか」と相槌を打って、視線を外した。
 二人が、そんな不毛なやり取りを繰り返しているところへ。
「ちょっとアンタたち、いい加減になさいよ!」
 会話に割り込んできたのは、定時で仕事を終えたばかりの医師、マリアンだった。
「こんな公共の場で、ンな辛気臭い顔しくさってからに。他の利用者の邪魔でしょ? クラウスの家にでも行って、ゆっくり話し合いなさいよ。ハイハイ、出てった出てった!」
 そう言って彼は、二人を出口へ向けて押し遣る。それは、全く進展しない友人たちへの助け船でもあった。
「そろそろ、お互いに腹割ったほうがいいんじゃない?」
 
 

07 痕と牙(後)

 
 
 夕闇が迫る中、無言で町を歩くクラウスとミノリ。
 貿易相手国が増えて多少賑やかになったとは言え、まだまだ無名の町である。通りの往来はまばらで、山へ帰るカラスたちの鳴き声が、物寂しく響く。
 雪で薄ら白く染まる石畳を踏みつつ、気まずさから十歩分の距離を置いて歩く二人の背中へ、不意に声がかかった。
「ミノリ」
 つい先刻聞いたばかりの声に名前を呼ばれたミノリは、立ち止まって振り返る。そこには、件の男性が立っていた。
 ミノリは、二度と顔を見せないと約束したばかりなのに、と眉間に皺を寄せる。相手も馬鹿ではないので、あせあせと言い訳を始めた。
「その……、二度と会わないとは誓ったが、最後に、もう一度謝りたくて。本当に、申し訳ないことをした」
 深々と頭を下げる相手を前に、はあ、と溜め息を吐くミノリ。
「もう、いいです。お互い、忘れましょう?」
 そんな二人のやり取りを間近で目にしたクラウスの額に、冷たい汗が浮かぶ。彼はごくりと唾を飲むと、ミノリの傍へ歩み寄った。
「……彼が、お前の首を噛んだ相手か?」
 低い声で尋ねれば、ミノリが少し困った顔で、こくりと頷く。「そうか」と返したクラウスは自分より背丈の低い相手を見下し、夕日を反射して金色に光る、鋭い双眸を向けた。
「つまり、お前が消えれば、ミノリとのつがい関係は解除されるわけか」
 その迫力に気圧され、じり、と後ずさるαの男。
「……なんだ、お前は? ミノリの恋人か?」
 クラウスは答えない。代わりに、握りしめた両拳に力を入れた。それに気付いたミノリは、慌てて彼に声を掛ける。
「あっ……あの。クラウスさん、大丈夫です! わたしは……」
 言いかけたところで、それを遮るように、突如相手の男が笑い出した。
「ハハッ。なんだお前、そんなナリをしているが、発情中のΩか。練乳みたいに甘ったるいにおいがするぞ?」
 馬鹿にした口調で、男は宣う。そして態度を一変させ、身構えてクラウスを挑発し始めた。
「かかってこいよ。Ω風情が、α性に勝てるわけがないだろう?」
「ああ。おかげで、仮に事故があっても正当防衛と言える」
 全く焦る素振りを見せないクラウスと対峙し、体格差もあって多少不安になってきたのか、男は軽く歯軋りする。
「……チッ。後悔するぞ」
 無言で相手を睨み付けたまま微動だにせず、それ以上、何も言わないクラウス。ミノリはそんな彼の前に素早く立ち塞がると、クラウスの動きを止めるように、ぴったりと体を押し付けた。
「あの、ケンカはだめですよ? ね、クラウスも。早く、クラウスのお家に行きましょう?」
 しかし、魅力的な雌を奪い合う狼たちの暴走は止まらない。ミノリの肩を持って、やんわりと自身の後ろへ追い遣るクラウス。そして、それを好機とばかりに殴りかかる、α性の男。
 クラウスは相手の拳を難なく受け止め、彼のみぞおちへ自身の拳を叩きこもうとした。が、α性ゆえ先天的に反射神経の良い相手は、それを見切って避ける。力は互角だった。
 始まってしまった修羅場を前にして、ミノリはあわあわするばかり――と思いきや、ふと冷静になり、徐々に腹が立ってくる。そして、苛立ち紛れに怒鳴った。
「ケンカはやめてって、言ったじゃないですか!」
 しかし、熱くなっている男たちが聞くはずもなく。ミノリは尚も殴り合いを続ける彼らに、くるりと背を向けた。
――そして。
 手近な所に立っていた街灯に両腕を回し、力任せに引き抜いた。
 
