【クラミノR-18】樫の下に君の影 -夫婦編-

「牧場物語 つながる新天地」の準プレイ日記的な妄想クラミノ小説。
二次設定多め、一部R-18、基本的にいちゃこらしてるだけです。
ハピカブ合わせで発行した同人誌の中身(全部)です。

自家通販にて同人誌版を頒布しております。
【クラミノR-18】樫の下に君の影 -夫婦編-

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一話 働き者の奥さん

 
 
「エヘヘ。見てください、この指輪。いいでしょう?」
 ミノリは緩みきった顔で、薬指にはめられた結婚指輪をかざした。
「とうとう、結婚しちゃったんですよ。これからは、クラウスもあなたたちの家族なんですよ」
 ハナコが、モ~、と鳴く。
「そうですよね。カッコよくて優しい家族ができて、ハナコも嬉しいですよね。よしよし」
 ミノリは心底幸せそうに、ハナコの背を撫でた。
さて、小動物小屋へも報告に行こうか―そう思って振り返った矢先、動物小屋の入り口付近に立っていた長身の男性と目が合う。
 予想外の出来事に、ぱちぱちと瞳を瞬かせるミノリ。数秒の間を置いて、その顔は真っ赤に上気した。
「いっ……いつからそこに……?」
「『見てください、この指輪』のくだりからだな」
 俯いて硬直する可愛い妻を、クラウスはニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべて眺めている。
「見なかったことにしてください……」
 やっと絞り出された声に、クラウスは残酷にも首を横に振った。
「で、誰が『カッコよくて優しい』だって?」
「……っ」
 ミノリは一つ恨めしげな視線をクラウスへ送ると、足早に彼の脇を通り過ぎて、隣の小屋へと駆けていった。
 
 
 一緒に暮らし始めてみて、クラウスは改めてミノリの働き振りに感服させられていた。午前は畑仕事と家畜の世話、午後は出荷、空いた時間は資材集めと工房品の作成。夕食後は夫婦でゆっくり過ごす時間を作ってくれてはいたものの、それまでの間、彼の妻はとにかく忙しく立ち働いていた。
 ここまで何でも一人でできてしまうのでは、確かに、人を頼ろうなどという気も失せるのだろう。食事当番だけは頻繁に任せて貰えるのが、せめてもの救いだ。
(自分が情けなく思えてくるな……)
 クラウスは結婚後一週目にしてさっそく、夫としての自信を失い始めていた。窓際に立ち、ぼんやりと外を眺めながら、曇った表情で深い溜息を吐く。
そんな物憂げな夫の様子を、ミノリは見逃さなかった。つんつんとクラウスの袖を引き、心配そうに彼の顔を覗き込む。
「どうしたんですか? クラウス」
「いや……」
 彼は「何でもない」と言いかけて、それでは余計に心配をかけてしまうと思い直した。慌てて当たり障りのない回答を考える。
「雨が降りそうだ、と思ってな」
 平然と嘘を吐いた彼に、ミノリは怪訝な目を向けた。そして、ツンと口を尖らせる。
「……嘘、ですよね?」
 ギクリとするクラウス。何故分かったんだ、と心の中で問うたが、まるでその声が聞こえたかのように、ミノリは拗ねた調子で宣う。
「分かりますよ。だってクラウス、今、答えを考えたでしょう?」
 間を読んだのか、とクラウスは納得した。本当に、意外なところで鋭い子だ。未だ黙ったまま気まずい顔をしているクラウスに対し、ミノリはしゅんと瞳を伏せて彼の袖口を握り締める。
「言いたくないことなら、無理に聞きません。でも……嘘を吐かれるのは、イヤです」
 彼女の優しい言葉に、クラウスの胸は罪悪感でいっぱいになった。その重みに耐えきれず、本音が口を衝いて出る。
「……情けない、と思ったんだ。一生懸命働いてるお前を見ていると、オレはどうだろう……なんて、つい考えちまう」
 苦々しく吐き出した彼を真剣な表情で見上げ、ミノリは静かに首を横に振った。
「わたしは、……分からないだけなんです」
 ミノリは切なげな表情で、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「牧場仕事が好きで好きでたまらなくて、やりたいことがいっぱいあるんです。でも、だから、どこまでやったらいいのか、分からないんです」
 胸に込み上げる苦しさを和らげたくて、ミノリはきゅっとクラウスに抱きついた。
「クラウスを見てると、とっても勉強になるんですよ。ああ、こういうふうに働けばいいんだ、って。それに、わたしが働きすぎたら、クラウスが止めてくれるでしょう?」
 彼女の言葉に、クラウスの心がふっと軽くなる。
普段はあまり愛情表現を見せないミノリだが、ここぞという時には、こうしてとっておきの一言をくれるのだ。頬を赤らめる様がいじらしく、愛しくて愛しくて堪らない。
 クラウスは、感情のままにミノリを抱き締め返した。
「だから、わたしと比べたりしないでください。でないと、わたし、働き過ぎで倒れちゃいますから」
 ああ、と短く答え、クラウスは妻の頭頂にキスを落とす。そして、彼女の髪を優しく梳いた。
(オレは、ミノリのこういうところに惚れたんだな……)
 単に自分を必要としてくれるだけでなく、敬意のこもった彼女の言葉や眼差しは、自信を与えてくれる。自然と「この子のために何かしてやりたい」という気持ちにさせられるのだ。
「……嘘を吐いて悪かった」
 素直に謝ると、ミノリはクラウスから体を離し、「次はナシ、ですよ?」と釘を刺してふわりと微笑む。
 クラウスも、フッと微笑み返した。
 
 

二話 スポブラ卒業

 
 
 身を守るものは下着だけというあられもない姿で、恥ずかしそうに頬を染めるミノリ。そんな妻を眼下に眺めながら、クラウスはふと冷静になった。そして頭に浮かんだ言葉を、つい、ぽろりと溢してしまう。
「……スポブラか」
 しかも、ベージュの。
 ミノリはクラウスへ、切なげに潤む非難の眼差しを向けた。
「それ、今、言うことですか……?」
 
 
 我ながら、馬鹿なことをしてしまったものだと思う。
「……悪かったよ。機嫌を直してくれ」
 ベッドに横たわったクラウスは、寝間着をかぶって不貞寝してしまった妻の背中を抱き、その耳元で懇願するように囁いた。しかしミノリは、だんまりを決め込んだまま。
 うっかりあんなことを口走ってしまったのは、ここ最近、新婚気分で頭が緩んでいたせいだ。どんなにつまらない本音をこぼしても、少しばかり意地悪をしても、ミノリはいつも笑って許してくれるので、いい気になっていた。
「ミノリ……頼むから」
 何度目かの謝罪で、ミノリはようやくがばっと起き上がり、寝転がるクラウスを見下ろした。
「……スポブラじゃ、ダメですか?」
 口を尖らせ、夫から僅かに目を反らして訊く。その頬には、ほんのり紅が差していた。可愛らしい表情と仕草に男の本能を刺激され、クラウスの心臓はドクンと脈打ったが、ここで衝動に任せては元の木阿弥。彼は「ふう」と小さく息を吐き、理性を呼び戻した。
「駄目ってことはないが……何か、スポブラでないといけない理由でもあるのか?」
 訊き返せば、ミノリは気まずい様子でぽつぽつと語り出す。
「だ……だって、考えたこともなかったから……。ずっと、これだったし……。動きやすいですし……。他の下着は、高いし……」
 その言葉に、クラウスはふと良案を思いつき、高揚した。
「なら、オレが買ってやろう」
 ニコニコ顔で申し出た夫へ、しかしミノリは、ぶんぶん頭を振って断りを入れる。
「いっ……いいですよ。自分で買えます」
「遠慮するな。オレの可愛い奥さんに、結婚祝いのプレゼントだ」
 身を起こしたクラウスは妻の脇に手を差し込んで、ふわりと彼女を抱き寄せた。ミノリは照れて俯き、きゅっと唇を引き結ぶ。
「……それなら……いただきます……けど」
 ボソリとそう応え、軽く身じろいでクラウスの腕を解くと、スリッパを履いてパタパタとテレビ脇へ駆けていった。再びベッドへ戻ってきた彼女の手には、一冊の通販カタログがあった。
ミノリは慣れた手つきで、ぱらりと下着特集のページを開く。
「……下着や雑貨みたいな自分で作れないものは、これで頼んでるんですよ」
 指さした先には、カタログ中最安値の下着が。ああ、なるほどな、とクラウスは納得する。
「これ以外、って言われても……クラウスは、どれがいいですか?」
「お前の好きなのを頼んだらいい」
 自分が選びたい気持ちも多少あったが、クラウスはぐっと呑み込んだ。ミノリは困った様子で「うーん」と唸る。そうして前後二、三ページを何度か往復した後、そろりと商品の一つを指示した。
「これ、とか……どうでしょう?」
 指先には、薄水色が清楚な印象を与える、レースの花柄の可愛らしい下着。何だ、ちゃんと選べるじゃないか、とクラウスの口元が緩む。
「いいんじゃないか? ……揃いのスリップもあるみたいだな。一緒に頼むか」
「いいですよっ。だって、これ、上下と同じ値段しますよ?」
「構わないさ。ミノリが着て見せてくれればな」
 途端に、ミノリは真っ赤になって面を伏せる。相変わらず初心で可愛いなと思いながら、クラウスはその頭を優しく撫でた。
 
 
 結局、替えとして二着の下着を追加し、注文書は郵送された。ミノリははにかんで「ありがとうございます」と言ったが、礼を言いたいのはむしろクラウスの方だった。
 三日後、届いた箱をテーブルの上に置き、クラウスは逸る心をようやっと落ち着けて、妻の帰りを待つ。十九時を回った頃、ガチャリと玄関扉が開いた。
「ただいま、クラウス」
 ミノリは、ソファに座って本を読んでいたクラウスに、ふわりと微笑みかける。
「シャワー、浴びてきますね」
「ミノリ、ちょっと待った」
 帰るなり足早に浴室へ向かおうとした彼女を、クラウスが呼び止めた。
「通販で頼んだものが届いたぞ。テーブルの上だ」
 本人は何気なさを装ったつもりでいたが、その声は心なしか弾んでいる。ミノリはそんな夫の下心を見抜いて怪訝な顔をしたが、じわじわ込み上げる嬉しさの方が勝って、口元を弛めた。テーブルへ歩み寄ると、無言で手際よく箱を開ける。
「わあっ……かわいい」
 中身を取り出した瞬間、思わず感嘆の声が唇から溢れ落ちた。その反応を見て、クラウスは満足げに目を細める。
 今日はどれを着てみようかと少し迷った後、ミノリは一番気に入った、薄水色の下着とスリップを選んだ。器用にタグを外すと、それらと部屋着を小脇に抱え、早々に浴室へ消えていった。
 クラウスは立ち上がり、普段通り夕食の準備に取りかかる。しかし、そわそわと落ち着かない。ピンク色の妄想に取り憑かれている己を自覚し、まるで若造だと自嘲する。
 ミノリがシャワーを浴び終える頃には、すっかり食事の用意が調っていた。普段着ている部屋着の下に真新しい下着一式を装着したミノリは、いつもと違う締め付け感に微かに頬を赤らめてもじもじしていたが、テーブルに着けば食欲が勝る。下着のことなどすっかり忘れ、幸せそうに夕食を平らげた。
 他愛のない一日の出来事を語り合いながら食休みを済ませた二人は、すぐさま「そんな雰囲気」になる。無理もない、一方は、今日初めて「スポブラ以外」の下着を着けて浮き足立っている新妻で、もう一方は、それを見たいと渇望してやまない新婚ホヤホヤの夫なのだから。
「……ミノリ」
 名前を呼ばれ、ミノリはビクンと肩を震わせる。
「なんでしょう?」
 クラウスの言いたいことは聞かずとも分かっていたが、素知らぬ風で尋ねた。クラウスはカタンと椅子を引いて席を立つと、ミノリの背後に回り、彼女の髪をさらりと梳く。
「そろそろ、お前の可愛い下着姿が見たいんだが……」
 頭上から降ってきた色っぽい声に、ミノリの背筋がぞわりと反応する。ミノリはそっと立ち上がるとクラウスに向き合い、胸元できゅっと掌を握り締めて「どうぞ」と小さく呟いた。
「プレゼントの『お礼』に、自分で脱いで見せて欲しいな」
 ミノリは、真っ赤になって俯く。そして「ああ、まただ」と思った。クラウスはたまに、「お礼」だの「お仕置き」だの、ミノリの苦手な単語を持ち出しては、恥ずかしいことをさせる。しかし夫があまりに嬉しそうなので、強く拒否できない若妻がいた。
 恥ずかしさと情けなさとで、じわりと目に涙を滲ませながら、ミノリはワンピース型の部屋着の裾をそろりとたくし上げた。
 
 
 クラウスは妻をベッドに横たえ、彼女の首筋にキスを落としながら、耳元で優しく囁く。
「ミノリ。……可愛いよ」
 褒められることに慣れていないミノリは、それだけで真っ赤になってふるふると首を横に振った。
「謙遜することはない。白い肌が透けて見えて、綺麗だ」
 クラウスはスリップの上から、彼女の脇腹を、すう、と撫でる。その繊細な刺激に、ミノリの背筋はぞくぞくと震えた。クラウスはフッと笑って、更に耳元へ口を近付ける。
「ミノリ、顔が真っ赤だぞ? 恥ずかしいのか?」
 息がかかって、くすぐったい。ミノリは顔を背けたが、クラウスの唇が逃げる耳を追い掛ける。同時に、大きな手が布越しに胸を這った。
 畳みかけるように、艶やかな低音がミノリの聴覚を襲う。
「……ミノリは敏感だな。少し触れられたくらいで、もう涙目になってるのか」
「ちが……」
 しかし、クラウスは二の句を継がせない。下ろしたてのブラジャーを少しずらすと、ぷっくりと膨らんだミノリの胸の先端を、爪の先でちょんと弾く。「んっ」と声を漏らし、ミノリの体がビクンと大きく震えた。
「ほら、やっぱり敏感じゃないか」
 少し顔を離して見下ろしてくるクラウスに、ミノリは抗議の眼差しを向ける。が、赤くなった頬と潤んだ瞳が、彼を喜ばせただけだった。
「……今日のクラウス、意地悪です」
 尖った唇から溢れたその言葉に、クラウスは心外だと言わんばかりの表情で応じる。
「オレは、褒めてるつもりなんだが」
「……褒めなくて、いいです」
 ミノリは、拗ねたようにふいっと真横を向いた。が、クラウスは再び彼女の耳元に顔を近付け、わざと熱い息をかけながら囁く。
「可愛いミノリを前にして、それは無理な話だ」
 クラウスの手が、さわさわと腰を撫でた。ミノリはくすぐったさに耐えようと、きゅっと目を瞑る。
 不意に、クラウスの手がミノリのショーツを捉えた。ミノリは慌ててその手を止めようとするが、叶わず。彼の指先が、布の中心に谷を作るように、ミノリの女性の部分をなぞった。
 薄水色の滑らかな生地に、透明な液体がじわりと滲む。
「ミノリは水色が似合うな。ここもこんなに塗らして、艶っぽい」
 ミノリは聞くに堪えず耳を塞ごうとするが、その手首をクラウスがしっかりと捉えて、シーツに縫い止めた。彼の反対側の手は、布越しにミノリの湿ったそこを、ゆっくりと、焦らすように往復する。ミノリは微かな嬌声を漏らしながら身じろいだが、逃がしてはもらえなかった。
「もうすっかり、大人の女性だな。綺麗だよ、ミノリ」
 賞賛がこんなにも苦しいものだとは、知らなかった。痛いほど脈打つ胸の鼓動に耐えきれず、上気したミノリの頬を、一粒の涙が伝う。それを見たクラウスは、ぎくりとした。
(やり過ぎちまったか……)
 僅かな罪悪感と焦りを抱き、ミノリの唇を優しく塞ぐ。こうしてしまえば、キスに弱いミノリはもう何も考えられない。可愛らしい口端から甘い声を漏らし、柔らかな舌でクラウスを求めた。
 クラウスはミノリの舌を弄びながら、酷い大人だと自嘲する。自嘲しつつも、するりとミノリのショーツを引き下ろした。温かい蜜が溢れるそこへ指を差し入れ、手前奥を何度か擦ってやれば、「オレのミノリ」の完成である。
 体を離して見下ろすと、ミノリは恍惚とした表情でクラウスを仰いでいる。「早くちょうだい」と言わんばかりに、ミノリはクラウスの首元へ華奢な両腕を伸ばした。その懇願を受け入れ、クラウスは準備が調ったミノリの中へ、一気に男性を突き立てる。
 ミノリは高い声を上げ、びくん、と体を仰け反らせた。
 体を重ねる毎に自制の利かなくなっているクラウスは、本能に任せて腰を振る。年相応の体力から、それほど激しい運動にはならないが、彼の動きはミノリの最も敏感な部分を確実に捉え、頭がおかしくなりそうな快感を与えた。
「クラウスっ……やあっ……たすけ……っ」
 ミノリは荒い息を吐きながら叫ぶように救いを求めるが、享楽の沼に落としたのは他でもない、折り重なるその男である。溺れもがくミノリの味を楽しんでいる張本人が引き上げてやるはずもなく、クラウスはせめて早く逝かせてやろうと、より深く自身を突き立てた。
 クラウスの首に回された手に、ぐっと力が入る。同時に、奥に引きずり込まれるような感覚が下半身を襲った。その刺激を待ち侘びていたかのように、クラウスはミノリの中へ、ドクドクと己の欲を注ぎ込む。
 静かな部屋に、混じり合った二人の吐息だけが、明確な音として留まり続けていた。
 
 
 
 翌日、クラウスは疲れが残っているのを自覚し、早めに仕事を切り上げて帰宅した。ガチャリと玄関扉を開けば、そこには珍しくミノリの姿が。
「ただいま」
 何気なく声をかけると、箪笥を整理していたミノリは、びくんと肩を震わせる。
「あっ……クラウス、おかえりなさい」
 彼女は慌てて笑顔を取り繕い、ガタンと箪笥の引き出しを閉めると、後ろ手に何かを隠した。
(これは、何かあるな)
 クラウスは、ミノリに詰め寄る。
「今、何か隠したか?」
「い……いえ、大したものじゃないんです」
 ミノリは、目ざとい旦那様の脇をすり抜けて逃げようとした。しかし、そうはさせまいと、クラウスはミノリが後ろ手に持っていた紙袋を、さっと取り上げた。
「あ……」
 ミノリが抗議する間もなく、クラウスはガサガサと無遠慮に袋の中身を覗く。そこに入っていたのは、五着のスポブラと、揃いのショーツだった。
「なんだ、前の下着じゃないか」
 クラウスは興を削がれた様子で呟いたが、対するミノリは真っ赤になって恥ずかしそうに俯いている。
「隠す必要があったのか?」
 袋を返しながら問うと、ミノリはふるふると首を横に振ったものの、その決まり悪そうな態度がクラウスの気に掛かった。「なら、何故隠した」と更に問い詰めれば、ミノリは観念したように白状する。
「……捨てようと、思いまして」
「ん?」
「だ、だから! スポブラは、もうやめようと思いまして……」
 その答えにクラウスは、数秒置いて、思わずククッと笑いを漏らした。
 
 

三話 ミドルノート

 
 
 ミノリが自宅の玄関扉を開いたのは、すっかり日も落ちた頃だった。
「ただいま、クラウス」
 ふわりと微笑んで挨拶すれば、夕食の下拵えをしていた夫が穏やかな表情で彼女を迎える。
「おかえり、ミノリ」
 しかし、普段通りとも思える彼の笑顔と声の調子に、この日ミノリは、微かな違和感を覚えた。
(あれ、なんだか元気がない……?)
 懸念を隠そうともせず、心配そうな顔でじっと彼を見つめる。さっそくバレたか、とクラウスは内心で苦笑した。が、落ち込んでいる理由を話すことも憚られたので、無理矢理に話を逸らそうとする。
「今日は、何か変わったことはあったか?」
「……特になかったですよ。トマトがたくさん収穫できたことくらいです」
 夫の言動から、深入りされたくないのだと察したミノリは、少し寂しそうに微笑んで答えた。何気なく「そうか」と相槌を打つクラウス。そこで、会話は途切れた。
 トントンと包丁がまな板を叩く音が、室内に響く。今はそっとしておこうと決め、ミノリは「シャワーを浴びてきますね」と一声かけて浴室へ向かった。その背中を見送りながら、クラウスは何も聞かないミノリに感謝した。
 まな板の上の野菜を鍋に放り込みながら、彼は今日の出来事を振り返る。
 
 昼過ぎ、町外で大きな仕事のプレゼンテーションがあったのだが、仕事を勝ち取れなかったばかりか、顧客から「香りがイメージとかけ離れている」と厳しく指摘されてしまったのだった。テーマは、ざっくり言うと「二十代前半の女性をメインターゲットにした、切ない恋の香り」。
 ターゲットにしろイメージにしろ、元来苦手な分野ではあったものの、今回は特に顧客の反応が芳しくなかった。
 原因は何となく分かっている。今の自分の「恋」のイメージが、ミノリに固定されてしまっているためだ。普段から依頼品に個人的なイメージや嗜好を反映し過ぎないよう気を付けてはいたが、今回はどうもうまくいかなかった。
 仕事が取れないことなど珍しい話でもないのに、ここまで落ち込んでいるのは、それだけ自信のある調香だったからなのかもしれない。
 
 そうこう考えている内に、バタン、と浴室の扉が閉まる音が聞こえ、ミノリが鼻歌を歌いながら居間に戻ってきた。
「さっぱりしました」
 機嫌良さげに呟き、ミノリはタタタッとキッチンへ駆け寄る。クラウスの嗅覚が、ほろ苦く爽やかな花木の香りと、そこに混じった、瑞々しい柑橘類を想起させる、ミノリの肌の甘酸っぱい匂いを敏感に捉えた。
「わあ、今日はロールキャベツですか。おいしそうですね」
「ああ。気合いを入れて作ったからな」
 上の空で調理していた、などとは口が裂けても言えなかった。
 
 
 夕食を食べ終えると、ミノリは言葉少なに本棚へ向かった。その気遣いをありがたく思いながら、クラウスも仕事鞄から本を一冊取り出す―と。
 今日のプレゼンで使った茶色の小瓶が、ころころと床を転がった。彼は慌てて後を追い、拾い上げる。
 そして、ふと思い立った。
「……ミノリ」
 名前を呼べば、今晩読む本を選んでいたミノリが「なんでしょう?」と振り返る。心なしか、ほっとした表情で。クラウスは愛しい妻に心配をかけてしまったことを申し訳なく思いながら、つかつかと彼女に歩み寄ると、手にした小瓶をそっと差し出した。
「この香を嗅いでみてくれないか? ……感想を聞きたいんだが」
 ミノリは、ぱあっと瞳を輝かせ、心底嬉しそうに一つ頷いて、それを受け取る。蓋を軽く回し開けると、口天の上を小さな掌で煽り、すんすんと鼻を鳴らした。
「雨の日の、紫陽花畑みたい。なんだか、とってもきれいな香りです」
 ふう、と甘い溜息を吐き、幸せそうに述べたミノリへ、クラウスは満足げに頷いて見せる。少しの間を置いて、彼は意を決したように切り出した。
「この香のテーマが何か、分かるか?」
 想定外の質問に、ミノリは目を丸くする。そして、困惑顔でクラウスを見上げた。
「……ええと……当てずっぽうでも、いいんですか?」
「ああ」
 クラウスが穏やかに微笑んで頷くと、ミノリは目を伏せ、「んー……」と唸り始める。答えを待つ間、期待と不安が交錯し、クラウスの鼓動が僅かに早まった。
 真剣に悩むこと、およそ一分。ミノリは、静かに口を開く。
「クラウスの、気持ち……ですか? 最近じゃなくて……お付き合いしてた頃の」
 その答えに、クラウスは思わず目を見開く。そして、ククッと失笑し、終いには耐えきれずに腹を抱えて笑い出してしまった。
 ミノリは、困惑顔でおろおろする。
「え……ごめんなさい。わたし、何かおかしなこと言っちゃいました?」
 その様子がまた可笑しくて、可愛らしくて、さらに笑いが込み上げてきたが、クラウスはぐっと耐えて、どうにか呼吸を落ち着かせた。
「……いや、笑って悪かった。正解だよ。……ああ、正解だ。ミノリはすごいな」
 これはプレゼンを通らなかったわけだと、クラウスはスッキリした気分で納得した。
 
 

四話 愛情のかたち

 
 
 幸せそうに食後のデザートを食べるミノリを隣に見下ろしながら、クラウスはぼんやり考える。
(ミノリは、本当に無欲だ)
 結婚前はそれほど意識していなかったが、一緒に暮らし始めてから、彼女のストイック振りが日増しに気に掛かっていた。
牧場仕事による利益のほとんどが牧場仕事のために費やされ、娯楽らしい娯楽と言えば読書と散歩、たまにテレビを見る程度。家の中は、くつろぐのに必要最低限の家具だけが合理的に配置されているのみで、贅沢品の類はほとんどない。収集している服やアクセサリーでさえ、自分が身に着けるためのものではなく、出荷物のサンプルだと言っていた。
 朝から晩まで大好きな牧場仕事ができて、美味しい食事と晩酌、食後のデザート、そして何より、夫と過ごす時間。これだけあれば十分幸せだと笑顔で宣う彼女に、クラウスは僅かな懸念を抱いていた。
 何より不安なのは、クラウスに「多くを求めない」ことだった。彼から申し出れば受け入れはするが、ミノリのほうから「こうして欲しい」と頼まれたことなど、「子供扱いするな」と「一緒にいて欲しい」以外にはなかった。それは甘え下手を通り越して、菩薩の類ではと思われるほどだ。
 クラウスが何かを言い淀んでも、嘘さえ吐かなければ無理に聞き出そうとはしないし、落ち込んだ様子を見せれば、何も聞かずにそっとしておいてくれる。ミノリ以外の女性と立ち話をしていても態度を変えないし、クラウスが何をしていようが決して邪魔をしてこない。
(オレは、こんなにもミノリを「オレのもの」にしたくて堪らないのにな……)
 嫉妬、独占欲、征服欲、そして情欲。渦巻くそれらの欲望と日々格闘しながら生活している身としては、彼女が自分に対して抱いている感情を理解し難かった。
 
 
 そんな話を、クラウスが立ち話ついでにイリスにぼやき、ミノリの本心を聞き出して欲しいなどと頼んだのは、先日のこと。また面白そうなネタが飛び込んできたものだと、イリスはキラキラした瞳で、向かいに座るミノリを見つめていた。
「ミノリさんは、クラウスのこと、もっと知りたい、独占したいとは思わないのかしら?」
 ミノリは、きょとんとした顔をする。
「……思いますよ?」
 答えて、すす、と紅茶を啜った。当然と言えば当然の回答だが、それにしてはあっさりし過ぎている気がする。イリスは、小首を傾げた。
「クラウスが寂しがっていたわよ。ミノリさんが『深追いしてこない』って」
 その言に、ミノリはゴホッと咽せる。頬が、にわかに上気した。
「ふ、深追いって……。クラウス、そんなこと言ってました?」
 イリスが「ええ」と言うと、ミノリは面を伏せ、暫時考える素振りを見せる。そして、ぱっと顔を上げた。その表情―否、「無表情」に、イリスは驚く。
(あら、ミノリさんもこんな顔をするのね)
 ミノリは、口角だけを微かに上げた。
「イリスさん、教えてくださってありがとうございました」
 淡々と礼を言って静かに席を立ち、いつになく落ち着いた足取りで階段を降りていく。その後ろ姿を見送って、イリスは苦笑した。
(クラウスったら、地雷を踏んだわね。まあ、あの二人なら大丈夫だとは思うけれど……)
 
 
「ただいま、クラウス」
 帰るなり、ミノリは夫へふわりと微笑みかけた。クラウスも、いつもながら可愛いなと思いつつ、目を細めて彼女に応える。
「おかえり、ミノリ」
 ミノリは普段通り、帰ってすぐにシャワーを浴びると、夫の作った夕食を平らげ、ぽすっとソファに体を預けた。いつもと違うのは、本を手にしていないこと。その相違に全く気付かないクラウスは、何気なく自身の愛読書を開く。
「あのね、クラウス」
 ふと、ミノリが口を開いた。クラウスは、本から目を離さないまま問う。
「何だ?」
「今日ね、イリスさんのところでお茶してきたんですよ」
 イリス、という単語にぴくりと反応し、クラウスは顔を上げた。先日話した内容について、何か聞いてくれたのだろうかと期待する。
「それでね、わたしが深追いしないから、クラウスが寂しがってる、って聞きました」
「……そうか」
 言い方はともかく、事実ではあった。クラウスは若干の恥ずかしさを感じて微かに頬を赤らめながらも、ミノリの言葉の続きを待つ。
―が、ここにきてようやく、クラウスは気付いた。ミノリの目が、全く笑っていないことに。
 ミノリと出会ってから二年以上にもなるが、初めて見る表情だった。クラウスの背筋に、ゾクリと悪寒が走る。
「まず確認したいんですが、イリスさんの言ってたことは、本当ですか?」
 これは、まずい。クラウスは直感的にそう感じた。しかし、ここは正直に答えるしかない。
「……ああ」
 ミノリは「口元だけは」穏やかな微笑みを浮かべていたが、その声色は、怒っているそれとも、拗ねたそれとも異なる、どこか冷ややかなものだった。クラウスはミノリの心中が読めず、得体の知れない不安に苛まれながら、次の発言を待つことしかできなかった。
「なんで、それをイリスさんに話したんですか? わたしに、直接言えばよかったでしょう?」
「……それは、だな……話の流れで、つい……」
 クラウスはいたたまれなくなり、面を伏せた。言いしれぬ恐怖で、心臓がバクバクと脈打つ。
(これは、怒ってる……のか?)
 ミノリは、ふう、と溜息を吐いた。
「わたし今、すごく怒ってるんですよ。何でだか、分かりますか?」
 ああ、やはり怒っているのか。それが分かってほっとしたのも束の間、後半の問いに答えられず、クラウスは焦る。必死で回答を考え、口を開いた。
「……イリスに話したことか?」
「違います」
 即行で、ぴしゃりと否定される。ミノリは、「何も分かってませんね」とでも言いたげな視線をクラウスに向けた。
(何故、こんなことに……)
 クラウスは、イリスに話したことを痛烈に後悔した。が、それは見当違いだった。
「わたしが怒ってるのはね、クラウス。あなたが、ちゃんとわたしと向き合ってくれないからなんですよ」
 僅かに震える声で、ミノリは言う。クラウスは、ギクリとして顔を上げた。愛しい妻の頬を、涙がはらはらと伝っている。
「言いたくないなら言いたくないって、聞いて欲しいなら聞いて欲しいって、言ってください。それもせずに、しかも、人を通して、『解って欲しい』なんて言うのは……ズルいです」
 鋭いナイフのような陳情が、クラウスの心を抉る。
「いっつも、嘘ついたり、はぐらかしたり……そんなことしなくたって、クラウスのして欲しいようにするのに。わたし、本当に心配したんですよ? 訊きたくても、我慢したんですよ? それなのに、そんな……陰口みたいに……っ……うぅ……」
 ミノリは、声を上げて泣き出してしまった。
 自身の過去の言動を振り返り、全く言い訳できないことを悟ったクラウスは、ミノリへの罪悪感で押し潰されそうになる。何者からも守りたいと思っていた愛しい女性を、まさか自分の手で泣かせてしまうとは。クラウスの表情が、辛苦に歪んだ。
「……ミノリ……すまなかった」
 クラウスは、深く頭を垂れて謝罪した。しかし、ミノリはただただ泣き続けるばかり。彼女の嗚咽が、クラウスの胸に容赦なく突き刺さった。
 
 およそ二十分もの間泣き続けた後、ミノリはようやく落ち着きを取り戻した。永遠とも思えるようなその時間を、微動だにせず黙して耐えたクラウスは、タイミングを見計らい、再び謝罪する。
「オレが悪かった、ミノリ。……許してくれ」
 許されなくても仕方のないことをした、ということは解っていた。それでも、ミノリの愛情を失いたくない、何としてでも許してもらわなければと、決死の覚悟で頭を下げた。
 が、意外にも、返事はあっさりと返ってくる。
「はい。……許します」
「……え?」
 クラウスは、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。顔を上げれば、ミノリは泣きはらして赤くなった目を、決まり悪そうに反らしている。
「言いたいこと言って、泣いたら、スッキリしました。……どのみち、クラウスのこと、嫌いになんてなれないんです。だったら、許すしかないでしょう?」
 ミノリの少し拗ねたような声と、いじらしい言葉が、傷ついたクラウスの胸を温かく包み込んだ。
「いいのか? ……それで」
「……いいも何も……でも、また同じことをされたら、同じように怒るし、泣いちゃいますよ?」
 クラウスの目頭が、じわりと熱くなる。
―この子の愛情は、なんて真っ直ぐで、深いのだろう。
 クラウスは、愚かにも自身の愛情の抱き方と比較し、ミノリの気持ちを見失っていたことを、心の底から恥じた。
「……すまなかった」
「だから、もういいですって」
「いや、それじゃオレの気が済まない。何かして欲しいことがあれば言ってくれ。……頼むから」
 彼の必死な様相に、ミノリは幾分可哀想になり、何かないかと思案する。少し考えた上で、口を開いた。
「じゃあ……明日のお夕飯は、クリームパスタが食べたいです」
 
 

五話 夫婦飲み比べ対決

 
 
※飲み比べは、現実に行うと大変危険な行為です。よい子はもちろん、良い大人も、なるべく真似しないでくださいね。
 
 
「なあ、クラウスさん。ミノリとクラウスさんって、どっちが酒に強いんだ?」
 レーガの、そんな他愛のない一言から話は始まった。
 彼の質問に、クラウスは去年の夏の苦い経験を思い出したが、すぐさまその記憶を追い払う。
「さあな。そもそも、飲み比べたこともないからな」
―そうだ。「フェアな条件で」飲み比べをしたわけではないのだから、嘘は吐いていない。
クラウスは、そう自分に言い聞かせた。
 しかし、レーガの疑問は、兼ねてからクラウスも気になっていた事柄ではあった。ミノリ本人は「ワイン二瓶で寝てしまう」と言っていたが、確か昨年の冬に自宅で催された飲み会では、それ以上に呑んでいた覚えがある。
「じゃあさ、ウチで飲み比べなんてしてみないか? 盛り上がるぜ、きっと」
 誘惑するようにレーガが提案したが、酔ったミノリを見せ物にするなど言語道断と、クラウスは首を横に振った。
「オレは、ミノリの旦那だぞ? そんなもの承諾するわけがないだろう」
「あー……まあ、そうだよな」
 しかし、この時クラウスは、まさかレーガがミノリにも同じ話を持ちかけていたなどとは、思いもしなかったのだった。
 
 
 結論から言うと、「クラウス&ミノリ夫妻・飲み比べ対決」は決行されることになった。
 クラウスは、一昨日夜のミノリの、可愛らしく卑怯なおねだりを思い出し、小さく溜息を吐く。
(まさかベッドで、「飲み比べしてくれたら、ちゅーしてあげます」なんて言われるとは……)
 まんまと乗せられた自分も自分だが、ミノリもそれだけ必死だったのだろう。これはつい先刻知った話だが、何せ、ミノリが勝った暁には、マリアンから「クラウスの学生時代の写真」が贈呈されることになっていたのだから。自身の過去の遺物にそれだけ必死になる様は愛おしかったが、同時に、恨めしくも感じた。
「それじゃ、そろそろ始めまーす!」
 午後七時、レーガの明るい声がレストラン内に響く。飲み比べ対決の噂は娯楽の少ない町内ですぐに広まったらしく、「見物人は町の住民限定」とされていたものの、それなりの人数が集まっていた。
「まず始めに、ルールを説明するぜ。制限時間は十一時まで、ペースは自由。酒の種類はミノリの自家製ぶどうワインで、つまみは注文し放題。便宜上、勝ち負けは付けるけど、『どっちのほうが飲めるのか検証する』ってのが趣旨だから、楽しく飲んで、具合が悪くなる前に止めてくれよな。それじゃ、始め!」
 周りの目もあり、始めはガチガチに緊張していたミノリだったが、自身の性質を分かっているのか、とりあえずグラス三杯のワインを一気に飲み干した。対してクラウスは、今日こそはペースを乱されまいと、緩やかにグラスを傾ける。
 観客がいるとは言っても、それぞれが食事をしながらチラチラと見物している程度で、周りから煽られることはなかった。そのことにホッとしつつ、クラウスはミノリに小声で話しかける。
「やはり、お前のワインは美味いな」
 既に酔いが回り始めているミノリは、エヘヘ、と微笑む。
「そうでしょう? まだ五つ星の品質ではないですけど、そのブドウも、毎日肥料をやって、大切に育ててるんですよ。今はビニールハウスで栽培しているので、品質も落ちませんし。それに……」
 以下、延々とミノリの作物談義が始まった。聞き流しながらグラスを傾けるだけでいいので助かる、とクラウスは思った
―が、甘かった。
「ほら、クラウス。さっきから、お酒が進んでませんよ?」
 ミノリが、クラウスのグラスにワインを注ぎ足し始める。さっそく善意で潰しにかかってきたな、とクラウスは戦慄した。
「……ミノリ。今日は、お互い自分のペースで呑むって約束だろ?」
 ハハ、と笑いながら諫めても、ミノリは口を尖らせるだけで。
「わたしのワインが呑めないっていうんですか……?」
 潤んだ瞳で「まだ呑めるでしょう?」と問われ、クラウスは「そんなことはない」と答えることしかできなかった。その様子を、周りの客は楽しそうに眺めている。いたたまれない。
 二人で三瓶空けた頃には九時半を回っており、店は閉店となったが、自然と少人数での飲み会が始まっていた。参加者は、クラウスとミノリは勿論として、レーガ、ミステル、リーリエ、フリッツ、イリス、マリアン。
「二人とも、ホンっとイケるクチね~」
 感心したようにマリアンが言えば、ミノリは「エヘヘ」とはにかみ笑う。
「今のところ、クラウスさんが一瓶とちょっと、ミノリが二瓶弱ってところかな」
 審判のレーガが、アルコール度数の低いカクテルの入ったタンブラーを片手に実況した。
「ミノリ……大丈夫か?」
 クラウスが赤ら顔でミノリに問うたが、問われた方はけろっとしている。
「大丈夫ですよっ。まだ呑めます」
 その言葉通り、また新たな瓶を開封した。
「でも、そろそろペースを落とさないとダメですよね、眠くなって、寝ちゃうかもしれませんから。……クラウスこそ、大丈夫ですか? 顔が真っ赤ですよ?」
 心配そうに尋ねられたクラウスは、苦虫を噛みつぶしたような表情をする。自覚はしていたが、それを他ならぬミノリに指摘されると、かなり悔しい。底に残った深紅の液体をぐっと飲み干し、タンッ、と空のグラスを置く。
「オレも、まだまだいけるぞ。注いでくれ」
 勝ち目がないのを重々承知でつまらぬ虚勢を張ってしまったのは、酔いが深く回り始めていた所為だった。
 