 軽い地響きとともに降って湧いた「バリバリッ」という轟音。
 お互いがお互いしか見えなくなっていたクラウスとα性の男も、さすがに何事かと驚いて、音のしたほうを振り向く。と、視線の先では、引き抜いた街灯を抱えたミノリが、怒り心頭で仁王立ちしていた。
「二人とも、いい加減にしてくださいっ! せっかく話し合いで解決したのに、なんでケンカになっちゃうんですか!?」
 そう一喝した彼女の、威嚇する獣よろしく剥き出しにされた口元には、α性の人間だけが持つ立派な牙歯が光っていた。
 
 
 
 
 後日、再びベロニカに頭を下げ、きちんと自分の手で街灯を建て直したことは言うまでもない。
 
 

08 越える夜

 
 
「……ごめんなさい。騙すつもりは、なかったんです」
 ソファに腰かけたミノリは、深々と頭を下げた。彼女の向かいに座るクラウスも、申し訳なさげな表情で「いや、」と返す。
「元々、オレが勝手にお前をΩ性だと思い込んでいたんだ。ミノリが謝ることじゃない」
 そう言って、彼は紅茶を一口啜った。
「……だが、どうして黙っていたんだ? α性と間違えられて喜ぶΩはいたとしても、α性がΩ性と間違えられたら、普通、怒りそうなものだが……」
 痛いところを突いたその質問に、ミノリはそろりと視線を逸らす。きゅっと唇を結んで暫く黙っていたが、やがて意を決したように語り出した。
「……その……、わたしって、どう見てもα性には見えないでしょう……? 性格も、ぜんぜんαっぽくないですし……。『αらしくない』って言われるより、『Ωなんだ』って思われてるほうが、いいかなって……思っちゃって……ごめんなさい……」
 Ω性に対して失礼なことを言っているのは重々自覚していたので、末尾にしっかりと、弱弱しい謝罪を入れる。しかし優しいクラウスは気分を害する素振りも呆れる素振りも見せず、「なるほどな」と納得の返事をした。
「気持ちは解らなくもない。オレもこの体格のおかげでよくα性と間違われるが、勝手に勘違いした輩が『αのくせに牙歯もないのか』などと突っかかってくることがあるからな。……αはαで、いろいろと苦労があるんだな」
 ミノリは言葉を返す代わりに、黙って茶菓子のクッキーを齧った。
 室内に、焼き菓子を齧るサクサク音だけが響く。
 ふう、と小さく溜め息を吐くクラウス。彼は僅かに頬を赤らめ、片手で口元を隠した。静かすぎて、心臓の音が相手に伝わってしまいそうな気がしたからだ。
 ほんの少し顔を上げて彼の顔を盗み見たミノリも、ぽっと赤くなった。胸のドキドキを紛らわそうと、必死で話題を探す。
「クラウスさんがα性で、わたしがΩ性だったら、ぴったりだったんですけどね」
 その言葉を聞いて、まさに同じ事を考えていたクラウスは、ギクッとする。気まずい気持ちになったのは、「オレがαでミノリがΩなら、自分にも『チャンス』があったかもしれないのに」などと、それはそれで失礼なことを考えていたためだ。彼は内省した。
 再び、沈黙が屋内を支配する。
 窓の外は、既に真っ暗闇。ちょうど夕飯時になっていた。
「……ミノリ、お腹は空いてないか? こんな時間になっちまったし、有り合わせで良ければ、何か作るが……」
「えっ!? ……あっ、じゃあ、お願いします」
 