「ねえ、せっかくこんな機会だから、二人のラブラブなお話が聞きたいなっ」
 ピーチフィズを片手に、ほろ酔いのリーリエが切り出した。これを皮切りに、周りも口々に「聞きたい聞きたい」と囃し立てる。
 クラウスは、やはりきたか、と身構えた。先手を打ち、渋面でボソリと釘を刺す。
「ミノリ、余計なことを言うんじゃないぞ」
 結婚式二次会、および去年の冬の飲み会での失言を思い返し、ミノリは真面目顔でこくりと頷いた。
「二人がイチャついてるところって、想像できないよな。手繋いでるのも見たことないし」
 レーガが誰にともなく洩らせば、ミステルも「そうですね」と同意する。
「以前外でお見かけした時も、お仕事の話しかされていない様子でした」
 そこに、フリッツの天然砲が炸裂した。
「夫婦なんだろ? チューとかしないのかよ!」
 ゴホッ、とワインで咽せるクラウス。隣に座るミノリも、一瞬で頬を真っ赤に染めて俯いた。新婚夫婦以外の一同は、これを待ってましたとばかりに顔を見合わせ、ニヤリと笑う。
「ミノリちゃ~ん、クラウスのキッス、上手だった~?」
 マリアンがミノリへ顔を寄せ、色っぽい声で追求すれば、クラウスが慌ててそれを止めようとする。
「馬鹿っ、やめろ!」
 ミノリは、ぱっと顔を上げると、無言のままぶんぶん首を横に振った。
「あ~ら、下手だって言われちゃったわヨ、クラウス」
 クスクスと笑うマリアンに、ミノリは大慌てで、弱々しく否定する。
「ち、ちがっ……」
 彼女の瞳は、恥ずかしさで潤んでいた。その愛くるしい表情を見たクラウスは、「そんな顔をするな」と言ってやりたい衝動に駆られたが、ぐっと呑み込んだ。
「も、もうっ。そういう質問はナシにしてくださいっ」
 拗ねたように言うと、ミノリはどさくさに紛れてマリアンのグラスにドバッとワインを注ぎ足した。ついでに、クラウスのグラスへも。イリスは自分のグラスを、さっとミノリから遠ざけた。
「ミノリばっかりに聞くのはズルいよな。クラウスさんはどうなんだよ。何か面白い話とかないのか?」
「あったとしても、お前らに話すことはない」
 酔いが回っているクラウスは、不機嫌を隠そうともせずに言い放つ。ふう、とミステルが涼しい顔で小さく溜息を吐いた。
「なら、仕方ありませんね。やはり、ミノリさんに話題を提供していただくしかありませんか」
 ビクリと肩を震わせるミノリに、ぎょっと目を剥くクラウス。レーガは、「ミステル、よくやった」と心の中で彼を褒め称えた。
 盛大に溜息を吐き、クラウスは観念したように面を伏せる。
「……分かった。何が聞きたい」
「そうだな……あ、そうだ。プロポーズのセリフって、聞いてないよな? 結局、はぐらかされたままだったし」
「……」
 クラウスは黙り込んだ。そんな愛しい夫に、ミノリが必死で助け船を出す。
「あ、あのっ。それは、二人だけの思い出にしたいので……その……聞かないでもらえると、嬉しいです」
 身を乗り出し、ミノリは濡れた瞳で上目遣いに懇願する。レーガの心臓が、ドキンと跳ねた。
「あ……ああ。ミノリがそこまで言うなら、仕方ないか」
 強力な女性の武器を目の当たりにしたリーリエは、「なるほど、参考にしよう」と思った。同じ頃、クラウスは「レーガめ、後で覚えてろよ」と物騒なことを考えていた。
「なら、話題を変えましょうか。フリッツ君、クラウスに対して、何か聞きたいことはないかしら?」
 イリスの発言に、ミステルがフッと微笑む。
(話を振る相手を解っていますね、姉さん)
 突然バトンを回されたフリッツは、難しい顔で少し考えた後、ぱっと明るい表情を浮かべて口を開いた。
「そういやさ、クラウスのおっさんって、ミノリとだいぶ年離れてるよな。気になんないのか?」
―卓の空気が、一瞬にして凍る。
「……気にならない、と言えば嘘になるが……」
 硬い表情で、クラウスが苦々しげに吐き出した。その言葉を耳にしたミノリは、突然、ガタンと立ち上がる。
「わたし、年の差なんて気にしたことないですよ!?」
 不意を突かれ、呆然とミノリを見上げる一同。
「クラウスのこと、大人だなあ、とは思ってますけど……初めから、年なんて関係なく、大好きでした。今だって……」
 言いかけて、ミノリははっとする。周りを見回せば、ニヤニヤしながら自分を見守る視線と、頭を抱えるクラウス。
「え……っと……ごめんなさい……」
 誰にともなく謝り、ミノリは顔から湯気を出しつつ、しおしおと椅子に戻った。
「聞いた? クラウス」
 イリスが、ニコリと笑ってクラウスを煽る。
「ミノリさんは、全然気にしていないそうよ?」
 クラウスは元々赤い顔を更に上気させ、ぐいっとグラスの中身を一気に仰いだ。
「……うるさい」
 普段はダンディで通っている男性の照れた様子を、外野は面白そうに見物する。まずいことを言ってしまったと察したミノリは、あわあわしながら空気を変えようと試みる―が、その努力は、負の方向にズレていた。
「あ、あのっ。と、とりあえず呑みましょう!? ほら、クラウスも、もう一杯。ね?」
 羞恥心と体内を巡るアルコールとで思考が正常に働いていなかったクラウスは、勧められるままにその一杯を飲み干してしまう。そして。
「……降参だ」
 ついに音を上げた。
 
「……ミノリ」
 擦れた低い声で名前を呼ばれ、ミノリは上擦った声で「はいっ」と答える。
「何でしょう?」
 クラウスは周囲の目など気にも留めず、愛しい妻の頭をくしゃりと掴み、鋭い双眸で彼女を射抜いた。
「どうだ? ……オレに勝った気分は」
「……」
 気まずい雰囲気の二人を、皆は固唾を呑んで見守る。―わくわくしながら。
 ミノリはクラウスを怒らせてしまったことに焦り、必死で二の句を探した。
「え、えっと……やっぱり、勝ちはクラウスに譲ります」
「それで、オレが喜ぶと思うか?」
「……」
 何やら雲行きが怪しくなってきたのを感じ、マリアンが茶々を入れる。
「クラウス、大人げないわよン?」
「……誰のせいでこうなったと思ってる」
 そう吐き捨てると、クラウスは突然、がばっとミノリを抱き締めて、その唇に噛み付くようにキスした。おおっ、と感嘆の声を上げる一同。紅潮して慌てふためくミノリ。
「……っ、これで満足だろ……っ。もう限界だ。帰るぞ、ミノリ」
 クラウスは勢いよく立ち上がったが、ふらりとよろめく。その体を、さっとミノリが支えた。
「あ、あのっ、クラウス。大丈夫ですか……?」
「大丈夫じゃない!」
 言い切って、ミノリの首に片腕を預ける。
「こうなったのも全部、お前のせいだ。……後で、お仕置きだからな」
 そんな彼をあせあせと支持しながら、ミノリは皆に向き直り、ぺこりと頭を下げる。
「すみませんっ。そういうわけなので、お先に失礼しますっ」
 ミノリは、「ほらクラウス、ちゃんと歩いて」などと囁きながら、クラウスを連れて店を出て行った。その後ろ姿を見送った後、残されたメンバーは、一斉に噴き出す。
「あ~あ、ミノリちゃん、『お仕置き』ですってよ?」
 マリアンがクスクス笑いながら言えば、リーリエが微妙な表情で呟く。
「クラウスさんって、そういう人だったんだね……意外だな」
「いやホント、期待してた以上のモノを見ちまったなあ……」
「なあ、『お仕置き』って何すんだ? ミノリ、大丈夫なのか!?」
「フリッツさん、貴方にはまだ早すぎる話です。この後どうなったかなどと、クラウスさんやミノリさんには 『絶 対 に』 尋ねてはいけませんよ?」
「……お、おう」
 イリスが、パンパン、と手を叩く。
「さあ、結果も分かったことだし、この辺でお開きにしましょう。今のこと、決してクラウスに言ってはダメよ? ……多分、覚えていないでしょうから」
 
 
 イリスの言葉通り、翌日、クラウスは酷い二日酔いに悩まされながら、結局どのような形で勝敗がついたのか必死に思い出そうとしていた。同時に、二度とミノリと飲み比べなどしないと、堅く誓った。
 
 

六話 帰り道

 
 
「……ミノリ」
 ミノリの肩に支えられて町中を歩くクラウスが、ぐったりと俯いたまま、愛しい妻の名前を溢した。
「何でしょう?」
 心なしか楽しそうに応じるミノリ。クラウスは、はあ、と盛大に溜息を吐く。
「……すまない」
「いいんですよ。わたしこそ、ごめんなさい。つい、注ぎすぎちゃいました」
 笑い混じりで、あまり反省の色が見られない謝罪だった。が、すっかり出来上がっているクラウスは、気にも留めない。
「ミノリは優しいな。……愛してる」
 ミノリはぽっと頬を染め、エヘヘとはにかむ。
「なんですか、突然。……わたしも、愛してますよ」
 ミノリは僅かにふらつく足を、そろりと階段にかける。酔いが回っていることを自覚していた上、クラウスを支えながらなので、普段より慎重に段差を上っていった。
「ミノリ……気を付けろよ」
「フフッ。気を付けないといけないのは、クラウスのほうですよ」
 夜遅い町には、人一人いなかった。どこからともなく聞こえてくる賑やかな蛙の合唱と、クラウスの吐息に耳を傾けながら、ミノリは「幸せだなあ」と思う。
「ミノリ」
 また、クラウスが口を開いた。
「なんでしょう?」
「……何でもない」
 ミノリは、クスッと笑った。どうやら、何か話さずにはいられないらしい。初めて見るクラウスの様相に、ミノリは高揚する。
(わたし、今、クラウスを独り占めしてるみたい)
 大人なクラウスは優しくてカッコいいけれど、誰に対してもカッコいいから、時々不安になる。本当は、弱い部分を無理して隠しているのではないか、と。せめて自分だけは解ってあげたいと思うけれど、知られたくないから隠しているのかもしれないし、ならば自分も他の人と同じように、見て見ぬ振りをしないと。
 もっと近付きたいのに、安易に近付けない。一番近くにいるはずなのに。それを、とてももどかしく感じていた。だから、お酒の力を借りるなんて卑怯だけれど、こうして彼が弱い部分をさらけ出してくれて、いつも支えられてばかりの自分が彼を支えることができるのは、なんだか嬉しい―
そんなミノリの胸中を知ってか知らずか、クラウスは低い声を漏らす。
「……いつもと逆だな」
「そうですね」
「情けない」
「そんなことないですよ。わたしが支えてもらうときのほうが、ずっと多いです」
 クラウスは、はあ、と大きな溜息を吐いた。
「ミノリ、愛してる」
 いつもより低い位置にある彼の頭を、ミノリはさわさわと優しく撫でる。
「ミノリ……愛してる、って言ってくれ」
「愛してますよ、クラウス」
「……ああ。もう一回」
 ミノリはとにかく可笑しくて、たくさんの小さな笑いを漏らす。
「何回言えばいいんですか?」
「……オレの気が済むまで」
「フフッ。愛してます」
 ふ、とクラウスが押し黙った。ミノリは、今度はゆっくりと階段を下り始める。降りきれば、クラウスの家はすぐ傍だ。
「……もうすぐ家か」
「はい」
「ミノリ……ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
 
 

七話 三人の晩餐

 
 
 晩夏の午後、ミノリは自身の牧場で、いつものようにリコリスと植物談義に花を咲かせていた。
「最近、暑かったでしょう? 鉢植えのお花の元気がなくて……。一応、日陰に入れてはみたんですけど、他に何かいい対策ってないでしょうか?」
「そうだな。ハウス内に入れてしまえば確実だが、外で観賞したいというのであれば、とりあえず鉢の下にブロックを入れてみたらどうだ? 風通しが良くなる」
「なるほどですっ。気付きませんでした。さっそく、やってみますね!」
 そんな会話をしている中で、ふと、ミノリは気付く。
「あれ……? リコリス、寝不足ですか?」
 よく見れば、彼女の目の下には、薄らとクマができていた。指摘されたリコリスは、苦笑する。
「ああ。一昨日、台風が来ただろう? あの日、外の植物が心配になって見回っている間に、雨漏りでベッドがびしょ濡れになってしまってな。今はソファで寝ているんだが、どうにも寝心地が悪くて。この天気なら、明日には乾くと思うが……」
「うわあ……それは大変ですね」
 心配げな表情で相槌を打ってから、ミノリは、はっと思い付いたように言う。
「よかったら、今夜はウチに泊まりませんか? 簡易ベッドがありますよ」
 思いがけない提案に、リコリスは言葉を詰まらせる。沈黙の間、ミノリは珍しく積極的だった自身の発言を反芻し、一瞬で顔中真っ赤に染め上げた。
「あ……い、イヤじゃなければ、ですけど……ソファよりは、寝心地がいいかと……」
 その緊張が遷ったのか、リコリスも僅かに頬を赤らめる。
「あ、ああ。それは有り難いが……迷惑じゃないか? ええと……クラウスさんもいるんだろう?」
「大丈夫ですっ。聞いてはみますけど……ダメって言うことはないと思います」
「そうか? ……なら、お言葉に甘えようかな」
 リコリスが照れた風で承諾すると、ミノリは、ぱあっと顔を輝かせた。
「ぜひ! ……あ、そうです。せっかくだから、前に言ってた、農畜学校の教科書をお見せしますよ」
「おおっ! それは有り難い。私も、前に話した植物図鑑を持って行こう」
 ミノリは最高の笑顔で、「楽しみにしてますね」と応じた。
「それじゃ、夕飯を食べた後に伺うよ」
「いえいえ、ぜひ夕飯も一緒に食べましょう? ちょうどこの間大豆が収穫できたので、大豆サラダを作りますよ」
「えっ、いいのか……? それは楽しみだな」
「はいっ!」
 
 
「……と、いうわけなんですけど……いいですか?」
 クラウスが帰宅するなり、珍しく先に帰っていたミノリがわたわたと説明し、許可を求めた。興奮を隠しきれないその様子に、クラウスは目を細める。
「構わないぞ。……何なら今夜、オレは仕事場に泊まろうか?」
 配慮して提案したが、ミノリは真剣な面差しで彼を見上げたまま、ぶんぶんと首を横に振る。
「いえっ。いてください」
「だが、リコリスが気を遣うんじゃないか?」
「それは……そうかもしれませんけど……」
 ミノリは、困り顔で俯いた。
 ああ、不安なのか、とクラウスは憶測する。何せ、ミノリにとって人生初の女友達なのだ。友人を泊める程度でこの動揺振りは少々過剰な気もするが、気持ちは理解できなくもない。しかし、新婚夫婦の家に泊まるリコリスの心境にも思いを巡らせ、どうしたものかと考える。
 そんな彼の葛藤など露知らず、ミノリは足下に視線を落としたまま、クラウスのコートの前立てをキュッと握った。
「……でもやっぱり、いて欲しいです」
 その可愛らしい仕草と言葉に、愛妻家の脳内天秤はあっけなくミノリ側に傾く。
「ミノリがそう言うなら仕方ないな。オレは隅で大人しくしてるよ」
 クラウスはミノリへの甘さを自覚し、ふう、と小さく溜息を吐いた。
 
 
 リコリスは、午後七時頃にミノリの家を訪れた。
 テーブルの上には、既に豪華な食事が並べられている。ミノリが夕食を作るのは久々のことで、クラウスはその手料理を喜んだが、同時にそれが自分だけのために作られたわけではないという現状を、ほんの少し残念に思った。とは言え、若い女の子に挟まれての食事は、なかなかに華やかで良いものだった。
「すごいな。これ、全部ミノリが作ったのか?」
 リコリスが新緑色の瞳をキラキラと輝かせて賞賛すれば、恥ずかしがり屋のミノリは「エヘヘ」とはにかむ。
「はい。クラウスほど美味しくできた自信はないですけど、使ってる食材はどれも一級品ですよ」
「へぇ。普段はクラウスさんが食事を作っているのか?」
「ああ。大抵、ミノリのほうが帰りが遅いもんでな」
「クラウスは、とっても料理上手なんです。わたしもたまには作らなきゃって思うんですけど、クラウスのご飯のほうがおいしいから、ついお願いしちゃいます」
 人前で料理の腕を褒められて満更でもないクラウスは、思わず口元を弛めた。
「そうなのか。いい旦那さんを持って、ミノリは幸せだな」
「はいっ」
 心から嬉しそうに返事をするミノリ。クラウスはそんな妻を愛おしく思ったが、多少のこそばゆさも感じ、話題を逸らそうと試みる。
「リコリスは、歳はいくつなんだ?」
「二十八だ」
「そういえば、知りませんでした。わたしの三つ上なんですね」
 それを聞いて、リコリスは「えっ」と驚きの声を上げる。
「そうなのか? ミノリも同じ年か、私より上だと思っていたんだが……」
 今度は、ミノリとクラウスが「え?」と素っ頓狂な声を上げる番だった。ミノリだけは、少しの間を置いて、緩やかに顔を綻ばせる。
「そんなこと言われたの、初めてですよ。嬉しいです」
「そうなのか? 一人で立派に牧場経営をしているし、博識で、しっかりした考えの持ち主だから、普通にそう思っていたよ」
 ミノリのニヤニヤが止まらない。対してクラウスは、今でこそリコリスの見解に同意できるものの、ミノリと出会った当初にそう思えなかった自分を殴りたい気持ちでいっぱいになった。しかし、ミノリの次の一言で、そんな心持ちも一気に吹き飛ぶ。
「それはきっと、クラウスがいてくれたからですよ。今も大したことないですけど、二年前の、クラウスと出会った頃のわたしなんて、本当に、恥ずかしいくらい子供っぽかったんです。ね、クラウス?」
 二年前の今頃を思い返し、クラウスの目頭がじわりと熱くなる。が、必死に何でもない風を装った。
「どうだろうな。確かにだいぶ成長したとは思うが、全然変わってない気もするな」
 ミノリは口を尖らせて、ツンとそっぽを向く。
「クラウスから見たら、どうせわたしなんか、いつまでたっても子供ですよっ」
 新婚夫婦の他愛のない応酬に、リコリスは堪らず、クスクスと笑い出してしまう。
「目の前で痴話喧嘩はやめてくれ。せっかくのご馳走が喉を通らない」
 クラウスとミノリは、同時に赤面した。
「フフッ……いや、二人は本当に仲が良いんだな。羨ましくなるよ」
 リコリスは二重の意味で、「ごちそうさま」を言った。
 
 夕食後、ミノリとリコリスは昼間に示し合わせていた通り、それぞれ持ち寄った本を交換し、ソファでの読書会が始まった。たまに顔を上げて本の内容についての説明や議論を交わす程度で、若い女の子らしい会話の一つもないその様に、クラウスはダイニングテーブルで調香関連の情報誌を捲りながら、一人納得する。
(これは気が合うわけだな)
 自然体で付き合える女友達がミノリにできたことはとても喜ばしかったが、一方で、クラウスは僅かな不安と寂しさを感じていた。それを自覚し、子供じみた独占欲だ、と自嘲する。
(明日の夜は、二日分構ってもらうか)
 
 

八話 約束の遠乗り

 
 
「クラウス! お待たせしました」
 貿易ステーションに駆け込んだミノリは、愛馬のスピカからひらりと飛び降りた。その鮮やかな動作を目にしたクラウスは、思わず苦笑する。
「ああ。……しかし、なんだ。さっそくプレッシャーをかけてくれるな」
「えっ。あ、あの……ごめんなさい」
 一瞬で顔色を変え、少し焦った様子で俯きがちに謝るミノリ。クラウスはフッと微笑み、彼女の頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「いや、お前が謝ることじゃないさ。つまらないことを言って悪かった。……さあ、行こうか」
 そう宣って鐙に足をかけると、ブーツで地面を蹴り、危なげなくスピカに跨る。そして、鞍上からミノリに手を差し出した。
 ミノリは「一人で乗れます」と言いかけた唇を、きゅっと結んで微笑む。仄かに頬を染め、そろりと彼の手を取った。引き上げられるようにしてクラウスの後ろに乗り、大きな背中を軽く抱けば、甘く爽やかな香りが鼻先をくすぐる。
「出発していいか?」
「はいっ」
 ミノリの快活な返事を受け、クラウスはスピカへ前進の合図を出す。二人と一頭はゲートをくぐり、隣町へと続く林道に繰り出した。
 
「勘が取り戻せたら―なんて約束しておいて、結局、一年半もかかっちまったな」
 背中越しに聞こえるクラウスの声に、ミノリは左右に迫る紅葉を楽しみながら、フフッと笑う。
「仕方ないですよ。忙しそうでしたし、クラウスはずっとブリティッシュだったんでしょう?」
「ああ。だが、慣れるとウェスタンの方が楽に感じるな」
「そうなんですか。わたしは、ずっとウェスタンだったのでわかりませんが……クラウスが乗馬服を着てるところは見てみたいです」
 クラウスは、ハハッと声を上げて笑った。
「こんなおじさんの乗馬服姿なんか見て、どうするんだ?」
 呆れたように言ったが、内心は他ならぬミノリの可愛らしいお願いに浮き立っていた。
 
 話しながら一時間ほど馬を進めると、やがて岐路に立つ。直進すれば隣町だが、クラウスは丘の上へと続く右の道を選んだ。
「そういえば、わたし、町の外へ出るのって二年ぶりくらいです」
「牧場仕事が忙しかったからか?」
「それもありますけど……用事がないと、なかなか出かける気にならなくて」
 ミノリの発言を受けて、クラウスは心なしか弾んだ声音で提案する。
「それなら、今度、オレと隣町へ遊びに行くか? ケーキの美味い喫茶店を知ってるぞ」
 大好物の名前を耳にしたミノリは、途端にキラキラと瞳を輝かせた。
「行きたい。行きたいですっ」
 ミノリの表情を想像し、クラウスの口元が弛む。今すぐにでも彼女の柔らかな髪を撫でたかったが、先の楽しみとして取っておくことにした。
「もうすぐ頂上に着くな。……ミノリ、早足してみるか?」
「はいっ」
 ミノリはクラウスの腰へ回した手に、ほんの少し力を入れる。馬に乗り慣れている彼女には、それで十分だった。
 早足の合図を受けたスピカが、歩速を上げる。木々を追い抜き、細い道を駆け上がれば、すぐに開けた場所へ出た。
「ほら、あの木のところだ。特等席だろう?」
「はい。クラウスの言ってた通りですね!」
 
 到着したのは、大きな隣町を遠くに一望できる小山の頂上だった。
 クラウスは先に馬から降りると、軽く両手を広げて「おいで」とミノリに微笑みかける。本当にお姫様扱いだ、とミノリははにかんだ。意を決して彼の胸の中へ飛び込めば、その腕にしっかりと抱き留められる。
 クラウスはミノリの右手を取り、甲に優しくキスを落とした。
「乗り心地はいかがでしたか? レディ」
 芝居がかった調子で問われたミノリは、頬を真っ赤に染め上げつつ、弛みきった顔で彼を見上げる。
「最高でした」
 クラウスは彼女を掻き抱いて唇を重ねたい衝動に駆られたが、今日はあくまで騎士役に徹しようと、ぐっと我慢した。代わりに、亜麻色の髪を指先で弄ぶ。
「それじゃ、お昼にしようか」
 名残惜しげに妻から離れ、クラウスはスピカに持たせてあった荷籠を開けた。中には、バスケットと水筒、菓子缶、レジャーシートが入っている。まずはシートを取り出し、乾いた短草の上に敷くと、てきぱきと昼食の準備を整えた。
「サンドイッチですね。おいしそうです」
 涎を垂らさんばかりのうっとりとした表情で、バスケットを覗き込むミノリ。そんな彼女を、クラウスは愛おしげに見つめた。
「たくさん作ったからな。好きなだけ食べていいぞ」
 じゃあさっそく、とミノリはサンドイッチに手を伸ばし、美味しそうにもぐもぐと口を動かす。クラウスは、思わず「ミノリは食いしん坊だな」とからかいそうになり、口の中の食べ物と共に、慌ててその言葉を呑み込んだ。
「ミノリは美味そうに食べるな。作り甲斐があるよ」
「だって、本当においしいんですよ。クラウスは料理上手です」
 褒められて悪い気はしない。クラウスは照れ隠しとして、ミノリの頭をくしゃりと撫でる。
「こんな料理でよければ、いくらでも作ってやるぞ」
「もう、たくさん作ってもらってますけどね」
 フフッとミノリは笑った。つられて、クラウスもククッと噴き出す。
「それもそうだな」
 
 昼食を食べ終えた二人は、寄り添って遠景を眺めた。色づいた木々が、初秋の眩しい日に鮮やかに照らし出されている。風に乗り、二時を知らせる鐘の音が微かに聞こえた。
「わたし、今、とっても幸せです」
 夢見るような瞳で語るミノリを片腕に抱き、クラウスはふう、と小さく甘い溜息を吐く。
「……オレもだよ」
 そんな夫をチラと見遣り、ミノリは再び遠くを見つめた。
「まだ、夢みたいです。……今、クラウスとこうしているなんて」
 彼女の優しい声に、クラウスの鼓動が小さく跳ねる。かける言葉が見つからず、彼は口を噤んだ。
「あのね、クラウス」
「何だ?」
 ミノリは真っ直ぐに、クラウスのトパーズの瞳を見つめる。そして、小さな唇を静かに開いた。
「今日は、ありがとう。……愛してます」
 このタイミングでその言葉を口にするのは卑怯だ、とクラウス思った。意図せず潤んでしまった瞳でミノリを見下ろせば、彼女は照れたように視線を逸らす。
「クラウスと出会えて……クラウスが、一緒にいたいって言ってくれて、本当によかったです」
 ああ、この子はいつでも、与えた以上のものを返してくれるんだな―
愛しさが募り、クラウスはミノリの髪にそっと唇を寄せる。
(支えられているのは、オレの方だ)
 ミノリは、すう、と小さく息を吸うと、意を決したように口を開いた。
「あのね、クラウス。……ちょっとだけ、甘えてもいいですか?」
 クラウスの心臓が、ドクンと脈打つ。
「ああ」
 短く応えれば、ミノリはきゅっとクラウスに抱きつき、震える声で言葉を紡いだ。
「いい子って言って……頭、撫でて欲しいです」
 
 

九話 わんニャン上下関係

 
 
 クラウスは牧場のベンチに腰掛け、ペットと楽しそうに遊ぶミノリを、目を細めて眺めていた。
 ミノリの牧場には、三匹のペットがいる。秋田犬のシリウス、白い子犬のダフネ、アメリカン・ショートヘアのアルテミスだ。三匹ともコンテストに優勝するほどの賢さと可愛らしさを誇っているが、特に二匹の犬に対するミノリの躾は完璧で、命令一つで基本的な動作はもちろん、放牧や、簡単な芸もやってのける。決して人を噛んだりすることはなく、一緒に暮らし始めたクラウスの命令も、すぐに聞くようになった。
 しかしクラウスには、彼らについて常々気になっていることがあった。
 クラウスは、ミノリの前で情けなく腹を出しているシリウスに近付き、さっと屈み込んだ。そして、ふさふさした白い腹毛に触れようとする―と、途端にシリウスはパッと起き上がった。そして尻尾を千切れんばかりに振りながら、邪気の無い瞳でクラウスを見上げる。
 クラウスは、思わず苦笑した。
「こいつ、ミノリの前では腹を出すのに、オレには絶対触らせないな」
 隣で、ミノリもフフッと笑った。
「そうですね。和犬は、警戒心が強いらしいです」
 説明しながら彼女が背を撫でれば、シリウスはあっという間に仰向けに寝転がる。警戒心が強いなどと人類で最初に言い出したのは、どこのどいつか。その腹をミノリがわしゃわしゃ撫でてやると、もふもふの大型犬は口を半開きにしてぺろりと舌を出した。
 ミノリとクラウスとであからさまに態度を変えるのはシリウスだけではなく、ダフネも同様だった。アルテミスに至っては、鈴を投げてもそっぽを向く始末。
「犬には、上下関係があるんだよな。……ひょっとして、オレのほうが下に見られているのか?」
「いえ、そんなことはないと思いますよ。クラウスの言うことも、ちゃんと聞いてますし」
 だが、クラウスはどうにも納得できなかった。大人げないと自覚はしていたのだが。
 
 その夜クラウスは、ミノリの蔵書から「ペットのしつけ」に関する本を読み漁った。そして、一つの施策を導き出す。
(まずは、もっと仲良くなる必要があるな)
 
 
 翌日。クラウスは仕事から帰ると、ミノリが戻るまでの間、手始めに子犬を籠絡しようと画策する。玄関周りをうろついていたダフネにそっと近寄り、道具入れから持ち出した骨ガムを鼻先にちらつかせた。
「ほーら、遊んでやるぞ」
 ニコニコ顔で話しかけてみるが、反応は薄い。ダフネは尻尾を振っているものの、その目が如実に「なんだ、ミノリじゃないのか」と語っていた。クラウスは気落ちする。それでも往生際悪く、「取ってこい!」と骨ガムを投げてみた。
 ダフネは、喜び勇んで骨ガムを取りに行った。―が、クラウスの元へ戻ってくることなく、一人遊びを始めてしまった。
「おい、返せ」
 クラウスが追い掛けても、ダフネは逃げるだけで骨ガムを離そうとはしない。やがて息が上がったクラウスは、はあ、と盛大に溜息を吐き、遠くで「遊んでポーズ」をしているダフネを恨めしげに一瞥した。
 
 仕方なく、今度は姿の見えないシリウスを大声で呼んでみる。―が、命令しても一向に来る気配がない。
(いつもは、呼べば来るんだがな……)
 心配になって探してみれば、シリウスはビニールハウスの裏でのんびり昼寝をしていた。声の届く範囲にいるにもかかわらず命令を無視されたのは、嘗められているからとしか思えない。
(ミノリの前でないと、オレの言うことは聞かないのか)
 クラウスはげんなりした表情で、大きなあくびをするシリウスを見下ろした。
 
 ここまでで既に、クラウスの子供じみた自尊心はボロボロになっていた。しかし、とりあえずアルテミスも構ってみることにする。
 猫は自由きままで、ミノリにすら自発的に寄ってこないので、こいつならミノリと同じくらい手懐けられるのでは、とクラウスは淡い期待を抱いていた。―が、彼がじわじわと近寄ってみると、アルテミスはふいと尻尾を向けて立ち去ってしまった。ミノリが相手であれば、少なくとも逃げはしないというのに。
(オレは動物に嫌われるタチなんだろうか……)
 クラウスは、がっくりと肩を落とした。
 
 その時だった。突然、ダフネとシリウスが全速力で駆け出した。その俊敏な動きに驚いてクラウスが振り返ると、彼らの向かう先にはミノリの姿が。
「ただいま、クラウス」
 ミノリは庭に夫がいることに気付き、喜々として駆け寄ろうとしたが、愛犬たちの大歓迎に阻まれて足を止める。
「シリウスとダフネも、ただいま。番犬おつかれさまでした」
 早く撫でてと言わんばかりに寝転がった二匹の犬を、ミノリは屈み込んで、労うようにさすってやった。愛犬に向ける彼女の眼差しは、春の日差しのように優しい。
 主とパートナーの穏やかな触れ合いを目の当たりにしたクラウスは、温かな敗北感を覚え、小さく溜息を吐いた。ミノリの背後に回ると、彼は犬と戯れている妻の頭を愛おしげに撫でる。
「やはり、ミノリには敵わないか」
 手を止め、嬉しそうにクラウスを振り仰いだ彼女の目は、ミノリを前にしたシリウスのそれと似ている気がした。クラウスは、フッと微笑む。
「飼い主が犬に似るっていうのは、本当なんだな」
 頭上から振ってきた彼の言葉に、ミノリはポッと頬を染めた。
「そんなに似てますか?」
「ああ。どことなくな」
 至福の時を中断された二匹の犬が、ミノリの後ろに立つ男を恨めしげに見上げている。その視線に気付いて、クラウスは密かにほくそ笑んだ。
 
 

十話 浴槽の人魚姫

 
 
 食器を片付け終えたミノリは、今夜読む本を持ってソファへと向かった。二つあるソファのうち一方では、既にクラウスが読書を始めている。その向かい席にミノリが腰を降ろしたのと同時に、彼はパタンと本を綴じた。
「ミノリ。今から風呂に入ろうと思うんだが……」
 そう言ってクラウスは、ミノリの顔を真っ正面から見据える。穏やかに微笑んではいたが、金色の双眸が、獲物を狙う狼のように爛々と光っていた。ミノリはビクッと肩を震わせ、頬を赤らめる。
(ああ。これはまた、何か恥ずかしいことをさせようとしてますね……)
 彼女は必死で平静を取り繕い、ふわりと微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
 しかし、動揺は隠しきれず。彼女の声は、僅かに揺れていた。クラウスは、また悟られたか、と高揚する。策士な旦那様に翻弄されまいと、日毎に知恵をつけてくるミノリとの駆け引きは、彼にとって最高の娯楽だった。ちなみに、今のところクラウスの全戦全勝だ。
 クラウスはチェスでも指すかのように、今後の展開を読んで慎重に言葉を選ぶ。
「……背中を流してくれないか?」
 ニコニコ顔で要求すれば、ミノリは真っ赤になりながらも、同じく少し考えてから返答する。
「どうしたんです? 突然」
 探りを入れてきたな。クラウスは、なかなかいい手だ、と心の中で褒めてやった。
「前々から思っていたんだが、なかなか言い出せなくてな。夫婦なんだし、いいだろう?」
 ミノリは、愛しい夫からの要求を無碍にもできず。せめて自分に有利な展開へ運ぼうと策をこらす。
「分かりました。でも、本当に、背中を流すだけですよ?」
「ああ」
「もし、それ以外に何かさせたら……」
 言いかけて、ミノリは席を立つ。小走りにキャビネットへ向かい、自分用の引き出しを開けると、そこから一枚の紙切れを取り出した。
 それは、いつぞやの飲み比べ対決の賞品―マリアンが隠し撮りした、クラウスの『やんちゃ時代』の写真だった。
「これ。リーリエさんに見せちゃいますよ」
 フフッと悪戯っぽく笑って、ミノリが宣う。途端にクラウスは余裕を失い、苦々しげな表情を浮かべた。
(見せる相手がリーリエとは、良く分かってるな。マリアンめ、後で覚えてろよ)
 しかし、勝負はまだ始まったばかりだ。ここで負けるわけにはいかないと、ふう、と一つ息を吐き、クラウスは普段通りの穏やかな顔に戻る。
「分かったよ。他には、何もさせない」
 
 
 ミノリはクラウスが服を脱ぎ終わったタイミングを見計らって、洗面所の扉をノックした。
「クラウス。入っていいですか?」
「いいぞ」
 その返事に、ミノリは一つ深呼吸して腕を捲り、恐る恐る洗面所の扉を、続いて浴室の扉を開ける。そこには、クラウスの背中があった。既に心臓はドキドキと早鐘を打っていたが、ミノリは平然とした風で浴室に足を踏み入れ、手桶を取る。
「背中を洗えばいいんですよね?」
 再度確認すれば、クラウスが「ああ」と短く答えた。ミノリは手桶で湯船のお湯を掬い、クラウスの肩にかける。緊張でガチガチだったが、普段じっくり見ることのない、彼の素肌の後ろ姿は、若干興味深くもあった。
「傷、三つもあるんですね」
 手拭いを湿し、石けんを擦りつけながらミノリが呟く。恥ずべき過去の勲章に触れられ、クラウスは苦笑した。
「見なかったことにしてくれ」
 彼は学生時代の話になると、途端に口が重くなる。誰にでも語りたくない過去の一つや二つはあろうものだと、ミノリはクスリと笑って「はい」と応えた。
 クラウスの背中に手拭いが触れ、上下に動き始める。鼓動が弾んでいるのは、洗われている側も一緒だった。彼は、ここからどう持って行ったものかと考える。
「もう少し強く頼む」
「はい」
 皮膚に与えられる刺激が、幾分強くなった。純粋に気持ちいいな、とクラウスは穏やかな表情で目を閉じた。
 しばらくの間、広い背中を満遍なくゴシゴシ擦ったところで、ふと、ミノリが手を止める。
「これくらいでいいですか?」
「あと、右の方を二、三回頼む」
「わかりました」
 ミノリの力加減は、絶妙だった。
「終わりましたよ。流していいですか?」
 奉仕の終了を告げるその言葉に、ハッとするクラウス。
「あ……ああ」
 あまりの心地よさに、気付けば何も考えていなかった。彼は焦り、こうなったらストレートにいくしかない、と心を決める。
「ミノリ、一緒に入らないか?」
 出し抜けに直球を投げられ、手桶にお湯を汲んでいたミノリは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。間を置いて上気し、ぶんぶんと首を横に振る。
「入りませんっ」
 普通に誘えば、断られることは分かっていた。しかし、ここは怒られない程度に押すしかない。
「夫婦なんだし、今更恥ずかしがることもないだろう」
「イヤです。入りませんったら入りません。わたし、もうシャワー浴びましたし」
 慌てて逃げ去ろうとするミノリの手首を、クラウスは軽く掴んで引き留める。
「どうしてもか?」
「どうしてもですっ。背中は流し終わったんですから、離してください」
「いや、まだ終わってないぞ。泡が残ってる」
 指摘すれば、ミノリは律儀にも、すぐに手桶を取って泡を洗い流した。
「ほらっ。これでいいでしょう?」
「……」
 クラウスは、あえて沈黙を作る。手を離さず、肩越しにミノリを見上げたまま、数秒待った。
 そして、静かに口を開く。
「……ミノリ」
 ミノリの肩が、ビクンと跳ねた。
「何ですか?」
 良い雰囲気だ、とクラウスは内心ほくそ笑む。黙して立ち上がり、ミノリを壁際に追い詰めた。真っ赤な顔で慌てふためくミノリ。
「あ、あのっ。背中を流す以外に何もさせない、って約束しましたよね?」
 可愛らしい唇から紡がれたその台詞を聞いて、クラウスの頭に打開策が閃いた。
(詰めが甘かったな、ミノリ)
 思わず、口元が弛む。
「ああ、確かに約束したな。『させない』って」
 クラウスは、小さく抵抗するミノリの唇を荒々しく塞いだ。軽く腰を抱けば、彼の体についた水滴がミノリの部屋着を濡らす。
 既に雰囲気に酔いかけていたミノリは、拒絶もそこそこにクラウスの舌を受け入れた。彼女の頭を壁に押しつけ、その感触を貪れば、すぐに口端から甘い声を漏らし始める。
 顔を離すと、ミノリは濡れた瞳で恨みがましくクラウスを見つめてきた。
「……約束が、違います」
「いや。『させない』とは言ったが、『しない』とは言ってないぞ?」
「卑怯です……」
 ミノリは負けを認め、視線を斜め下に伏せた。ここまで手向かってはきたが、助動詞一つであっさり降参してしまうのだから、本心はまんざらでもないのだろう。そんな可愛い妻を、クラウスはゾクゾクするような征服感を持って見下ろしつつ、我ながらそれを得るためにどれだけ必死になっているんだと自嘲した。
 クラウスは無言のまま、ワンピースの前ボタンに手をかける。外し終えると、首元にキスを落としながら、肩線を指先でなぞるように脱がせた。ぱさり、と薄水色の布が床に落ちる。
「……部屋着、濡れちゃいました」
 沈黙に耐えきれなくなったミノリがぽつりと文句を言ったが、クラウスの知ったことではない。構わずミノリの背に手を回し、ブラのホックを外した。滑り落ちそうになったレースの小布を、ミノリは慌てて胸元で押さえる。しかしクラウスはその腕を優しく取って、彼女を覆っていたそれを下に落とさせた。
 続いて揃いのショーツの両脇に手をかけたが、こればかりはミノリの協力無しに脱がすことはできない。
「ミノリ。足を上げてくれないか?」
 じわじわと引き下ろしながら耳元で囁くように要請するも、往生際の悪いミノリは小さく首を横に振る。
「何もさせない、って、言いました」
 震える声と潤んだ瞳で、俯きがちに宣った。こういう、無理して強がるところが可愛らしく、征服欲を掻き立てるのだということに本人は気付いていない。
「そうか。ならいい」
 クラウスはショーツを膝下まで一気に引き下ろすと、ミノリの脇腹に手を移動し、くるりと横を向かせた。彼女が戸惑っている隙に背中と膝裏に腕を差し入れ、横抱きに抱え上げる。年らしく腰がギシリと軋んだが、気付かなかったことにした。
「お……おろしてっ」
 慌てふためくミノリの言葉など完全に無視し、クラウスはそのまま湯船に足をつける。
「パンツが濡れちゃいます!」
「オレは別に構わないが? 嫌なら、自分で脱げばいいだろう」
 クラウスは、しれっと言った。ミノリは「うー」と小さく唸ってから、足をもぞもぞ動かしてショーツを爪先までずらし、服の上目がけて蹴り捨てる。が、結局、的外れなところに落下し、びしょ濡れになってしまった。クラウスは思わず噴き出しそうになったのを、すんでのところで堪えた。
 ゆっくりと腰を落として太股の上に着地させれば、ミノリは存外大人しくそこに収まる。しっかり口を尖らせてはいたが。
「……これで満足ですか?」
 ミノリは不機嫌そうに訊いた。クラウスはフッと微笑み、「どうだろうな」とはぐらかす。無論、満足などしているわけがない。ミノリを足の間に落として前方に向き直らせ、背中から抱いた。
 静寂の中に反響する微かな水音が、狭い密室に二人きりという現状を否応なく意識させる。ミノリはもちろんのこと、クラウスの心臓も、バクバクと脈打っていた。
 クラウスは右手で少し湯を掬って、ミノリの肩にかけてやる。流れで、彼女の首元をそっと撫でた。その感触に、ビクンと反応するミノリ。
「あ、あの……」
 クラウスは、ミノリの肩に顎を載せる。
「ん?」
「もうちょっと、離れてください」
 耳まで真っ赤に染め上げて、ミノリが要求した。無理もない。何しろ、クラウスの下心を主張するように、ミノリの尾てい骨の辺りには、何か堅いものが当たり続けていたのだから。
 彼女の心中を察し、クラウスはニヤリと笑う。
「何故だ?」
「な……なぜって、それは……」
 答えられないのを分かっていて訊く辺りがいやらしい。ミノリは言葉に詰まり、瞳を伏せる。
「い……いじわる……」
 触れた部分から伝わる小刻みな震えに、どうしようもなく愛しさが募り、クラウスはミノリの頬にそっと口付けた。そして、彼女の耳元に、ハァ、と熱い息をかける。
「……ミノリ」
 色香を含んだ低音で名前を呼びながら、ミノリの下腹部前で組んでいた手を解き、胸に持って行った。軽く揉めば、例え様のない安心感が広がる。クラウスは同時に彼女の耳朶を咥え、舌先で弄んだ。
「……っ」
 体の芯を熱くするようなくすぐったさを感じ、ミノリは小さく身じろぎする。ちゃぷん、と水面が揺れた。
「やめっ……」
 抵抗するが、間髪入れずに、胸の先端からチクリと刺すような甘い刺激を受ける。図らずも「あんっ」と艶めかしい声をあげてしまった。その声が浴室に反響し、ミノリの羞恥を余計に煽る。
「可愛い声だな」
 クラウスは手を止めないまま、ミノリの耳元で低く囁いた。嬌声を噛み殺しているミノリは、不平を言うこともままならない。
「もっと聞かせてくれ」
 そう言って、膨らみの片一方を掴んでいた掌を、脇腹を撫でるようにして下部に移した。水草のように漂う柔らかな毛をかき分け、小さく膨らんだ芽を摘めば、ミノリの唇から再び高い声が漏れる。その反応に満足げな笑みを浮かべ、クラウスは彼女の中へ指を潜ませた。
 ミノリの最も感じる部分を既に熟知しているクラウスは、二本の指で容赦なくそこを攻め立てる。
「あっ……あ……んっ……」
甘い声を上げながら、ミノリはパシャパシャと飛沫を上げて身を捩るが、網の中の魚さながら、逃れることは叶わず。
 やがて抵抗する力を無くし、自ら腰を揺らし始めたところで、クラウスは彼女の中から指を引き抜いた。無言のままミノリのウエストの括れを掴み、自分に向き直らせると、彼女の淵を海綿体の塊に宛がう。
 ゆっくりとミノリの腰を沈めれば、弛みきった彼女の様相とは裏腹に、攻撃的に下半身を締め上げられた。壮年の余裕を持ってしても堪えるのは至難の業であったが、男としてはすぐに果てるわけにもいかない。クラウスは彼女の顔を引き寄せ、濃厚な口付けを交わす。
「綺麗だよ……オレの人魚姫」
 煽るようにミノリを賞賛し、彼はチュッチュッと淫靡な音を立てて、桜貝色の乳頭を軽く吸い上げた。ミノリは焦点の定まらない瞳でクラウスの頭頂を見下ろしながら、口端から声とも吐息ともつかない音を漏らし、ビクビクと体を震わせる。
 クラウスはもっと彼女の躰を味わい尽くしたいと望んだが、反して、抑え付けていた男の本能が悲鳴を上げた。そろそろ熱を解放してやろうと、ミノリの腰を掴み、律動的に下から突き上げる。
「あっ……あ……!」
 より高く濡れた声を上げ、真珠のような水滴を纏った髪を振り乱すミノリ。二人の律動に合わせて水面に上がった波が、浴槽の縁から、幾度も幾度も水を溢す。
 やがて、不意にミノリの体が強張り、僅かに震え、くたりと力が抜けた。
 彼女はクラウスの肩に湿った額を預け、荒い息を吐く。しかし、クラウスは未だ達せていなかった。
「ミノリ……もう少し続けるぞ」
 一旦は動きを止めたクラウスだったが、ミノリに申し訳ないとは思いつつも、再び自身のものを彼女の中に擦りつける。今度は、比較的緩やかに。一度昇りつめたミノリの中は敏感になっており、途端に激しく喘ぎ始めた。
「ぃやっ! あ……まっ、ま……って……!」
 キュッと瞑った両目から僅かに涙を流すミノリを切なげに眺め、「やはり連続では厳しいか」などと頭の片隅で考えながらも、彼の腰は止まらない。
 ミノリの内壁が二度目の痙攣を起こしたところで、同時にクラウスも絶頂を迎え、ミノリの中へ熱いものを注ぎ込んだ。
 