 
 変にお互いを意識しながらも、他愛ない会話を交えつつ夕食を終えた二人の間に、またも気まずい沈黙が訪れる。
 何となく一人になりたくなくて暇を告げられないミノリと、彼女を帰したくなくて「そろそろ帰ったほうがいい」と言い出せないクラウス。間を持たせるためにレコードをかけ、音楽鑑賞する振りなどしつつ無言の時間をやり過ごせば、時計の針は九時半を指し示した。
「……ミノリ、すっかり遅くなっちまったし、ここで風呂に入って行ったらどうだ? そうすれば、あとは帰って寝るだけだろう?」
 とうとう、クラウスが僅かに上擦った声でそんな提案をする始末。真っ赤に上気して「そうさせてもらいます」と頷くほうも頷くほうだ。双方とも未だ迷いつつも、既に「そんな予感」はしていた。
 ミノリが風呂から上がると、入れ違いにクラウスも湯浴みに行く。「帰れ」と言われなかったミノリは当然のように帰らず、その間、大人しくレコードを聴いて待っていた。
 しばらくすると脱衣所から、出し抜けに「ガタンッ」と大きな物音が聞こえてくる。
 静かな部屋に突如響いたその音にビクッとした後、ミノリは恐る恐る脱衣所の扉に近付き、コンコン、と控えめにノックした。
「……クラウスさん? どうかしました?」
 再び、ガタッ、という物音。そして、弱弱しい声が返る。
「……大丈夫だ」
 全く大丈夫なように聞こえなかった。ミノリは少し迷ったが、「失礼します……」と声を掛けてから、そっと扉を開ける。
 そこには下着一枚で床に膝を突き、下半身を抑えてうずくまるクラウスの姿があった。彼は僅かに首を上げて、気まずそうにミノリの顔を見上げながら、はあ、と苦しげな溜息を吐く。
 一瞬「どこか具合でも悪いのだろうか」などと考えたミノリだが、すぐにその理由に思い至り、ぼんっ、と上気した。
「あっ……! あの……、お薬、持ってきますね! どこにありますか?」
 裏返った声でそう問うが、しかしクラウスは、静かに首を横に振る。そして、黙ったまま立ち上がった。彼が一歩近付けば、濃厚な甘い香りがミノリの鼻を衝く。途端に動悸が始まり、頭がクラッとした。
「……ミノリ」
 艶めいた低い声で名前を呼ばれ、ミノリの身体からふわりと力が抜ける。きゅうん、と下半身が切なくなった。まずい、と思った時には、既に彼の腕の中で。
「……あ……」
 風呂上りの肌の香気に脳を犯され、堪らず声を漏らす。クラウスはそんな彼女の首にかかった髪を肩へ退け、後ろ首にくっきりと赤黒く浮かび上がる歯型を、子犬のようにぺろりと舐めた。
「っ……!!」