 
 駆け引きに負けた後のミノリは、大抵不機嫌だ。ベッドサイドに腰掛けるクラウスに背を向け、きつく膝を抱えている。
「ミノリ。大人げないぞ」
 自分の言えた義理ではないが、とクラウスは内心自嘲した。ともあれ、彼の意図通り、「子供」だとか「大人げない」だのといった単語に敏感なミノリは、ピクリと反応する。
「……分かってます。けど……」
 言い淀むミノリ。クラウスは、何気なく先を促す。
「ん? 何だ」
 ミノリはしばらく赤くなってもじもじしていたが、やがて意を決したのか、クラウスの背後に躙り寄って彼の寝間着をきゅっと握った。背中に温かな額を押しつけ、ぼそぼそと呟く。
「二回目は、もうちょっと優しくおねがいします……」
 予想外の一言に、クラウスは目を丸くする。少しの間を置いて、「二回目があってもいいのか」と、自分に都合良く解釈した。
「……分かった。激しくして、悪かったな」
 低い声で、少なくとも外面だけは申し訳なさそうに謝罪する。しかし心の内では、即刻「三回目」に入ることを渇望すると同時に、それを叶えることができない年相応の体力を恨めしく思っていた。
 
 

十一話 秋の終わりに

 
 
 今年も、このイベントがやってきてしまった。
「でね、今年はですね。イブキくんが『クラウスさんもいるし、またウチでやったら?』って提案してくれたんですよ」
「……そうか」
 有り難いやら、憎たらしいやら。クラウスは引き攣った笑みを浮かべる。大して嬉しくなさげな彼の顔を、ミノリは不安そうに覗き込んだ。
「あの……ダメなら、お断りしますけど」
 彼女の言葉で自分の眉間に皺が寄っていたことに気付き、クラウスは慌てて穏やかな表情を取り繕う。
「いや、いいんじゃないか? 構わないよ」
 他に選択肢はなかった。何しろ断れば、ミノリは男の参加者しかいない飲み会へ単身出かけてしまうのだ。いっそ参加するなと言ってしまいたいが、ミノリにとって年に一度の楽しみである貴重な同窓会を、個人的な感情で阻害するわけにもいかない。
 夫のそんな複雑な胸中など、温室栽培の妻は知る由もなく。
「よかったです。じゃあ、そう返信しておきますね!」
 満面の笑みで宣った。
 
 
―と、ここまでが、先日の話。秋の月の末日、昨年と全く変わらない顔ぶれがミノリの家に集結した。
「久し振り、ミノリ。結婚おめでとう」
「おめでとー」
「ありがとうございます!」
「どもー。クラウスさんも、ちっす」
「こんばんは。一年振りだな」
「あ。これ、オレらからの差し入れ」
「わあ、たくさんですね。ありがとうございます。どうぞ、上がってください」
 暫時、挨拶と結婚のお祝いを交わした後、四人の同窓生とミノリ、そしてクラウスは、例年と同様に卓へ着いた。既に大方の準備は調っており、それぞれが自分のグラスに好きな酒を注ぎ終えたところで、友人の一人が立ち上がる。
「そんじゃ、始めまーっす。まずは、ミノリとクラウスさん。ご結婚、おめでとーございます!」
 彼の言葉に、友人一同は盛大に拍手した。ミノリははにかみ笑い、クラウスは気恥ずかしさから苦笑する。
「まさか、『あの』ミノリがねー。結婚一番乗りとはねー」
 腕を組んで感慨深げにぼやく音頭役に、周囲は「早く始めろー」だの「後でいいだろー」だの野次を飛ばした。
「ハイハイ。んじゃ、みんな、グラス持ってー。……持った?……ゴホン。それでは、今年の収穫に感謝すると共に、来年の豊作と、ミノリとクラウスさんの末永い幸せを願って。……乾杯ッ!」
「「「「「乾杯!」」」」」
 
 
 メンバーの中に新婚夫婦がいるとなれば、彼らに関する話題で始まるのが自然な流れで。
「それにしても、確かに二人はお似合いだったけど、こんなにすぐ結婚するとは思わなかったな」
「だよな。相手は『あの』ミノリだし」
 ホントホント、と友人たちは笑い合う。ミノリはワインを煽り、口を尖らせた。
「『あの』ってなんですか」
「そりゃあもう、女としての自覚皆無のミノリちゃんのことですよ」
 友人はミノリをからかい、ゲラゲラ笑う。クラウスは全面的に同意したが、それでも妻を貶されているとあって複雑な気分だった。
 ミノリは、拗ねた口調で反論する。
「最近はそうでもないですぅー。クラウスに訊いてみるといいですよ」
 流れで尋ねられ、クラウスは少し考えてから「どうだろうな」とはぐらかした。無論、会話を盛り上げるためである。唯一の味方だと思っていた人物に裏切られたミノリは、目を丸くした。
「ひどい! クラウス、ひどいです!」
 夫のシャツの二の腕部分をきゅっとを掴み、潤んだ瞳で上目遣いに見上げる。クラウスはチラと彼女を見遣ったが、あまりの可愛らしさに口元が弛みそうになり、慌てて視線を逸らした。
「いいなー。新婚夫婦いいなー」
 周囲が冷やかしても、クラウスは余裕の態度を崩さない。上から目線で、ニヤリと意地悪く微笑む。
「妻がいるってのはいいものだぞ。お前らも、早く結婚しろよ」
 メンバーの大半が独り者であることを承知した上での台詞だ。ミノリはその上手い切り返しに、「クラウスはやっぱり大人でカッコいいなあ」と改めて惚れ直した。
 しかし、独身組も負けてはいない。
「具体的に、どこがいいんっすか? 教えてくださいよ」
 ニヤニヤしながら突っ込んできた。それでも、クラウスは普段の調子を崩すことなく応戦する。
「そうだな。食事の時、会話する相手がいるというだけでも、かなり違うな」
「いやいや~。他にもあるっしょ?」
「他にも、と言うと?」
「だーかーら。『夜のコト』とかさ」
 瞳を爛々と輝かせて応答を待つ男子一同。対して、唯一の女子は会話の流れが飲み込めず、きょとんとしている。クラウスは場を見渡して一考し、フッと微笑んだ。
「はてさて、何の事やら。『ミノリにも分かるくらい』具体的に質問してくれないか?」
 名前を出されたミノリは、クラウスと対峙している友人を不思議そうに見つめる。目を向けられた彼は、ハハッ、と乾いた笑い声をあげた。
「あー、まあ、そっすね。……何でもないっす」
 友人側の完敗だった。やはりな、としたり顔をするクラウス。こういう追求が来るであろう事を前日から予想し、予め対策を練ってあったのだ。
 ミノリは彼らのことを「友人」と呼んでいる。つまり、それなりの時間を彼らと共有していたわけだ。にもかかわらず、恋愛事に関する知識は全くなかった。一方、年頃の男子が集えば、多かれ少なかれ下ネタに発展しないわけがなく。だとすれば。
(ミノリの前では、あえて猥談を避けていたとしか考えられない)
 その推測が、正しかったということだ。
「そうか。なら、この話は終りだな」
 にこやかに微笑んで、クラウスは宣った。
 
 その後、話題は二転三転し、今度は仕事の話になる。この題目の中心は、ミノリだ。
「ああ、ワサビはですね。難しい世話は特に必要ないですよ。水田さえしっかり管理していれば、あとは肥料を与え続けるだけで大丈夫です」
「へー。オレ、清水が必要かな、って思ってたけど」
「確かに、きれいなお水は必要ですね。ここに来るまでに見たかもしれませんけど、この町では水車で、川から常に新しい水を汲んでますよ」
「なるほどね。オレのところは近くに川がないんだけど、井戸水でもいけるかな?」
「試したことはないですけど、深くまで掘ってる井戸なら、むしろ井戸水のほうが適してると思います。元々は、山の清流に自生している種ですし……。浅いと微妙かもですね」
 クラウスには全くついていけなかったが、活き活きと話すミノリを見ているのは、それだけで楽しかった。友人たちから次々に質問を投げかけられていることから、彼女の作物に関する知識の深さが窺い知れる。
(ミノリは普段あんなだが、牧場仕事に関しては本当に優秀なんだな)
 会話を聞き流しながら、改めて感心した。ふと、友人の一人が、クラウスが完全に置いて行かれていることに気付く。
「クラウスさんは、ミノリの牧場仕事を手伝ったりするんですか?」
 何気なく話を振ると、クラウスは苦笑しつつ頭を振った。
「いや。手伝えることは手伝いたいと思っているんだが……」
 申し訳なさげに述べた彼の横で、ミノリはぶんぶん首を振って力説する。
「クラウスには調香のお仕事がありますし。牧場仕事はわたしの楽しみなので、むしろ手を出して欲しくないです」
 こういうことを真顔で言ってしまう辺り、女子力低いなあ、と思う男性陣であった。微妙に空気が変わってしまったのを察し、ミノリは慌てて「でも」と付け加える。
「お料理をしてもらえるだけでも、ほんとに助かってます。クラウスの作るご飯、とってもおいしいんですよ」
 食事の味を思い出し、幸せそうに「エヘヘ」と微笑んだ。「そのフォロー、今は逆効果だぞ」とミノリ以外の総員は心の中でツッコミを入れる。友人たちは、バツが悪そうな顔をしているクラウスへ哀れみの視線を向けた。
 気の利く友人が、流れを変えるために口を開く。
「クラウスさんは、お仕事のほう、どうなんですか?」
「ああ、まあまあ上手くいっているよ。昨年の春は一気に仕事が増えて忙しかったが、ここ最近はすっかり落ち着いた」
 甘い新婚生活を満喫したくてあえて仕事量を減らした、とまでは語らなかった。
「それに比べると、牧場仕事はほとんど休みも無いし、大変そうだな」
 クラウスの発言に対し、農畜産業従事者たちは「ご明察」とばかりに大きな溜息を吐く。
「ホント。オレ、今日がふた月振りの休みだよ」
「オレはもう少し取ってるかな。二週間振りだけど」
「わたしもそれくらいです。あ、でも、水遣りと動物のお世話だけは毎日やってますよ」
「それ、休んでるって言わねーから。あー、スプリンクラー欲しー」
「同意。ま、ウチは動物がいないだけマシかもしんないけど」
 クラウスは三杯目のウイスキーをグラスに注ぎながら、ハードな業界だな、と今更ながら思った。
 
 酒も大分進んだ頃。
「今年はやけに大人しいな」
 クラウスが指摘すると、ミノリは苦笑した。
「去年が盛り上がりすぎたんですよ。ねえ?」
 反対隣に向かって小首を傾げて見せれば、友人も「うんうん」と頷く。
「例年、こんなもんですよ。飛ばすのは最初だけで。去年は、ミノリに彼氏ができたって聞いて、皆テンション上がってたからなあ」
「だな。そもそもが独り身の寄り合いだったし」
「……なるほどな」
 去年のどんちゃん騒ぎから、ミノリと自分の話題を差し引いた図を想像し、クラウスは一人納得した。
「それにしても、何故お前らの中から、ミノリと付き合いたいと思うやつが出なかったんだ?」
 何気ない質問だったが、問われた方は顔を見合わせて失笑する。
「その理由は、見てもらった方が早いと思います」
 そう言って友人の一人が鞄から取り出したのは、小さなアルバムだった。ミノリの顔が、一瞬で真っ赤に染まる。
「なっ、なんでそんなの、今、持ってるんですか!」
「いや、こういう話題になったら、クラウスさんに見せてあげようかな、って」
「やめてっ! ほんと、やめてくださいっ!」
 約一名の激しい制止も聞かず、ニヤニヤする一同。
「ええと、これはですね。卒業記念にオレが作って実習メンバーに配った、ミニアルバムなんですけど」
 説明しながら、彼はぱらりとページを捲り、アルバムをクラウスに差し出す。それは、飲みの席での写真だった。
「ほら、これ。これがミノリです」
 指さした先には、ぼさぼさの長い髪を適当にまとめ上げた、継ぎ当てだらけのジャージ姿の女子が。大ジョッキを片手に涼しい顔をしている彼女の周りでは、三人の男子がぐったりと机に突っ伏している。
 確かに、これは可愛い可愛い自分の妻に違いない。が、クラウスは堪らず噴き出した。
「……状況は、大体、想像つきますよね」
 友人から笑い混じりに問われ、クックッと声を漏らしながら頷く。ミノリはと言えば、恥ずかしさここに極まれりといった様子で、両手で顔を覆って俯いている。
「一応フォローしておきますと、普段はこっちだったんですけどね」
 そう言って一枚捲った先は、実習中の写真だった。満面の笑みでトマトを掲げているミノリは、同じくジャージを着ていたが、継ぎ当ては肘と膝のみで、髪の毛もキッチリした三つ編みである。これは普通に可愛いな、とクラウスは口元を弛めた。
「本人は、オフなんだから別に構わねーだろ、って言い張ってたけどな」
「ミノリに惚れてた連中に、コレ見せたらどんな反応したんだろうな」
「結果は分かりきってるからやらなかった」
 笑い合う彼らに、ミノリは蚊の鳴くような声で言い訳を始める。
「だ……だって……まだ着れたし……服、買うの、もったいなかったから……」
「いや、そこだけじゃないから。この格好で、男三人も潰す女子に惚れるか? って話」
「潰す、っていうのは語弊があるよ。ミノリは黙って注いで回ってただけだし。……結果的には、似たようなもんだけど」
「ミノリがいいヤツだってのは、よーっく分かってる。けど、これじゃ女としては見られねーよなー」
「長年言いたかったことが言えて、スッキリした」
 ミノリ自身の酒癖が悪いわけでないことは重々承知しているが、それでも男としては、自分の妻が恋愛対象外と見なされた理由について大いに納得できた。
「だって、飲めちゃうんですもん……仕方ないじゃないですか」
 潤んだ瞳で俯きがちに呟いたミノリの頭を、クラウスはニコニコ顔で「よしよし」と撫でる。
「そうだな。飲めるんだから仕方ないよな。ミノリはそのままでいいぞ」
 悪い虫がつかなくて良いから、という年上旦那の心の声が聞こえた男性陣は、思わず苦笑した。
 
 
 およそ二時間後、友人三人が睡魔に負けて先に眠ってしまったことで、同窓会は自然とお開きになった。
 昨年と同じ流れでダブルベッドに潜り込む二人。クラウスはミノリの耳元で、極々小さな声で囁く。
「後で、服装を変えた経緯についても聞かせて欲しいな」
 ミノリは真っ赤になって、頭まで布団に潜り込んだ。
 
 

十二話 隣町デート

 
 
 隣町へ向かう乗合馬車の中、クラウスとミノリは並んで談笑していた。
 目的地までは、およそ二時間かかる。日に二本走っている路線バスで行けば移動時間は四分の一だが、クラウスはミノリの精神面に配慮し、馬車を選んだ。それなりの頻度で町の外へと出掛けている彼でも滅多に乗らないが、ミノリと一緒だと飽きることがないので、これはこれでいいな、と思った。
 クラウスが調香に関する蘊蓄をぽつりぽつり披露している間に、隣町の停留所に到着した。ミノリは弾んだ足取りで馬車から降りると、半回転してクラウスに向き直り、ふわりと微笑む。そんな彼女を目を細めて眺めつつ、クラウスも降車した。
「まずは、腹拵えといこう。何か食べたいものはあるか?」
「なんでもいいですよ」
 女性がこういう時、大抵は「なんでもよくない」ものだが、相手がミノリの場合は別だ。とりあえず、ここら辺でミノリ好みの料理とデザートが食べられる店を、とクラウスは見繕う。
「そこの角にパスタの専門店があるんだが、入ってみるか? 聞いた話によると、ティラミスも絶品らしい」
「はいっ。そこがいいです」
 パスタ好きのミノリは、大きな瞳をキラキラと輝かせて頷いた。
 石畳の通りを歩き出せば、半歩後ろをミノリがついてくる。彼女が横に並ばないのは、他の通行人に配慮してのことだろう。振り返らなければ姿が見えないのは少し寂しい気もしたが、クラウスは、ミノリのそんな律儀なところも好きだった。
 
 しばらく歩くと、お目当ての店の前に辿り着く。緑の三角屋根が可愛らしい建物の中へ足を踏み入れると、さっそくトマトとバジルの香りが漂ってきて、否応無く食欲が刺激される。
 ミノリは窓際の一席に着くなりメニューを開き、真剣な表情で暫時迷った後、クラウスに向かって「クリームパスタとティラミスで、お願いします」と囁いた。クラウスは軽く片手を挙げて店員を呼び、ミノリの言ったものと、加えてペスカトーレを注文する。
 料理が来るのを待つ間、ミノリはふっと窓の外に目を向けた。陶人形のようなその横顔があまりに儚げで美しくて、クラウスの背筋にぞくりと震えが走る。いつまでも見ていたいと思ったが、同時に、僅かな不安も感じた。
「ミノリ」
 名前を呼べば、いつものミノリに戻る。彼女はクラウスに視線を戻し、フフッと微笑んで「なんでしょう?」と尋ねた。気恥ずかしくて「何でもない」とは言えず、クラウスは適当に会話を繋げる。
「そういえば、ミノリは何故そんなにパスタが好きなんだ?」
 簡単な質問のつもりだったが、ミノリは「うーん」と考え込んだ。
「そういえば、なんででしょうね。つるつるって食べられるから……? あと、どんな野菜にも合うところも好きです」
 でも一番は、と続ける。
「乾燥麺にしておけばすぐに作れるし……経済的だから、でしょうか?」
 クラウスは、思わずククッと噴き出した。実にミノリらしい理由だ。
「なにか、おかしかったですか?」
 ほんのり頬を染めて尋ねてくる彼女に、クラウスは「いや」と首を横に振る。
「ミノリらしいな、と思っただけだ」
「『らしい』ってなんですか。……本当は、どのお料理も大好きなんです。けど、忙しくてゆっくり作って食べる時間がない時は、なんとなくパスタにしちゃうんですよ」
「そうか。なら、今日はパスタでなくても良かったか?」
「いえ。たくさん食べてる内に、一番好きになっちゃったんです。それに、プロのひとが作るパスタって、すごくおいしいでしょう?」
 確かにな、とクラウスは笑った。そればかり食べて飽きるでもなく、余計に好きになってしまう辺りが面白い子だな、と思う。そんな他愛のない会話をしていると、注文した品がテーブルの上に置かれた。
「「いただきます」」
 
 昼食を食べ終え、店を後にした二人は、また一列になって町を散策した。ミノリは家具や日用雑貨が好きらしく、その手の店の前を通りかかる度に立ち寄ったが、呟く言葉は毎度「これ、どうやって作るんでしょう」だった。「欲しい」ではなく「作りたい」なのか、とクラウスは苦笑する。
 実のところ、クラウスは今日のデートで、ミノリに何かプレゼントをする機会を窺っていた。しかし当の彼女が何も欲しがらないので、なかなか切り出せず。
「ミノリは、何か欲しいものはないのか?」
 それとなく聞いてみるが、「特にないです」と即答されてしまった。
 恋人期間も大概そうだったとは言え、デートなのに手も繋がないどころか、並んで歩きもせず、ただ一緒に食事をしてブラブラ歩くだけのこの状況。ミノリは大満足の様子だが、クラウスとしては、もう少し新婚夫婦らしいことをしたかった。
「ミノリ。市場の方へ行ってみないか?」
 そう誘ったのは、人混みに突入することで、自然と手を繋ぐ機会を得たかったからだ。そんな夫の意図には全く気付かないものの、ミノリは満面の笑みで同意する。
 しかし市場に近付き、徐々に人が増えてくると、彼女は彼女で、ふと思い至った。
(そっか。人がいっぱいだから、今なら手を繋いでもおかしくないですよね)
 そして、ドキドキしながらクラウスの手に自身の左手を伸ばした―が、やはり恥ずかしくて、彼のコートをきゅっと握ってしまう。気付いたクラウスは「一足遅かったか」と、ミノリに感付かれないよう小さく溜息を吐いた。
 微妙な距離感で歩く二人。
 まるで初デートに臨む若造のようだと、クラウスは心の中で自嘲する。大人の余裕は、こういう時にこそ発揮すべきなのに。それができないのは、世間の目がある故の気恥ずかしさからだった。
 無言で足を進めている内に、市場へ着いてしまった。
「わあ、にぎやかですね」
 ミノリが驚いたように言う。クラウスは、「そうだな」と相槌を打ちつつ、何かミノリが欲しがりそうなものはないかと辺りを見回した。
「なにか、買いたいものがあるんですか?」
 きょろきょろと頭を動かしているクラウスを仰ぎ、ミノリが尋ねた。クラウスは、ギクッとする。
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
 そうですか、と相槌を打ち、ミノリも周囲を眺め始めた。すると、彼女の目に興味深いものが映る。
「ねえ、クラウス。あれ、見てもいいですか?」
 くん、くん、とコートを掴んでいた手を引き、ミノリが指し示したのは、オルゴールを売る露天だった。これはいいぞ、とクラウスの胸が高鳴る。
「ああ。行ってみようか」
 ニコニコ顔で答え、そちらへ足を向けた。展示台の前に立てば、店主である老齢の女性が人懐こい笑みを向けてくる。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていってね」
 ミノリは目を輝かせて、さっそく商品の一つを手に取った。
「すごい、きれい。キラキラしてるけど、木製なんですね。手作りですか?」
 感心したように問うと、店主は心底嬉しそうに微笑む。
「そうよ。夫と私の手作りなの。二人とももう歳だから、少しずつ作っては、こうやって、たまーに、市場に持ってきているの」
「この模様、ぜんぶ手彫りですか?」
「ええ。夫が掘って、私が色を塗っているの」
 ミノリはしばらくの間、他の商品にも食い入るように見入っていたが、やはり最初に手にしたものが一番気に入ったらしく、そこそこ値が張るにも関わらず迷いなく「これ、ください」と店主に手渡した。そこでクラウスは、鞄を開きかけたミノリの手を制し、自分の懐から財布を取り出す。
「お会計は、私に」
 慌ててクラウスを振り仰ぐミノリ。
「だっ、ダメですよ。自分で買います」
 そんな二人を順に見遣り、店主はクスリと笑う。
「お嬢さん、ここは素敵な彼に出してもらいなさいな。甘え上手は、愛され上手、よ?」
 ミノリは、かあっと上気して俯いた。その隙に、クラウスは手早く会計を済ませてしまう。彼の口元は、無意識に綻んでいた。
「あの……ありがとうございます……」
 ミノリは、申し訳ないと思っているのか嬉しいと思っているのか判別のつかない複雑な表情で、クラウスを見上げる。
「どういたしまして」
 クラウスは穏やかに微笑み、彼女の頭をくしゃりと撫でた。「こちらこそ、出させてくれてありがとう」と思いながら。
 
 クラウスが懐中時計を確認すれば、午後三時ちょっと過ぎ。そろそろお茶にしようかと、二人は市場を出て、件の喫茶店へ向かった。
「ここは紅茶がメインでな。特に、セイロンブレンドが美味いんだ」
 席に着いたクラウスはそう言って、ミノリにメニューを差し出す。ミノリは内容をよく吟味した上で、「じゃあ、セイロンブレンドと、ベイクドチーズケーキをお願いします」とクラウスに囁いた。ここで、クラウスはふと気付く。
(これは、甘えられているのか)
 頼みたい物をいちいちクラウスに口伝えているのは、自分で注文をするのが苦手だからなのだろう。非常に分かり難い甘え方だが、意識し始めると、途端にその言動が可愛らしく思えてきた。思わず口端を弛めつつ、店員を呼ぶ。
「セイロンブレンドを二つと、ベイクドチーズケーキ。それと、チーズスコーンを頼む」
 店員の背中を見送り、クラウスはミノリに向き直った。彼女はまた、ぼんやりと窓の外を眺めている。一体、何を考えているのやら。
「ミノリ。何か考え事か?」
 尋ねれば、ミノリはすぐに視線を戻して「いいえ」と微笑む。家にいる時にもふと見せるこの一連の仕草は、クラウスを何となく不安な気持ちにさせた。が、出てきたチーズケーキを一口食べた後のミノリを目にしたら、そんな不安もあっという間に吹き飛ぶ。
「おいしいです……っ!」
 ミノリは、ぱあっと破顔し、あまりの美味しさに意図せず口元を抑えた。彼女の背後に、舞い飛ぶ花でも見えるようだ。クラウスは「大げさだな」と笑う。
「なんですか、この香ばしいのと、底のサクサク。なんでこれ、崩れないんですか?」
「クッキー生地じゃないのか?」
「違うみたいです。……いえ、でも、そうなのかも? ……んー、分かりません」
 興奮した様子で語るミノリを楽しげに眺めながら、クラウスも紅茶を一口啜った。
 
 三時のお茶を終えると、二人は乗合馬車の最終便に間に合うよう、足早に停留所へ戻る。冬場の平日ということもあってか、乗客はクラウスとミノリの二人だけだった。
 馬車が走り出すと、ミノリはご機嫌な様子で鞄からオルゴールを取り出し、愛おしげに眺め始める。
「オレも、見せて貰っていいか?」
 クラウスが尋ねると、ミノリは「もちろんです」とにこやかに許可を出し、差し出された彼の大きな掌の上に、楕円形のオルゴールを載せた。
 その場ではよく見ていなかったものの、確かに、精緻な彫りの施された美しい細工物である。模様は四季の花々と草木を象っており、所々に天然石がはめ込まれている。着色も淡い色合いを基調とした、大変センスの良いものだ。
 意外だったのは、アクセサリーや服には興味を示さないミノリが、このような何の実益もない飾り物を欲しがったことだ。
「ミノリは、オルゴールが好きなのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど。……昔、似たようなのが家にあったなあ、って思いまして」
 ミノリは、心なしか寂しそうに微笑んで答えた。彼女の言う「昔」がおよそいつ頃かは、推して知るべしである。クラウスは胸が切なくなり、思わずミノリの頭を抱き寄せる。
(オレが買ってやれて良かった)
 心の底から、そう思った。そして他に誰もいないのをいいことに、彼女の髪にそっと口付ける。
 ミノリはクラウスの肩に頭を預け、大きな手が優しく髪を梳くのを感じながら、幸せそうに瞼を閉じた。
 
 

十三話 需要と供給

 
 
 近頃、ミノリの雰囲気が変わったな―とは思っていた。
(以前と比べ、余裕が出てきたというか。三年近くもこの町で過ごしていれば、当然のことなのかもしれないが……)
 クラウスは道端に棒立ち、ギルド前でクロンやメノウと世間話に興じている妻を遠巻きに眺めながら、そんなことを考えていた。彼の心が、微かにざわつく。
―不安だ。
 新婚の浮かれ気分も一段落つき、ここのところ頻繁に感じるようになったこの気持ち。自覚はしていたし、理由も分かっていた。
(オレと付き合っていた頃はまだ町にも不慣れで、仲の良いやつも少なかったものだが……今では、ミノリもすっかりこの町に溶け込んでいる。オレが目を離した隙に、ふらりと心変わりして、どこかへ行っちまうんじゃないか……? なんて、そんなことは、ないだろうが……)
 苦しくなった胸元を、ぎゅっと掴む。それでも、痛みが緩和されることはない。
 これ以上眺めていると、会話を楽しんでいるミノリの邪魔をしてしまいそうだった。クラウスは後ろ髪を引かれる思いで、その場を立ち去る。
(結婚して、落ち着いたと思っていたんだが。オレはどうにも、独占欲や支配欲が強すぎるらしい)
 彼は、ふう、と深い溜息を吐いた。
 ミノリの成長は喜ばしいことだし、早く過去の軛から解放されて、ありのままの彼女でいられるようになればいいと切に願っていた―にもかかわらず、彼女が自分の世界を広げ、今まで知らなかった表情を見せる度に不安が募り、このままずっと自分に縛り付けておきたい衝動に駆られる。
 ずっと自分の傍に居て、自分だけを見て欲しい。自分だけのミノリでいて欲しい。彼女の目に映る世界、経験の全てを、自分の手中に収めてしまいたい。そんな攻撃的なまでの欲望が、堰を切って溢れ出しそうになる。
 束縛するのは、おそらく容易なことだ。甘やかし、抱き締めて、いかに外の世界が恐ろしいか、自分の腕の中が安全なのかを、何度も繰り返し耳元で囁き続ければいい。外堀を埋めて逃げ場を無くし、彼女の心の傷につけ込んで、完全に自分に依存させてしまえば―
(いかんいかん)
 クラウスは、邪な思惑を振り払うように頭を振る。気を抜くと、本当に実行へ移しかねないから恐ろしい。
(いや、既にやっちまってるか……)
 心当たりは多分にあった。
(だがミノリは、「甘やかされている」としか思っていないはずだ)
 むしろ、そうでなくては困る。こんなドロドロした感情が向けられていることを、愛しい妻に悟られる訳にはいかない。後にも先にも、決して。
 
 
 その夜。ミノリはソファでクラウスに後ろから抱き締められ、穏やかな気持ちに浸っていた。
(落ち着くなあ……)
 この町に来てから―特に彼と結婚してからは、格段に人付き合いが増えた。しかし、元々他人との会話はあまり得意でないため、疲労感を覚えることも多い。決して嫌というわけではなく、むしろ嬉しい変化と捉えていたが、どうしても気疲れはしてしまう。それでも、人付き合いを避け続けていた過去から見れば大分成長したと、ミノリは自負していた。
「あのね、クラウス」
「ん?」
「この前の同窓会で、『なんで服装を変えたのか聞きたい』って言ってましたよね」
「……そうだな」
「まだ、聞きたいですか?」
 意外な問いだった。ミノリが自ら自分の話を切り出すなんて珍しいな、とクラウスは胸を躍らせる。
「……ああ。聞きたいな」
 彼の答えに、ふう、と小さく息を吐いてから、ミノリはぽつりと語り出した。
「本当は、ずっと一人でもよかったんですけど……社会に出たら、そうも言ってられないですよね」
「そうだな」
「だから、です」
 以上だった。舌足らずな感は否めないが、噛み砕いてみれば、非常に合理的な理由だ。この子は自分と出会う前からきちんと自分の考えを持っていたのだと、クラウスは改めて気付かされた。
「最近はどうだ? 人間関係で困ったことはないか?」
 何気なさを装って尋ねれば、ミノリはふるふると首を横に振る。
「ないです」
「……そうか」
 クラウスは、僅かに落胆した。そんな自分が酷く汚く思え、自責の念に苛まれる。知らずして眉間に皺を寄せたが、幸い、その表情はミノリからは見えなかった。
 ミノリが「でもね」と静かに言葉を継ぐ。
「……やっぱり、疲れはします」
 希に聞く弱音だった。
「……そうか」
 クラウスは切なげに微笑み、ミノリの頭を優しく撫でる。
「あの……わたし、ちゃんと頑張れてると、思いますか?」
 おずおずと問うミノリ。彼女の欲するものは分かっていたが、それは皮肉なことに、クラウスが彼女に施したいと渇望して止まない、束縛の手段の一つでもあった。だが、本人が望むのであれば仕方がない。クラウスの背筋が、後ろ暗い悦びにゾクリと打ち震えた。
「ああ。……ミノリは、よく頑張ってるよ」
 爽やかな香りのする柔らかい髪を指先で弄びながら、彼女の耳元で、低く囁く。
「……いい子だ」
 その甘く痺れるような声に、ミノリはうっとりと瞼を伏せた。
 
 

十四話 「オレの、

 
 
 町外からの仕事帰り、午後三時過ぎ。喉の渇いていたクラウスは、一杯コーヒーでも飲んでから帰ろうかと、レストランの扉を開けた。カラン、と涼やかにドアベルが鳴れば、元気な声に出迎えられる。
「いらっしゃいませ! ……あ、クラウスさん」
 まず目に入ったのは、見目好い青年店主と、元気印の少年牧場主、そして愛しの妻の姿だった。
「クラウス! 偶然ですね」
 ミノリの心底嬉しそうな微笑みに、クラウスも思わず破顔する。彼はつかつかとカウンターに歩み寄り、妻の右隣の席に腰を降ろした。
「ミノリも、三時のお茶か?」
「はいっ。アップルパイを食べてました」
 答えたミノリの手元には、既に空になった皿が。彼女は、残った紅茶を一口啜った。
「レーガ、コーヒーを頼む」
「はいよ。ちょっと待っててくれ」
 レーガが背を向けると同時に、ミノリの左隣に座っていたフリッツが彼女の背中越しに顔を覗かせ、人懐こく声をかけてくる。
「今なー、ミノリとレーガと、好きな食べ物の話してたんだ!」
 クラウスは、ハハッと笑って「そうか」と相槌を打った。
「そんでな、ミノリはパスタ、レーガは和食、オレはとりあえず『高級』ってつくヤツがうまい、って言ってたんだけど……」
 一旦言葉を切り、彼は顔を引っ込めてミノリに向き直る。
「やっぱりさー、オレ、一番はお袋の手料理だと思うんだよな!普通の野菜炒めとか、何でか知んないけど、すっげーうまくないか?」
 ミノリは、何かを思い出そうとするように天井を見上げる。そして、少し寂しそうに微笑み、フリッツに視線を戻した。
「そうですね。わたしは、甘いほうの玉子焼きが好きです」
 彼女の表情からクラウスはその心中を察し、慌てて話題を逸らそうと口を開き掛ける。しかし、彼が声を発するより早く、横から口が挟まれた。
「はい、コーヒーお待たせ。……そういえばフリッツ、そろそろ行かなくていいのか? ダイコンの種撒きが残ってる、って言ってたろ?」
「あっ、忘れてたぜ! レーガ、ごちそうさま! ミノリ、また後でな!」
 レーガの発言で自身の予定を思い出したフリッツは、大慌てでレストランを飛び出していった。その後ろ姿を、店主の青年は呆れ顔で見送る。
「相変わらず、落ち着きのないヤツだな」
 一連の流れを静観していたクラウスは、心なしかほっとした表情のミノリと、会話途中で帰宅を促すという不自然な行為に出たレーガを、交互に見遣った。
(まさか、オレ以外の人間に「あのこと」を話したのか……?)
 例えようのない不安感に襲われ、彼の心臓がドクンと跳ねる。しかし外面は、何とかいつもの穏やかさを保っていた。
「クラウスは、コーヒーを飲み終わったらウチに帰りますか?」
「ああ」
「じゃあ、一緒に帰りましょう? ……レーガ、紅茶のお代わりをお願いします」
 ミノリが無邪気に笑って言う。普段なら可愛くて堪らないはずの彼女の笑顔を、この時は、僅かに苛立たしく感じた。
 
 
―我慢の限界だった。
 
「……ミノリ」
 いつもとは明らかに違う低い声音で名前を呼ばれ、シャワー上がりのミノリはビクンと肩を震わせた。
「何でしょう?」
 おずおずと尋ねても、背を向けてソファに座っているクラウスは振り返らない。
「こっちへ来なさい」
 厳かに命令され、ミノリは恐る恐る彼の向かいに座った。不安げにクラウスを見つめるが、彼は手指を組み、面を伏せたままで、その表情を読むことは出来ず。
 不意に、クラウスが頭を上げる。彼の眉間には、皺が刻まれていた。
「あ、あの……」
 ミノリは沈黙に堪えきれず「わたし、何かしてしまったでしょうか」と尋ねかけたが、あまりに重く張り詰めた空気に、思わず口を噤む。
 しん、と静まりかえる室内。柱時計の音が、やけにうるさく感じた。
 しばらくの後、クラウスが徐に口を開く。
「レーガに、話したのか? ……両親のことを」
 怒っている口調ではなかったが、優しさの欠片も感じられなかった。ミノリはワンピース型の部屋着の膝部分を、きゅっと握り締める。
「……はい」
 確かに彼の詰問通り、話の流れで「両親は他界している」とレーガに語ったことがあった。しかし、それの何がいけなかったのか、ミノリには分からない。それでも、どうやらクラウスを酷く怒らせてしまったらしい、ということだけは理解できた。
「……ごめんなさい」
 ミノリは俯き、ひとまず謝る。クラウスは、はあ、と震え混じりの大きな溜息を吐き、両手で頭を抱えた。
「……ミノリ。本当に、自分が悪いと思っているか?」
 否と言わせない雰囲気だった。ミノリは、つい「はい」と答えてしまう。優しい彼がこれだけ怒っているのだから、きっと自分はまた何か間違ってしまったのだろう、などと思いながら。
 突然、クラウスはミノリの手首を掴み、力任せに引いてきつく抱き締めた。彼の体は熱く、僅かに震えている。
「あ、の……苦しいです……」
 ミノリはドキドキしながら声を絞り出したが、その言葉は聞き入れられなかった。クラウスは彼女の耳元に唇を寄せ、揺れる声で、惑うように囁く。
「悪い子には、お仕置きが……必要、だな」
 そこに、一切の甘さは無かった。
 