 声にならない声を上げ、びくん、と肩を跳ねさせるミノリ。その耳元に、苦しげな吐息がかかる。
「……あ……あの、まって……」
 聞こえているのかいないのか、クラウスは止まることなく、今度はその傷跡を自身の唇で覆うと、音も立てずに強く吸い上げた。患部に、鋭い痛みが走る。ミノリは堪らず「痛っ……!」と声を上げた。
 彼が唇を離すと、そこには、歯型を上書きするように付けられたキスマークが。自身が刻んだその痕を、クラウスは愛おしげに、再び一舐めした。
「……っ、やめて……」
 ふるふる震えながら、ミノリが涙声で懇願する。クラウスはようやく彼女から体を離すと、潤んだその瞳を、苦い表情で覗き込んだ。
「……すまない。……少し、一人にしてくれないか?」
 熱を帯びた息を吐きつつ、彼はミノリを解放し、背を向ける。しかしミノリには、彼の要求を聞き入れることができなかった。なぜなら、支えを失った彼女は壁に寄りかかって、へたへたとその場に座り込んでしまったからだ。クラウスがぎょっとして振り返れば、本当に恥ずかしいのか、はたまた、ただの強がりか、ミノリは「エヘヘ」とはにかんで見せた。
「……動けません……からだが、熱くて……ふわふわして……」
 揺れる声でそう言って、はあ、と溜め息を吐く。
「こんなの、初めてで……どうすれば、いいですか……?」
 ミノリのチョコレート色の瞳から、ぽろぽろと涙が零れ出す。クラウスは申し訳なさそうに彼女を見下ろすと、再び屈み込んで、透明なその液体を指先で拭った。
「オレも同じだ。……ミノリは、どうしたい?」
「……わかりません」
「抱きしめても、いいか?」
「……はい」
 小さな身体に堅い腕が回され、ふわりと抱き寄せられる。互いに発し合っていた別種の甘い香りが混じり合い、更に濃密なものに変化した。
「キスは? ……嫌か?」
「い……いえ」
 ミノリが首を横に振れば、今度はその唇がそっと塞がれる。なし崩し的に舌も捻じ込まれ、クチュッ、クチュッと淫靡な音を立てて、二人のそれは淫らに絡まり合った。
 長い長いキスの後、クラウスが名残惜しげに顔を離せば、ミノリもとろんと蕩けた表情をして、物欲しげな瞳で彼を見つめ返す。一般的なαとΩの行為らしからぬ現状に、クラウスは思わず、フッと笑いを漏らした。
「もし、オレを襲いたければ、襲ってもいいんだぞ?」
 問われても、少し困ったように眉を下げ、黙って小首を傾げるだけのミノリ。クラウスは、そんな彼女の頬に一つ小さなキスを施すと、横抱きに抱え上げ、ベッドまで運んでいった。
 