 クラウスはミノリを抱きかかえることなく、半ば引き摺るようにベッドへ連れて行くと、彼女の体を乱暴に投げ出した。終始無言のまま、ブーツとベストをぞんざいに脱ぎ捨て、ミノリの太股に跨る。
 そんな彼の顔を、ミノリは恐怖するでもなく、ただ呆然と見上げていた。
(クラウス、なんだか辛そう……)
 小さな胸の痛みと共に、ぼんやり考える。自分でも驚くほど冷静だった。すぐにでも、その辛さを昇華して欲しくて。彼が怒っている理由も、この状況の説明も、全て後回しでいい。今は、全部クラウスのしたいように―そう思った。
 クラウスは間髪入れず自身のタイを解くと、ミノリの腕を手荒く引いて上半身を起こさせる。淡黄色の長い布を軽く伸ばし、彼女の両瞼に宛がった。
 クラウスの頭の中で、理性が激しく警鐘を鳴らす。それでも、ミノリの視覚を略す手は止まらない。行き場のない不安と怒りを御せない自分自身が恐ろしくて、小刻みな震えが収まらなかった。
(ミノリ……拒絶してくれ)
 クラウスが切に願っても、優しいミノリは残酷に許容する。先を促すように彼の肩へ手を添え、見えないはずの目で彼の顔を見上げた。その寛容さに戦慄したクラウスは、再びミノリをシーツへ突き放す。
 掻き毟るように自身のシャツを剥ぐと、クラウスはミノリの両手首を無理矢理後ろ手にまとめ上げ、脱いだ服の袖で固く縛った。決して、彼女自身の力では、解けないように。
 視力と両手の自由を奪われたミノリは、頬を上気させ、横向きに転がる。
 クラウスは、抵抗したくてもできない―もっとも、ミノリには抵抗する気など毛頭無かったが―彼女を見下ろし、己の強すぎる独占欲と征服欲が、同時に満たされていくのを感じた。しかし、罪悪感と、ミノリを失うことへの恐怖の方が、ずっと大きかった。
 クラウスは彼女の耳元へ、恐る恐る唇を寄せる。
「……ミノリ」
 震える声で優しく名前を呼ばれたミノリは、きゅっと唇を結んだまま、僅かに体を動かすことで反応を示した。クラウスは、「愛してる」と言いかけて、口を噤む。
(こんなことをしておいて、どの口が言えるか)
 代わりに、横になってミノリの体へ寄り添い、彼女を抱き締めた。クラウスの不安と怯えを全身で感じ取ったミノリは、彼の胸の中で、静かに呟く。
「……あの……クラウス」
 相槌は無い。それでもミノリは、固唾を呑んで続ける。
「キス、……しても、いいですよ?」
 砂糖菓子のように甘い誘惑を受け、クラウスの胸に切ないまでの愛しさと、僅かな安心感が込み上げる。同時に、この子を組み敷き、心も体も完全に支配したいという欲求が再び頭をもたげた。
(甘えるな。……もう、彼女を解放しろ)
 自分自身を諫めるが、腕の中の女性は道徳を否定するように熱を押しつけてくる。
 応じてはいけないと分かっていた。それなのに。
「……いいのか?」
「……」
 ミノリは、黙って頷く。
「普通のキスじゃ済まない……かも、しれないぞ?」
「……いいです」
 欲しい、欲しいとクラウスの心が叫ぶ。
「……痛くしないとも限らない」
「構いません」
 確認する毎に薄れる恐怖心。この応酬がどこへ向かうのか、最初から分かっていた。分かっていて始めたのだから、心は既に決まっていたのだろう。
(オレは、最低だ……)
 クラウスは、ミノリの耳元で、低く問う。
「本当にいいんだな?」
「はい」
 それが、最後のやり取りだった。ずっと我慢し続けていた「食事」の許可を得た悪い狼は、彼女の柔らかい下唇に、文字通り噛み付く。
「んっ……」
 ミノリは小さく声を漏らし、自らを生き餌として差し出した。
 桜色の唇に薄く滲んだ紅をクラウスがぺろりと舐めつつ、半開きの口腔へ舌を捻じ込めば、彼女の唾液の妙味に、苦い罪悪感までもが引き立て役のスパイスとさえ感じられる。いっそ晩餐が終わるその瞬間まで、全ての感情が混じり合って判別できなくなってしまえばいい―彼は投げ遣りな気持ちなった。
 口を離し、間を置かずして耳殻を食めば、ミノリがきゅっと唇を引き結んで甘い刺激に耐える。
―もっと、もっとだ。体だけでは足りない。心まで平らげてしまいたい。
 激しい飢餓感に抗えず、クラウスはミノリの耳元で囁く。
「どうだ? ……大好きなキスの味は」
 ワンピースの裾を捲り上げながら、彼女の太股を撫でた。答えないミノリを煽るように、その手を徐々に上へ移動させる。
「こんな格好にされて、『キスしてもいい』だなんて……ミノリはいやらしい子だな」
 無論、彼女が「クラウスのために」そう言ったのだということは分かっていた。献身的な思いやりすらも食い物にしてしまうのが、彼が必死で抑圧していた欲望の本質である。
「口の端から涎が垂れてるぞ?」
 指摘されたミノリは、真っ赤に頬を染めて、シーツで拭こうと顔を動かす。が、クラウスの左手が彼女の頬へ伸び、それを阻止した。
「拭いて欲しいか?」
 無言でこくんと頷くミノリ。
「なら、どうすればいいか……分かってるな?」
「……拭いてください」
 涙声で、ぽつりと要求する。相手が「優しくてカッコいいクラウス」であればそれで十分だが、牙を剥き出した狼には通用しなかった。
「違うな。……まずは、『ごめんなさい』だ」
 自身の台詞の醜悪さに、ゾクゾクする。
「言いなさい。『いやらしい子でごめんなさい』ってな」
 拒否してくれればいい、と思った。そうすれば、ここで終われる。きっと、ミノリのためにも、自分のためにも、それが一番良い。―はずなのに。
「やらしいこで……ごめんなさい……」
 ふるふると震えながら、ミノリは言葉を漏らした。
「……いい子だ」
 クラウスは艶めいた声で囁いて、彼女の口端を拭ってやった。
 
 貪欲な狼は、止める猟師がいないのをこれ幸いと、自由を奪われた可哀想な娘に、謝罪と要求とを繰り返し強要し続けた。結果として、彼女の下半身に太く硬い牙を突き立てるに至っていた。
 クラウスは座位でミノリを抱き締め、本能の赴くまま、はだけた服の隙間から、その首筋に、肩に、胸元に―摘み食うように、所有の証を残す。
 
 独占できないことなど分かっている。本気で支配したいとも思っていない。一番に願うのは、ミノリの幸せだ。
 妻のことを、心から信用もしている。浮気を疑ったり、他の人間に強く嫉妬しているというわけでもない。
 自分に向けられる限りない愛情も感じているし、自分も本気で愛している。今が幸せなのは確かだ。
 それなのに―
「オレの知らないミノリ」の存在を意識しただけで、不安で不安で仕方がなくなる。その不安は、「愛情の残濁」とでも呼ぶべき、漠然とした何かだった。
 
「ミノリ……お前は、誰のモノだ? ……言ってみなさい」
 これで、最後だ。余裕をかなぐり捨て、最愛の女性を陵辱してまで、求めて止まなかったもの。
 触れ合っていても、愛を囁かれても、体を重ねても解消されなかった「不安」を、唯一処理してくれるであろう一言。
 狂おしいほど愛おしい彼女の唇が、その言葉を紡ぐ。
「クラウスの、です……」
 無理矢理言わされた響きではあった。しかしそれでも、クラウスを安堵させるには十分だった。
 翻弄され、蕩かされて、合理的な思考力などすっかり失っていたミノリだが、自由を奪われ鋭敏になった感覚が、繋がった体を通して、彼の心境の変化を捉える。ミノリは、半ば本能的に「クラウスの欲していたもの」を理解した。
 唇から伝わる感触で彼の頬を探し当て、おそらくトパーズの瞳があるであろうそこに、真っ直ぐ顔を向ける。そして、ふっと口元を弛めた。
「……わたしは……ずっと、クラウスの、ですよ……だから、大丈夫」
 クラウスの表情が、苦しげに歪む。無論、目隠しされたミノリには見えないが、彼の頬を一筋の涙が伝った。
 思いが堰を切って溢れ出し、止まらない。
「ミノリ……愛してる。愛してるんだ……なのに、こんな……すまない……」
 クラウスは微かに震えながら、ミノリをぎゅっと抱き締める。
「大丈夫……わかってます」
 ミノリは下半身を襲う甘く切ない刺激に耐えつつ、彼の首筋に優しくキスした。
「いいんです……いいんですよ、クラウス……がまんしなくて」
 午後の微睡みのような穏やかさと、赤い月夜のような妖しさを含んだ声に導かれ、クラウスは躊躇しながらもミノリを組み敷く。
「ミノリ……もう一度、言ってくれ。お前は、オレのだよな……?」
「……はい。クラウスの、です……」
 脳を溶かすような疚しく激しい欲望に身を任せ、彼は己の不安ごと、ミノリの全てを食らい尽くした。
 
 
(本当に役に立つとは思いませんでした)
 翌日の昼過ぎ、水色のマフラーをしっかりと巻いたミノリは、イリスから借りた本を片手にアンティークショップを訪れた。
「こんにちは、イリスさん。今、大丈夫ですか?」
「あら、ミノリさん。大丈夫よ。……ウフフ、ご機嫌みたいね」
 見目麗しい女小説家が、そう言ったのも無理はない。ミノリの頬は、弛みっぱなしだった。
「そのマフラー、可愛いわね。作ったのかしら?」
 指摘され、ミノリの顔が一瞬で耳まで真っ赤に染まる。
「えっ……と……はい」
 本当に分かりやすい子だわ、とイリスはクスリと笑った。これは、後でクラウスにお説教しておかねば。
「あ、そうでした。お借りしていた本を返しにきたんです」
 思い出したように言って、ミノリは鞄から三冊の分厚い本を取り出す。飲み比べをした一週間後、イリスが「ぜひこれを読んでみて」と強引に貸し出した、他者著作の恋愛小説だ。
「ごめんなさい、読むのにだいぶ時間がかかってしまって……。ありがとうございました」
 ミノリは顔から湯気を出しつつ、イリスに本を差し出した。
「どう? お役に立ったかしら?」
 涼しい顔でイリスが問う。ミノリは慌てて、真顔でぶんぶん首を横に振った。
「いえっ、ぜんっぜん。ぜんぜん役になんて立ってませんよ?」
 イリスは腹を抱えて笑い出したいのを、必死で我慢する。しかし、失笑は隠し通せない。
「フフッ、そう……それは何よりね」
 目の前の大人な女性が、自分の考えなど完全に見透かしていることは分かっていた。長居するほどクラウスにとって不利になると悟ったミノリは、勢いよくぺこりと腰を折り、「では、おじゃましましたっ!」と大急ぎで部屋を後にする。
 その背中を見送りながら、イリスは「次は年の差恋愛モノに、ソフトSM要素を加えてみようかしら」などと、滾る創作意欲に疼いていた。
 
 

十五話 夜の協定

 
 
 クラウスがミノリに醜態を晒して後、五日間。彼は普段通りの紳士に戻っていたが、ほとんどミノリに触れていなかった。向かい合わせでソファに座る二人は、今現在の空気に対し、同時に同じ感想を抱く。
((気まずい……))
 「あの夜」の話題は、どちらからともなく避けていた。気恥ずかしかった所為もあるが、お互い、件の状況に至った経緯をどう説明してよいものか迷っていた為だ。しかし、このままではいけないということは双方とも理解していた。特に、禁欲が限界を迎え始めていたクラウスは。
「……ミノリ」
 口を切ったのは、無論、余裕がない側のクラウスだった。彼はミノリから視線を逸らしつつ、前屈み気味に、足の上で組んだ両手指をそわそわと動かしている。心なしか緊張したその様子から、ミノリは彼が何を話題に上げようとしているのか、すぐに察した。
 それでも、あえて素知らぬ風で尋ねる。
「何でしょう?」
 腹の探り合いは、この夫婦の日常茶飯事だ。しかし、頬の赤味に心中があらわれてしまう分だけ、ミノリの方が分が悪い。
 クラウスも、自分の言わんとしていることをミノリが察している現状に気付いていたが、構わず続ける。
「『あの夜』のことなんだが……その……すまなかった」
 まずはともあれ、謝罪だ。ミノリは怒ってなどいないだろうが、いくら性的知識に乏しい彼女にも、「普通でないことをされた」という認識はあるに違いない。
「いえ……大丈夫です」
 ミノリは上気し、伏し目がちに呟いた。何が「大丈夫」なのかよく分からないし、後ろめたくて訊く気にもならないが、とにかく許されてはいるらしい。クラウスはミノリの寛容さに安堵しつつ、必死で次の言葉を探す。
 問題は、ここからなのだ。自分が彼女に、どんな気持ちで、何をしてしまったか、当たり障りなく説明し、解ってもらわなければ。はぐらかすことも可能だが、経験上、夜の問題を放っておくと後々思わぬ大事に発展し兼ねない。
「不安……だったんだ。オレの知らぬ間に、ミノリが遠くへ行ってしまうような気がしてな……」
 ミノリは、きょとんとする。
「わたし、どこへも行きませんよ? ……ずっと、ここにいます」
 察しがいいのか、悪いのか。クラウスは苦笑する。
「そうだな。そんなことを思うのはおかしいと、自分でも分かっているんだが……」
 言い淀んでいると、ミノリが何かを思いだしたように「あ」と小さく声を上げる。
「そういえば、訊いてませんでした。あの時、クラウス、なんで怒ってたんですか?」
 痛い質問だった。だが、それに答えるのが手っ取り早いか、とクラウスは重い口を開く。
「嫉妬……に近いが、違うな。……逆に訊いて悪いが……ミノリは、レーガにどこまで話した? その……両親のことを」
 ミノリは過去の会話を思い出そうと、しばし天井を仰ぐ。視線はそのままで、ぽつぽつと語り出した。
「えっと……確か、『一人でこの町にきて、両親が心配してないか?』って話になって……それで、『他界してるので、大丈夫です』って答えたと思います」
 思わず拍子抜けするクラウス。同時に酷い罪悪感に襲われ、思わず頭を抱えた。
(そうだな……その程度の日常会話は、普通にあるよな……)
 ミノリは、辛そうなクラウスを不安げに見つめる。
「……クラウス。わたし、やっぱり良くないことを言ってしまったんでしょうか……?」
「違う。ミノリが悪いんじゃない……ミノリは、全く悪くない」
 クラウスは面を伏せたままキッパリと言い切り、ふう、と一つ溜息を吐いて、ミノリに向き直る。
「前にも言ったかもしれないが……オレは、お前を独占したいという気持ちが、どうにも強すぎるらしい。オレしか知らないと思っていた話を……レーガにも、したのかと思ったんだ」
 ミノリは目を剥いた。
「あ、あんな話っ……クラウス以外に、するわけないじゃないですか」
 クラウスの胸に、じわりと滲むように嬉しさが広がる。
「そう……だな。そうだよな」
 何が可笑しかったわけでもないが口元が緩み、「ハハッ」と笑いが漏れてしまった。不思議そうに小首を傾げるミノリ。
「……それで、なんで怒ってたんですか?」
 ふっと笑みを消し、クラウスはバツが悪そうに彼女から目を背ける。
「いや……怒っては、いなかった。……とにかく不安で……それが、訊きたかっただけだ」
 クラウスは少々嫌な予感を覚えたが、やむを得ず正直に伝えた。
「え……? じゃあ、なんで……あんな……」
 ミノリは、呆然と呟く。案の定だった。
「え……? じゃあ、わたし……? クラウス、怒ってると思って……」
 クラウスは両膝に手をつき、がばっと頭を下げる。
「本当にすまなかった!」
 
「……言い訳をどうぞ?」
 口を尖らせたミノリが、ぽつりと促した。従うしかないクラウスは、恐る恐る顔を上げ、慎重に言葉を選ぶ。
「あー……その……何だ。ミノリが、可愛くて……だな。堪らなく、欲しかったんだ」
 大人の知恵を総動員しても、この程度。子供じみた言い訳しかできなかった。彼の背中に冷たい汗が滲む。
「それで……? わたしを悪者にして、お仕置きとか言って……目隠ししたり、縛ったりするんですか?」
 自分で言っていても恥ずかしいのか、ミノリは真っ赤な顔で追求した。クラウスも赤面し、再び下を向く。己の愚行を彼女の声を通して改めて認知させられ、羞恥心と罪悪感とでいっぱいになった。
「……悪かった」
 ひたすら謝ることしかできない。ミノリは、はあ、と大きな溜息を吐く。そして、ふっと真面目な表情になった。
「他にも、ありますよね」
「……」
「なんで、あんなに辛そうだったんですか?」
 クラウスはギクリとする。ミノリの慧眼には、恐れ入るばかりだ。観念したように小さく息を吐き、下を向いたまま、素直に告白を始める。
「悪いことをしているのは、分かっていた……それに、ミノリを傷つけたくもなかった……はずなんだが……。……止まれなかった」
 ミノリは真剣な面差しで、彼の言葉にじっと聴き入る。
「自分が、怖かった。……ミノリを、自分に……縛り付けておきたい、と……そういう欲求が……」
 不意に、ミノリが立ち上がる。クラウスは条件反射的に顔を上げ、彼女を見上げた。ミノリは静かにクラウスの隣へ腰を降ろすと、彼の黒い髪をさわさわと撫でる。彼女の表情は、少し切なげだった。
「……よく分かりませんけど……がまん、してたんですよね?わたしのために」
 クラウスは、慌てて首を横に振る。
「違う。これは……オレの勝手で……」
 言いかけた彼の頭を、ミノリがコツンと叩いて制した。
「クラウスに傷ついて欲しくないのは、わたしも一緒です。……だから、これから訊くことに、正直に答えてくださいね」
 そこで、ミノリは一旦言葉を切る。そろりと視線を外した彼女の頬が、じわりと紅に染まった。
「クラウスは、その……『えすえむ』とか……好き、なんですか?」
 純真無垢で初心―なはずの愛しい妻の唇から飛び出したその意外かつ生々し過ぎる単語を脳が既知の語句として咄嗟に認識できず、クラウスは硬直する。少しの間を置いて、彼は素っ頓狂な声を発した。
「……は? 今、何て……」
 ミノリは拳を握り締め、非難がましい目でクラウスを振り仰ぐ。
「だから! クラウスは、『えすえむぷれい』がしたいんですか?」
 彼の額に、冷や汗が滲んだ。
「いや……ちょっと待て。どうしてそう……いや。あー……、どこでその単語を覚えた?」
「イリスさんが貸してくれた小説に出てきました」
 クラウスは、頭を抱える。
「ミノリ……お前は、何てものを読んでるんだ……」
 これは早急にミノリの書棚の検閲を実行する必要があるかもしれない、今夜からやるべきだろうか、いやむしろ今すぐに―などとぐるぐる考えるが、ただの現実逃避だ。
「いいから、答えてください。『はい』か『いいえ』で」
「……『いいえ』だ。オレに、そんな趣味は……」
 言いかけて、はたと止まる。果たして、ない、と言い切れるのだろうか。
「じゃあ、なんで、あんなことしたんですか? いつもだって……ときどき、わたしに恥ずかしいことさせて……嬉しそう、だったり……」
 詰問の最初こそ強気だったものの、尻すぼみだった。それでも、効果は十二分にあった。
(確かにそうだ。オレには……そういう性癖があったのか?)
 人生三十何年目にして明らかになった、驚愕の新事実。
(いや、まさか。……だが、しかし……)
 ショックだった。今更感もあるが。
 これまでに、それなりの女性経験を積んではいるが、他の女性に対してそのような行為をしたいと思ったことも、したこともなかった。相手がミノリだから―なのか。
(……そうだ。オレがそういう性癖なんじゃない、ミノリが嗜虐心を煽りすぎるんだ)
 そう思い直したところで、ミノリに対して抱いてしまう欲望が消える訳でもなく。暫時悩んだ末、なるべく自分に都合の良いように回答することにした。
「オレに、そういう趣味はない。だが……お前に対しては……その……確かに、似たようなことをしたい、とは……思わなくもない……な」
 顔から火を噴きそうだった。
「それと、言っておくが……痛めつけたい、とは思ってないぞ?あくまで、その……いや……もういい」
 その先は「恥ずかしがっているところや、抵抗できない姿が見たいだけだ」と続くが、あまりの羞恥に、クラウスは皆まで言うのを諦めた。ミノリも、それ以上聞くのを諦めた。
 
 じゃあ、こうしましょう、とミノリが紅潮した真面目顔で仕切る。
「クラウスが、その……したく、なったときは……好きにして、いいです」
 男としては喜ぶべき発言のはずなのに、この時のクラウスは酷く居たたまれない気持ちになった。もうこの話は終りにしよう、と切り捨ててしまいたかったが、そもそも種を蒔いたのは自分だ。神妙に聞くしかない。
「でも、痛いのはイヤです。……恥ずかしいのとか、目隠しとか、縛ったりとかは……たまになら、いいです」
 クラウスは、つい生唾を飲む。
(いいのか……)
 昨夜のミノリの様態が脳裏に浮かび、背筋がゾクリとした。が、これはいけない、と慌ててその追想を振り払う。
「でも、本当に、たまーに、ですからね? ……あと、これだと不公平な気がするので、わたしからも条件を出します」
 ミノリ、いつからそんなに逞しくなったんだ―と誇らしく、同時に恨めしく思いながら、クラウスは沙汰を待った。しかし、呈示された内容は実にミノリらしいもので。
「まず。……『ちゅー』と、『いい子』って言うのは、絶対やってください」
 心持ち視線を逸らし、口を尖らせて偉そうに要求するも、その顔は真っ赤だ。それはもう可愛すぎて愛おしすぎて、クラウスは今すぐ彼女をどうこうしたい衝動に駆られたが、ぐっと抑える。
(やはり、煽っているのはミノリの方だろう……)
 事実だとしても、今は言えない。
「それと、恥ずかしいことをさせたら、次の日のデザートはケーキです。これも譲れません」
 つまり、一回ウン百円で―と換算してしまった自分は、最低の男だ。クラウスは凹んだ。
 ミノリはふっと肩の力を抜き、ふう、と息を吐く。
「……以上です」
 クラウスは「そんなに安くていいのか」と一瞬思ったが、要求された条件の、彼女の中での重要性は理解していたので、むしろ、それらと自身のドス黒い欲望とを同列に並べていいのだろうか、と考え直して悩む。
「クラウス。何か言いたいことはありますか?」
 ミノリは、ドヤ顔で宣う。そんな彼女に、彼は熟考の上で答えた。
「もう一つ、追加させてくれ」
 訝しげに、ミノリはクラウスを見つめる。
「どうぞ?」
「終わった後には、必ず『愛してる』って言おう。お互いに」
 僅かに頬を染めて苦笑混じりに提案した夫へ、ミノリはフフッと笑いかけた。
「はいっ。協定成立ですね」
 
 

十六話 おじさんたちの忘年会

 
 
「いいですよ」
 ミノリは、ニコニコ顔で許可を出した。「話が分かるわ~♪」と浮き足立つマリアン。そして、大きな溜息を吐くクラウス。
「おじさんばかりの忘年会に若い娘が顔を出したところで、面白くも何ともないだろう……」
 クラウスが呆れた様子でぼやいたが、ミノリはふるふると首を横に振る。
「そんなことないです。わたしも、クラウスのお友達に会ってみたいですし」
「そうよね~。みんな愉快なオッサンだから、大丈夫よ!」
 マリアンの先導で、二人はハイタッチした。なんだ、すっかり仲良しじゃないかと、居場所のないクラウスは肩を竦める。気乗りしなそうな彼に、「そもそも」とマリアンが詰め寄った。
「あんたの結婚おめでとうパーティーも兼ねてるのよ? ミノリちゃんも出ないと始まらないじゃない!」
「それは分かるが……」
「男集団の中に放り込みたくない、なんて思ってるなら、もっと大人になることね。ミノリちゃんを見習いなさいよ!」
 クラウスがチラとミノリに目を遣れば、涼しい顔で「ん?」と小首を傾げて見返してくる。確かに、この純真さとジェンダーフリー精神に関しては見習うべきかもしれない、と思った。彼女が大人かと問われると即答はできないが。
「とにかく! ミノリちゃんのオッケーも出たことだし、約束通り、二人で出席してもらうから♪」
 クラウスは、再び盛大に溜息を吐いた。
 
 
―こうなることが、分かり切っていたから。
「おっ。ミノリちゃん、イケるクチだね~。ほら、どんどん飲むといいよ」
「ありがとうございます」
「今日は皆の奢りだから。デザートも、好きなだけ頼んでいいからな」
「わあ、嬉しいですっ」
「ほんっと、可愛いなあ。クラウスには勿体ないくらいだ」
「そんなことないですよ」
 さっさと旦那から切り離され、テーブル席で周りを堅められてちやほやされ放題の妻をカウンター席から眺めつつ、クラウスは仏頂面でグラスを煽っていた。こうなったら、仲間の奢りであるのをいいことに、注文しまくってやるしかない。
「マスター。ウイスキーロックのダブル、もう一杯」
「はい、ただいま。……クラウス、今日はペースを考えて呑めよ? 奥さんもいるんだから」
「分かってるよ」
 この人からはいつまでたっても子供扱いだと、クラウスは苦笑いで応じた。そんな彼に、隣席の友人が感心した様子で話しかける。
「それにしてもお前、よくあんな若い嫁さん貰えたな。どうやったんだ?」
「どうもこうも……普通に、成り行きだよ」
「いや、それにしたってなあ。……恋愛結婚なのか?」
「当たり前だ。見合いなんてしたら、それこそ年齢だけで対象外だろう」
「それもそうだな」
 そんな他愛のない話をしていると、突然、マリアンが後ろからクラウスの頭をゴンッ、と殴った。
「あんた、そろそろミノリちゃんを助けに行ってあげなさいよ」
 その言葉に慌てて振り返れば、ミノリが困惑を含んだ笑顔でクラウスを見つめている。
(しまった。ミノリは、こういう場が苦手だった)
 馴染みすぎた面子の中にいて、すっかり忘れていた。クラウスはグラスを手に、急いでテーブル席へ歩み寄る。
「よっ、新郎。お前の嫁さん、ほんと可愛いな」
「ああ、そうだろう。だから、そろそろ返してくれないか?」
「いやー、もうちょっと貸しといてくれよ」
 そのやり取りに、どうしたらいいのか分からないミノリは居心地悪げに縮こまった。
「ほら、ミノリが困ってるじゃないか」
 その通りだった。しかしミノリは、クラウスの言葉に頷くのも彼の友人に失礼かと思い、わたわたと否定する。
「そっ、そんなことないですよ! 皆さん、とっても親切にしてくれてるので、大丈夫です!」
 大丈夫じゃないということには、誰もが気付いていた。彼女の幼気さに、おじさん連中の頬が弛む。ただ一人、クラウスだけは苦笑していた。
「じゃあせめて、隣の席を空けてくれ」
「仕方ないか。お前のことなんかどうでもいいが、ミノリちゃんには嫌われたくないからな」
 そう言って、ミノリの左隣に座っていた男性が近くの空いた席に移動する。クラウスは、ミノリの左手前のテーブル上に、タン、とグラスを置き、椅子を引いて腰掛けた。途端に、ミノリはほっとした表情を浮かべる。そんな愛しい妻へ、クラウスは穏やかに微笑みかけた。
 
 会の開始後、三十分振りに新婚夫婦が並んだことにより、今回の飲み会の参加者九人全員が何となく一つのテーブル付近に集まった。
「ミノリちゃんは、昔のお前のこと、どこまで知ってるんだ?」
 メンバーの一人が問えば、クラウスの額に冷や汗が滲む。こんな話題になるであろうことは最初から分かっていたのだが。クラウスは、平静を装って答える。
「まあ、あれだ……若い頃、喧嘩をしていたということは話した」
 ほう、と周囲から声が上がった。友人の一人が、ニヤニヤ笑いながらミノリに質問する。
「ミノリちゃん、どう思った?」
 問いの意図が掴めず、ミノリは困惑した表情で小首を傾げた。
「喧嘩してた、って話を聞いてさ。引かなかったか?」
 ああ、とミノリは納得した声を上げる。
「全然、そんなことないですよ。だって、クラウスって、とっても強かったんでしょう?」
 ブッ、と周りが噴き出す。クラウスだけは、バツが悪そうな顔をしていた。ミノリは、またクラウスにとって不利な発言をしてしまったのだと察し、慌ててフォローを入れようとする。
「え、えっと……喧嘩が強い男のひとって、カッコいいですよね……?」
 しかし、更に笑いが大きくなっただけだった。
「いやー、ミノリちゃん、最高!」
「クラウス、お前、愛されてるな」
 周りに囃し立てられ、クラウスは渋面を作る。その横顔を、ミノリは怖ず怖ずと見上げた。
「あの……ごめんなさい」
 小声で謝れば、彼は苦笑いで応じる。
「いや、お前は悪くない。悪いのは、馬鹿笑いしてるオッサン共だ」
 皮肉を含んだ言葉に、友人の一人がニヤリと笑った。
「そんなこと言っていいのか? ミノリちゃんに、あることないこと吹き込むことだってできるんだぞ?」
 クラウスは、ハッと不敵に笑い返す。
「言っておくが、ミノリは相当初心だぞ。お前は、こんな純粋な若い子に何を吹き込むつもりなんだ?」
 無論、酔いが回っていての発言だ。間に挟まれたミノリは、あわあわする。結果、マスターに助けを求めた。盛大にズレた方向で。
「あの、マスターさん! わたしにも、ウイスキーダブル、ストレートでお願いします。あと、クラウスと、このひとにも」
 ぎょっと目を剥く一同。無論、マスターも例外ではない。マスターは注文を承る前に、ちらとクラウスに目配せした。しかし、ミノリは鋭敏にその視線を読む。
「あの、冗談とかじゃないですよ? わたし、ウイスキーも好きなんです。それに、ほら。クラウスのグラスも、お友達のグラスも、空じゃないですか。だから、お願いします」
 止めようのなかったマスターは、クラウスへ哀れみと好奇の目を一つ送った後、「はい、かしこまりました」と宣った。
 
 結果として、二人ほどミノリに潰された。自業自得だ、とクラウスは思ったが。
「ミノリ……まだ呑めるのか?」
「はいっ」
 クラウスが呆れたように尋ねるが、ミノリはけろっとしている。彼女はワイン一瓶に加え、ウイスキーダブルの三杯目に突入していた。
「ミノリちゃん、相当強いな……」
 友人一同も、呆れ気味である。
「ミノリは、ザルを通り越してワクだからな。張り合おうとすると、ご覧の通り潰されるぞ」
 クラウスが顎で示した先には、ソファ席でいびきを掻いている二人が。残された年長組は、自分のペースを死守しようと心に決めた。
「そんな……まるで、わたしが悪いみたいじゃないですか」
 ミノリが口を尖らせる。確かに、彼女が直接の原因ではなかったものの、ミノリと張り合い、結果として二人潰れたので、誰もが「お前の所為だよ」と思っていた。
「この小さい体のどこで、大量のアルコール分が処理されているんだか……」
 友人の一人が呆れたように言えば、ミノリは「エヘヘ」と照れ笑う。
「肝臓ですよ」
 その場に居合わせた全員が、その真面目系天然っぷりに爆笑した。ミノリには、何がそんなに可笑しいのか分からなかった。
「ミノリちゃんは、クラウスのどこに惚れたんだ?」
 興味本意で軽く問わても、ミノリは「うーん」と真剣に考えて答える。
「カッコよくて、優しくて……一緒にいると、落ち着くところです」
 まるで十代の少女のようなその回答に、ある友人はニヤリと笑った。
「それじゃ、おじさんは? 同じくらいカッコいいと思うんだが」
 否定も肯定もできず、慌てるミノリ。自分以外の男に妻を弄られて面白くないクラウスは、仏頂面で横槍を入れる。
「おい、その辺にしておけ。お前のカミさんに言いつけるぞ?」
「それだけは勘弁してくれ。包丁を持ち出され兼ねん」
 両手を挙げて降参する男性に、友人一同から再び笑いが沸いた。それが収まると、別の友人がグラスを傾けながら、感慨深げに言う。
「それにしてもお前、結婚して変わったな。そんなに他人に執着するヤツじゃなかっただろ?」
 そうだな、と口々に呟く友人たち。クラウス自身も、同感だった。
「確かにな。そうかもしれん」
 ミノリは、不思議そうに首を傾げている。彼女が置き去りにされていることに気付いたその友人は、ハハッと笑いかけた。
「こいつはな、昔っから付き合いが悪かったんだよ。こういう集まりにだって、マリアンに無理矢理引っ張られて来てたくらいだ。ま、参加しちまえば、それなりに盛り上がってたがな」
 そうね~、とマリアンも頷く。
「放っておくと、孤独死か野垂れ死にでもしそうな感じだったわね」
「酷い言い様だな。オレは、一応人並みに生活してたぞ? そりゃあ……少しは、喧嘩もしていたが」
 クラウスは否定したものの、尻すぼみだった。尚も解せぬ表情のミノリは、思い切って口を開いてみる。
「あの……喧嘩って、誰としてたんですか?」
 答えに詰まるクラウス。代わりに、友人が説明する。
「ざっくり言うと、悪いヤツだよ。繁華街に陣取ってカツアゲだの万引きだのしてたり、ひと気のないところで女の子を食い物にしようとしてた連中だな」
 ミノリが驚いたようにクラウスを見上げれば、彼はバツが悪そうに目を反らした。
「すごいです! クラウスって、正義の味方だったんですね!」
 キラキラした瞳を向けられ、クラウスは居たたまれなくなる。
「もうやめてくれ、その話は」
 恥ずかしそうに会話を切った彼の、苛立ち気味のその口調に、ミノリは申し訳なさげに俯いた。
「……ごめんなさい、変なこと聞いちゃって」
 彼女の健気さに、和む面々。
「お前、ホントなんでこんないい子と結婚できたんだよ。出会いは?」
「やめてくれ、そういう質問は。……普通に出会っただけだよ」
 言い難そうにしているクラウスに助け船を出すつもりで、ミノリが後を継ぐ。
「わたしが、調香をお願いしたんです。引っ越してきてすぐで、香水が手に入らなかったので」
 ほう、と言ってニヤリと笑うその友人。
「何だ? お前、自分で作った香水を付けさせてるのか?」
 疚しいことはないので、クラウスの余裕は崩れない。しかし、空気を察したミノリが横から否定する。
「違いますよ、安眠用のです。動物が嫌うので、普段は香水を付けられないんです」
 なんだそうか、と友人は引き下がった。
「それにしても、ミノリちゃんは何でこいつと結婚しようと思ったんだ? 他にも、いい相手はいくらでも居ただろうに」
「それは……」
 言い淀むミノリ。失言はしまいと、俯き加減で慎重に言葉を紡ぐ。
「一緒にいると、落ち着くので……ずっと、一緒にいて欲しいな、って……」
 真っ赤になって答えれば、おじさん連中は無言でニヤニヤした。
「まるで純愛ドラマだな」
 友人に肩を小突かれるが、赤面したクラウスに返す言葉は無い。ミノリは、またやってしまったか、とわたわた言い訳をする。
「あっ、あの……わたしが、寂しがりやなのでっ。だから……」
 それを制止するように、クラウスがミノリの頭をくしゃりと撫でた。
「ミノリ、ありがとう。もう十分だ」
 愛しい妻に穏やかな微笑みを向けてから、ふっと友人を睨み付ける。
「いい加減にしろよ。……もう分かっただろう。ミノリをあまりからかうな」
 一同は、失笑を隠そうともしない。
「愛し合ってるねー。いやホント、羨ましいよ」
 恥ずかしさを押し隠して強がり、フッと笑うクラウス。
「そうだろう。最高の妻だよ。働き者だし、真面目だし……何より、とにかく可愛い」
「まあ、それには同意するしかないな」
 またも笑いが巻き起こる。ミノリは、雰囲気に合わせて「エヘヘ」とはにかんだ。
 
 終盤に近付くにつれ慣れてきたミノリは、ずっと隣に座っていた男性と、それなりに打ち解けていた。クラウスは再びカウンターに連れ出され、両脇をマリアンと他の友人に挟まれて談笑していたが、わざわざ呼び戻すほど居心地も悪くなかった。むしろ、クラウスがいないのをいいことに、ミノリはおずおずと切り出す。
「あの……ちょっと、聞いてもいいですか?」
「ん? 何かな?」
 頬を赤らめつつ、すう、と息を吸い、意を決して口を開いた。
「えっと……クラウスって、昔、お付き合いしてた女のひとっているんでしょうか……?」
 ブッと噴き出す一同。ひとしきりヒーヒー言った後、友人の一人が穏やかに言う。
「逆に聞くけど、ミノリちゃんは、あいつに女がいたと思う?」
 ミノリは、真面目顔でこくんと頷く。余計なことは言わなかった。
「そうか。なら、多少は言ってもいいかな……。お察しの通り、彼女がいたことはあったよ」
 ああ、やっぱり、とミノリは残念そうな表情をする。そんな彼女に、友人は同調の意味で苦笑して見せた。
「ショックか?」
 ふるふると首を横に振るミノリ。
「いえ。……やっぱりそうだったんですね」
 多少酔いが回っているミノリは、続けて、視線を落とし気味に心情の一端を吐露する。
「いいんです。昔がどうだって……わたしは今、クラウスが一緒にいてくれれば、それで……」
 言いかけて、ハッと顔を上げた。そして、頬を真っ赤に染める。
「え……っと、そんな……感じで……」
 突如、末席の友人がガタッと席を立ち、カウンター席のクラウスにつかつかと歩み寄って、彼の肩にがしっと手を回した。
「おぉい、クラウスぅ……今な、お前の奥さんに、お前の過去の女の話をしてたんだが……」
 低い声で楽しげに囁かれたクラウスは、ざっと血の気を引かせる。
「おまっ……何……」
「だーかーら。ミノリちゃんに、な? お前に彼女がいた、って話してたんだよ」
 クラウスは友人の腕を振り払い、慌ててテーブル席へ戻った。そして、周囲の目を忘れてミノリに詰め寄る。
「ミノリっ……その……聞いたのか?」
 彼の必死な形相に、ミノリはきょとんとした。
「何をですか?」
「だから、その……昔の、話を……」
 ミノリは合点がいったように、「ああ」と声を上げる。
「聞きました。彼女さん、いたんだそうですね」
 クラウスの背筋に、脂汗が滲む。
「ああ、……何だ。……過去の、話だが……」
 盛大に焦る彼。ミノリはその心中を察し、勝手な質問をしてしまったことに対して罪悪感を覚えた。申し訳なさそうに、心持ち視線を逸らす。
「あの……ごめんなさい」
 その態度を自分に対する失望と捉えたクラウスは、大慌てで言い訳を並べる。
「その……昔のは、遊びだったんだ。一時の、気の迷いで……本気になったのは、ミノリだけだ。だから……」
 その申し開きを聞いたミノリは、怪訝顔を彼に向けた。
「……遊びで、女のひととお付き合いしてたんですか?」
 クラウス―だけでなく、周りの男連中の背中からも、嫌な汗が噴き出す。確実にまずい雰囲気だった。
 動揺を押し殺して、ふう、と息を吐き、一考した上で、クラウスは声を発する。
「あのな、ミノリ……確かに、オレには彼女がいたことがある。だが……今は、お前一筋だ」
 これで納得してくれ、とクラウスは祈った。しかし、ミノリが納得のいかない点は、そこではなかった。
「遊びで、女のひとと、お付き合いしてたんですか?」
 再び、はっきりと問う。その通りだ、というのが正直なところであったが、ミノリに言えるはずもなく。
「……違う……それなりに、真面目な付き合いだった……」
 嘘を吐いてしまった。無論、周りの友人も承知の上だったが、空気を読んで誰も突っ込まなかった。
 ミノリは、ふう、と溜息を吐く。クラウスが嘘を吐いていることは、何となく分かった。それでも、彼の必死な様子に、過去のことをどうこう言っても仕方がないと思い直し、それ以上追求しないことにした。
「……わかりました。だったら、いいです」
 何故か、友人たちまでほっと息を吐いてしまった。
 
「お前の嫁さん、鋭いな。……苦労するぞ?」
 再びカウンター席に戻ったクラウスは、左隣の友人から耳打ちされた。
「……もう思い知ってる」
 クラウスは短く答え、グラスを煽った。そして、ニヤリと口角を上げる。
「だが、そこがいいんだ」
 
 

十七話 本棚の奥

 
 