 
 
 
 渇望するものだけを本能のままに貪りたい衝動をぐっと抑え、クラウスはミノリの衣服を丁寧に剥ぎ取っていく。力なくベッドに寝転んだままの相手はなすがまま、文句を言うこともなく、黙って彼の手際に身を委ねていた。
 時折、滑らかな指先でそっと彼の腕に触れては、肌の感触を確かめるように撫で下ろす。その都度、クラウスの背筋は甘い刺激にぞくりと震えた。愛撫を返せば、もどかしげに腰を揺らす様が彼の発情を促す。
 早く、早く一つになりたい――その一心で、クラウスはミノリの服を脱がし続けた。
 最後に一枚残った女性用ボクサーパンツに手をかけると、ミノリが相手の手首を軽く掴み、初めて抵抗する。「どうした?」と問われた彼女は、元々赤らんでいた頬を、更に真っ赤に染め上げた。
「その……、わたしの、なんですけど……。普通のαの人より、すごく小さいみたい、で……」
 ごにょごにょとなされた説明に、クラウスは「なんだ、そんなことか」と、再びククッと笑ってしまう。すると、気分を害したミノリが「笑い事じゃないです」と口を尖らせた。
「だって……、だから……、もし、クラウスさんが『後ろがいい』って言うなら……」
 そこまで言って恥ずかしさに耐えられなくなったミノリは、両手で顔を覆ってしまう。クラウスは「なんだ、何も知らないわけじゃないのか」と少し安堵し、笑いながら「オレは、どっちでもいけるぞ?」と応えた。そして、彼女の下着を擦り下す。
 確かに、挿入が全く不可能というほどではないものの、どちらかと言えばβ女性の「それ」に近い大きさだった。なるほど、これはコンプレックスを抱くわけだと、「Ω性の割には大きいモノ」を持つクラウスは苦笑する。
「お互い、性別のおかげで苦労するな」
 ミノリは、何も答えない。
 構わず、クラウスは彼女の秘所に顔を近づけると、彼女のコンプレックスの対象を、愛おしげに口に含んだ。「ぁんっ」と小さく嬌声を上げて、ミノリの体が跳ねる。小さく勃起したそれを舌先で舐め上げられ、転がされ、軽く吸い上げられる度、彼女は切なげに喘ぎ、もじもじと下半身を動かした。
「あっ……あの、出ちゃう……から……!」
 切羽詰まった風で告げられ、一旦顔を離すクラウス。彼は「はあ……」と湿った息を吐き、口元を拭いつつ、ニヤリと口角を上げる。
「オレは、別に構わないが……お前は、どっちのほうが好きなんだ?」
 相手の経験値の高さを感じ取ったミノリは畏怖し、額にじわりと汗を滲ませた。
「えっ……えっと……、……わかりません」
「なら、両方試してみるか」
 クラウスはミノリの脚を更に開かせると、先端に透明な液体が滲む突起物を無視し、更にその下の窪みへ、ゆっくりと中指を差し入れる。既に潤っていたそこは、すんなりと彼の指を受け入れた。
 一本だけの時は体を堅くするばかりで何の反応も示さなかったミノリだが、続いて二本、三本と指を増やしていくと、口端から可愛らしい声を漏らす。その音と、彼女の肌から発せられる麻薬のような芳香とを楽しみつつ、クラウスは自身の指で彼女の中を優しく掻き回した。
「あっ……あ……!」
 声を上げ、身じろぐミノリ。クラウスは行為を続けながら前屈みになり、彼女の耳元へ口を寄せる。よりいっそう強く立ち上るフェロモンが、彼の鋤鼻器から入り込んで思考力を奪っていった。
「もう、いいよな……?」
 微笑みながら、クラウスは荒い息を吐く。ミノリの中から指を引き抜くと、彼はベッドサイドから避妊具を取って来て、自身に装着した。その先端を彼女の入り口にピタリとあてがい、一息に刺し貫く。餌食を前にした発情期の雄に、相手を慮れるほどの余裕は残っていなかった。
「っぅ……!!」
 下半身に走った激痛に、ミノリが一つ、苦しげに呻く。彼女は暫時息を止めた後、深く吐くと、ふぅ、ふぅ、と小刻みに肩で呼吸をした。
「……すまない」
 クラウスはミノリの首筋に唇を落としつつ小さく謝るが、言葉とは裏腹に、彼女を休ませることはせず、ゆるゆると腰を振り始める。内部に走る鈍い痛みに、ミノリは顔を歪めた。
「い……いたっ……あっ……あ……!」
 だが、それは徐々に甘みを帯びた声に変わっていく。
「っ……あ……んっ……ぅ……」
 すっかり嬌声に変わる頃には、ベッドの軋む音や、「パンッ、パンッ」という律動的な音が室内に響き渡るほど、クラウスの腰の動きは激しさを増していた。
 そのまま彼は一気に登り詰め、ミノリの中で精を放つ。
 途端に、一時的ではあるが性欲から解放された満足感が、じわりと広がった。全力疾走した直後のように肩を上下させながら、くたっと身体の力を抜き、ミノリに覆い被さる。そして、再び「……ごめん」と短く謝罪した。
 
 
 ところが、この程度で収まる発情ではなかった。
 およそ一年のあいだ求め続けた女性の、理性を狂わす香りに包まれて一時休息したクラウスは、再びその体躯に熱を取り戻す。ふう、と息を吐いて上体を起こすと、ぐったり仰向けに寝転がるミノリの顔を上から見下ろした。
「それじゃ、続きをしようか」
 ぱちぱちと目を瞬かせるミノリ。
「えっ……あの、もう、終わりじゃ……?」
「ない」
 クラウスはそう答え、ころんとミノリを俯せに寝転がした。
「あっ、あの……できれば、もうちょっと休ませて……」
 しかし相手は聞く耳を持たず、黙って彼女の腰を持ち上げ、尻を突き出させる。そして、言葉通り「続き」を始めた。
「んんっ……!!」
 またも秘所に指を捻じ込まれ――それも、一気に四本も――ミノリは口を閉じたまま、くぐもった声を上げた。決して乱暴ではなかったものの、彼の攻めは無遠慮だった。太い指先が、ミノリの意思などお構いなしに、疲れた身体に快楽を刻み込んでいく。そして指だけで、あっという間に二度目の絶頂へと導いてしまった。
「あ……あぁ……っ!!」
 一度目より、高い声が響く。クラウスは満足げに息を吐くと、彼女の背中を包み込むように抱きつつ耳たぶへ唇を寄せた。
「……好きだよ、ミノリ」
 蠱惑的に囁かれた言葉と声、そして彼の髪から香る甘い芳香に、ミノリの脳が甘く痺れる。下半身はよりいっそう切なさを増し、初めて「この人が欲しい」と思った。
「……わたし、も……」
 熱に浮かされるまま囁けば、クラウスがミノリの後ろ首を甘噛みする。ピリリと痛みが走ったが、今度はその痛みを心地良く感じた。
「っあ……ん」
 堪らず、声を漏らす。避妊具を付け直したクラウスは、今まさに花開き始めた彼女の花弁の隙間へ、するりと侵入した。そして再び荒々しく、しかし敏感になった肉壁を的確に刺激しつつ、腰を振る。
「ああぁ……! ふっ……っあ……! あぁ……あ!」
 よもや悲鳴にも似たその喘ぎ声に興奮しつつ、クラウスは更に鳴かせてやろうと、ミノリの突起物を指先で摘まみ、きゅっと捻った。
「いっ……ああぁあっ……!!」
 指を三本に増やし、今度は優しく上下に扱く。
「いやっ……あ……あぁあ……! も……っ、やめっ……ああぁぁっっ!!」
 髪を振り乱し、イヤイヤと首を横に振るミノリ。そんな悲痛な叫びも完全に無視し、クラウスが一方的に彼女を追い詰めていくと、とうとう彼女は「中で」三度目の絶頂を迎えた。しかしクラウスは、どちらを責める動きも止めない。
「や……ぁん……、も……許して……っあ……」
 顔は見えないが泣き出してしまったようで、ミノリは、ずっ、と鼻啜りを挟みつつ懇願する。
「気持ちいいか?」
 決して自身も余裕とは言えないクラウスが訪ねるが、ミノリは黙って首を横に振った。
「……そうか。それじゃ、もっと快くしてやらないとな」
「や……やだっ……あぁ……も……やめ……ああぁっ……!」
 すると、今度は彼女の突起物から、白い液体が少量ながら迸り出た。ぶるっと身を震わせ、「あぁ……あ……」と力ない声が口端から漏れる。徐々に叫ぶ力をも削られているようだった。
 クラウスは、追って二度目の高みに到達したことで、ようやく動きを止める。ミノリの中から分身を引き抜き、彼女の身体を解放してやった。
 