 ミノリは真っ赤に上気した顔で両手を広げ、本棚に背を押しつけた。
「ダメです! 絶対、ダメですっ!」
 そんな可愛い妻に、意地悪い笑みを浮かべながらじりじりと近寄るクラウス。獲物を追い詰めた彼は、片手で仕切り板の端を掴み、息がかかる距離までミノリに顔を近付ける。
「ん? 何か、駄目な理由でもあるのか?」
わざとらしく問われたミノリは、ふいっとそっぽを向いた。本来ならば胸がときめくようなシチュエーションなのかもしれないが、今は状況が状況なだけに、喜んでいる余裕など無い。
「あ……あのですねっ。夫婦の間でも、プライバシーは守られないといけないと思うんですよ」
 至極もっともな意見だ。クラウスは、どう屁理屈を捏ねて崩してやろうかと、策を凝らす。
「本棚を見られる事が、プライバシーの侵害に当たるのか?」
「そうです。だから、見ないでください。……見てもいいですけど、前のほうだけにしてください」
 クラウスは、本棚の奥に詰め込まれている文庫本を間近で確認し、ククッと笑いを漏らした。お前は年頃の男子か、と。
「オレは、奥のほうにある本を読んでみたいんだが」
「ダメです」
「じゃあせめて、どんな本なのか教えてくれないか?」
「……恋愛小説です」
 どれだけ自分にとって不都合でも、嘘だけは吐かないところが可愛い。クラウスは、ニコリと微笑む。
「なら、恥ずかしがることもないだろう」
 無論、内容の想像がついていての煽りだ。ミノリはきゅっと唇を結び、ふるふると首を横に振った。
 膠着状態に陥ったので、クラウスは作戦を変えることにする。彼は小さく溜息を吐き、すっとミノリから離れた。
「そこまで言うなら仕方ないか。本当は気になるが……ミノリにも、見られたくないものくらいあるだろうしな」
 残念そうに言って、ソファへ向かう。ミノリは、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、これで終わるわけがない、と気を引き締め直す。彼女もクラウスの向かい席に腰掛けることで、ようやく二人は普段通りの構図に戻った。
「ところで、ミノリ」
 読書を始めようと、ソファへ置きっぱなしになっていた本を取り上げたミノリに、クラウスが話しかける。ほらきた、と思いつつ、彼女は平静を装って先を促す。
「何でしょう?」
 やはり、その頬には紅が差していた。徐々に上がっていく難易度に、クラウスは否応なく高揚させられる。難しい駆け引きであるほど、陥落させる瞬間が堪らないのだ。
(こんな風にオレを昂らせることが出来るのは、ミノリだけだがな)
 そんな内心などおくびにも出さず、彼は続ける。
「オレも、イリスの書いた恋愛小説を読んでみたいと思うんだが……。お勧めがあれば、教えてくれないか?」
 ミノリの顔が、一瞬で赤く染まった。
「そっ……そんなの、イリスさんに直接聞けばいいでしょう?」
「いや。お前が面白いと思った作品を読んでみたいんだ」
 これが大人の切り返しか、とミノリは歯噛みする。イリスの著作に対して「どれも面白くない」などと言えるはずもなく、かと言って、素直に自分の好みを答えれば彼の思うツボだ。「タイトルを忘れてしまった」とはぐらかすことも可能だが、嘘を吐けばそこを突かれて余計不利な状況に陥ることは目に見えている。
 悩んだ末、無難な回答をすることに決めた。
「ぜ、全部おもしろいのでっ……どれって言えません」
 クラウスは、ほう、と感心する。
「全部か……しかし、そう答えられると、どこから手を付けたらいいか迷うな」
「だから、イリスさんに訊けばいいじゃないですかっ」
 クラウスは、ふう、と溜息を吐き、「仕方ないな」と呟いた。
「とりあえず、明日、全作買ってきてみるか……」
 ミノリの体が、強張る。
(クラウス、最初から知ってて……)
 彼女はしばらく押し黙っていたが、罪悪感に打ち勝つことはできなかった。悔しさと恥ずかしさとで小さく震えながら、徐に口を開く。
「……持ってます。ぜんぶ……」
 当てずっぽうだったが、やはり正解だったか。尤も、何の根拠もなかった訳ではない。律儀なミノリのことだ、借りるだけで売上げに貢献しないなどということは無いだろう、と踏んでの切り札だった。クラウスは、ニコニコ顔で宣う。
「じゃあ、取りあえず全部出して見せてくれないか?」
 ミノリは「うー」と唸ってから、席を立つ。続けて、クラウスも立ち上がった。すると彼女は、慌ててそれを制止する。
「クラウスは、そこにいてくださいっ。出してきますから」
 なるほど、イリスの著作以外にも隠したい本があるのか、とクラウスは胸を弾ませる。これは見ないわけにはいかない。
「いや、オレも手伝おう。前の本を出さないといけないから、大変だろう?」
「大丈夫です。大丈夫ですから、手伝わないでください」
 クラウスは、チラと柱時計を確認する。このやり取りを始めてから、既に三十分が経過していた。今回は素直に負けを認め、そろそろ終わらせるか、と腰を入れ直す。
「……ミノリ」
 不自然な猫撫で声で名前を呼ばれ、ミノリの肩がビクンと跳ねる。
「……何でしょう?」
「見せなさい」
「……」
 本当に狡い大人だ、とミノリは思った。
 
 逆らえない理由は、自覚していた。―これだ。
「……いい子だな」
 クラウスに優しく頭を撫でられながら、耳元でそう囁かれる。ミノリの脳髄から背中にかけて、ゾクリと甘い震えが走った。
 いい年をして、何故これくらいで、とは自分でも思う。しかし、どうしてか、この瞬間が心地よくて仕方がなかった。だからこそ、つい従ってしまうのだ。きっと、彼はそのことを分かっていて命令してくるのだろう。
(これじゃあ、クラウスの思うツボですよ……)
 よしよしされながら、ミノリはしょんぼりした。
「それじゃ、さっそく」
 一つ呟いてクラウスは腕を捲り、肩を落としたままのミノリを放置して、本棚の手前側の本をテーブル上に移動し始める。
「もう……勝手にしてくださいっ」
 拗ねたミノリはそう吐き出すと、口を尖らせてソファへ戻ってしまった。彼女の後ろ姿を横目で見送りながら、本当に初心で可愛いな、とクラウスは口元を弛める。
 下から三段目、四段目の本を移動し終え、彼はふう、と息を吐いた。奥に残されているのは、ぎっしり詰め込まれた文庫本たち。
「これは、全部恋愛小説か?」
 振り返って問えば、ミノリが不機嫌そうに返す。
「違うのもあります。……自分で調べたらいいでしょう?」
 怒らせてしまったのは分かっていたが、この程度であれば、後で埋め合わせる自信があった。クラウスは構わず、わくわくしながら端から一冊ずつあらすじを確認し始める。
 しかし、却って後悔することになった。
(年の差恋愛ものが多いな……)
 ミノリ本人は「全く気にしていない」と言ってはいるが、本当は気になっていたということなのだろうか。モヤモヤした。試しに、最も性表現の多そうな本を飛ばし読みしてみる―が、思いの外、普通だった。必死になって隠す程のものでもないだろう、というのは、壮年男性ならではの見解であろうが。
(確かに、ソフトSMの描写もあるな)
 ここで、もう一つ気になることができてしまった。
(まさかとは思うが、この本の通りに演技していた、なんてことは……)
 本を持つ手に、じわりと冷や汗が滲む。もしそうだとしたら、男として二度と立ち直れないくらいの大打撃だ。まだ一段しか見ていなかったが、クラウスは気落ちし、それ以上の検閲を止めた。
 彼が本棚を元の状態に戻し始めたことに気付いたミノリは、ドキドキしつつ声をかける。
「……終わりました?」
「ああ」
 絶対にからかわれると思っていたミノリは、短すぎる応答に僅かな不安を覚えた。
「……変な本、ありました?」
「いや。意外と普通だった」
 率直な感想だった。クラウスは、ミノリに力なく微笑みかける。
「無理に見ちまって、悪かったな……」
 するりと謝罪の言葉が出てしまうくらい、凹んでいた。尋常でない様子の彼に、ミノリは読みかけの本を閉じ、慌てて駆け寄る。
「あのっ。本当に、変な本ありませんでした?」
「ああ、無かったよ」
 クラウスは、ミノリの髪を軽く梳いた。チョコレート色の純粋な瞳で見つめてくる彼女を、ふわりと抱き締める。困惑するミノリ。
「どうしたんです? 突然……」
 彼女は、耳まで真っ赤に染まっている。そっと耳殻をなぞれば、「んっ」と小さな声をもらし、くすぐったそうに身じろいだ。
(これが演技なわけはないか)
 年の差恋愛ものが多かったのも、きっと彼女なりに思い遣りを持って勉強してくれているからなのだろう。半ば無理矢理そう結論付けると、いっそうミノリが愛おしく思えてきた。
 クラウスは、早々に気を持ち直す。
「いや、何でもないさ」
 ミノリの肩を持って、すっと体を離し、彼女の顔を見下ろした。既に、意地の悪いニコニコ顔に戻っている。
「それにしても……ミノリが、あんな本を読んでいるとはな。今度、小説の通りにしてやろうか?」
 ミノリは上気した顔で俯くと共に、少しほっとした。
 
 

十八話 足下の星空

 
 
 今年の星夜祭も終わり、クラウスとミノリは連れ立って高原の牧場への帰路を歩いていた。夜空には、満天の星々。貿易ステーションで見るよりも、その輝きはいっそう近いように感じられた。
「雪までキラキラ光ってて、星空の上を歩いてるみたいです」
 ミノリが、思い掛けずロマンチックなことを言う。クラウスは思わず頬を弛めた。
「ミノリ、素手じゃ寒いだろう。手を繋がないか?」
 自然とそんな言葉が出てきたのは、この雰囲気だからこそ。ミノリは、エヘヘ、とはにかんで、差し出された手を軽く握る。クラウスは彼女の手を包み込むように、しっかりと握り返した。
「クラウスの手、暖かいですね」
「ミノリの手は冷えてるな。……冷え性なのか?」
「いえ。寒いからですよ」
 声を発する度に白い蒸気がふわりと広がり、後ろに流れていく。それが少し面白くて、ミノリはわざと、はーっと息を吐いた。子供っぽいその所作にクラウスが小さく笑いを漏らせば、ミノリは彼を見上げて、フフッと悪戯っぽく微笑んだ。
 今はミノリの管理下にある水田では、水面が月の光を反射し、ゆらゆらと金色の光を放っている。聞こえてくるのは、川のせせらぎと、水車の軋む律動的な音、そして雪を踏みしだく二人の足音のみ。二人はお互いの手の温度を交換し合いながら、しばらくの間、黙してその重奏を楽しんだ。
 山道に差し掛かったところで、ミノリが枝葉に縁取られた空を仰ぎ、ふと呟く。
「星って、なんでこんなにきれいなんでしょうね」
 クラウスは答えに詰まった。彼女は時々、こういう反応に困る問いを投げかけてくる。もっとも、回答を求めているわけではないのだろう。
「何でだろうな……」
 クラウスも空を見上げ、嘆息混じりに応じた。
対してミノリは、今度は何気なく彼の横顔へ視線を移す。
(……カッコいいなあ)
 今まで幾度となく同じ気持ちを抱いてきたが、改めてそう思った。きっとこれからも、何度も彼に惚れ直すのだろう。彼女の胸に、嬉しさが込み上げる。
「あのね、クラウス」
「……ん?」
「今ね、クラウスはやっぱりカッコいいな、って思ってました」
 不意打ちを食らい、クラウスは赤面した。ミノリから面を逸らし、空いた手で口元を覆い隠して、「そうか」と短く答える。こういう時にこそ気の利いた台詞が言えない自分を、情けなく思った。
 足下で、薄く積もった雪がサクサクと音を立てる。後ろに、二人分の足跡を残して。
 沈黙を厭わないミノリは、機嫌良さげにきょろきょろと辺りを見回している。クラウスも、その視線を追うことで彼女の心中を予想して楽しんだ。彼女と出会ってから幾度となく繰り返してきた、密かな遊びである。
「この時間に、動物はいないと思うぞ?」
 ミノリは、不思議そうな表情で彼を振り仰いだ。
「どうして、分かっちゃうんですか?」
「なんとなく、な」
 正解を重ねる毎に、また一つミノリを手に入れることが出来た気がして、嬉しくなると同時に安心する。彼女の一番の理解者はこの自分なのだ、と。クラウスは、そんな考えを抱いてしまう己を、「相変わらずだ」と自嘲した。
「クラウスは、わたしの考えてること、いつも言い当てちゃいますよね」
「……愛してるからな」
 ぽっと頬を染めて俯くミノリ。クラウスは、ククッと笑いを溢した。
(また、そんなに赤くなって)
 自分からは恥ずかしげもなく真っ直ぐ愛情を表現する癖に、それを受ける立場ともなると途端に照れてしまうところが、堪らなく可愛い。しかし、数秒置いて「自分も一緒か」と気付き、微妙な気分になった。
そんなことを考えていると、ミノリが面を伏せたまま、徐に口を開く。
「わたしは、クラウスの考えてること、あんまり分かってあげられてませんね。……ごめんなさい」
 クラウスは、ギクッとした。
「そんなことはないぞ。ミノリの方が鋭いくらいだ」
 慌てて否定する。彼の言葉は、本心だった。ミノリは「ふう」と溜息を吐き、心なしか寂しげに微笑んで彼を見上げる。
「もっと分かるように、頑張りますね」
 その必要はない、と言ってやりたかったが、溢れる愛しさで胸が詰まり、声が出なかった。代わりに握っていた手を持ち上げ、そっとキスを落とす。
 ミノリの心臓が、ドキンと跳ねた。何か問おうとしても、質問が見つからない。間抜けにも、二、三度口をぱくぱくさせてしまった。
 そうこうしている内に、ミノリの牧場へと到着する。ひらけた高所から見る満天の星空は手が届きそうな程近くて、最高に美しい。幾度となく目にしてきたその天上を見上げ、二人は同時に「帰ってきたな」と思った。
 クラウスは、いつの間にかそう思えるようになっていた、この巡り合わせに思いを馳せる。つくづく不可思議で、幸せなものだ、と思った。
「ミノリ」
 名前を呼べば、隣を歩む最愛の人が、一等星にも負けない微笑みを向けてくる。クラウスは静かに顔を近付け、彼女の唇を優しく啄んだ。
 
 

十九話 カウントダウン・三

 
 
 大晦日の深夜、貿易ステーションにて。今年も、恒例のカウントダウンが行われようとしていた。
 温かい蕎麦の盛られた椀で冷えた両手を温めながら、ミノリがクラウスを見上げ、エヘヘとはにかむ。
「結婚して、はじめての年越しですね」
 そんな彼女を見下ろし、自分の妻は相変わらず可愛いなと思いながら、クラウスも微笑み返した。
「そうだな」
 短い応えを受け、ミノリはふっと前に向き直り、ステージの脇へ目を遣る。そこでは、ベロニカがこれから使う音響機材のチェックをしていた。その様子をぼんやりと眺めながら、ミノリが何気なく口を開く。
「……そういえば、わたし、クラウスからたくさんの『はじめて』をもらってますね」
 ぽつりと溢された言葉を受け、クラウスは空を仰いだ。そして、彼女と一緒に過ごした時間を思い返す。
 過干渉なまでに心配し、自分だけのものにしたいと強く望み、自ら告白やプロポーズにまで踏み切った。今でも、狂おしいほど愛している。そんな、「ただ一人のひと」との、大切な時間を。
(オレにとっては、ミノリのような女性自体が「初めて」だな……)
 彼の心に、温かさがじわりと滲み広がる。同時に、照れ隠しも兼ねて、「具体的には?」と意地悪な質問をしたくなった―が、人目があるのでやめておいた。
「……そうか」
 結局、適当にも聞こえる相槌を打つに留まったが、ミノリは気にせず、再び彼を振り仰ぐ。
「はいっ」
 軽快な声を返し、ずず、と一口蕎麦を啜った。少しの間を置いて、思い出したように、「あ、でも」と切り出す。
「その『はじめて』って、これからも、ずっと続くんですよね。何だか嬉しいです」
 彼女は、フフッと笑った。クラウスの胸に愛しさが溢れ、ここが外だということを忘れて思わず抱き締めそうになる。が、すんでのところで止まり、腰に回しかけた手を頭に持って行った。優しく髪を撫でてやれば、彼女の表情がふにゃりと弛む。
「そうだな。来年も、こうして一緒に年を越そう」
 
 
 ベロニカが壇上に上がり、いよいよカウントダウンが始まる。毎年繰り返されるイベントではあるが、それぞれの胸に去来する思い出も、抱く思いも、毎度新しいもので。月並みな進行にもかかわらず、参加者一同は否応なく高揚させられる。
「五、四、三、二、一―」
「明けましておめでとうございます。今年もみなさんにとって良い年でありますように!」
 
 
「あけましておめでとう。今年もよろしくな」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
 そのやり取りに、クラウスはふと視線を外して一考する。
「……いや。ずっと一緒にいる相手に、今年もよろしく、と言うのは、何だか他人行儀か?」
 彼はミノリに向き直り、穏やかに微笑んだ。
「オレ達の場合は、これからもよろしく、と言った方がいいのかもしれないな」
 ぱっ、と早咲きのマーガレットのような笑顔を咲かせるミノリ。
「はいっ! これからも、よろしくお願いします」
 クラウスは愛する妻に何かしら伝えたかったが、胸が詰まって声が出てこなかった。結婚前はもっと、歯の浮くような台詞を恥ずかしげもなく囁いていた気がするのだが。当時は無自覚だったが、ミノリを繋ぎ止めておくのに本当に必死だったんだな、と自嘲する。
 それに比べると、この頃は二人で居ることが当たり前と感じるようになり、大分落ち着いてきたように思う。漠然とした不安に襲われることはあるが、特別な言葉や行動がなくとも、愛し愛されている自信がある。それでも、今ばかりは、と一つ唾を飲み下した。
「今年もそうやって、オレの傍で変わらず笑っていて欲しい。……そうすれば、オレはこの一年、何があっても頑張れるからな」
 ミノリはポッと頬を染め、照れ笑いを浮かべて俯いた。
 
 

二十話 春先の病

 
 
 春の香りが色濃くなり始めると、無性に胸が苦しくなる夜がある。ミノリは若草の匂いの混じった夕刻の空気を吸い込み、ふう、と小さく溜息を吐いて、静かに窓を閉じた。
 彼女の後ろ姿に、耳慣れた声がかかる。
「ミノリ」
 振り返れば、クラウスがぽんぽんと膝を叩いて「おいで」と呼んだ。ミノリは心なしかほっとした表情を浮かべ、迷い無くその誘いに乗る。彼の足の間に腰を降ろすと、後ろから軽く抱き締められた。暖かさが背中に伝わり、穏やかな安心感が広がる。
(大丈夫……今のわたしは、一人じゃないんですから)
 ミノリは、腿の上で組まれたクラウスの手の上に、そっと自分の掌を重ねた。
 
 
 しかし、一度刻まれた深い心の傷は、そう簡単に消えるものでもなく。
「イヤぁ……っ!!」
 丑三つ時、ミノリは薄暗い部屋の中で、大きな叫び声を上げて跳ね起きた。胸元を強く握り締め、はぁはぁと荒い息を吐く彼女の背中には、じっとり滲む脂汗。痛い程の動悸に、童顔が歪む。
 その悲痛な音を耳にしたクラウスは、眠りが深い性質にもかかわらず、すぐさま目覚めた。
「……どうした?」
 もぞもぞと上体を起こし、擦れた低い声で問う。ミノリが何も答えないでいると、徐々に頭のはっきりしてきたクラウスは、数十秒を置いてようやく状況を理解した。徐にミノリの背後に躙り寄り、僅かに湿った華奢な体を抱き締める。
「大丈夫だ、ミノリ」
 彼が優しく頭を撫でながら耳元で囁くと、ミノリは幾分落ち着きを取り戻したようで、深い溜息を二、三度吐き、呼吸を整えた。
「……ごめんなさい……」
 絞り出すように言った彼女の肩は、小刻みに震えている。クラウスは胸騒ぎを覚え、ミノリを抱く腕に力を込めた。
「ミノリ、安心しろ。……オレがいる」
 半ば自分に言い聞かせる口調で低語する。ミノリは黙って頷き、彼の存在を確かめるように、胴に回された腕をきゅっと握った。それでも、苦しさは消えない。むしろ、一人でないからこそ生まれた安堵感から、長年締め続けてきた箍が、軋んだ音を立てて弾け飛んでしまう。
 これ以上、クラウスを困らせてはいけない。そう思っているのに。吐き出したい衝動を、抑えきれなかった。
「……苦しい。怖い、です。……助けて……」
 涙混じりの痛々しい吐露に胸を刺され、クラウスは沈痛な面持ちで歯噛みする。傍に居る以外に何もしてやれないことが、堪らなく悔しかった。ミノリの耳元に頬を寄せ、どうか落ち着いてくれと、ただただ祈る。
 ミノリは、心臓を押し潰さんばかりの不安と恐怖に耐えながら、必死で出口を求めた。求めれば求める程、そんなものある筈がない、という絶望が加わり、思考が滅茶苦茶になる。一人の時はいつもそうしていたように髪を掻き毟りたくなったが、クラウスの手前、どうにか抑えた。代わりに、彼が居るからこそ得られる、別の安心材料を渇望する。
「クラウス……キス、してください」
 淡く揺れる声で乞われ、クラウスの心臓がドクンと跳ねた。体の芯が、かあっと熱くなる。彼は慌てて、飛びそうになった理性を立て直した。
 苦しんでいる当人からの要求だ、当然、応じても良かったのだが、僅かに引っかかるものがあった。クラウスは暫く考えた上で、自分本位な本心を押し殺し、苦々しげに呟く。
「……駄目だ」
 ミノリがそれをどれ程欲しているかも、その効能も、十分に分かっていた。だからこそ、与えてはいけない、と判断した。
(確かに、逃げ道は必要かもしれん。だが……ミノリだって、後悔するに決まってる)
 今の彼女から「考えなくてもいい方法」を奪うことの残酷さは、重々承知していた。しかし、理論的には説明できないが、それを許してしまうと、二人の関係が悪い方へ変わってしまうような予感がした。クラウスは回した腕をそのままに、ほんの少しだけミノリから体を離す。
「安眠の香は、引き出しの中か? ……取ってきてやる」
 彼が静かにそう告げると、ミノリは握り締めていた手を素直に弛めた。クラウスの心がズキンと痛んだが、彼は罪悪感に抗うように立ち上がり、ベッドを後にする。キャビネットから手早く目当ての小瓶を取り出すと、足早に愛しい妻の元へ戻った。
 ミノリは俯き、ぎゅっと自分を抱き締めて縮こまっている。襲い来る何かから、必死で身を守るように。
 クラウスは再びミノリの横に座り、さらりと彼女の髪を梳いた。香水瓶の蓋を開け、首の付け根に一滴、スパチュラの先で香を落とす。アルコール分が揮発し、ふわりとラベンダーの香りが広がった。
 ミノリは、すう、と深呼吸する。そして、怖ず怖ずとクラウスの胸にしがみついた。彼女の温かい吐息が、寝間着をすり抜けて素肌に伝わる。こんな状況下でも否応無く反応してしまう男性の本能を、クラウスは恨めしく思った。
「……横になるか?」
 尋ねれば、ミノリはこくんと頷く。彼はミノリを擁したままゆっくりと寝転がり、掛け布団を引き上げた。尚も全身を強張らせている妻の背を、優しく撫でてやる。
「……ありがとう、ございます……」
 くぐもった声で礼を述べると、ミノリは意図して規則的な呼吸を繰り返した。その息づかいは徐々に小さくなっていき、やがて、柔らかな寝息へと変わった。
 
 
 翌朝、ミノリは朝食の並んだテーブル越しに、眠そうなクラウスの顔を見上げ、申し訳なさげに謝罪した。
「……夕べは、ごめんなさい」
 消沈した風の彼女へ、クラウスは穏やかに微笑んで見せる。
「いや、気にしなくていい。それより……大丈夫か?」
 彼の問いに、ミノリはふわりと微笑んで「はい」と答えた。この、いかにも「大丈夫」な様子が夫を不安にさせているのだが、彼女は気付かない。
「去年の春も、似たようなことがあったな。オレの気付いた限りでは、あれ以来だと思うが……よくあることなのか?」
「いえ。一人の時は、春先になるとよくありましたけど……夕べは、本当に久し振りでした」
 つまり、自分が一緒だと不安定になる頻度が減るということか。クラウスは、にわかに嬉しくなる。
「そうか。……あまり苦しいようなら、専門医に診てもらった方がいいと思うが……」
「いえっ。大丈夫です」
 慌てて首を横に振るミノリ。クラウスは表情を曇らせ、ふう、と小さく溜息を吐いた。
「その、『大丈夫』は、本当に『大丈夫』なんだろうな?」
 一瞬、きょとんとした後、ミノリはバツが悪そうに彼から視線を逸らす。
「大丈夫、です。……このくらい、誰にでもあることでしょう?」
 一理ある、とクラウスは思った。
(確かに、程度の差こそあれ、誰にでもあることだな)
 一生にただの一度も悲しい出来事に遭遇しない人間など、皆無である。不安や恐怖に怯える日も、枕を濡らす夜も、決して珍しいものではないのだろう。問題は、その「程度」なのだが。しかし、ミノリの言葉通り「久し振り」なのであれば、過度の心配は必要ないのかもしれない。
「それに……クラウスも、居てくれますし」
 ぽっと頬を染めて、ミノリは述べた。クラウスの口端が、思わず弛む。
「そう、だな。……けど、辛くなったらいつでも言うんだぞ?」
 ようやく、ミノリはいつもの調子で「はいっ」と明るく返事をした。
 
 

二十一話 シフォンケーキはお砂糖多め

 
 
 クラウスがミノリについて日頃から気になっている事柄は多々あったが、中でも最近は「なぜ、ミノリはこれほどまでに嫉妬心を見せないのか」という疑問が頭から離れなかった。
(心が綺麗と言えば聞こえは良いが……少々、ドライ過ぎる)
 既にそういうものと割り切ったつもりでいたものの、自己の嫉妬心と向き合ったり、世間で嫉妬に関する話題に触れたりすると、やはり懸念が頭をもたげる。愛されていない訳でないことは重々理解しているが、それでも、自分に執着する素振りを全く見せられないというのは少し寂しかった。
 そんな折、クラウスは、澄まし顔の妻に嫉妬心を抱かせる絶好のチャンスが巡ってきたことに気付く。
(そういえば、明後日は春の感謝祭か)
 去年の冬の感謝祭も、彼は例年通り仕事関係の女性から幾つか菓子を受け取っていたが、甘い物は苦手なため、それらは例に漏れずミノリの胃袋へ入ることになった。その際にも、感謝祭の義理菓子だと告げられた彼女は純粋に喜んだだけで、相手を気にする素振りを全く見せなかった。
(もし、返礼の菓子をあえてミノリに見せたら―)
 非常に大人げなく、浅ましい考えであることは分かっている。しかし、その着想をどうしても振り払うことができず、彼は「テーブルの上に置いておくだけだ、他意はない」と自分自身に言い訳した。
 
 
 翌日の夕方。クラウスは鞄の中からクッキーの入った小さな缶を三つ取り出して、卓上に並べた。
(―引き返すなら、今の内だ)
 ごくりと固唾を飲む。
 上手くいけばミノリの嫉妬する姿が見られるかもしれないが、それは彼女を傷つけたことを意味する。もし意図を悟られれば、機嫌を損ねてしまうかもしれない。彼女が普段通りのドライな反応を示したなら、それはそれで結構なことだが、今までと何も変わらず残念な気分になるだろう。どう考えてもこの行為にメリットなど一つもないはずなのに、やはり試さずにはいられなかった。
 葛藤している内に、ガチャリと玄関扉が開く。
「ただいま、クラウス」
 彼はビクッと肩を震わせ、微笑む妻に顔を向けた。
「おかえり、ミノリ」
 自分の笑みは引き攣っていないだろうか。クラウスは心配になったが、ミノリが全く気付く様子を見せないことから、おそらく大丈夫だろうと高を括る。
「さて。それじゃ、食事の準備をするか」
 動揺を押し隠して背を向けると、ミノリは彼の意図通り、すぐにテーブルの上にある物に気付いて興味を示した。
「あれ。このクッキー、どうしたんですか?」
 チョコレート色の瞳をキラキラさせ、子供のように尋ねてくる。クラウスの胸がチクリと痛んだ。
「明日は、春の感謝祭だろう? 去年の冬の感謝祭でお菓子をくれた人へのお返しだ」
「そうですか……」
 ミノリは、心なしか肩を落とす。この一連の反応が、嫉妬からくるものでないことは明白だ。
(お菓子が食べられないことの方が気に掛かるのか……)
 消沈と僅かな苛立ちを感じ、クラウスは思わず尋ねてしまう。
「お前は、オレが他の女性にお菓子を贈ろうとしていても、気にならないのか?」
 その質問に、ミノリはきょとんとした顔で彼を見上げた。しまった、と思った時には既に遅し。
 しん、と静まりかえる室内。
 クラウスは必死で言い訳を考えたが、ここで下手なことを言っては地雷を踏みかねないと再考し、ミノリが口を開くのを待った。―彼女の答えは。
「気になりませんよ。だって、お返しでしょう?」
 予想していなかった訳では無いものの、あまりにさらりとした返答に、クラウスは拍子抜けした。
「ああ……そうだな」
 彼の異様な雰囲気を察し、ミノリは小首を傾げる。
(クラウス、何か言いたいことでもあるんでしょうか……?)
 そして、直近のやり取りを振り返った。
 春の感謝祭。クッキー。他の女性へのお返し。意図の掴めない問い。それらのキーワードと、恋愛小説から得た知識が何となく結び付き、ミノリはようやく彼の気持ちを理解する。
「ひょっとして……ヤキモチ、焼いて欲しかったんですか……?」
 クラウスは、思わず目を見開いた。想定外の推量だった。見事に図星を突かれて赤面し、思惑がバレてしまった、と大慌てで言い訳を始める。
「いや、……違う、と言えば嘘になるが……。……ああ、試したわけじゃないからな? 誤解しないでくれ」
 嘘を吐け、何が誤解するなだ、と頭の片隅で声がした。恥ずかしさと、ミノリの失望を買うことへの恐怖で、額に汗が滲む。
 が、それは杞憂だった。対するミノリは、大真面目に考え始める。
(ヤキモチって、どう焼くんでしたっけ……)
 ここ何年も、他人に対してぼんやり「羨ましい」と思うことはあれど、「嫉妬」と呼べるほど激しい感情を抱いた覚えは無かった。子供の頃は、もう少し妬心や執着心を持ち合わせていた気がするのだが。
「……ごめんなさい。わたし、ヤキモチの焼き方……忘れちゃいました」
 しゅんと俯き、しょげた風で謝罪した。クラウスは酷い罪悪感に苛まれる。こうなる可能性も予測できていたはずなのに。
「ミノリが謝る必要はないんだ。オレが悪かった。くだらないことを考えちまって……」
 謝っても手遅れな事は分かっていた。ミノリの性格からして、おそらく「どうすればヤキモチを焼けるだろうか」などと考え込んでしまうのだろう。しかし、それだけはどうしても避けたい。
「嫉妬なんか、しないに越したことはない。……オレも、解ってはいるんだ。だから、お前はそのままでいいんだぞ?」
 ミノリは顔を上げたが、依然不安げな表情だった。愛する人を喜ばせたくともできない、いじらしい葛藤が目に見えるようで、心臓を鷲掴みにされたクラウスは思わず彼女をきつく抱き締める。
「本当に、悪かった。気に病ませるつもりはなかったんだ。今更、忘れてくれと言っても無理だろうが……どうか気にしないで欲しい」
 言葉通り、「気にするな」と言われても不可能な話だ。が、彼があまりに必死な様子だったので、ミノリはそれ以上考えないよう努めることにした。
「分かりました。……でも、もし不満があるなら、言ってくださいね。できることなら、頑張りますから」
 お互いに後ろめたさを残しつつも、一旦は決着がついたかに見えた。
 
 
 そして、春の感謝祭当日がやってくる。ミノリへの申し訳なさでいっぱいだったクラウスは、去年に増して気合いを入れてシフォンケーキを焼いた。およそ完璧に仕上がっていたが、僅かな焦げ目さえも気になってしまう。生クリームを泡立て終えたところで、ちょうどミノリが帰宅した。
「ただいま。フフッ、いい匂いがします」
 今日を心待ちにしていた彼女は弾んだ足取りでキッチンへ近付くと、クラウスの手元を覗き込む。
「わあ、今年もシフォンケーキなんですね! 去年もらったのもすごくおいしかったから、楽しみにしてたんですよ」
 彼は無意識に頬を弛めて「そうか」と応えた。素直な賞賛がこそばゆい。
「すぐに出来上がるから、座って待っててくれ」
 ミノリは「はいっ」と小気味よく返事し、ルンルンでテーブルについた。その上機嫌な様子に少しばかりホッとしつつ、クラウスはケーキを切り分けて皿に盛りつける。二皿ある内の一方にのみ生クリームを添え、仕上げにミントの葉を載せた。タイミング良く湯も沸いたので、流れで紅茶も淹れる。
「ほら、できたぞ。今年は一緒に食べようか」
「はいっ」
 キラキラした笑顔で頷くと、ミノリはケーキに手をつけた。一口分フォークに取り、クリームを付けて頬張れば、途端にうっとりと幸せそうな表情を浮かべる。クラウスの胸が高鳴った。
(これだから、作り甲斐があるんだ)
 つい先刻までの罪悪感など、一瞬で吹き飛んでしまった。が、次のミノリの一言で、再び呼び戻されることになる。
「あのね、クラウス」
 彼女はフォークを持つ手を止めて切り出した。
「何だ?」
「わたし、昨日……あの後、考えたんですよ」
 俯き加減で少し寂しげに溢された言葉に、クラウスはギクリとする。やはり、まだ気にしていたか、と。しかし、ぱっと上げられた彼女の顔は、それほど悲愴なものでもなかった。
「クラウスには、申し訳ないんですけど……わたし、クラウスのこと愛してるし、とっても信頼してるんです。わたしを悲しませるようなこと、簡単にはしない、って。だから、なかなかヤキモチ焼いたりできないと思います」
 そう宣い、ミノリは「エヘヘ」とはにかんだ。まさかの不意打ちだった。クラウスの心臓が、ドクンと跳ねる。
「そう……か」
 思わず赤面して口元を覆い隠した彼に、つられてミノリも頬を染めた。
「あ、あのっ……それでも、やっぱり……ヤキモチ、焼いて欲しいですか?」
「いや、その言葉の方が何倍も嬉しいよ。……ありがとう」
 クラウスは、改めて自分の妻に惚れ直した。
 
 

二十二話 ナンパ男、再び

 
 
 日も傾きかけた頃、町の外から帰るなり貿易ステーションでアンジェラに声を掛けられたクラウスは、血相を変えてギルドへ駆け込んだ。午後五時を過ぎたカウンターに、ベロニカの姿はない。誰かいないかと周囲を見回せば、休憩所の椅子に座る派手な髪色の昔馴染みが目に入った。
「ミノリは!?」
 クラウスが慌てて詰め寄れば、マリアンは遠い目をして、ふう、と小さく溜息を吐く。
「二階で、お相手と話し合ってるわ。ベロニカが立ち会ってるから、安心して待機してなさい」
 待機、という言葉に、クラウスはぐっと歯噛みする。マリアンの意見は尤もだ。今、乗り込んでいっても、冷静でいられる自信は全くない。彼はマリアンの向かい席にドカッと腰を降ろすと、テーブルに両肘をついて頭を抱え、大きく嘆息した。
 
 
 話は、二時間前に遡る。サファリからの帰り道、川辺のまきば近辺の歩道を歩いていたミノリは、不意に脇から軽い調子で声をかけられた。
「よ、お嬢ちゃん」
 ニヤニヤ笑いを浮かべて木陰から現れたのは、数人の見知らぬ若い男性たちだった。ミノリは僅かな恐怖を感じ、半歩後ずさりつつ怪訝顔を彼らに向ける。
「えっと……どちら様でしょう?」
「忘れちまったのか? 釣れねーなあ」
 彼の言葉に、ミノリは律儀にも、必死で相手を思い出そうとし始めた。記憶を手繰ること、ざっと二年分。その顔に思い至り、「あっ」と声を上げる。
「あの、『しつこかったひと』ですね!」
 思わず声に出してしまい、ミノリはハッとして口を押さえた。明らかな失言だった。口元を引き攣らせる当事者の男に、ゲラゲラと腹を抱えて爆笑する取り巻き連中。「しつこい人」認定されたいつぞやのナンパ男は、苛立った様子でミノリとの距離を詰めた。
 鋭い視線に射抜かれ、ミノリはごくりと固唾を呑む。
「それでっ……何のご用ですか?」
 必死で平静を装ったが、対等に渡り合える自信はなかった。それでも、頭の片隅で今後とるべき行動を模索しつつ、相手からは視線を外さない。
「ちょっくらこの町に用があってよ。そういえば昔、キッツイ女がいたな、って話になって。そしたら、ダチが会いたいとさ」
 話しながら相手方はじりじりとミノリを取り囲もうとするが、無防備なようでいて保身に長けている彼女は、怪しい動きを察してそれとなく間合いを取る。
(逃げ道は、右側。町へ向かって走れば、逃げ切れるでしょうか……?)
 脳内で試行してみたが、結果、無理だと判断した。とにかく、時間を稼がねば。できれば上手く説得して、穏便にお帰り願いたい。
「そうですか。……けど、会っても、楽しいことなんて何もないですよ?」
「いや、あるだろ? 例えば、金的かますとか。なあ?」
 身に覚えのある嫌味に、ミノリはかあっと赤面する。
「あっ、あの時は……すみませんでした」
 こんな状況にもかかわらず、素直に謝ってしまうところが彼女らしい。しかし、その言動は失敗だった。弱みを見つけた彼らは、ここぞとばかりに畳みかける。
「おいおい、それだけかよ?」
「口でなら、どうとでも言えるよなー?」
「『誠意』って知ってるか?」
 彼らが謝罪以上の何を要求しているのか、ミノリにはぼんやりとしか分からなかったが、それが「良くない何か」であることだけは理解できた。彼女は顔を上げ、キッと先方を睨み付ける。
「だって、そっちが先にしつこくしてきたんでしょう? ああするしか、ありませんでした」
「いやー、それにしても痛かったしなー。このままじゃ、気が済まねーよ」
 埒があかない。そう思ったミノリは、平常心を取り戻そうと、すう、と息を吸った。
「……分かりました。じゃあ、ギルドで話し合いましょう。ギルドマスターさんが、仲介に入ってくれます」
 真面目顔で宣うと、相手は僅かに怯んだ様子を見せる。
「そこまでする必要ねーよ。あんたが、『誠意』を見せてくれればいいだけだ」
「『誠意』って、具体的に何ですか。……お金ですか?」
 相手方は、ニヤけ顔を交わし合った。
「それもいいけどな? 嬢ちゃんが、ちょーっと、遊んでくれるだけでもいいんだぜ?」
 純真無垢なミノリには、言外の意味が汲み取れない。が、彼らの言う「遊び」が、自分にとって良くないものであることくらいは容易に想像がついた。
「すみませんが、時間がないんです」
 ここで、ミノリはピンと思い付く。
「家で、夫が待ってるんです。お夕飯、作らないと……」
 一同は、ぎょっと目を剥いた。
「てめっ……既婚者かよ!?」
「はい、既婚者です。だから、遊べません。わたしが帰らないと、夫が心配して探しに来ちゃいますよ」
 場の空気が自分に優位に傾いたのを感じ、ミノリはふわりと愛想笑いを浮かべる。しかし残念ながら、この程度で引き下がるような連中ではなかった。
「一時間くらいなら、いいだろ? その辺の畑を案内してくれよ」
 二年経っても、彼のしつこさは相変わらずだ。ミノリは焦りつつも呆れた。どう返したものか考えていると、ふもとの方から、ようやく待ちに待った助けがやってくる。
「あ、ミノリさーん! こんにちは」
 明るい声の主は、メノウだった。クラウスだったらもっと良かったのに、などと思いながらも、ミノリはこのチャンスを逃さない。自然な流れで彼女に駆け寄り、集団から距離を取った。
「メノウさん! すみませんが、お願いがあるんです」
「何ですか?」
 メノウは普段通りのにこにこ顔で応じたが、ミノリの背後に陣取っている柄の悪い集団が目に入り、途端に表情を曇らせる。
「……困り事、ですか?」
「はい」
 二人は、ボソリと短く言葉を交わした。
「ベロニカさんを、呼んできて欲しいんです。仲裁をお願いしたくて」
「わかりました!」
 メノウは踵を返して、ぱっと走り出した。まずい状況になったのを察した五人組は、逃げを打とうと試みる。
「チッ……なんだよ、つまんねーの。……そろそろ帰るか」
「……そうだな」
 しかし、ここで逃がしてしまっては、また同じようなトラブルが起きないとも限らない。決着をつけてしまいたかったミノリは、だらだらと町の方へ向かい始めた彼らを走って追い抜いた。十分に離れたところで、ぽかんとしている彼らを振り返り、声を張り上げる。
「話し合いが終わらなかったので、人を呼んでもらいました。ギルドで、待ってますね!」
 
 
 それから更に一悶着あったのだが、どうにか、ミノリとベロニカ、そして五人の男性たちは、揃ってテーブルに着いた。ベロニカは、ふう、と溜息を吐く。
(こういうトラブルは、いつ振りかしら……)
 ギルドマスターとして、町で起きた諍いの仲裁に入ることは特に珍しいことでもない。住民が関わるいざこざについても、今回が初めてではなかった。
(確か、リーリエがストーカー被害に遭ったのが……二年前だったわね)
 回想に耽りかけ、これはいけない、と思考を現実に引き戻す。
「では、ミノリさん。事情を説明していただけますか」
 名指しされた女牧場主は、ぴんと居住まいを正して、辿々しいながらもしっかりと説明を始めた。
「えっと……こちらの方が、二年前、わたしの牧場を見せて欲しい、って言ってきたんです。でも、夜遅かったので、お断りしました。それでも、追いかけてきたので……その……」
 自分にとって都合の悪い段になったので、言い淀む。そこで、相手の男が言葉を継いだ。
「こいつが、オレに股間蹴りを食らわしてきたんだ。オレは、何もしてねーのによ。どう考えたって、この女が加害者だろ!?」
 予想はついていたが、「例の」二年前の騒動が原因か、とベロニカは僅かに肩を落とす。当時は事情を知る関係者が少なかったため、大きな噂にはならなかったものの、「ミノリが行きずりの男を誘ったらしい」だの「クラウスがミノリを泣かせたらしい」だの、勝手な話が巷で囁かれたものだ。とは言え、その直後に二人が付き合い始めたことで、そんなデマもたちどころに消えたのだが。
 ベロニカがミノリを窺えば、彼女は真っ赤な面を申し訳なさそうに伏せている。
「ミノリさん、間違いないですか?」
「……はい」
 素直さと生真面目さは彼女の美徳でもあるが、世間を渡っていくには少々不利な性質でもある。この不器用なところは、実の娘に通じるものがあった。ベロニカはギルドマスターとしての義務感以上に、親のような気持ちで「何とか助けてやりたい」と思う。
「分かりました。それが、前提のお話ですね。では、『今回は』どのようなことがありましたか?」
 問われて、ミノリはぽつぽつと語り出す。
「このひとたちが、わたしに、会いにきたそうです。それで、前のこと、謝ったんですけど……誠意を、見せて欲しい……って」
 相手方は、バツが悪そうな表情になった。そういうことか、とベロニカは納得する。
「つまり、慰謝料を要求しているということですか?」
「ちげーよ! ちょっと会いに来ただけだって!」
 相手の男は、慌てて否定した。
「では、何かを要求している訳ではないのですね?」
 ベロニカが厳しい表情で念を押せば、彼は降参だとばかりに「チッ」と舌打ちする。
「……そうだよ」
 後は、今後一切ミノリに近付かないよう、話を持って行くだけだ。ベロニカは、淡々と続ける。
「それにしても、男性五人が一人の女性を取り囲むとは、あまり感心できませんね。一歩間違えば、法に触れる行為ですよ」
 徐々に大げさになってきた流れに、軽い気持ちでミノリを相手にした男性陣は黙り込む。
「とはいえ、それはあくまで、ミノリさんが警察に駆け込んだ場合の話、です。ミノリさんに、その意思はありますか?」
 真顔で問われ、ミノリはぶんぶんと首を横に振った。
「いえっ……わたしも、悪かったですし。今回は、ちょっと怖かったですけど……もう、やめていただければ、それで……」
 それを聞いたベロニカは、彼女の成長振りに安堵しつつ、僅かに口元を弛めて先方に向き直る。
「ミノリさんも、こう仰ってますし。双方の主張を鑑みて、前回および今回の件はお互い不問にし、あなた方は今後ミノリさんには直接近付かず、用があればギルドを通す、ということで……いかがでしょうか?」
 見事な仲裁だった。ぐうの音も出ない相手は、「分かったよ……」と渋々同意する。ミノリは潤んだ瞳で、ベロニカへ感謝と尊敬の眼差しを送った。
 
 
 しょんぼりと肩を落としてギルドの階段を降りてきた妻の元へ、急いで駆け寄るクラウス。
「ミノリ、大丈夫か?」
 心配そうに尋ねれば、ミノリは頬を真っ赤に染めて俯き、彼のコートの前立てを小さな両手で握り締めた。
「大丈夫です。……ごめんなさい」
 蚊の鳴くような声で、本日何度目かの謝罪が溢された。彼女の体は、僅かに震えている。クラウスはミノリを安心させるように、赤いバンダナ越しに頭を優しく撫でてやった。
 早くも二人の世界に入りかけていたおしどり夫婦の後ろを、遅れて階段を降りてきた若い男連中が通り過ぎようとする―が、それだけでは終わらなかった。クラウスに縋り付くミノリを認めた瞬間、件のナンパ男は、ブッと吹き出す。
「なんだよ、お前……妙に釣れないと思ったら、オジ専だったのか!?」
 先刻までのしおらしさはどこへやら、次の瞬間には、どっと笑い出す一同。
「旦那って……オッサンじゃねーか! こんな中年オヤジの、どこがいいんだよ!?」
 突然の出来事にぽかんと口を開けるクラウスだったが、すぐにミノリを気遣い、視線を自分の胸元へ落とす。すると。
「……いい加減に、してください」
 ミノリは、コートを掴む手に力を込めた。ぱっと顔を上げ、目を細めて相手を睨み付ける。今まで見たことのない激しい怒りの表情に、クラウスの背筋は戦慄した。
「クラウスはねっ……! 年齢なんて関係なく、きちんと、努力と、経験を重ねてきた、立派な、大人なんですっ……! あなたたちみたいに、幾つになっても、幼稚園児みたいな行動しか、できないひとたちに……バカにする資格、ないです……っ!」
 しん、と静まりかえるギルド内。
 少しの間を置いて、彼女の言葉を噛み砕いた相手方が、ようやく食ってかかってきた。
「てめっ……誰が、幼稚園児だと……?」
「あなたのことですよ!」
「取り消せ!」
「イヤです! じゃあ、あなたも、『こんな中年オヤジ』って言ったの、取り消してください!」
 こうなると最早、子供同士の喧嘩である。しかし、相手は腐っても大の男だ。危険なことに変わりはない。クラウスはコートに貼り付いているミノリをやんわりと引き剥がして自身の背後に押し遣り、表情だけはにこやかに、しかしドスの効いた声で宣う。
「以前は、妻が迷惑をかけたそうで、申し訳なかった。だが……オレの事は何と言おうと構わないが……今後、こういうトラブルは避けて貰いたいな」
 身長差と、全く笑っていない双眸の威圧感に気圧され、彼らは黙り込んだ。
「お互い、『大人』だろう?」
 とどめの一言に、相手は「ケッ」と毒づいてギルドを出て行く。その後ろ姿を、どこかで見覚えがあるな、と思いながら、クラウスは苦笑と共に見送った。
 
 
 後日。ギルドの休憩所にて、先方から送られてきたお詫びの品を間に挟んで、クラウスとマリアンはのんびりと紅茶を嗜んでいた。
「お相手の子たち、気付いたわね」
「……の、ようだな」
 菓子折に同封されていた長い謝罪文を流し読みしながら、クラウスは小さく呆れの溜息を吐いた。手紙の内容を要約すると、こうだ。
『あんたが「あの」クラウスさんだとは、知らなかった。失礼なことを言った上に、あんたの女に手を出しちまって、本当に済まなかった。どうか許して欲しい』
 この通り、柄の悪かった相手方が、自分を知っている可能性も予測はしていた。しかし、あえてあの場で名前を出さなかったのは、名が通らなかった場合に赤っ恥を掻くのを避けたかったからだけでなく、何より忘れたい過去だった為だ。それなのに。
「こういうのは、やめて欲しいんだがな……」
「いいんじゃな~い? これで、ミノリちゃんの身の安全は保証されたワケでしょ?」
 マリアンは許可を得ることもなく箱を開け、フィナンシェを一つ頬張る。
「おい、ミノリの分も残しておいてくれよ」
「分かってるわよ。ホンっト、ミノリちゃんには甘いわね~」
 幾人もの人間から何度も同じ指摘を受けているので、彼は今更恥じらうこともなかった。それにしても、とマリアンが続ける。
「よく、あの場で相手の子を殴り倒さなかったわね」
 さらりとなされた殺伐とした指摘にも、クラウスは慣れた風で返す。
「まあな……。オレの事は別に構わないが、ミノリに手を出そうとしたのは許し難かったからな。アイツが代わりに怒ってくれなければ、危なかった」
 苦々しげに回顧しつつ紅茶を一口啜った彼に、マリアンはニヤリと笑いかけた。
「そうね。聞いてたわよ~、ミノリちゃんの一声。あたし、痺れちゃった。ラブラブじゃない、もォ~! 羨ましいわ!」
 これには、クラウスも思わず頬を赤らめて視線を外し、弛む口元を手で覆い隠した。
「正直、あれにはまいったな……」
 腐れ縁の友人の滅多に見れない照れ顔に、マリアンは逆に突っ込み辛くなる。十も年若い最愛の人から「年齢に関係なく尊敬している」などと公開告白されたら―自分に置き換えて想像すれば、彼の気持ちも分からなくはない、が。
「あ~あ、あたしにも、いい人できないかしら……」
 甘い溜息を吐くマリアン。
(……また始まったか)
 クラウスは午後の仕事に戻ろうと、そそくさとティーカップと菓子箱を片付け始めた。
 
 

二十三話 大人になるって

 
 
 ミノリは、どうしようもなく凹んでいた。予てから「夫に迷惑をかけてばかりの自分」を自覚していたが、そこに先日の一件が加わったためだ。庭の黒いベンチに腰掛け、快晴の空を見上げて大きな溜息を吐く。心にかかった靄のような薄い雲が、ゆっくりと流れていった。
(どうしたら、クラウスみたいな大人になれるんでしょう……)
 ぼんやり考えていると、ふと、サクサクと芝草を踏む音が耳に入る。ハッとして顔を向ければ、そこにはきちっとコートを纏った夫の姿があった。
「大きな溜息なんか吐いて、どうしたんだ? 何かあったのか?」
 ミノリはギクリとする。まさか、見られてしまうなんて。
「クラウスこそ、どうしたんです? 今日は、ずいぶん帰りが早いですね」
「仕事で使う本を忘れちまってな。取りに戻ったんだ」
 質問に答えながら、クラウスは何気なく彼女の隣に腰を降ろした。
「それで、お前はどうしたんだ?」
 再び、同じ問いが繰り返される。話を逸らすことに失敗したミノリは、言い難そうに面を伏せた。
(こういう時は、大抵『何か』あるからな)
 可愛い年下妻の世話を焼きたくて仕方がないクラウスは、黙って彼女の言葉を待つ。今回も優しい夫の追求から逃れられず、ミノリは俯き加減に渋々と重い口を開いた。
「……どうしたら、クラウスみたいに大人になれるんだろう、って……考えてました」
 嘘を吐く意味もないので、思ったことを有りのまま述べた。クラウスは顎に手を遣り、空を仰ぐ。彼女がそんなことを考え出した原因には、心当たりがあった。
(先日の一件か)
 言動は幼く見えても、自分なりの考えを持って「大人であろう」と努力している彼女にとっては、相当堪えたらしい。自分のようにすっかり擦れてしまった人間から見れば、そんな様が堪らなく可愛いのだが、悩んでいる本人に言ったところで納得するはずもない。
「ミノリには、そう見えるのかもしれないが……オレだって、そんなに大人じゃない」
 それを告げたとて、何の解決にもならない事は分かっていた。しかし、本心だった。思い煩う妻を「心配している」というのは建前で、裏では「どんな言葉で慰めようか」などとうずうずしているような男が、良い大人なものか。
 彼の心中など知る由もなく、ミノリは真面目顔で静かに首を横に振った。
「そんなこと、ないです。だって、クラウスがわたしに迷惑かけたことなんて、一度もないじゃないですか。わたしは、クラウスに迷惑かけてばっかりなのに……」
「迷惑に思ったことなんて、一度もないぞ?」
 ニコニコ顔で答えられ、ミノリは困惑する。彼が嘘を言っていないことは解っていたが、それでも、手間を掛けさせているのは事実だ。まさに、今だって。
「……だとしても、やっぱり、もっと大人になりたいと思うんです。簡単なことじゃないって、分かってはいるんですけど……」
 彼女は、再び無意識に嘆息した。そこではたと我に返り、これ以上無駄な時間を取らせるわけにはいかない、と慌てて笑顔を取り繕う。
「あっ、あの……そんなことを考えてただけなので。気にしないで、お仕事に戻ってください」
 努めて明るく言って、ミノリはすっと立ち上がった。しかしクラウスは、彼女を逃がすまいと白く細い手首を捕らえる。
「もう少し、ここで話さないか?」
「でも、お仕事が……」
「どのみち、家で昼飯を食べてから戻るつもりだったんだ。少しくらい、なんてこと無い」
 彼の時間を奪ってしまうことは心苦しかったが、気遣いは素直に嬉しかった。少し迷った後、ミノリはそっとベンチに座り直す。
 二人の頬を、甘い香りの春風がさわさわと撫でた。
 一時の沈黙を、クラウスが破る。
「……ミノリは、どういうのを『大人』だと思っているんだ?」
 彼の質問に、ミノリは「うーん」と唸った。そして、暫く考えてから答えを紡ぐ。
「落ち着いてて、周りが見えてて、気配りができて……人に、迷惑かけなくて……誰とでも、上手くやっていけるひと……でしょうか……」
 それは、そのままクラウスへの賛辞でもあった。今まで聞く機会の無かった「クラウスは大人だ」の具体的な内容を思い掛けず知るところとなり、彼はつい口元を弛める。が、本題は別だ。ひとまず嬉しさを追い遣った。
「そうか。……だが、オレも含めて、誰にも迷惑をかけない人間なんていないだろうし、オレだって誰とでも上手くやれているわけじゃないぞ?」
「そう、かもしれません、けど……。わたしは、いろんな人にたくさん迷惑かけちゃってるし……人付き合いも、苦手で……」
 クラウスはしょんぼりと肩を落とすミノリの頭を、胸元に引き寄せて優しく撫でる。
「迷惑かどうかは、相手が決めることだ。少なくともオレは、お前に迷惑をかけられていると思ったことは一度も無いし、普段から頑張っているミノリの行動を悪く捉える人間は、そういないと思うぞ?」
「そう、でしょうか……」
 賞賛が折り込まれた彼の回答に、ミノリはぽっと頬を染めた。素直で可愛いな、とクラウスは目を細める。
「ああ。それに、ミノリは『人付き合いが苦手』と言うが、もうすっかりこの町に馴染んでいるじゃないか。お前のことを褒める人間はいても、悪く言うヤツなんていないしな。それは、まともな人付き合いができている証拠だと思うが?」
「……」
 ミノリは耳まで真っ赤になって俯き、クラウスのコートをきゅっと握った。肯定こそしなかったものの、説得は確実に効いているようだ。クラウスはしばらく間を置いてから、更に続ける。
「ミノリは、もっと自信を持っていいんだ。無いものねだりしなくたって、オレはお前のそういう頑張り屋なところや誠実なところが好きだし、尊敬もしてる。他のやつがどう思おうとな」
 彼には分かっていた。確かに、ミノリは誤解されやすい言動が多かったり、存外気が短かったりと、いくつか短所もある。しかし、それを上回る長所をたくさん持っている。今の彼女に最も足りないのは「自信」だ。
 ミノリは暫時黙り込んでいたが、やがて絞り出すように声を発する。
「……やっぱり、クラウスは大人です……」
 そうきたか、とクラウスは苦笑した。彼女の卑屈さは、思いの外根が深いものなのかもしれない。それでも、どうにか憂鬱を解消してやりたくて、穏やかに言い含める。
「お世辞と思ってるなら言っておくが、これは本心だぞ? それに、こういう言葉をかけられるのが大人だと言うなら、お前だって、いつもオレを褒めそやして、自信をくれるだろう」
「……」
 ミノリは視線を落としたまま、応えない。それでも、クラウスは構わず続ける。
「何にせよ、焦る必要はない。いつだったかリコリスも言っていたが、傍から見たら、お前は今のままでも十分大人だよ。年を取れば、嫌でも多少は変わっちまうものだしな」
 その言葉に、ようやく彼女はこくんと頷いた。顔を上げ、エヘヘと恥ずかしそうにクラウスへ微笑みかける。
「……ありがとうございます。自信は、ないですけど……いつまでも落ち込んでないで、がんばろうと思います」
 彼は「ん」と応えて、ミノリの頭をよしよしと撫でた。
「いい子だ。……それじゃ、せっかくだから、久々に一緒に昼食を食べようか」
「はいっ。わたしに作らせてください」
 ミノリが立ち上がると、倣ってクラウスも腰を上げた。先に歩き出した彼の後ろを、ミノリが半歩遅れて着いていく。
「……あの、ごめんなさい。愚痴、聞いてもらっちゃって……」
 深緑色の広い背中に向かって謝罪すれば、クラウスは立ち止まって振り返り、ミノリの頭上にぽんと掌を載せた。
「謝らなくていい。お前の愚痴や弱音を聞けるのは、夫の特権だからな。また落ち込むことがあれば、何でも相談しろ」
 ご機嫌な様子でそう宣った彼へ、ミノリは控えめなはにかみ笑いを返した。
 
 

二十四話 あなたのためなら

 
 
 今日は、クラウスの誕生日だ。ミノリは例年に倣って祝うつもりでいた。
 準備すべきものは、三つある。一つは、彼の好物のブイヤベース。もう一つは、最高級のワインも含めた豪華な夕食。そして、三つ目は―
 ミノリはシードメーカーの道具箱の底から一冊のハウツー本を取り出し、栞を挟んでいたページを開くと、先頭から食い入るように読み始めた。僅かに頬を上気させながら内容を確認して、うんうんと一人頷く。
(やっぱり、間違ってませんよね……)
 ならば何がいけなかったのだろう、と彼女はシルクロードの国での、めくるめく一夜を回想した。強く握ったりしていないし、歯も立てていないはずだ。それでも、彼があれだけ慌てて止めたのだから、何かしら理由があったに違いない。
(でも、いくら考えても、分からないし……)
 ミノリは、はあ、と溜息を吐いた。が、すぐに「これではいけない」と思い直す。恥ずかしくて諦めたくなる気持ちを振り払い、とにかく実践あるのみと、気合いを入れ直したのだった。
 
 
 そして、いよいよ「その時」がやってくる。夕食後、クラウスの肩に頭を預け、ソファでぼんやりテレビを眺めていると、彼の手がするりと腰を這った。反応して視線を交わせば、薄い唇が優しく重なる。チュッ、チュッと二度ほど音を立ててから離された彼の顔には、あからさまな期待の色が浮かんでいた。
 下心を隠そうとしなくなったな、とミノリは思う。嬉しいような、少し悔しいような。複雑な心境だった。
「あの……クラウス」
 沈黙に堪えかねて名前を呼んでみたが、「何だ?」と問われても答えられない。代わりに、ミノリは彼の体にきゅっと抱きついた。
 可愛らしく求めに応じて貰えたことで、クラウスの胸が高鳴る。彼女の背中に腕を回し、柔らかな亜麻色の髪に小さなキスを落とした。
 後の流れは「ふつうのとき」と同じだった。甘く濃厚な口付けで思考を奪われ、全身を包む心地よさの中をふわふわと漂っている間に、気付けばベッドの上まで運ばれていて。耳元で艶っぽく愛の言葉を囁かれて我に返れば、恥ずかしさで躊躇している隙に、するりと服を脱がされてしまう。その手際の良さには、経験の差を実感せずにいられない。
 それでも、今日ばかりは流されるままでいるわけにもいかなかった。ミノリは息を乱しながらも、下半身に伸ばされかけていたクラウスの手を握って止める。待ったをかけられた彼が怪訝顔を向ければ、ミノリは切なげな瞳で見詰め返した。クラウスの心臓が、ドクンと跳ねる。
「あっ、あの……クラウス」
 ミノリが怖ず怖ずと切り出すと、彼は余裕の皮を被り、頬を弛めて「何だ?」と応えた。しかし次の一言で、その余裕は脆くも崩れ去ることになる。
「その……クラウス、のを……口に、入れても……いいですか……?」
 顔中真っ赤に染めて尋ねるミノリを見下ろし、クラウスも思わず赤面してしまった。同時に、どう返事したものかと迷う。彼が考えている間に、ミノリは肘を突いて上半身を起こし、彼のものへ手を添えた。
 瞬間、ビクン、と反応するクラウス。
 申し訳なさから「やめて欲しい」と思いつつも、率直に言い出せなかった彼は、ミノリの一挙手一投足を見守る。彼女は自分に圧し掛かっていたクラウスの胸をやんわりと押して上体を起こさせると、既にいきり立っていた「それ」を片手で握ったまま体勢を変えて俯せになり、口中に咥え込んだ。
「っ……」
 生暖かく包み込まれる感触にクラウスは眉根を寄せ、声にならない声を上げる。若かりし頃に何度も経験してはいたが、愛しい妻の頭頂を見下ろしながら与えられる快感は、過去の比でなかった。
「ミノリ……」
 思わず声を漏らせば、名を呼んだ相手が上目遣いに見上げてくる。潤んだ双眸が、感想を問うていた。が、素直に答えられず。
「もう、いい」
 罪悪感に堪えかねて制止しようとする。しかし、そう言ったのとほぼ同時に、敏感な先端を彼女の舌にくるりと撫でられ、図らずしも「うっ」と声を漏らしてしまった。ミノリは、慌てて唇を離す。
「痛かった、ですか……?」
 肯定すれば、ここで終わったのかもしれない。それが分かっていても欺くことは叶わず、彼は辛くも「いや……」と弱々しく否定するしかなかった。心なしかほっとした表情で、ミノリは再びクラウスの男根を頬張る。その舌使いは絶妙だった。舌先で裏筋を強めに舐め上げられ、腰部にゾクゾクと震えが走る。堪らず、ハァ、と湿った息を漏らせば、彼女は雁首をちろちろと弄んできた。
「もう、いいから……やめてくれ」
 半ば懇願するように言うと、ミノリは彼のものから口を離し、悲しげにクラウスを仰いだ。困惑した彼は、暫時悩んだ末、いつもの妻に倣って正直な思いを告げることにした。
「気持ちは、嬉しいが……その、何だ……申し訳なくてな……」
 珍しく頬を紅潮させて言った彼に対し、体を起したミノリも同じく真っ赤な顔で尋ねる。
「えっと……気持ちよく、なかった……わけじゃ、ないんですよね……?」
 むしろ良すぎた、とは恥ずかしくて返せず、彼は短く「ああ」とだけ答えた。途端に、ミノリは表情を和らげる。が、すぐにそこへ戸惑いの色が混じった。
「あの……イヤ、じゃなければ……続けさせて、欲しいんですけど……」
 クラウスの心臓が、バクバクと脈打つ。快楽を求める肉体の声と、愛しい女性を汚すことへの罪悪感とがせめぎ合い、頭の中はぐちゃぐちゃだった。結果として、「乞われたのなら仕方がない」と責任転嫁することにした。我ながら狡い大人だ、と自嘲しつつ。
「……嫌じゃない」
 ぱあっと嬉しそうに瞳を輝かせるミノリ。クラウスは、落ち着かない気分になる。まさかこの状況で、屈託無い笑顔を向けられるとは。
 ミノリはいそいそと寝そべり、彼の下半身にぱくっとかぶりついた。愛おしそうに目を細めて懸命に舌を動かす彼女の髪を、クラウスはぎこちなく梳く。強い快感と、普段の幼さからは想像もつかない淫靡な妻の姿態に、背筋がゾクゾクと震えた。
「こんなこと……どこで覚えてきたんだ?」
 問い掛ければ、ミノリが顔を上げる。自身の先端から唾液が糸を引く様が例えようもなく卑猥で、思わず口角を上げてしまった。クラウスは彼女の濡れた口端を、親指の腹で軽く拭ってやる。
「……本に、書いてありました」
 また「本」か。ペンの力は偉大なものだと、クラウスは現実逃避がてら思う。一体どんな本を読んだのだろうという疑問については、今はあえて考えを巡らせないことにした。
 これ以上の質問は無いと見るや、尚も続けようと視線を落として口を開きかけたミノリの頬を、クラウスが慌てて右手で包んで制する。彼は「もう十分だ」と言おうとしたが、彼女の舌技から解放されたことで余裕が戻り、ふと「いいこと」を思い付いてしまった。
「ミノリにばかりさせているわけにもいかないな。次は、オレの番だ」
 ニコニコ顔で宣った彼の意図を理解できず、ミノリはきょとんと小首を傾げた。
 実のところクラウスは、女性器への愛撫に口を使った経験がほとんど無かった。元々においに敏感だったのと、指で満足させられているのだから必要ないと考えていた為である。大して好きな女じゃなかったから、というのが本音だが、最低の理由であることは自覚していたので、端に追い遣った。
「ほらミノリ、足を開きなさい」
 彼は仰向けに寝ているミノリの両膝を、ぐっと掴んで開こうとする。が、ミノリは全力で腿を閉じつつ、ふるふると首を横に振った。
「わたしは、いいですっ……!」
 しかし、抵抗しても無駄だということは分かっていた。心底楽しそうに微笑んでいる彼が、素直に引き下がる訳がない。次に言い出しそうなことも、大方予想がついている。
「お前と同じように、オレだってしてやりたいんだが。……嫌か?」
「イヤですっ」
 即答だった。言うようになったな、とクラウスは内心で苦笑する。外面は、いかにも残念そうに嘆息した。
「そこまでハッキリ断られたら、仕方ないか。諦めるしかないな……」
 ミノリの胸が、罪悪感でチクリと痛む。不公平なのは自覚していたから。しかしきっと、これも彼の作戦の内なのだろう。そんなことは、分かっている。分かってはいる―が。
「うー……」
 ミノリは涙目で、小さく唸った。そして、観念したように溜息を吐く。
「分かりました……」
 その言葉を待ってましたとばかりに、彼はニヤリと口端を歪め、白く柔らかな太股を開いた。
「いい子だ」
 余程恥ずかしいのか、ミノリは真っ赤な顔を腕で覆い隠している。
「大分濡れてるな。オレのを咥えながら、感じてたのか?」
 嗜虐心をくすぐられたクラウスが意地悪く尋ねても、一切答えない。しかし、シーツに押しつけられた両腿が小刻みに震えていた。
 彼は体を伏せ、ミノリの股の間に顔を埋める。独特な匂いが鼻を衝いたが、意外にも気にならないどころか、むしろ興奮を煽られた。下馴らしとばかりにそっと花弁を舐め上げれば、「やんっ」と高い声を上げ、ミノリの体がビクンと跳ねた。
「それ、イヤです。変な感じ……」
 しかしクラウスは皆まで言わせず、割れ目に舌を滑り込ませて、トロトロに蕩けた花弁をなぞる。
「あぁっ……あ……イヤぁ……!」
 切なげに喘ぎながら、顔を隠していない方の手で、ぎゅっとシーツを握り締めるミノリ。いつになく乱れた様相にそそられ、クラウスは更に敏感な部分を刺激してやろうと、舌を這わせつつ上へ移動させた。すぐに、ぷっくりと膨らんだ芽を探り当てる。僅かに力を入れて舐め上げれば、ミノリはいっそう大きな声で鳴いた。
「あぁっ! やめっ……やめてっ、クラっ、ス」
 やめろと言われたら、余計に虐めたくなってしまうというもの。クラウスは彼女の懇願にゾクゾクするような悦びを感じながら、芽を上下の唇で挟み、チュッと吸い上げた。間髪入れず今度は口に含み、舌先で転がすように弄ぶ。
 彼がその一点を執拗に責め続けていると、身を捩って嬌声を上げ続けていたミノリは、やがて背を仰け反らせて大きく口を開けた。が、叫びは音にならなかった。同時に、全身の筋肉が強張る。達したか、と判断したクラウスが顔を離して刺激から解放してやれば、彼女の小柄な体から、くたりと力が抜けた。
 ハァハァと荒い息を吐き、ミノリは自身の下半身に恨みがましい目を向ける。したり顔の夫と視線が合った。
「やめて、って……言ったのに……」
 涙目で訴えたが、彼はふいっとそっぽを向いて「さて、何のことだか」と惚ける。ミノリはよろりと上半身を起こすと、腿に添えられていたクラウスの手をぞんざいに退け、「もうおしまい」とばかりに脚を閉じた。
「ずるい、です……」
 真っ赤な拗ね顔でぽつりと溢せば、同じく身を起こしたクラウスが横から優しく彼女を抱き締め、良い香りのする髪にキスを落とした。
「可愛かったぞ」
 耳元で囁かれ、ミノリはビクンと反応する。そんな彼女を、クラウスは再び穏やかに押し倒した。困惑顔のミノリに体を重ね、顔を近付けて宣う。
「疲れているところ、悪いが……オレもそろそろ限界だ」
 すっかり「終わった」ものだとばかり思っていたミノリは、図らずも「あ」と呟いた。
 
 
「いい誕生日だった。ありがとう、ミノリ」
 満足げな表情でそんな風に言われてしまっては、文句の一つも返せなかった。「もう少し休ませて」という懇願を無視して挿れられてしまったことにも、「今日は元気だから」と二回戦に持ち込まれたことにも、盛大に抗議したかったのだが。ミノリがどう反応したものか考えていると、「愛してる」という低い囁きとともに、温かい唇が頬に触れた。
「……わたしも。愛してます」
 結局のところ、そう応えるしかない。ミノリは、フフッと笑った。そして、ささやかな仕返しを思い付く。
「……明日は、わたしの誕生日ですよね」
「そうだな」
「たまには、辛いものが食べたいです。わたしの分だけでいいので、一品作ってください」
 
 

二十五話 一杯ひっかけて帰ります

 
 
 午後十時。自宅で夕飯を食べ終えたメノウは、椅子の背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。
「ふぅ~。ごちそうさまでした!」
 今日の糧を与えてくれた自然と人々へ、感謝を込めて宣うと、しばしの食休みに入る―と言っても、ほんの数分であったが。胃袋が落ち着いたのを感じた彼女はガタッと立ち上がり、足早に本棚へ向かった。取り出したのは、「動物医療の今」という一冊の雑誌。再びテーブルに戻ると、パラリとページを開く。
 同時に、予期せず玄関扉がノックされた。
「こんばんは。ミノリです」
 厚い板越しに届いた可愛らしい声に扉を開ければ、そこには昼間会ったばかりの、小柄な女牧場主が立っていた。
「こんばんは、ミノリさん。こんな時間にどうしたのですか?」
「あ……えっと。改めて、先日のお礼を、と思いまして……」
 もごもご述べた彼女の手には、一本のワインボトルが。
「これ、大した物ではないんですけど。メノウさんは、ワインもお好きだと伺ったもので……」
 差し出されたそれを受け取った途端、メノウの瞳がキラキラと輝いた。
「ミノリさんの牧場のぶどうワインですか!? こんな高級品、もらってしまっていいんですか!?」
 メノウが驚いたのも無理はない。ミノリの牧場で作られる五つ星のワインは、無名の畑にもかかわらず、町の外では一本当たり五千から六千Gの値で売られているのだ。決して高すぎる額ではないものの、テーブルワインとして飲むには手を出しにくい品である。そもそも流通量が非常に少なく、「愛好家向けワイン」として市場に出ているため、入手自体が難しい。だからこそ「高級品」と称されたことは、ミノリにも分かっていた。
自家製ワインを褒められたミノリは飛び上がりたくなるほどの嬉しさを押し隠して、ふわりと控えめに微笑んだ。
「はい。この間は、メノウさんのおかげで、本当に助かりました。ご迷惑おかけして、すみませんでした」
 ぺこりと腰を折った彼女に、メノウは上機嫌で首を横に振る。
「そんな大したことしてませんし、いいのですよ~。でも、せっかくなので、ありがたくいただきますね。どうぞ、寄って行ってください♪」
 そう言って室内へ促したが、ミノリは僅かに困惑を含んだ笑顔を向けた。
「いえ。もう夜も遅いですし、失礼します」
「そうですか……残念です」
 しゅん、とあからさまに肩を落とすメノウ。ミノリは気を遣って断ったつもりだったが、かえって相手の気分を害してしまったのではと不安になり、慌てて返事を翻す。
「えっと……でも、ご迷惑でなければ、ちょっとだけ寄らせていただいても……?」
 一瞬で、メノウの表情がぱあっと明るくなった。
「ぜひぜひ! どうぞ、上がってください♪」
 半ば背を押すようにして客人を迎え入れると、彼女は後ろ手に玄関扉を閉める。「ちょっとそちらへ座って待っててくださいね」とテーブルを指し示し、パタパタと落ち着きなくキッチンへ駆けて行った。食器棚から二客のグラスを取り出しつつ、弾む声で尋ねる。
「ミノリさんも、お酒、呑めるんですよね?」
 緊張でカチンコチンになっていたミノリはその質問の意図を察して、わたわたし始めた。
「呑めますけどっ……今日は、遠慮しておきます」
「そうですか……?」
 またも、しゅんとされてしまった。ミノリは更に焦る。本音を言えば、同じ年頃の女の子と楽しく晩酌できるなど願ってもないことだ。しかし、こんな時間に突然訪問した上、その目的が「お詫びとお礼」だというのに逆に酒をごちそうになるなど、常識的に考えてどうかと思う。とは言え、当のメノウが誘いを断られて残念がっているのだから―
「あっ、あの……じゃあ、一杯だけ、いただきます」
 断り切れなかった。
「よかったです♪この町でお酒が好きな女の人って、わたしくらいしかいなかったのですよ~。ミノリさんもお酒に強いってお話を聞いたので、一緒に呑みたいなって、ずっと思ってたんです」
 ニコニコ顔で語りながら、メノウは二客のグラスと、先ほどミノリが渡したぶどうワイン、そしてソムリエナイフを持ってきた。ボトルをテーブルの上に置き、ナイフを使って慣れた手つきで封を切って、コルクにスクリューを捻じ込む。軽くハンドルを引いて九分目まで栓を引き上げたら、残りは力任せに抜いた。緑色のガラス瓶が、ポンッ、と小気味良い音を立てる。
「サファリで毎日お会いしてても、お互いにゆっくりお話する時間もなかったですし。だから、とっても嬉しいのです!」
「そうですね……」
 時間に余裕のある時でも、何を話していいか分からないという理由であえて忙しい振りをしていたミノリは、「ごめんなさい」と心の中で呟いた。 落とされた視線の先で、グラスに真紅の液体が流れ込む。半分ほど注いだところで、メノウが自分の分を手に取って掲げた。
「はいっ。それじゃ、乾杯です♪」
 それに倣い、ミノリも僅かに引き攣った微笑みを浮かべてグラスを上げる。
「……はい。乾杯っ」
 
 初めこそ何を話したら良いのだろうと戸惑っていたミノリだが、三杯ほど煽った後には、すっかり打ち解けていた。
「やっぱり、クマさんには鮭ですよね~!」
「ですよねっ!」
 メノウが、グラスの中身をぐいっと半分ほど飲み干す。
「油の乗った大きなお魚なら、他にも好きなものがあるかなって、食べてみてもらったのですよ。ですが、鮭が一番おいしいのだそうです」
「やっぱり、そうなんですね。他のお魚もあげてみましたが、あまり喜ばなかったので……」
 ミノリも、空のグラスになみなみとワインを注いだ。
「なので、最近は鮭の養殖を始めてみたんですよ」
「そこまでしていただけるなんて! クマさんたちも、とっても喜ぶと思うのです♪ 明日、お話しておきますね!」
「遅くなっちゃうかもしれませんけど、増えたら持っていきます」
 そう言って一口ワインを含み、ミノリは何気なく壁掛け時計を見上げる。気付けば、時刻は十一時を回っていた。
「あっ……!」
 思わず声を上げ、ガタッと椅子を引く。
「ごめんなさいっ! そろそろ、帰らないと……」
 慌てに慌てたミノリの様子に、追ってメノウも時計を確認した。そして、同じく「あっ」と口を開き、ガタタッ、と腰を上げる。
「こちらこそ、こんな時間までお引止めして、すみませんでした! あんまり楽しいので、つい……」
 急いでテーブルの上を片付けようとするミノリの手を、メノウが「いえ、わたしがやるので大丈夫です!」と制した。ミノリは「ありがとうございます!」と弾かれたように頭を下げ、急いで鞄を肩にかける。
「クラウスさんに、『ごめんなさい』ってお伝えください!」
「いえ、メノウさんのせいじゃないですから。それに、クラウスは怒らないと思うので、大丈夫です」
 軽く微笑み、ミノリは玄関口まで駆けていった。
「では、お邪魔しました!」
「はいっ。今度また、ゆっくり呑みましょう!」
「ぜひ!」
 
 
(また十一時過ぎか……)
 柱時計の鐘の音をソファで聴き終えたクラウスは、ふう、と小さな溜息を吐いた。夕食後に家を出る際「遅くなる」とは伝えられていたものの、連日これほど帰りが遅いと、さすがに複雑な気分だった。
(メノウと話が弾んでいるんだろうか?)
 それはそれで結構なことだが、夜遊びはあまりよろしくないだろう。無意識に眉を顰めた自分に気付き、これはいけない、と首を横に振る。そこには、妻を心配する気持ちだけでなく、多少の嫉妬も含まれていたからだ。
(ミノリは、だいぶこの町に馴染んできたな)
 彼は、自分の妻と付き合い始めた当初を思い返す。見かける度、誰に対してもぺこぺこ頭を下げつつ硬い笑顔を向けていたミノリを回想し、フフッと笑った。それでも、自分にだけは―自分がそう思っていただけなのかもしれないが―拗ねた表情や寂しげな表情、弱さを隠さず見せてくれていた。しかし今では、それも「自分だけのもの」ではなくなってきているのだろう。ふと、クラウスの心に、幾度となく抱いてきた不安がよぎる。
(オレ以外にも「自分を受け止めてくれる者」がいるのだと気付いても、ミノリは、まだ「オレのミノリ」でいてくれるだろうか……?)
 その時、ガチャリと玄関扉が開いた。
「ただいま、クラウス。遅くなってごめんなさい」
 息を切らし、パタパタと自分の元へ駆け寄ってきた妻へ、クラウスは取り繕った笑顔を向ける。
「おかえり。話し込んでたのか?」
「はい。メノウさんと、動物さんのお話で盛り上がっちゃいまして……」
 心なしか興奮した様子で語る彼女の吐息からは、ほんのりアルコールのにおいがした。
「……呑んできたのか」
 努めて何気なく尋ねたが、その声音は僅かに低い。その違いを敏感に感じ取り、ミノリは無意識に体を強張らせた。
「あの……ごめんなさい。怒ってますか……?」
 しまった、と内心焦るクラウス。
「いや、そんなことはないぞ?」
 慌てて否定しつつ、ミノリの腕を軽く引いて自分の隣に座らせた。
(オレも、大概大人げないな……)
 大方、メノウから酒を勧められたのだろう。仮に自分が同じ立場だったとしても間違いなく誘いを受けるし、妻の行動を咎める気は微塵もない。そう思っていても声が棘立ってしまったのは、理性の外で、ミノリとの晩酌の時間を「取られた」と感じてしまったためだ。本人に言えるはずもないが。
「あまり帰りが遅いと心配になるが、友達が増えるのは良い事だからな。オレに遠慮せず、たまには女の子同士で楽しむといい」
 寛大な振りをしてミノリの頭を優しく撫でながらも、しっかり『たまには』『女の子同士で』と宣ったことに、言った当人は気付いていない。しかし、言外の意図など全く読めなかったミノリは、ほっとした様子で「ありがとうございます」と微笑んだのだった。
 
 

二十六話 繁忙期限定看板娘

 
 
 発端は、夏の月十一日放送の「樫の木チャンネル」だった。
「あっ! クラウス、今日の樫の木チャンネル、クラウスのことやってますよ!」
 ぶっ、と食後の紅茶を噴き出しかけるクラウス。慌ててソファを振り返れば、そこにはテレビの前ではしゃぐ妻の姿が。まさか、いつぞやのように昔の知り合いへのインタビューが行われているのでは―と盛大に焦った彼だが、取材されている人物を確認し、安心した様子で頬を緩めた。
「ああ、オレの常連客だな」
 ティーカップ片手に席を立ち、ミノリの隣へ移動する。静かにソファへ腰を沈めた彼は、一口紅茶を啜った。
『クラウスさんの作る香水について、どう思いますか?』
『とても魅力的ですわ。調香の腕は、確かなものよ。同じものを別の人間に頼んでも、あの香りは絶対に出ませんもの。そうでなければ、わざわざこんな遠くの町に出向きませんわ。うちには専属の調香師がおりますもの』
 夫への賞賛に聴き入っていたミノリは、キラキラした瞳をクラウスに向ける。
「すごいですね、クラウス。すっごく褒められてますよ!」
 上客と最愛の妻から同時に讃えられた嬉しさで思わず口角を歪めてしまったが、照れ臭かったので、紅茶を飲む振りでそれを隠した。
『その専属の調香師さんは、クラウスさんの香水について何か言っていましたか?』
『どうすればこの香りが出せるのか分からない、と言っていましたわね。材料と製法にある程度の見当がついても同じものは作れないだろう、と。ほかの調香師からみても彼の腕は素晴らしいのだそうよ』
 それにしても、前回の放送内容より大分マシとは言え、自分に対する世間の評価がお茶の間に流れているというのは、やはり面映ゆい。
「これはリップサービスだろう。オレもこの業界じゃ、まだまだ経験が浅い方だ」
「そうなんですか? でも、お客さんから褒めてもらえるってことは、やっぱりすごいんだと思いますよ」
 煽ってくれるなよ、と思いつつ、クラウスは僅かに頬を染めた。
『それほどの腕なら、第二の専属調香師としてうちに来て欲しいと何度もお願いしているのだけれど……残念ながら、イエスの返事は未だに貰えていませんわ』
『……なるほど』
 このご婦人、「未だに」ということはまだ諦めていなかったのか―と、クラウスは呆れて肩を落とす。何気なく隣へ視線を落とせば、ミノリが小首を傾げて彼を見上げた。
「専属調香師って、一か所の会社で調香のお仕事をする、ってことですよね?」
「ああ。彼女は有名ブランドの香水担当でな、何度かオファーを受けたんだ。オレはフリーのほうが性に合ってるから、その度に断ってるんだが……」
 なかなか引き下がってくれなくてな、と苦笑するクラウスに対し、ミノリは「そうなんですか」と小さく微笑み返した。
『クラウスさんの調香師としての腕はどうやら、私たちが思っている以上のようですね。テレビの前の皆さん! せっかく樫の木チャンネルが映る地域……近場にいるわけですから、一度はクラウスさんに調香をお願いしてみる……というのもいいかもしれませんよ。それでは、今週はここまで。お話どうもありがとうございました! また来週! さようならー!』
 