 
 桜色に色付いた身体から、愛液に濡れて淫靡に変化した香気が立ち上る。しどけない姿で胸を上下させつつ「はあ、はあ」と浅い呼吸を繰り返す様を、クラウスは堪らなく可愛らしく、愛おしく感じた。
「……好きだ」
 乱れた髪をそっと梳きながら、クラウスが呟く。返事は返ってこない。それでも、構わなかった。
「ミノリ……他の誰にも渡したくない」
 視線は虚ろでも一応聞いてはいるのか、こくんと頷くミノリ。彼女は手近なところにあったクラウスの手へ、そろりと手を伸ばし、骨ばった人差し指を赤ん坊のようにきゅっと握る。
 クラウスもごろんと横になり、彼女に体を添わせた。
 見つめ合い、彼が微笑みかけると、ミノリは耳まで真っ赤になって、厚い胸板に顔を押し付ける。そして、すぅー、と深く息を吸い、深く吐き出した。
「……いいにおい……」
 ぽつりと囁かれた言葉に、クラウスは彼女の頭を、無言でポンポンと叩く。
(お前からも、気が狂いそうなほど甘い香りがするよ)
 心の内で、そう答えた。そして、未だ彼女のフェロモンに酔ってぼんやりした頭のまま、欲求に任せ、細い首筋に何度目かの甘噛みを仕掛ける。
 すると意外にも、ミノリが気だるげに顔を上げ、僅かに上半身を起こして、仕返しとばかりにクラウスの首元へ軽く噛み付いた。背筋にぞくりと走る、快感の波。クラウスは、ごくりと生唾を飲む。
「……もっと、強く噛んでくれてもいいんだぞ?」
 掠れた声で言ってみると、ミノリは驚いた様子で、眠そうな目を見開く。
「あの……それって……」
 戸惑いを隠さない彼女に、クラウスは優しく微笑んで見せた。
「冗談だ。……いや、本音ではあるんだが……、そこまでは要求しない」
 こうして体を重ねられただけで十分だと、彼はミノリの右手をとって、中指に軽くキスする。
 しかし、それが強がりであることは、ミノリにも解った。なぜなら、彼女も同じ気持ちでいたからだ。
 ミノリは今一度身を乗り出すと、先ほどより強く――ただし、牙は穿たずに――クラウスのうなじを噛んでみる。顔を上げ、彼の瞳を覗き込み、切なげな表情で小首を傾げて、相手の反応を待った。
 今度は、クラウスが目を丸くする番だった。
「……いいのか?」
 黙って、こくんと頷くミノリ。
「本当に? 一生のことなんだぞ?」
「……はい。だって……」
 彼女はそこで一旦言葉を切り、かあっと赤くなった。そして、すぐにこう続ける。
「もし、つがいになったら……ずっと、今までみたいに構ってくれるんですよね……?」
 しかしクラウスは、フフッと笑いながら「いや、」とそれを否定した。
「『今まで以上に』だな」
 ミノリは心底嬉しそうに微笑むと、申し訳なさげに眉尻を下げた後、小さく息を吸ってから、クラウスの後ろ首に白い牙を立てた。
 
 

09 つがい

 
 
 クラウスは、カーテンの隙間から差し込んだ朝日の眩しさで目を覚ました。
 うーん、と唸りつつようやっと起こした上体は、限りなく重い。体中に疲労が残っているようだ。間抜けにも「何故だろう」などと考えている内に、徐々に頭が覚醒してくる。そして、ハッと思い出した。
(そうだ、ミノリは……!?)
 ベッドの上を見回しても、そこに彼女はいない。ならば隣室か、とそちらへ目を向けても見当たらず、洗面所や浴室を使っている気配もなかった。呆気にとられるクラウス。
(まさか、昨日の出来事が全て夢だった、なんてことは……)
 しかし、すぐに「それはないか」と苦笑する。いつもと違って裸で目覚めた上、シーツには彼女の移り香がしっかりと残っていたからだ。
 そして、もう一つ思い出したことがあった。
 彼は急いでベッドから降り、洗面所へ向かうと、鏡で自身の背中を確認する。そこには、小さな歯形がくっきりと刻まれていた。クラウスの口元が、思わず緩んだ。
 本来ならあと2~3日は続いているはずの発情も全く無く、快適そのものだった。
 シャワーを浴びて着替え、ベッドシーツを洗濯機へ放り込み、窓を開けてから注意深く屋内を見回せば、玄関扉脇の電話台の上に、ミノリの残したメモを見つける。牧場仕事があるため、陽が昇る前に帰る旨と、夕方頃また訪問する旨が、簡潔に書かれていた。浮かれきったクラウスは思わずそのメモに口付けしそうになったが、誰も見ていないとは言え恥ずかしくなり、やめておいた。
 