 
 その放送がまさか、これほどの宣伝効果をもたらすとは。ローカル番組を完全に見くびっていた。途切れぬ来客や電話対応に追われて本来の作業も大して進まず、クタクタになって帰宅したクラウスはドサッとソファに身を投げ出した。
「疲れた……」
 はあー、と大きな溜息を吐く夫へ、先に帰宅していたミノリは淹れたてのアイスティーを差し出す。
「……ありがとう」
「いえ」
 ふわりと一つ微笑んで、彼の向かいに腰を下ろした。が、その笑顔はすぐに、心配げな表情に取って代わる。ティーカップを傾ける夫の瞳が、見るからに虚ろだったためだ。
(こんなに疲れてるクラウス、初めて見ました……)
 何か、自分に手伝えることは無いだろうか。ミノリは必死に考えた末、ふと思いついた。
「明日、お手伝いに行きましょうか?」
「いや……気持ちは嬉しいが、大丈夫だ」
「お客さんにお茶を出すくらいなら、私にもできますよ」
 クラウスは、はたと紅茶を飲む手を止めて考える。ああ、それは確かにありがたいな―と。しかしミノリにも牧場仕事があるのだ、頼る訳にはいかない。断ろうと口を開きかけるが、ミノリが先手を打った。
「牧場仕事は、いつも午前中で終わってますし。午後はサファリへ行ってますけど、今はたくさん資材があるので、しばらく行かなくても大丈夫です。作物を出荷したら、クラウスのお家へ行きますよ」
 ニコニコ顔で、そう提案する。「しかしな……」と返事を濁すクラウスに対し、とどめの一言。
「わたしも、たまにはクラウスの役に立ちたいんです。……ダメ、ですか?」
 上目遣いで懇願するように問われては、全く敵わない。結局、彼はミノリの厚意に甘えることにしたのだった。
 
 
「すみません。三十分ほど、こちらでお待ちいただけますか?あの……今、手が離せないそうで……」
 客人にお茶を出し終えると、今度はけたたましく電話のベルが鳴る。
「はい。……はい。すみません、クラウスは今、調香の作業で手が離せなくて……はい。えっと……後ほど、こちらから折り返させていただきます」
 相手方の名前と電話番号を控え終えれば、またも来客が。
「あっ……ありがとうございます。すみません、えーっと……ちょっと、お待たせしてしまうんですけど……。どうぞ、入ってお待ちください」
 そんなやり取りを隣の部屋で聞き流しながら、クラウスは調香作業の手を休めることなく、心の中で「ミノリ、すまない」と心から謝った。
(それにしても、ミノリの客捌きは見事だな……)
 人見知りな彼女のことだ、きっと酷く緊張しているであろうに。その健気さに胸打たれつつも、報いる術はさっさとこの仕事を終わらせることだ、と目の前の作業に集中し直した。
 一方ミノリは、紅茶を運んだお盆を手にしたまま、ピタリと壁に張り付いて固まった。「世間話くらいした方がいいのだろうか」などと考えていると、不意に二人いる客の内の一人が話しかけてくる。
「君、ここの従業員?」
「あっ……いえ。えっと……クラウスの、妻、です……」
「そうなんだ。先に、料金について聞いておきたいんだけど……」
「すみません……わたしには、分からないので……クラウスの作業が終わるまで、お待ちいただけますか?」
「ふうん……分かったよ」
 もう少し実務について聞いておくべきだった、とミノリは後悔した。意図せずきゅっと唇を閉じて足元へ視線を落とす。本人にそのつもりがなくとも、気落ちしているのは傍目に明らかだった。若い女の子のしょげた様子に、何やら申し訳ない気持ちになった客人が、場を和ませようとありきたりな話題を振る。
「奥さんは、ずっとこの町に住んでるの?」
「いっ、いえ。三年ほど前に、越してきました」
 ミノリはパッと顔を上げ、真顔で答えた。
「へえ。出身は?」
「×××です」
 そこへ、相席していた別の男性も加わる。
「ああ、ワインで有名な所だよね」
「はいっ、そうです。わたしは十五で引っ越してしまったので、出身地のワインを呑んだのはだいぶ後になってからなんですけど……美味しかったです」
 ミノリがふわりと微笑んで応えれば、一瞬で室内の空気が明るくなった。そこへ、再び電話のベルが鳴る。
「はいっ! ……はい。えっと、すみません……わたしでは分からないので……はい。分かりました。ありがとうございました」
 チン、と受話器を置いて振り返ると、客人二人がハハッと笑いかけた。
「奥さんも大変だね。樫の木チャンネルの反響だろう?」
「はい。でも、こうやってたくさんの人がクラウスのお香に興味を持ってくれるのは、とっても嬉しいです」
 ミノリは、最高の笑顔で本音を返す。そして、「エヘヘ」と浮かべたはにかみ笑いを、手にしていたお盆で半分隠した。その可愛らしい仕草に、相手の男性二人は更に頬を緩める。
「奥さんずいぶん若そうに見えるけど、歳はいくつなの?」
「えっと、二十五です」
「へえ。もっと若いのかと思ったよ」
 苦しくも表情には出さなかったが、内心イラッとするミノリ。
「よく、言われます……」
 そう答えた口角は、心なしか引き攣っている。しかし、彼女をよく知らない客人たちが気付くはずもなく。
「やっぱり? 可愛いもんね」
 多くの女性にとっては褒め言葉でも、それがコンプレックスの対象である者には通用しなかった。
「ありがとうございます……」
 やはり自分の言動はそれほど幼く見えるのか、と気落ちするミノリ。それでも愛想笑いを崩すわけにいかず、どう会話を続けたら良いものかと迷っていると、不意に、背後から耳慣れた低い声が響いた。
「お待たせして申し訳ありませんでした。作業が立て込んでおりまして……」
 ぱあっと顔を輝かせて振り返れば、穏やかに微笑む夫と目が合う。
「ミノリ、ありがとう。向こうの部屋で休んでてくれていいぞ」
「はいっ。あっ……お茶のおかわりを淹れたら、そうさせてもらいますね」
 
 商談は、それぞれ十五分ほどで纏まった。といっても、その場で具体的な内容を詰めたわけではなく、双方に対し要件を聞いた上で「後日こちらから出向きます」ということで話を終えたのだが。その間にも二件の電話があり、客を見送った後でリストをクラウスへ渡した時には、連絡先の控えは十数件にも上っていた。
「確かに、こんなにお客さんがくると疲れちゃいますね……」
 苦笑するミノリの頭を、クラウスがくしゃりと撫でる。
「だが、今日はミノリのおかげで本当に助かってるよ。疲れたら、先に帰っていいからな?」
「いえ、五時まではいますよ。カップ、洗ってきちゃいますね」
 慣れない客対応で受け応えこそぎこちなかったものの、トラブルを起こさないどころか天然の癒し効果で客を和ませつつ、きびきびと立ち働く彼女の背中は非常に頼もしいものだった。思わず感慨に浸ってしまったが、すぐにクラウスはハッとして「そうだ、電話だ」と呟き、リスト潰しの作業にかかったのだった。
 
 

二十七話 遠くの夫と近くの住民

 
 
「それじゃ、行ってくる。留守番よろしくな」
「はいっ。行ってらっしゃい」
 傘の下で、ちゅっ、と音を立てて軽いキスを右頬に落とされたミノリは、可愛らしくはにかんでから、爪先立って彼の右頬にちょんと口付け返した。左手に紺色の傘を、右手に大きめの仕事鞄を持って山道を下っていく深緑色の背中を雨垂れの向こうに見送りながら、ミノリは小さな溜息を吐く。
(三日、ですか……)
 元より何年も一人暮らしだったのだ、大したことではない。しかし、結婚して以降、一晩以上夫と離れるのは初めてのことで、しかも午後は彼の仕事場で電話と来客対応―と言っても、事前連絡無しで訪れた客に対し、玄関先でクラウスが留守である旨を説明するだけだが―を任されている。全く不安がないと言えば嘘になった。
 クラウスの出張の理由は、四日前の「樫の木チャンネル」の放送によって獲得した新規顧客との商談である。どの取引先も町からそう遠く離れた場所ではないものの、相手が一件二件ではなかったため、町外に宿を取って一気に回ってしまう事にしたのだった。
 その間も電話や来客はあるだろうからと、ミノリは勇んで仕事場の留守番を買って出た。ここ三日間、午後の数時間はクラウスの元でお茶出しをしていたので、接客にも慣れつつあった。
(最初の頃より、電話もお客さんも減ってますし……きっと、大丈夫ですよね)
 うん、と一人頷き、気合を入れなおす。
「早く牧場仕事を終わらせて、クラウスのお家へ行きましょう!」
 
 
 一日目は、いたって順調だった。二人の訪問者へお茶だけ出してお帰りいただき、一人の常連客に完成した香水を渡し、五件の電話に対応し、三通の茶封筒に切手を貼ってギルドへ持って行った。そして、午後六時。ミノリはクラウスの言い置き通り留守番を切り上げ、しとしとと降り続ける雨など全く気にも留めず、弾む足取りでレストランを訪れる。
「こんばんは、レーガ。……と、ジョルジュさん。サファリツアー振りですね」
 水色の傘を畳みながら店主と先客に声をかければ、二人は同時に店の入口へ顔を向けた。
「よっ、ミノリ。うちで夕飯なんて久しぶりだな」
「こんばんは。隣、どうだい?」
「ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げ、ミノリはジョルジュの隣のカウンター席に座る。ささっとメニューに目を通し、和風パスタとの間で少し迷った後、普段あまり食べない方を注文した。
「冷やし中華と、グラスワイン、お願いします」
「ハハッ。相変わらず、麺類好きだな」
 カウンターの向こうのレーガが、素早くグラスにワインを注ぐ。ミノリはそれを、綺麗な手つきだなあ、と感心しながら眺めた。
「そういえばミノリ、最近、クラウスの手伝いをしているそうじゃないか」
 問われて左を向けば、食後の紅茶を楽しむジョルジュが、パチンとウィンクする。その所作に、ミノリは思わずフフッと笑いつつ「はい」と返した。
「この前の樫の木チャンネルで紹介されてから、すっごく忙しくなっちゃったんですよ。わたし、このごろ午後は時間が空いてるので、お手伝いさせてもらってるんです。電話番とお茶出しくらいですけどね」
 ニコニコ顔で語られた話に、聞き手の男二人はわざとらしく「はあ……」と溜息を吐いて見せる。
「クラウスが羨ましいね。ボクのところにも、こんな出来る助手が欲しいよ」
「オレんとこにも。ミノリは偉いな。自分の仕事だってあるだろうに」
「わたしのところは、お客さんが来ることってほとんどないですから。お休みはなくても、空き時間は作りやすいんです」
 あのおっさん、ホントいい嫁さん貰ったな……と心の中で羨望しながら、レーガはミノリの前へグラスを滑らせた。その中身がいつもより多い事に気付いたミノリは、それがサービスなのだと理解し、グラスと店主へ交互に顔を向けつつ、あわあわする。ニコッと爽やかに微笑むイケメン青年。
「普通の量じゃ、足りないだろ?」
「あっ……ありがとうございます」
 ミノリは頬を真っ赤に染めて、「エヘヘ」とはにかんだ。
「で、クラウスさんは出張か何か?」
「はい。町の外で、商談があるんだそうです」
「では、今日は留守番をしていたのかい?」
「はい。張り紙しておけば大丈夫ってクラウスは言ってましたけど、せっかく初めて来てくれたお客さんに申し訳ないので、お茶くらいは……と思いまして」
「なるほど。美しい心遣いだね」
 うんうん、と一人で何かに納得し、ジョルジュが紅茶を口に含む。
「ボクの牧場へもファンの子がたまに訪ねてくるんだが、みんな遠い所からわざわざ来てくれるからね。偶然留守なら仕方ないとは言え、おもてなしの一つも出来ないと、申し訳ない気持ちになるよ」
「やっぱり、そうですよね」
 そんな話をしている内に、注文の品が出来上がった。「はい、お待たせ」とレーガが卓上に皿を置いたのを見て、ジョルジュも空のティーカップをソーサーの上に置いた。
「それじゃ、ボクはお先に失礼するよ。レーガ、ご馳走さま。ミノリ、お互い頑張ろう」
「はいっ。また今度!」
 ひらひらと手を振りながら半ばモデル歩きで去っていく後ろ姿を見送った後、レーガが「そういえばさ」と切り出す。
「明日、台風が来るらしいな」
「えっ! そうなんですか?」
 樫の木チャンネルと天気予報を視聴するのはミノリの毎朝の習慣だが、今日はクラウスが早い時刻に家を出たためまだ見ておらず、これが初耳だった。
「クラウス、大丈夫でしょうか……」
 口に運びかけた箸先のプチトマトを見つめて難しい顔をするミノリに、向かい合う青年はハハッと笑った。
「牧場の心配じゃないのか?」
「うちはビニールハウス栽培なので、台風や吹雪が来ても大丈夫ですよ。でも、クラウスは外回りですし……ちょっと心配です」
 ミノリは、大真面目に答える。レーガの中で、じわりと可笑しさが込み上げた。慌てて緩む口元を隠して後ろを向いたが、耐え切れずにククッと笑いを漏らしてしまう。
「えっ……何か、可笑しかったですか?」
 きょとんとした顔が、更に笑いを誘った。が、二、三度深呼吸し、どうにか持ち直す。
「いや……何でもない」
 この話、後でクラウスさんに聞かせて反応を見よう。レーガは密かな企みを抱いたのだった。
 
 
 翌朝。天気予報は、見事に的中した。
 それでも、牧場仕事に休みは無い。ミノリは一人での朝食を終えると、すぐにビニールハウスへ向かって水遣りと施肥を済ませた。続けて、動物小屋に駆け込んで家畜の世話を終える。一連の作業は四時間ほどで終わったが、一旦帰宅して一息吐くと、今度は傘を差して徒歩で町へと向かった。
(こんな日にお客さんは来ないと思いますけど、一応、電話番だけでも……)
 愛馬のスピカを駆らなかったのは、こんな天気の中走らせるのは酷だと判断したためだ。しかし、台風の最中に外出するという選択肢自体が間違っていることには考え至らないところがミノリである。
 失敗した、と思った時には、後の祭りだった。
 お気に入りの水色の傘が見事にひっくり返ってしまったのは、山道を半分ほど下った頃。激しい風雨に晒され、「これはさすがにまずい、帰ろう」と後ろを振り返ってみたものの、既に戻るも進むも同じ距離のところまで来てしまっていた。仕方なく、当初の目的地を目指すことにする。
 道中、散々強風に煽られ、普段なら徒歩で一時間ほどの道程が、なんと二時間もかかってしまった。どうにかこうにかクラウスの仕事場に辿り着いたミノリは、すぐに洗面所へ駆け込み、びしょ濡れの衣服を脱いで全裸になる。目の前にあるのは、あまり使っていないであろう洗濯機だが、脇に洗剤が置いてあったので、ひとまず服を中に放り込んだ。熱いシャワーを浴び終えたミノリは、こんな時のために寝巻の一着くらい置かせて貰っておけばよかったと後悔しながら、体を拭いたバスタオルをくるりと胸元に巻き付けた。
(とりあえず、何か着るものを借りましょう)
 勝手に箪笥を漁るのは申し訳ないと思いつつも、こんな状況では致し方ない。ドキドキしながら引き出しに手をかけた時、不意に、電話のベルが鳴った。
 びくん、とミノリの体が跳ねる。
 慌てて受話器を取れば、案の定、調香に関する問い合わせの電話だった。
「はい。……はい、ありがとうございます。すみません、クラウスは今、出張中でして。……はい、明後日には戻る予定なんですけど……。……はい。すみません、よろしくお願いします」
 静かに受話器を置き、ふー、と息を吐く。先方は「折り返す」と言っていたが、一応、電話横のメモに時刻と名前を控えておいた。コトリとペンを置いたところで、不意に鼻がむず痒くなり、「へくしっ」と小さなくしゃみが出た。
(いけない、早く服を着ないと風邪ひいちゃいますね)
 ミノリはパタパタと箪笥に駆け寄ると、今度は躊躇なく取っ手を引く。これでいいかと取り出したのは、いつもクラウスが着ているものと揃いの、白いシャツだった。一番上のボタンだけ外して被れば、当然のことながら、ぶかぶかで。子供っぽいと解っていながらも、つい、余った袖を振って遊んでしまう。
 その時、ふと悪寒を感じた。
 長時間雨に当たって冷えたせいだろう。少し温まらなければ―そう考えたミノリはベッドへ向かい、もぞもぞと体育座りで掛布団にくるまった。外壁に激しく打ち付けられる雨音を聴きながら、両足と組んだ両手を前に伸ばし、うーん、と伸びをする。
(手持無沙汰ですね……)
 寝てしまうといけないし、何かすることはないだろうかと考えた結果、クラウスの書棚から本を拝借することにした。専門書やビジネス実用書が多く、そちらにも興味をひかれたが、あえて普通の小説を選ぶ。夫の嗜好に、僅かながら興味があったためだ。彼は普段どんな大人っぽい話を読んでいるのだろうかと、わくわくしながらベッド上で読み始めてみたものの、自分が読んでも普通に面白い小説だったので、普通に楽しんでしまった。
 結局、最初の一件以降電話のベルは鳴らないまま、時計の針が六時を指す。
(でも、帰れませんよね……)
 ミノリは行きの失態を思い返し、はあ、と嘆息した。諦めて今夜はここへ泊まることに決め、ベッドを降りて洗濯機を回す。その足で、何か食べ物は無いかと冷蔵庫を覗いてみた。あまり期待はしていなかったが、幸運なことに、きのこサラダとメロンパンが入っていた。暖かい紅茶を淹れ、簡素な夕食を済ませる。
 食休みを済ませると、洗濯物を洗面所に干し、再びベッドへ潜り込んだ。今度は横になって小説の続きを読んでいると、程なくしてうつらうつらし始め、そのまま眠り込んでしまった。
 
 
 真夜中に、ふと目が覚める。電気を付けっ放しだったため、部屋は明るかった。覚醒した途端、ミノリは自身の異変に気付く。
(だるいし、寒いし……なんだか、熱っぽい……?)
 これは風邪をひいたな、とすぐに分かった。
(どうしましょう……寝たら、治りますかね……?)
 とりあえず水を一杯飲もうと身を起こす。ぐらり、と上体が傾いだ。
(ああ……これは、ちょっとまずい、かも……)
 ふらつきながらもキッチンへ向かい、どうにかコップに水を汲んで中身を飲み干す。再び満たしたコップを持って戻ると、それをベッドサイドに置いた。重い体を布団の中へ捻じ込み、揺らぐ視界で天井を見上げる。
(ほんと、どうしましょう……)
 体は丈夫な方だから、まさか二時間程度のことで風邪をひくなどとは思ってもみなかった。しかし、ひいてしまったものは仕方がない。明日の朝一でマリアン先生のところへ行こう―そう決めて、再び目を閉じた。
 
 
 翌朝。体調は良くなるどころか、すっかり悪化していた。しかし、一人暮らしが長かったおかげで「こういう時はどんなに辛くとも、気合で医者へ行かなければいけない」ということを痛感していたため、致し方なく起き上がる。ギシギシと軋む筋肉を宥めすかすように動かし、昨夜干しておいた生乾きの服に着替えると、一つ身震いしてからふらりと外へ出た。
 夏の早朝の空気は大好きだが、今ばかりは楽しんでいる余裕もない。診療所まではほんの二十分ほどの道程なのに、酷く遠く感じた。それでも、人影が全く無いのはありがたかった。億劫だから、このまま誰とも出会いませんように―しかし、その願いも虚しく―しかも、運悪く―散歩中だったフリッツに出会ってしまう。
「あっ! おっはよー、ミノリ! 今日は早いな。出荷か?」
 元気印の大声が、頭に響く。お願いだから静かにして、とは言えなかったが。
「おはようございます……ちょっと、風邪、ひいちゃいまして……」
 掠れた声、ずび、と啜られる鼻水、虚ろな目、おぼつかない足元。鈍感なフリッツも、さすがに事の深刻さを理解したようだった。
「うわ……すっげー具合悪そうだな。大丈夫か?」
 フリッツが心配そうに尋ねるが、返される言葉は、まずはいつもの。
「大丈夫です……。これから、診療所に……」
 言いかけたところで、ミノリの上体がぐらりと傾ぐ。
「わっ、危ね!」
 咄嗟にフリッツが支え、事なきを得た。
「ごめんなさい……」
「ふう、間一髪だったな……。診療所まで送ってやるよ」
「ありがとう、ございます……」
 運が悪いなんて思ってごめんなさい、とミノリは心の中で彼に謝った。
 
「も~、しょうがない子ね~」
 予想通り、マリアンに叱られた。が、次の言葉は想定外だった。
「お薬は、解熱剤と風邪薬を出すけど。あんた、今日は一日ここで寝てなさい」
 にわかに慌てるミノリ。
「えっ……あ、あの……お薬だけで、いいです……」
 魂胆が見え見えのその返事に、マリアンとアンジェラは一瞬顔を見合わせ、同時に大きく溜息を吐いた。
「知ってるわよ? クラウス、今、出張中なんでしょ?」
「まさか、薬を飲んで楽になったら牧場仕事をしようだなんて、考えていませんよね?」
 二人からじと目を向けられつつ図星を突かれたミノリは、気まずそうに視線を逸らす。
「ほ~らね~、やっぱり!」
「で、でも……服も、着替えたいですし……」
「ここは診療所よ? 患者用の服なんて、いくらでもあるわ」
「でも……」
 尚も、往生際悪く渋った。少し気持ちが分からないでもないアンジェラは、仕方なく妥協案を提示する。
「でしたら、せめてクラウスさんの家で寝ていてください。お昼頃、様子を見に行きますから」
 これが精一杯の譲歩なのだと悟ったミノリは、不承不承「分かりました」と答えた。
「アンジェラ、珍しく優しいわね~」
 ニヤリと意地悪く笑ってマリアンが突けば、彼女の助手はじわりと頬を染める。
「別に、そういうわけでは……。ミノリさんには、日頃お世話になってますし……」
 言い淀んで、コホン、と一つ咳払いし、仕切りなおした。
「とにかく。これからは、台風の日に出歩くなんて無茶はやめてください」
「はい……。ごめんなさい……」
 
 薬の入った紙袋を持って診療所を出ると、既にギルドは人で賑わっていた。いかにも具合悪げにしているのも恥ずかしいので、視線を落とし気味に、ふらつきを抑えて歩こうと努める。どうにかギルドを脱出したところで、今度はジョルジュと鉢合わせた。
「おはよう、ミノリ」
「おはよう、ございます……」
 ミノリは、ふにゃりと頭を下げる。その様子を気遣わしげに見下ろしながら、彼は声を落とし気味に話しかけた。
「さっき、そこでフリッツに会ってね。聞いたよ、夏風邪をひいてしまったんだって?」
「……はい……」
 ああ、これは己の病状と間抜けさが町中に知れ渡るのも時間の問題だな、とミノリはげんなりした。しかし、そんな彼女の心中など知る由もなく、ジョルジュはどこか芝居がかった調子で続ける。
「その様子では、今日の牧場仕事は無理だろう。よければ、ボクが水遣りと動物の餌遣りをやっておこうか?」
 願ってもない申し出だった。ミノリは両目をじわりと潤ませ、こくんと首を縦に振った。
「ありがとう、ございます……」
 ずび、と鼻をすする。
「とっても、助かります……」
 少し気が抜けて、ふらりと頭が傾いでしまった。慌てて首に力を入れるミノリ。
「これから、クラウスの家に行くのかい?」
「……はい。クラウスが帰るまで、寝てます……」
「そうか。それじゃ、水遣りが終わったら、お見舞いがてら報告に寄らせてもらうよ」
 普段ならば気を遣って「いえ、大丈夫です」と断るミノリだが、今ばかりはそんな元気もなく、素直に「ありがとうございます……」と頭を下げたのだった。
 
「夏風邪は馬鹿がひく」というのはくだらない迷信であろうが、あながち間違っていないのかもしれない。ミノリは自分で枕元に置いた冷水入りのボウルでタオルを湿しながら、ぼんやりと思った。適当に絞って横になり、額の上に置けば、水滴が二筋、頭に垂れた。嫌な感触だった。
 アンジェラは彼女の言葉通り昼過ぎにやってきて、軽く具合を見た後、レーガが作ってくれた卵粥の鍋をキッチンに置いて帰った。今度は五時過ぎに来る、と言い残して。皆の心配りが、ありがたいやら申し訳ないやらだった。
(それにしても、寝てるだけって、暇ですね……)
 目だけを動かして時計を確認すれば、時刻は午後二時過ぎ。来客があっても出られないのは当然なので、今日は仕方なく、留守の旨を伝えるメモを扉の外に貼り付けてある。電話が鳴れば出るつもりだが、できれば鳴らないで欲しい―そんな考えを嘲笑うかのように、タイミング良くベルが鳴った。渋々身を起こして受話器を取れば、意外にも、聞き慣れた低い声が耳をくすぐる。
『もしもし。クラウスだが……ミノリか?』
 ミノリの心臓が、ドキンと跳ねた。弱っている最中に思いがけず愛しい人の声が聴け、咄嗟に「はいっ」と元気な返事が出る。しかし、その用件は芳しくないものだった。
『悪いが、今夜帰るつもりが、昨日の台風で打ち合わせの一つが延期になってな……。帰りは、明日の昼頃になりそうだ』
 クラウスは、言い難そうに説明した。ミノリはがくんと気落ちし、抑揚のない返事を返す。
「……そうですか」
 が、すぐに普段通りを装い「残念です」と付け加えた。
『何か、変わったことはあったか?』
「いえ、ないですよ」
 鼻が垂れてきたので、ずび、とすすった。その音を聞き逃さなかったクラウスの声色が、怪訝そうな響きを帯びる。
『……どうした? 風邪でもひいたのか?』
 問われて、ミノリはふと思った。正直に「熱風邪をひいてしまった」と告げれば、優しい彼のことだ、すぐにでも帰ってきてくれるかもしれない―と。ドキドキしつつ、「言ってみようか?」などと考えてしまったが、これはいけない、と慌てて頭を振る。
(弱気になってますね……)
 ミノリは心持ちを立て直して、きゅっと受話器を握りしめた。
「そうみたいです。昨日は、ちょっと寒かったので……。でも、大丈夫です。ケーキ、楽しみにしてますね」
『ああ。悪いな、留守番させちまって』
「いえ。……お仕事、頑張ってください」
『ありがとう。それじゃ、また明日』
「はい」
 かちゃり、と受話器を置く。何故かいたく胸が詰まって、ふうー、と深く息を吐いた。もう何も考えずに寝てしまおう。そう決めたミノリは、もぞもぞと布団に戻る。
―が、またもタイミング良く、玄関扉がノックされた。
「やあ、ミノリ。起きてるかい?」
 声の主は、ジョルジュだった。ミノリはふらりと上体を起こし、ベッドから返事をする。
「はい」
 失礼するよ、と一声かけ、見目麗しいカリスマ牧場主が屋内に入ってきた。
「具合はどうだい?」
「おかげさまで、朝より良くなりました」
 ふわりと微笑んで答えたが、半ば社交辞令である。実情は、まだ寒気が酷いし頭も痛いし体も重いし鼻水は止まらないし喉は痛いしで、散々だ。
「フリッツと一緒に、ハウス四棟の水遣りをやっておいたよ。動物小屋のほうは、飼葉だけなくなっていたから足しておいた」
「ありがとうございます。……すみません、ジョルジュさんだって、お忙しいのに……」
「困った時は、お互い様だよ。もしボクが倒れることがあれば、その時は、ボクの美しい花たちをよろしく頼むよ」
「はい。……そんなこと、ないのが一番ですけどね……」
 ミノリは、弱弱しく自嘲した。
「クラウスが帰ってくるのは、今夜だったかな?」
 何気なく訊いたジョルジュだったが、すっと表情を消して視線を落としたミノリを見て、一足早く答えを察する。
「……その予定、だったんですけど……さっき、電話があって。打ち合わせが延期になったので、明日になるそうです」
 ミノリは「すみません」と小さく言って枕元のティッシュを取り、軽く鼻をかんだ。自分の妻が熱を出してフラフラな時に帰らないだなんて、と非難しそうになったジョルジュだが、あのクラウスのことだ、余程の事情があるか―あるいは、彼女が寝込んでいること自体知らないのではないかと憶測し、言葉を飲み込んだ。
「クラウスに、熱を出したことは伝えたのかい?」
「……いえ……」
 案の定だ。しかし、婚約者と離れて暮らすジョルジュには、ミノリの気持ちも痛いほど分かった。
(それでも、後で彼が知ったら相当ショックを受けるだろうね……)
 後々、いざこざに発展するであろうことは、容易に想像がつく。だが、夫婦の問題に首を突っ込むわけにもいかない。
「彼が帰ったら、目いっぱい甘えたまえよ……」
 それくらいしか、言えることはなかった。小首を傾げて「はい」と応えるミノリを眼下に、ジョルジュは心の中で「クラウス、キミも大変だな」と同情の念を送った。
 
 

二十八話 嵐のあと

 
 
 早く、顔を見たくて仕方がなかった。四日ほど離れていただけだというのに。
(風邪気味だったようだし、大丈夫だろうか……)
 バスを降りて貿易ステーションへ到着したクラウスは、土産のケーキが入った箱を片手に、足早に町を抜けて林道へ向かおうとする―と、雑貨屋の前で、不意に「ドンッ」と勢いよく背中を叩かれた。ミノリのことで頭がいっぱいだった彼は、余計に驚いて心臓を跳ねさせる。
「よっ、クラウスのおっさん!」
 振り返れば、声の主はグリーンヒル牧場の少年だった。
「なんだ……フリッツか」
 穏やかに微笑みかけると、相手も二カッと人懐こい笑みを向けてくる。
「おう! ミノリなら、おっさんちで寝てるぜ」
 今一番欲しかった情報を唐突に告げられ、「そうか、ありがとう」と何気なく返したクラウスだが、直後、ぎょっと目を剥いた。
「……寝てる?」
「ああ。昨日、熱出しちまって。今朝は下がったらしいけど、マリアン先生が、おっさんが来るまで寝てろって」
「……熱?」
 クラウスは、眉根に皺を寄せる。曇った彼の表情に、フリッツは「何かまずいこと言ったか?」と、少々焦り始めた。
「お……おう。一昨日の台風の日、出歩いてたとか何とか……。フラッフラで、大変そうだったぜ?」
「そうか……ありがとう」
 再び礼を述べて強制的に会話を切り、仕事場へ向かって駆け出すクラウス。その背を、フリッツはぽかんと口を開けて見送った。
 
 バンッ、と玄関扉が開く。うとうとしていたミノリは驚きで目を見開き、慌てて上体を起こした。音のした方へ顔を向けると、そこには壁に片手を突いて前屈みになり、肩で息をする夫の姿があった。
「……クラウス?」
 おずおずと声をかければ、彼は静かに顔を上げる。その眼差しは鋭く、ミノリはびくっと身を縮めた。
「……おかえりなさい」
 硬い笑顔で挨拶しても、クラウスが真顔を崩すことはない。
「……ただいま」
 普段より低い声で返され、思わず視線を逸らす。彼は無言のまま、テーブルに仕事鞄とケーキボックスを置き、ソファに傘を立て掛けた。そして上着を脱ぎながら、コツ、コツと律動的な靴音を立ててベッドへ歩み寄る。ミノリはつい、きゅっと目を瞑ってしまった。
「……ごめんなさい……」
 絶対に怒られると思い、先に謝る。が、予想に反し、クラウスはベッドに片膝を突いて、片手に持った上着ごとふわりとミノリを抱き締めた。
「ミノリ……」
 グリーンの香りと共に耳元で名前を囁かれ、ミノリの背筋がぞわっと粟立つ。
「あっ……あの、クラウス……」
 顔中真っ赤に染めて焦りつつ、発熱の原因について言い訳をしようとする―が、背中に回された手にぎゅっと力が込められたので、何となく口を閉ざした。そのまま、抱き合うこと一分ほど。
「……熱があったのか?」
 出し抜けに問われて、ミノリはごくんと唾を呑んだ。
「……はい」
「聞いてないぞ?」
「……ごめんなさい」
 そんな言葉が聞きたいのではない。クラウスはミノリの両腕を掴んだまま体を離し、彼女の瞳を真っ直ぐに見据える。
「大雨の中、出歩いてたのか?」
「……はい」
「台風の日に外へ出るのは危険だと、いつも言っていただろう?」
「ごめんなさい……」
 謝罪ばかりで、知りたい情報が全く出てこない。クラウスはやきもきしつつ、少し考えた上で質問を変える。
「オレのいない間に、何があった?」
「あの……えっと……」
 ミノリが言い淀んでいると、バンッ、と再び玄関扉が開いた。
「クラウスぅ、や~っと帰ってきたんですってぇ~? フリッツから聞いたわよ」
 甘ったるい男声が、室内に響く。―マリアンだった。クラウスは、あからさまにげんなりした表情を彼へ向ける。
「まさか、病み上がりのミノリちゃんを虐めてないでしょうね?」
「そんなわけないだろう」
 不機嫌を隠そうともせずに答えれば、「ならばよし」とマリアンは頷いた。
「あたしから説明するわ。いいわよね、ミノリちゃん?」
 拒否などできるはずがない。ミノリは、神妙に首を縦に振る。マリアンは彼女へ向けてニコッと一つ微笑み、クラウスに視線を戻した。
「一昨日の台風の日、ミノリちゃん、二時間も雨に打たれてたんですって。それで昨日、三十九度の熱を出して寝込んでたの」
 目を丸くしてミノリを見るクラウス。やっぱりそんな反応になるわよね、とマリアンは思った。だからこそ、こうしてわざわざ説明に来たのだ。世話焼き―ともすればお節介なのは、承知の上だ。
「アンジェラが二、三度様子を見に行ったけど、一日、ここで大人しく寝てたそうよ。食事はレーガがおかゆを作ってくれて、牧場仕事はジョルジュとフリッツがやってあげてたわ」
 事情が飲み込めたところで、クラウスのモヤモヤは晴れない。
(何故、オレに言わなかった……)
 激しくそう思ったが、所以は明白なので問い詰めることはできなかった。
「怒らないであげてね。たまたま、間が悪かっただけなんだから」
 友人に釘を刺され、クラウスは唇にぐっと力を入れる。間が悪かった―確かに、そうなのだろう。
「だが、どうしてあんな天気の中、二時間も……」
 その理由は、マリアンも聞いてはいない。しかし、それは容易に想像がついたからだ。無論、クラウスもすぐに思い至った。
「まさか、ここへ来ようとして……?」
 辛そうな彼の顔を正視できず、ミノリはシーツを握りしめた両拳へ視線を落とした。
 
―空気が重い。
 マリアンが去って二人きりになった室内は、ひたすら重い空気で満たされていた。一方は、妻に仕事を押し付けておきながら、彼女の体調不良に気付けず何もしてやれなかった罪悪感から。もう一方は、またも自分の考え無しな行動が原因で、周囲に多大な迷惑をかけてしまった情けなさから。それぞれ、伴侶にかける言葉が見つからなかった。
 ふと、クラウスが無言のまま立ち上がる。彼はミノリに背を向けてテーブルへと向かい、ケーキボックスを取り上げ、冷蔵庫にしまった。パタンと扉を閉めると、小さく息を吐いてからベッドサイドへ戻る。黙ってミノリの傍に腰かければ、ギシッ、とスプリングが鳴った。
「その……すまなかった。電話口で気付けなくて……」
 端から許されると分かっていて謝る狡さは、理解している。が、他に何と言って良いか分からなかった。
「いえ。わたしこそ、ごめんなさい。……また、みんなに迷惑かけちゃいました」
 その「みんな」の中に自分が含まれていないという事実が、クラウスの胸を突き刺す。確かに、他にどうしようもなかったのだろう。仮に自分がミノリと同じ立場だったとしても、やはり相手に余計な心配はかけまいと考えるに決まっている。
―それでも。
「……頼むから、次からは遠慮なく言ってくれ」
 彼は妻の目を真っ直ぐに覗き込み、半ば懇願するように言った。しかし、ミノリは即答できない。「次」などあってはいけないと思ったし、仮に止むを得ない理由で体調を崩したとしても、仕事中の彼に余計な心配をかけたくはなかった。返事に困っていると、心中を察したクラウスが続ける。
「オレも、体の不調は隠さないと約束する。だからお前も、具合が悪いのだけは隠さないでくれ。万が一何かあったら、悔やんでも悔やみきれない」
 ミノリは、はっと顔を上げた。逆の立場で考えれば、彼の言も尤もだった。やるせない表情を浮かべ、再び俯く。
「はい。……黙ってて、ごめんなさい」
 肯定の返事が貰えたことでクラウスは僅かながら安堵し、ミノリの頭をそっと引き寄せて髪にキスを落とした。
「今日はもう、家に帰って休もう。オレも一緒に帰るから」
 優しいその言葉に、ミノリは慌てて異議を唱える。
「でっ、でも……。クラウス、まだお仕事があるんじゃないですか? もう熱もないですし、一人で帰れますから……」
 途端に、クラウスの表情が曇った。
(ミノリは、また、そうやって……)
 しかし、出張中に受注してきた仕事に急いで手を付けたいのも事実だった。聡い妻は、それを解っているのだろう。
「クラウスのいない間に、電話も何件かあったんですよ。リストにしておきました」
「……熱があったのに、応対してくれたのか?」
「はい。三件くらいだったので……」
  クラウスは、ミノリの両肩をがしっと掴む。そして、表情を隠すように彼女の胸元へ頭頂を押し付けると、深く嘆息した。そのままの状態で、静かに答える。
「……分かった。六時までには必ず帰るから、先に戻っててくれ……」
 その声は、微かに震えていた。
 
 ミノリが部屋を後にすると、クラウスはベッドを整えにかかった。バサッと掛布団を持ち上げれば、妻の残り香がふわりと香る。スズランを思わせる花木の香りだ。フリッツに声をかけられる前は幸せな気持ちで、この香りに思い切り顔を埋めるつもりでいたはずなのに。改めて、はあー、と大きな溜息を吐いた。
 今は夏場で常に窓を開けきっているため、換気の必要はない。部屋が客を入れられる状態になったところで、まずは問い合わせ電話への折り返しを始めようと、クラウスはミノリの控えたリストを確認する。確かに、一番上の日時は台風が来た日の午後一時となっていた。ズキン、と心痛が走る。
 自分のためにやってくれたことを咎められる訳もないが、なんて無茶をしてくれたんだ、と叱りたい気持ちで一杯だった。しかしそれ以上に、仕事のことしか考えていなかった自分自身を殴りたかった。台風が接近していると分かった時点で、彼女を止めることだって出来たかもしれない。彼女の行動を推測していれば、念のためと台風の日に電話をかけることだって出来ただろう。電話口で話をした際に声の違和感に気付けていれば、打ち合わせの延期だって検討できた。全て、今更考えても仕方のないことだが。
(そうだ、今更あれこれ考えても仕方がない。早く仕事を終わらせて帰ろう……)
 クラウスは、ガチャリと受話器を取り上げた。
 
 
「おかえりなさい、クラウス」
 午後五時三十分。いつもの笑顔に出迎えられたクラウスは、今度こそはと微笑み返す。
「ただいま」
 しかし、自責を重ねた心の中はボロボロだった。妻には悟られないよう、普段通りを装ったが。
「ほら、お土産だ。シュークリームとチーズケーキだぞ」
「わあっ、ありがとうございます!」
 ミノリは瞳をキラキラと輝かせてケーキボックスを受け取った。その心底嬉しそうな表情に、少し救われる。
「これ、並ばないと買えないところのですよね!? 嬉しいです」
 今にも涎を垂らしそうな緩み顔でパッケージのロゴを確認する彼女の頭を、クラウスは遠慮がちに撫でた。
(まだ鼻声だな……)
 また、ズキズキと胸が痛み出す。
「ご飯、できてますよ。今夜はブイヤベースにしました!」
「そうか。それは嬉しいな」
 喜んだ風こそ見せたが、手放しで浮かれることはできなかった。「すぐに用意しますね」と台所へ駆けていく妻の背中に、クラウスは言い難そうに話し掛ける。
「その……ミノリ」
「なんでしょう?」
「明日は手伝わなくていいから、牧場仕事が終わったらゆっくり休んでてくれ」
 ミノリは、小さく「えっ」と声を上げた。
「風邪なら、もう大丈夫ですよ?」
「いや、まだ病み上がりだろう。ちゃんと治るまで、油断は禁物だぞ?」
「でも……」
「頼むから。また悪化でもしたら―」
 本気で自分が許せなくなる、と口に出しかけた言葉を飲み込む。ミノリは難しい顔で「うー……」と唸ったが、既に無茶をして失敗している手前、反論も出来ず。渋々「分かりました」と頷いた。
 
 

二十九話 個別カウンセリング

 
 