 
 その頃。ミノリは日課のひと仕事を終え、自身の牧場のベンチで、しばしくつろいでいるところだった。足元では小型犬と大型犬が、仲良くじゃれ合っている。それを微笑ましげにひとしきり眺めた後、ミノリは「うーん」と大きく伸びをしようとして、組んだ両掌を空中に突き出した。瞬間、「いたた……」と呟きながら、包帯が巻かれたうなじをさする。
 マリアンの了見では、歯形が消え、痛みが完全になくなるまでには、およそひと月ほどかかるだろうとのことだった。また牙歯による傷は、一生、痕が残る可能性が高いらしい。ミノリ自身はそのことをあまり気に病んでいなかったが、昨日、特別な関係を結んだばかりのパートナー――クラウスがそれを聞いたら、ショックを受けるに違いない。ミノリは、彼の親友でもある医師から、いずれそれとなく伝えてくれるよう頼んでおこうと決めた。
(それにしても、『つがい』かあ……)
 自宅に帰ってからは、あまりに変わらない日常を過ごしているせいで、何やら実感が沸かない。昨日昼間の騒動からの一連の出来事が、まるで夢であったかのようだ。
 義務教育で習う保健体育の知識によると、つがいができたα性に起こる変化は「他のΩ性の発情に誘引されなくなる」というだけで、他に何の身体的変化もないそうだから、そう思うのも無理のないことなのだろう。しかし、立ち上がって歩き出せば、秘部の奥に僅かながら異物感を覚える。その場所自体が「彼のもの」なのだと主張しているようだった。
 何やら卑猥に感じて恥ずかしくて、ミノリは顔を真っ赤に上気させた。
 
 
 
 こうして、お互いに普段と変わらぬ日常を過ごした二人。しかし約束の夕刻がやってくると、ようやく、昨日の全てが夢ではなかったのだと思い知る。クラウスの家の玄関先で顔を合わせた彼らは、まるで初対面の時のように、互いが発する微弱な香りに反応して、一瞬で鼓動を早めた。
「あっ……あの、こんばんは」
「ああ。……よく来たな」
 このつがいが恋人らしく自然に振舞えるようになるのは、もう少し先の話である。
 
 

10 エピローグ

 
 
 季節は巡り、ミノリが牧場経営を始めてから三年目の春がやってきた。
「わたしね、クラウスに黙ってたことがあるんです」
 間仕切りされたギルドの休憩所にて、全身鏡を前にしたミノリが語る。「何だ?」と不思議そうな声が頭上の花冠に振ってくれば、彼女は淡く色付いた唇から、フフッと笑いを溢した。
「わたしがΩ性だって黙ってたの、本当は、クラウスにα性だって知られちゃったら、もう相手にしてもらえないんじゃないか、って思ったからなんです」
 そう言って、純白のドレスに身を包んだミノリは、傍らに立つ「夫」であり「つがい」でもある相手を見上げる。黒いモーニングを着こなす彼は「見当違いだったな」と笑った。
「あんなのはただの建前で、理由なんぞ何でもいいから、お前を構いたかっただけだ。理由もなく付き纏ったら、ストーカーのオッサンになっちまうだろう?」
 可笑しそうに「オッサンは余計です」と笑うミノリ。そんな彼女を愛おしげに見下ろしていたクラウスは、ふと顎に手をやり、首を捻る。
「……『運命のつがい』というのは、本当にあると思うか?」
 すると、ミノリも笑いを止め、小首を傾げた。
「どうでしょう……?」
 そして、難しい顔で「うーん」と唸り。
「知り合いにそういう人もいないし、都市伝説だと思ってました。……でも」
 ミノリはウェディング・グローブをはめた手で、クラウスの手を握る。
「わたしは、クラウスが『そう』なんじゃないかと思ってます」
 滑らかな絹の感触のその手を、クラウスは自分の胸の高さまで持ち上げ、自分も前屈みになり、そっとキスを落とした。
「奇遇だな。オレもだ」