 件の宣伝から丸八日が過ぎ、ようやく、新規の客からの問い合わせ電話や、突然の来客が一件もなくなった。元々、個人向けの調香は主に常連客からの紹介で請け負っていたため、通常営業に戻ったことになる。
(これでもう、ミノリの手伝いも必要ないな)
 クラウスは午後五時四十五分を示す時計を眺めながら、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、未だ罪悪感は拭い切れない。胸のつかえを取り除こうとするかのように、深く嘆息する―と同時に、突如、バタンと玄関扉が開いた。
「ハ~イ♪ クラウス」
 ぎょっと目を剥いて振り返ったクラウスは、一転、げんなりした表情を「彼」に向ける。
「……またお前か」
 隣室からひょこっと顔を覗かせたのは、マリアンだった。連日のビックリ演出付き訪問に、思わず棘のある訊き方をしてしまう。
「今日は、何の用だ?」
「お夕飯、食べさせて貰おうと思って♪」
 クラウスは書き上げた書類を手早くまとめて持ち上げ、机上でトントンと打ち揃えた。
「オレには、家で待ってる妻がいるんだが。お前も知っていると思っていたが?」
「そのカワイイ奥さんなら、イリスが拉致ってったわ」
「……!」
 ガタッと勢いよく椅子を立つクラウス。
「ミノリは病み上がりなんだぞ!? 何考えてるんだ!」
「医者の了承付きよ。安心なさい」
 しれっと述べられたマリアンの一言に、クラウスは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「むしろ、医者が必要なのはあんたのほうだと思ってね。ミノリちゃんから、キャベツとトマトと、さつまいもと……あと、ももワイン貰ってきたわよ」
 差し出されたバスケットを見遣り、クラウスは「ミノリ公認か……」と小さく溜息を吐く。
「お前ら、大概お節介だな」
「あんたのコトはどうでもいいけど、ミノリちゃんが八つ当たりでもされたら可哀想じゃない?」
 痛いところをグサリと突かれ、思わずぐしゃぐしゃと髪を掻き回すクラウスだった。
 
 
 一方、こちらはレストラン。カウンター席のミノリはチンッと鼻を噛み、「すみません……」と細やかに謝った。
「ごめんなさいね。本調子でない時に呼び出してしまって」
「いえ、大丈夫です。マリアン先生も、あとはきちんとお薬飲んで、無理しなければ治るって言ってましたから」
 使用済みのティッシュペーパーを鞄の端にしまいながら、左隣のイリスに笑顔を向ける。まだ、店内に客は二人しかいなかった。
「今日はまた、珍しい組み合わせですね。ここで女子会ってことは、オレの聞いていい話ですか?」
 冷水の入ったコップを置きながらレーガが何気なく話しかければ、イリスはニコリと微笑む。
「ええ。私たちは、ただの雑談だから。本命は『あちら』よ。マリアンさんが行ってるわ」
 そう答えて彼女が指差したのは、我が町が誇る調香師の、仕事場の方角。「あー……なるほどな」と、レーガは含みを持たせて呟いた。ただ一人、事情の飲み込めていないミノリだけが、きょとんと首を傾げる。
「イリスさんとレーガは、クラウスとマリアン先生が何のお話をしてるのか、知ってるんですか?」
「詳しくは知らないわ。でもきっと、『男同士で』積もる話でもあるんじゃなかしら?」
 ミノリは「ふうん」とふんわり納得し、それ以上追及しようとはしなかった。二人の女性客はそれぞれメニューを流し見て、好みの料理を注文する。レーガは、イリスの手前か「かしこまりました」と普段より丁寧な言葉遣いで承って調理に取りかかった。
「そういえば、ミノリさん。熱を出してしまったこと、クラウスに黙っていたんですって?」
 ミノリの胸が、チクリと痛む。
「……はい。クラウスに、次からはやめて、って言われちゃいました」
 エヘヘ、と苦笑するミノリに対し、イリスは頬を緩めて「そうなの」と相槌を打った。
(彼、それくらいは言えたのね)
 もっとヘタレだと思っていたのだが。イリスは、クラウスに対する認識を少しばかり改めた。ならば後は一つ、女としてのアドバイスをミノリへ与えるだけだ。
「ミノリさん、最近、クラウスに甘えているかしら?」
 穏やかに問われて、ミノリは「ふう」と小さく溜息を吐く。
「……甘えてばっかりですよ。ちょっとはクラウスの役に立ちたいって、いっつも思ってるんですけど……」
 全然ダメです、と俯きがちに自嘲する横顔を眺めながら、イリスは「これは重症だわ」と呆れた。
「オレはそんなことないと思うけど。ここ最近、毎日クラウスさんの手伝いしてたんだろ?」
 不意に降ってきた声にミノリが顔を上げれば、カウンター上にコトリと和風パスタの皿が置かれる。きのこと醤油の香りが、鼻腔と食欲をくすぐった。同様に自分の前にも皿が置かれると、イリスはさっそく手を付けつつ会話を続ける。
「そうよ。前々から思っていたけれど、ミノリさんはもっと自信を持っていいし、周りに甘えるべきだと思うわ」
―と言ったところで、素直に聞かないであろうことは承知の上だ。だからこそ、今日はあえて二対一に持ち込んだのだ。予想通り、ミノリは弱弱しい微笑みを浮かべて首を横に振る。
「今回だって、クラウスのお手伝いをするつもりが、風邪ひいてみんなに迷惑かけちゃったし……もっとしっかりしないと、って思うんですけど。なかなかうまくいきません」
 極端に湿っぽくない分まだいいが、それにしても自己評価が低い子だな、とレーガは美味しそうにパスタを頬張るミノリを眼下にしながら思った。イリスも彼と同じ方向をチラ見し、さて、どう誘導してこの子をクラウスに甘えさせようか、と心を躍らせた。
 
 
「大体あんた、過保護なのよ」
 誘導もへったくれもない、歯に衣着せぬ物言いでマリアンが言い放った。ぼそりと「自覚はしてる」と返すクラウスに対し、更に追い打ちをかける。
「そんなだから、ミノリちゃんが余計に甘えられなくなるんじゃないの?『熱が出た』なんて言った日には、仕事すっぽかして飛んで帰ってきそうだもの」
「さすがにそこまでは……しない……と、思うが……」
 いかにも自信なさげな返事だった。マリアンは、呆れて肩を竦める。
「年の差婚で不安になるのも分からなくはないわ。でも、ミノリちゃんは甘やかして繋ぎ止めておける子じゃないでしょ?」
 そう言ってトマトのファルスにフォークを突き差し、口に運んだ。何となく、クラウスもロールキャベツに手を付ける。マリアンはしばらくもぐもぐやった後、ワインと共に料理を飲み下し、再び語り出した。今度は声のトーンを落とし気味に。
「甘えたくないっていうあの子の気持ちも、尊重してあげなさいな。傍から見たら、何かあった時、一番に頼ってるのは、あんたなんだし。過剰に世話を焼く必要はないと思うわよ」
 クラウスはロールキャベツの載った皿を、静かにテーブルの上に置く。
「もっと甘やかしたい……というのは、オレのエゴなんだろうな」
「そうよ」
 即答された。クラウスは、はあー、と深く嘆息して、ぐいっとワインを煽る。
「正直なところ……時々、どう接していいか分からなくなるんだ。温度差を感じるというか……」
 マリアンは、もう一つ頬張っていたファルスをごくんと飲み込んだ。
「確か、前にも似たようなこと言ってたわよね?」
「ああ。言ったかもしれない」
 友人が二杯目のワインを注ぐ手元を眺めながら、マリアンもグラスに口を付ける。
「……あんたとミノリちゃんって、似てるわよね」
 涼しい顔で指摘され、クラウスは怪訝な顔をする。確かに自分でも似ているとは思っているが、それは生い立ちの話で。マリアンがミノリの境遇を知っているとは思えなかったので、「ならば、どこが似てると言うんだ?」と首を傾げた。
「……そうか?」
 疑わしげに問い返せば、マリアンは「そうよ~」と詰め寄る。
「世話焼きで空気読みで頑固なところなんて、そっくりよ?」
 その言葉を受けたクラウスは、一瞬目を丸くした。が、すぐに顎へ手を遣り、出会って以降のミノリの言動を思い返す。
(そうだ。最初は「調香のお礼」にと、毎日差し入れを―)
 付き合い始めて以降も、何かと「わたしもクラウスに何かしてあげたい」と訴えられていた気がする。この頃、彼女が町の住民と徐々に打ち解けてきているのも、困っている相手を放っておけないからではないか。今までそれを「律儀だ」の一言で、ひっそりと評価してきたが―
「もっと、そういうところを認めてやるべきだったんだろうか……」
 その一言に、マリアンは「ケッ」と毒づいた。
「『認めてやるべき』って、随分な上から目線ね。あんたたち、夫婦でしょ? 対等な立場で、素直に感謝なさいよ」
 クラウスは、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受ける。振り返れば、いつでも「自分のほうが大人だから」と、妻を甘やかすことばかり考えていたように思う。そうすることで妻から感謝され、自分がいい夫であるような気分に浸れたからだ。しかし、それは見方を変えれば、妻を見下していたのと大差ない。自分が「してやりたいこと」ばかりを押し付け、「妻が何を求めているか」を真剣に考えたことは無かったのではないだろうか。
「……そうだな。……最低だ……」
 彼は、両手で頭を抱えて項垂れた。妻への罪悪感で、胸が押し潰されそうだった。そんな腐れ縁へ、マリアンはご飯茶碗を持ち上げながら、「ツケが回ってきたわね」とそっけなくコメントした。
「まあ、そうは言っても、ミノリちゃんがちょっと抜けてて甘え下手なのは確かだわ。今回みたいに突っ走って無茶する前に、気にかけて世話焼いてあげることも必要なんだと思う。けどね、どんな結果になったって、それはミノリちゃんなりに考えての行動なのよ。『良かれと思って』やってんの。あんたは旦那なんだから、そこんとこ、ちゃんと理解してあげなさいよって話」
 
 
「ミノリさんは、クラウスがミノリさんに一番して欲しいことって何だと思う?」
 イリスに問われて、ミノリはフォークをカシャリと皿の上で留めた。
「……いつも考えてるんですけど、なかなか分からなくて……」
 曇り顔で答え、小さく嘆息する。日頃より、クラウスの要求は「もっと頼って欲しい」だの「無茶するな」だの、とにかくミノリの身を案じたものばかりだった。彼にだって、何かしら不満や不便、人にして欲しい事の一つや二つはあるだろうに。
「クラウスって、自分のして欲しいことは、ちっとも言ってくれないんです。わたしのことを考えてくれてるんだって、わかりますけど……ちょっと、寂しいです」
 恥ずかしげもなく大真面目に言ってのけるミノリを、イリスとレーガはニヤニヤしながら見守る。
「ミノリさんは、クラウスの喜ぶことをしてあげたい、って思ってるのよね?」
「はい」
 何を当然なことを、とミノリは思ったが、いい機会だと思い、逆に聞いてみることにした。
「イリスさんとレーガは、クラウスが一番喜ぶことって、何だと思いますか?」
 尋ねられた二人は、何気なく顔を見合わせる。そして、ほぼ同時に答えた。
「ミノリさんに思い切り甘えられることね」
「ミノリが、ベッタベタに甘えることだな」
 予想外の答えに、ミノリは硬直する。
「え……」
 つまり、彼の言葉をそのまま素直に受け取れば良かったということなのだろうか。確かに、自分が頼ったり甘えたりした時の彼は、いつになく嬉しそうだ。しかしそれでは、彼のために何かしてやれたことにならないのではないか。
 複雑な表情でぐるぐる考えていると、その肩に、ポン、とイリスの手が置かれた。彼女は、声のトーンを落とし気味に囁く。
「ミノリさん。『甘える』っていうのはね、演技でも構わないのよ?」
 ミノリは元々丸いチョコレート色の瞳を、一瞬、更にまん丸く見開いた。が、すぐにブンブンと首を横に振る。
「演技だなんて、そんな。騙してるみたいじゃないですか」
「騙しているんじゃないわ。男性を喜ばせるための、立派な努力よ。大好きな人のためなら女優にもなれるのが、『大人の』女性なのよ」
 ニッコリと微笑むイリスに、ごくりと固唾を飲むミノリ。レーガは、「女って怖いな……」と改めて思った。
 
 
 午後八時。そこそこの賑わいを見せるレストランに、緑色のベストを纏った長身の男性が現れた。彼は愛しい妻の姿を確認するが早いか、ツカツカとカウンターへ歩み寄り、穏やかに微笑んで声をかける。
「ミノリ。食べ終わったか?」
 話しかけられた方も、満面の笑みで振り返った。
「はいっ。クラウスも、お話、終わりましたか?」
「ああ」
 彼の後ろから、白衣を着た派手なピンク髪の女性―否、男性も入ってくる。
「どうも、ミノリちゃん。突然旦那さん借りちゃって、ごめんなさいね」
「いえ。大丈夫です」
 わたしも楽しかったですから、と屈託ない笑みを見せた彼女を、マリアンはぎゅっと抱き締めた。
「もうっ! ほんっと、カワイイんだから! クラウスにはもったいないわ~」
 困惑顔のミノリに頬擦りし始めた彼を、クラウスが苦笑を浮かべつつ引き剥がしにかかる。
「おい、やめろ。ミノリが困ってるだろ」
「え~? そんなことないわよね~?」
 間に挟まれ、ミノリはおろおろするばかり。哀れんだ店主の青年が、すかさず助け船を入れる。
「あーあ、『お っ さ ん』二人に絡まれちまって。ミノリ、かわいそー」
 イラッとする「おっさん」二人組。続けてイリスが、トン、と冷水の入ったコップを卓上に置いた。
「私から誘っておいて、こう言うのも何だけれど。ミノリさんは病み上がりだし、そろそろお開きにしましょうか」
「ね?」とにこやかに宣われ、マリアンは素直に「そうね」とミノリを離す。解放された彼女は、ストンとカウンターチェアーを降りた。その肩を、クラウスがさりげなく抱き寄せる。
「それじゃ、オレたちは先に帰らせて貰うぞ。またな」
 その言を受け、ミノリは一旦彼の顔を見上げてから一同に向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「イリスさん、レーガ、ありがとうございました。マリアン先生も。おやすみなさい」
 連れ立ってレストランを後にする二人。その背中を見送りきったところで、レーガが「ふう」と小さく息を吐いた。
「あの夫婦、ものすごく仲良いと思ってましたけど……あんな風に、すれ違うこともあるんですね」
「そうね。でも、男女の仲なんてそんなものよ。たまには何かしらあるものだわ」
 イリスは、フフッと意味ありげに微笑んだ。マリアンも、うんうんと神妙な表情で頷く。
「そうそう。どんなに愛し合ってても、些細なすれ違いだの、感情のぶつかり合いだの……いろいろあるものよ~」
 オレには理解できない、歴戦の勇士の会話だ……と、レーガは苦笑を浮かべた。
「さて、イリス。乾杯しましょうか。レーガ、グラスワイン二つお願い」
 レーガが手早くワインを注いで供すれば、イリスとマリアンは、それぞれグラスを持ち上げる。
「それじゃ、どこぞのおしどり夫婦に。乾杯!」
「あー、楽しかった~♪」と満面の笑みでグラスを傾ける二人をカウンター越しに眺めながら、レーガは「絶対にこの人たちを敵に回しちゃいけないな」と悟った。
 
 
 クラウスは、隣を歩く妻の横顔をチラリと伺う。
(どのタイミングで切り出そうか……)
 考えあぐねていると、不意に、ミノリが彼の上着をきゅっと握った。
「あっ……あの、クラウス」
 外灯のない林道でのことだ、暗くて表情は見えなかったが、その声色から否応なしに彼女の緊張が伝わってくる。努めて何気ない調子で「何だ?」と問い返すと、ミノリは少しの間を置いて続けた。
「クラウスが、いない間……ちょっとだけ、寂しかったです……」
 これはミノリの方も何か吹き込まれたな、とクラウスは察した。だが、彼女は何より嘘を嫌うから、きっと本心なのだろう。じわじわと嬉しさが込み上げ、思わず口元が緩む。
「『ちょっとだけ』か?」
「いえっ……あの……。『すごく』、です……」
 珍しく素直な妻の言葉に心を躍らせながらも、クラウスは「違う、これじゃいけない」と内心で自分に渇を入れた。急いで伝えたい事をまとめ、口を開く。
「今日、ようやく客足が落ち着いたんだが……この一週間、ミノリが手伝ってくれて本当に助かった。改めて礼を言うよ。……ありがとう」
 ミノリが、ずっ、と軽く鼻を啜った。
「……いえ。大したことは……」
 言いかけて、唇を引き結ぶ。一考した上で、彼女は再び口を開いた。
「……わたし、ちゃんとクラウスの役に立ってました?」
 クラウスの胸が、ズキンと痛む。他愛のないその質問の重みが、今なら分かった。
「ああ。お前が手伝ってくれなければ、納期に間に合わなかった仕事もいくつかあった。心から感謝してるよ」
 エヘヘ、とはにかむミノリ。
「あのっ……じゃあ……頭、撫でて……欲しい、です」
 甘えると言っても、この程度が精一杯だ。イリスのような大人の女性に憧れるが、まだまだ道程は遠いな、と跳ね回る鼓動を胸元で握りしめながら思った。しかし当然、それを受けたクラウスが「この程度」などと思うはずもなく。彼は徐に立ち止まると、周囲に人けのないことを確認してから、ふわりとミノリを抱き締めた。
「……良い子だ。オレのミノリ……」
 耳元で囁かれながら頭を撫でられ、うっとりしている間に、二人の唇が静かに近付く。上唇がチュッと軽く啄まれた瞬間、ミノリはハッと我に返り、慌てて顔を背けた。
「『それ』はダメですっ! 風邪がうつっちゃいます!」
 腕にぐぐっと力を入れ、彼の胸板を押し戻そうとする。が、相手も負けじと、より強く抱擁した。
「構わないから、キスくらいさせてくれ」
「ダメですっ! たくさんお仕事もらってきたんでしょう?」
「そう簡単に遷らないだろう。大丈夫だって」
「ダメったらダメですー! わたしのせいでクラウスが風邪ひいちゃったりしたら、わたしだってつらいんですから!」
 クラウスは一瞬、はたと動きを止める。そして、今度は突然クックッと笑い出した。
「えっ……わたし、何かおかしなこと言っちゃいました……?」
 おろおろし始めるミノリ。その様子が、更にクラウスの笑いを誘った。
(お前がそれを言うか)
 忍び笑いつつそう思ったが、あえて口には出さない。
「……なるほど。確かに、似てるな」
「……? 何のお話ですか……?」
 
 

三十話 ベッドタイム・コミュニケーション

 
 
 クラウスは半ば睨み付けるように、じっとカレンダーを見詰めていた。
(前回「した」のが、出張の前々日だから……今日で十日目か)
 壁越しに聞こえてくるシャワーの音に反応し、下半身がそわそわする。落ち着かない気分で空のワイングラスを弄んでいると、ガチャリと洗面所の扉が開いた。
「ふう。さっぱりしました」
 新鮮なシャンプーの香りをふわりと漂わせ、ミノリが姿を現す。思わずごくりと生唾を飲むクラウスだったが、下心はおくびにも出さなかった。
「やっぱり、ビニールハウスを四棟建てるのは大変でした。腕が筋肉痛になっちゃいました」
 エヘヘ、と笑いながら肩を回して見せる妻に、クラウスはテーブルの上へグラスを戻しつつ苦笑を向ける。
「無理もないな」
 相槌もそこそこに、「それじゃ、オレも風呂へ行ってくるよ」と、急ぎ足で浴室へ向かった。廊下突き当りのクローゼットから寝間着と下着、バスタオルを取り出し、洗面所に入る。洗濯かごには既にミノリの服が入っており、土臭いような青臭いような、それでいて仄かにフローラルな香りを漂わせている。本人はこれを「汗臭い」と言って気にしているが、クラウスとしては、この匂いもミノリらしくて悪くないと思っていた。
 服を脱ぎ終え、浴室へ移動すると、彼はすぐにシャワーを浴び始める。自分用のシャンプーボトルを手に取り、液剤をボトルから直接頭に塗布してガシガシと髪を掻き回した。仕上げに丁寧に泡を落としたら、前髪を掻き上げ、ふう、と一息吐く。シトラスミントの香りのおかげか、ようやく気分が鎮まってきた。
(二十代の頃に戻ったみたいだな)
 クラウスは、薄らと自嘲する。当時ほど「タチ」は良くないが。
 体の方も手早く洗い終えると、浴槽に浸かり、再び深く息を吐いた。天井から湯船へ滴が落ち、ピチョン、と音を反響させる。何とはなしに両手で湯を掬い、ぞんざいに顔を洗った。
(さて、今夜はどうしようか……)
 考え始めたのは、「夫婦の営み」の内容だ。帰宅後、ミノリから「マリアン先生が、もう風邪は大丈夫って言ってました」と告げられた瞬間から、ようやく「出来る」のかと胸を躍らせていたものの、先日の一件の後である。これまで見落としてきた妻の本音があるのではと過敏になっていたクラウスは、自分本位に事を運ぶのを憚っていた。
(そもそも、ミノリはオレとの「行為」について、どう思っているんだろうか)
 最中や事後の姿態から察するに、全く感じていなかったり、行為自体を忌避されている可能性は限りなく低いだろう。しかし、何かしら不満があったり、時折持ち込むアブノーマル気味な趣向に対して嫌悪感を抱かれていたとしても、「クラウスが喜ぶなら」などと考え、我慢されている可能性は十分にあり得る。「好きにして構わない」という受け身な言葉自体が、それを物語っているのではなかろうか。
(今まで、勝手に体の相性も良いと思ってきたが……確認してみたほうが良いかもしれんな)
 
 
 クラウスはチョコレート色の丸い瞳をじっと覗き込み、静かに唇を重ねた。上唇を舌先で軽くつつけば、呼応するように彼女の小さな口が開く。抱き締める腕に力を加え、欲望に任せて柔らかな舌を貪っていると、いつも通り、ミノリはすぐに甘い声を漏らし始めた。
「ん……ふっ……」
 聴覚を刺激されたクラウスは、徐に彼女を押し倒す。ミノリの後頭部をベッドに預け、更に熱を増して舌の遊戯を続けた。ここまでキスに時間をかけるのは、当然自分がしたいからというのもあるが、主にミノリのため―の、つもりだった。
 クラウスがふと顔を離すと、下になった彼女がとろんと潤んだ目で見上げてくる。
「……続けていいか?」
 濡れた唇周りを親指で拭いながら、彼は囁くように尋ねた。予想外の質問に、一瞬、僅かに瞼を開け広げるミノリ。きゅっと唇を引き結び、顔を横に逸らして右手の甲で口元を覆い隠した。
「……そんなの……聞かないで、ください」
 頬を紅潮させ、少し不機嫌そうに述べる様子が何とも可愛らしく、クラウスは思わず彼女の亜麻色の髪に指を絡ませる。
「答えてくれ」
 促せば、数秒の間を置いてから、欲しかった言葉が蚊の鳴くような声で返ってきた。
「……はい」
 クラウスは外面上フッと微笑むにとどまったが、心の内で小躍りする。目下の額に小鳥が啄むようなキスを一つ落とし、寝間着を脱がせにかかった。
「ミノリ」
 手は止めずに名前を呼ぶと、彼女が「ん」と短く返事をする。
「その……今まで、あまりお前の意見を聞いてこなかったが……。もし、こうして欲しいとか、これは嫌だとか、要求があれば言ってくれて構わないからな?」
 心なしかすまなそうに言ったクラウスに対し、ミノリは小さく「はい」と返した。が、心境は複雑だった。
(イヤって言っても、やめてくれないクセに……)
しかし、そんな前科などすっかり忘れている伴侶は、構わず事を進める。前ボタンを全て外し終えたところで前をはだけ、下着で飾られた胸の谷間を、そろりと舌でなぞった。
「……んっ」
 繊細な感触に小さく声を上げれば、クラウスが僅かに口角を上げて問う。
「感じやすいな。今の、良かったか?」
 ミノリは、ふるふると首を横に振った。
「変な感じです」
「……嫌か?」
 質問を変えて問い直され、彼女は重ねて否定する。
「……イヤ、じゃない……です……」
 その顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
 
 彼が、自分の意思を汲み取ろうとしてくれているのだということは解る。解るのだが―
「いちいち……聞かない、で……あっ……」
 秘部の奥でクチュッといやらしい音を立てて二本の指が動き、ミノリは堪らず身じろぎする。そんな彼女に横向きで寝転がって身を添わせ、びくびくと小刻みに震える肢体を左腕で軽く抱くクラウスは、どこか楽しげだった。
「この辺が良いのか?」
「知らなっ……ゃんっ……やめっ……」
「ん? やめて欲しいのか?」
 毎度の事ながら、彼があまりにも余裕しゃくしゃくなので、少し悔しい。ミノリは思考がふわふわして、思ったまま「やめないで」と言いそうになったが、僅かに残った理性がささやかな仕返しを思い付く。
「はい……っ、も……やめて、くださいっ」
 予想外にも涙目で訴えられ、クラウスはギクッとして慌てて指を引き抜いた。
「……悪い。痛かったか?」
 戸惑った様子で尋ねる彼の胸に、ミノリは呼吸を整えつつ額を押し付ける。やめてと言ったところで真面目に取り合って貰えるとは考えていなかったので、少々申し訳ない気分になった。
「いえ……痛くは、なかったです」
「そうか。なら……あー……悦くなかったか?」
 ミノリが、黙って首を横に振る。クラウスは今更ながら、止めずとも良かったのだと悟った。左腕でミノリを抱き締め、手持無沙汰になった右手で彼女のウエストをそっと撫でる。「どうして欲しい?」と意地悪な問いをしてみたくなったが、答えが返ってこないことは想像に難くなかったため、止めておいた。
「質問攻めにし過ぎたな。悪かったよ」
 ミノリの胸を、罪悪感がチクリと刺す。
「いえ……。えっと……気持ち良かった、です……けど」
 恥ずかしさで顔を真っ赤にそめつつも、謝罪にほだされて思わず素直な感想を述べてしまった。
「……そうか」
 クラウスがほっと息を吐いたのが、胸の動きで伝わる。ミノリは少し迷った後、意を決して口を開いた。
「あの……わたしに聞かなくても、クラウスの好きにしていいですよ? 全然痛くないですし、もし痛かったりしたら、言いますから」
「それじゃ物足りないんだ」などとストレートに言えるはずもなく。クラウスは、伝え方について暫時考える。彼女の言葉をそのまま受け取り、今まで通り事に及んでも問題は無いのかもしれないが、後々にしこりを残すのは気が引けた。結果、慎重に言葉を選び、静かに尋ねる。
「重要な事だから、正直に答えて欲しいんだが……ミノリは、セックスは嫌いか?」
 口に出してから、直球過ぎただろうかと不安になったものの、前置きが功を奏したようだ。
「嫌い、じゃない……です……」
 クラウスの胸に顔を埋めたまま、ミノリが素直にボソリと答える。触れ合った部分から彼女の熱が伝わってきて、クラウスはこの期に及び、自分は何を訊いているんだ、と恥ずかしくなってきた。しかし、今更撤回はできない。
「なら、良かった。……変な質問をして悪かったな。一度、きちんと確認しておきたかったんだ」
「いえ……」
 ミノリはひとまず短く返したが、内心、彼の思い遣りをとても嬉しく思っていた。自分も何か伝えなければ、と必死で考える。
「あのっ……わたし、いつも受け身ですけど……。して欲しいことがあれば、言ってくださいね。できるだけ、頑張りますから」
 妻の健気さに途方もない愛おしさが込み上げ、クラウスはぎゅっと彼女を抱き締めた。
「どちらかが頑張るものじゃないだろう。オレは、お互い楽しめればいいと思ってる」
 その言葉に、ミノリは軽い衝撃を受けた。
「…………」
 これは、楽しむものだったのか、と。過去を振り返れば、確かに行為中のクラウスは楽しそうだったように思う。
(大人の世界ですね……)
 夫には申し訳ないが、要求がない限り、もうしばらく受け身でいよう。ミノリは、そう心に決めた。
 
 
 仕切り直した後は、これまでにないほど穏やかに事が運んだ。会話を挟み、彼女の意思を確認しながら肌を重ねる幸福感は、クラウスがかつて経験した行為の比ではなかった。人生三十ウン年目にして初めて知った新境地に胸を躍らせると同時に、事後、冷静になった頭の片隅で、若かりし頃のいい加減な女性遍歴について、ひっそりと反省した。
 ミノリの上で荒い息を吐きつつ、彼は穏やかに微笑む。
「……すごく悦かった」
「ん……わたしも……です」
 ミノリも、ふにゃりと微笑み返した。クラウスは柔らかくなった一物をゆっくりと引き抜き、彼女を押し潰さないよう膝を折った上で、汗ばんだ小柄な体躯をぎゅっと抱きしめる。
 ミノリが、出し抜けにフフッと笑った。
「こんなにたくさんお話しながらって、初めてですね」
「……嫌だったか?」
 片手を亜麻色の髪へ伸ばしつつクラウスが問うと、彼女は小さく首を横に振る。
「ちょっと、恥ずかしかったですけど……。クラウスがわたしのこと考えてくれてるんだなって感じがして、嬉しかったです」
「そうか。……すまなかったな。今まで、独り善がりで」
「いえ。……あの……」
 何やら言い淀むミノリ。じわりと頬を染めてもじもじし始めた彼女を不思議そうに見下ろし、クラウスは「どうした?」と続きを促す。ミノリはしばらく黙っていたが、ようやく、意を決したように口を開いた。
「……今までの、とか……えっと、恥ずかしいの、とかも……ドキドキして、イヤじゃなかった……です、よ?」
 たどたどしく告白した後、恥ずかしさここに極まれりと言わんばかりに両手で顔を覆い隠す。クラウスの全身に、ぞくりと震えが走った。彼は一つ生唾を飲み下すと、ミノリの耳元へ唇を寄せる。
「それじゃ、今後も遠慮なく『恥ずかしいの』をやらせて貰うとしよう」
 結局はこうなるか、とお互いに思ったが、それはそれで構わないと、双方ともスッキリした気分で納得した。
 
 

三十一話 傍観者の失態

 
 
 姉の話によれば、「あの夫婦」―正確には、若き女牧場主の方である―が、またやらかしてくれたらしい。ミステルは茶飲み話として姉の事後報告に耳を傾けながら、クスクスと抑え気味の笑いを漏らした。
「本当に、話題に事欠かない夫婦ですね」
 呆れ混じりにコメントして、すう、とアールグレイの芳香を吸い込む。
「そうなのよ。次は一体どんなネタを提供してくれるのか、楽しみだわ」
 楽しみにしているのは、あくまで大事に至らない笑い話であるが。他人の些細なトラブルを傍観し、時には介入して楽しんでいる辺り、決して性格が良いとは言えないのだろう。しかし、のほほんとしたこの町に一組くらいこんな姉弟がいてもいいのではないか―と二人は既に開き直っていた。
「しばらくは落ち着くんじゃないですか? もっとも、何か起きたところでボクが関わるつもりはありませんけどね」
「あら、そう? あの二人……特にミノリさん、人のアドバイスを真面目に受け止めてくれるものだから、面白いし可愛いわよ?」
「確かに、そうかもしれませんね」
 ミステルはフフッと微笑みつつ、心の内で「それでも、面倒事に首を突っ込むのは御免です」と返した。この時はまさか、自分がその「面倒事」に巻き込まれるなどとは、夢にも思わなかったのだった。
 
 
 夏も終わりに近付いたが、未だ暑さは厳しく、鬱陶しい蝉の声も鳴り止まない。ミステルは商品の一つであるフォトフレームを丁寧に磨き上げながら、気だるげな表情で「ふう」と溜息を吐く。
 その時、不意に背後で扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
 反射的に営業スマイルを取り繕って振り返れば、そこに立っていたのは、先日話題に上ったばかりの女牧場主だった。
「こんにちは、ミステルさん。銀を、あるだけください」
 入り口前でふわりと微笑む彼女を横目に、ミステルは落ち着いた所作でカウンターへと向かう。
「こんにちは。先日、手紙をお送りしましたが、裁縫レシピも二つほど入荷していますよ。ご一緒にいかがですか?」
「あっ、そうでしたね。それもください」
 ミステルはカウンター内側の鍵付き戸棚から銀を二つ取り出し、卓上に置いた。続いて裁縫レシピを引っ張り出そうとしたところで、ボーン、ボーン、ボーン、と柱時計が鳴る。普段であれば姉とお茶にしている時間だが、今日の彼女は午前中に出かけたきり、帰っていなかった。
「突然で申し訳ありませんが、ミノリさん。外で姉さんを見かけませんでしたか?」
 あまり期待はせずに尋ねてみる。すると、意外にも「見ました」と答えが返ってきた。
「さっき、クラウスの家の横で、クラウスと立ち話してましたよ。話し込んでたみたいなので、素通りしてきちゃいましたけど」
 ミステルは穏やかに微笑み、「そうですか、ありがとうございます」と礼を述べた。しかし、姉の居所とは別に、少々引っかかるものがあった。後々「やめておけば良かった」と後悔することになるのだが、この時はそこまで深く考えず、次の質問を口にしてしまう。
「ミノリさんは、ボクの姉さんとクラウスさんが二人きりで話をしていても、何とも思わないんですか?」
 ミノリは、カウンター向こうの青年をきょとんと見つめた。
「『何とも』って……?」
 心底不思議そうに聞き返されたミステルは、呆れて肩を竦める。
「嫌な気持ちにはならないのか、という事です」
 ミノリは「ああ、そういうことですか」と納得したように声を上げると、ふわりと微笑んで「なりませんよ」と答えた。本当に質問の意図が分かっているのだろうか、とミステルは疑問に思ったが、それ以上追求しないことにした。
(相変わらず、最上級の天然ですね……)
 ここまで邪気が無いと呆れを通り越して感心してしまう。しかし、一体どう育ったらここまで真っ白な人間になれるのだろうかと、若干気になった。
「ミノリさんは、確か北のほうの出身ですよね。ご両親は?」
 興味本位で何気なく為されたその質問に、ミノリの笑顔が僅かながら困惑の色を含む。ミステルは、すぐさま「まずい質問をしてしまった」と悟ったが、発言を取り消すことなどできはしないので、黙って彼女の声を待った。
「もう他界してるんですよ。だいぶ前の話ですけどね」
「そうですか。それは……お気の毒に」
 しん、と店内の空気が凍り付く。嘘は吐きたくなかったので正直に答えたものの、やはり重い雰囲気にしてしまったかと、ミノリはわたわたしながら言葉を継ぎ始めた。
「あっ、あの。でも、本当に、昔の話なので。今は、全然大丈夫です」
 彼女の健気な様子に、申し訳なさと少しばかりの共感を抱いたミステルは、つい、珍しくも自分の話を零す。
「ボクにも両親がいないので、多少は気持ちが分かりますよ。……大変だったでしょう?」
 向かい合った彼女の顔から、ふと、表情が消えた。ミノリは暫時黙り込んだ後、どうにか笑顔を取り繕ったが、口角が引き攣っている。とうとう堪えかねたのか、チョコレート色の丸い目から、ぽろぽろと涙が溢れ出した。
 ミステルは、ギクッとする。
(ああ……やってしまった。ボクらしくもなく、昔の話なんて持ち出すから……)
 しかし、まさか泣かれるとは思ってもみなかった。取りあえず「大丈夫ですか?」と努めて優しく声をかけてみると、ミノリは慌てて目を擦りながら、こくこくと大きく頷いた。
「はい……ごめんなさい。ちょっと、思い出しちゃいまして……」
 拭いても拭いても、零れ落ちる滴は止まらない。それでもミノリは、「アハハ」と精一杯の泣き笑いを見せる。
「最近、ちょっと涙もろくって……ダメですね。すみません、すぐ帰りますから。……おいくらですか?」
 ミステルは頭の片隅で「面倒だな」と思った。が、店の評判を落とすことにもなりかねないため、泣きっぱなしの彼女をこのまま外に放り出すこともできず。致し方なく、「お茶でもいかがですか?」とミノリを二階へ誘導したのだった。
 
 
 悪い偶然は重なるもので。ミステルは思わず、ごくりと固唾を飲んだ。
「ミノリ。どうしたんだ……?」
 不意にアンティークショップの二階に現れ、現状を視認するなり真顔で尋ねたのは、クラウスだった。その後ろではイリスが、「あちゃー」と言わんばかりの表情をしている。そして、耳慣れた声に顔を上げるミノリ。
「あっ……あの、これは……何でも、ないんです」
 盛大に焦りつつ、真っ直ぐに夫を見て宣うものの、泣き腫らした赤い両目では全く説得力がない。クラウスは、すぐに質問の相手を変える。
「ミステル。何があった?」
 話には聞いていたが、普段は穏やかな彼でも、妻絡みのトラブルに直面すると「こう」なるのか。ミステルは鋭い双眸に射抜かれながら、他人事のように考えた。僅かに生じた恐怖心を追い払うためである。
「すみません。ボクが、ミノリさんに嫌な事を思い出させてしまったんですよ」
 自分は全く悪くないと思っているミステルだが、まずは「申し訳なさそうに」謝っておいた。しかし、これだけの答えで、突き抜けた愛妻家が納得するわけがない。
「一体、何を―」
 クラウスが仔細を問い質そうとすると、それを制するように、ミノリが「違うんです」と被せた。
「嫌な事を、思い出しちゃったんじゃなくて……。嬉しかったんです。『大変だったでしょう?』って、言ってもらえて……」
 ミノリは頬を真っ赤に上気させて恥ずかしそうに説明したが、そもそもの会話内容を知らないクラウスとイリスには、少しも話が飲み込めない。ただ、ミステルだけは「そうですか」と納得した様子で頷いた。悪い意味で泣かせたのではないと分かった彼は、今度は余裕を持ってクラウスに向き直る。
「ボクとミノリさんとで、両親についての話をしていたんです。若い頃に両親が居ないというのは何かと大変な事も多かったので、『大変だったでしょう』と言ったのですが……てっきり、傷つけてしまったのかと思いました」
 ミノリは、ぶんぶんと首を横に振る。
「すみません。突然、泣いちゃったりして……。でも、こんな風に、解ってもらえたことってなかったので……本当に、嬉しかったんです」
 そう言い切ると、彼女の瞳から、また涙が零れ始めた。
「あっ……やだ、また……。ごめんなさい」
 ようやく事情を理解したクラウスは、椅子に座っている妻の側へ黙って歩み寄り、その頭を自分の胴に抱え込んだ。赤いバンダナを撫でながら「よしよし」と宥める彼の表情は、どこか切なげだった。
「ミステル、問い詰めるような真似をしてすまなかったな。イリス、本はまた後で借りに寄らせてもらうよ。オレは、これからミノリを牧場まで送ってくる。もし店を出たところで誰かに会ったら、適当に事情を説明しておくから」
「そうしていただけると助かります。すみませんでした、まさかこんな事になるとは思わなかったもので……」
 ミノリが、ずずっと鼻を啜る。
「いえ……。ごめんなさい、私が悪いんです。お恥ずかしいところを、お見せしました」
「フフッ、どちらも悪くないわよ。ミノリさん、気を付けて帰ってね。クラウスがいるから、大丈夫だとは思うけれど」
 お邪魔しました、と一声かけて階段を降りていった二人を笑顔で見送った後、ミステルは、深い深い溜め息を吐いた。
 
 
「さて、問題。クラウスの今の気持ちは?」
 イリスがティーカップを傾けながら、さも可笑しげに問いを投げかければ、対するミステルはげんなりした表情でカチャリとカップを置いた。
「さしずめ、自分の妻を自分以外の男に嬉し泣きさせられて、悔しいことこの上ない、といったところでしょうか」
「きっと、ライバル認定されたわね」
 はあ、と再び溜め息を吐き、ミステルは紅茶を啜る。
「まさか、あんな世間話で泣かれるとは思いませんでしたよ。ミノリさんのご両親も亡くなっているなんて、初耳でしたし」
 彼女がこの町に来て四年も経つというのに、そのような噂が流れたことなど一度も無かった。クラウスを含め、事情を知る者たちが意図的に情報を隠しているとしか思えない。それだけ、ミノリにとって両親の死はデリケートな事柄なのかもしれない。
「ボクたちも、他言はしないほうがいいんでしょうね」
「そうね」
 ミステルはソーサーへ視線を落とし、何気なく指先で模様をなぞる。
「今まで、ミノリさんは何故あんなに世間知らずで真っ正直で無邪気なんだろうと思っていましたが……少し、分かったような気がします。……意地、みたいなものでしょうか?」
 擦れてしまえば楽なのに、と小声で呟いて再び紅茶を啜る彼を、イリスは「そうね」と相槌を打ちつつ、暖かい眼差しで見守っていた。
 
 

三十二話 明るい家族計画

 
 
 その日、牧場仕事から帰ったミノリは、珍しく表情を曇らせていた。クラウスがどうしたのかと問えば、これまた稀有なことに、「ご飯を食べ終わったら、相談に乗ってもらえませんか」などと言う。妻に頼られる事が何より嬉しいクラウスは、無論、二つ返事で首を縦に振り、夕食後、ワイングラスを片手に彼女とソファで向き合った―のだが。
「クラウスは……種付けについて、どう思いますか?」
 第一声が、これである。クラウスは一瞬、言葉を失った。しかし、すぐに気を取り直し、最重要事項を確認しにかかる。
「もちろん、『動物の』だよな……?」
「え……他に、何かあるんですか?」
 不思議そうに小首を傾げるミノリの様子にクラウスはホッとしつつ、僅かながら頬を赤らめて「いや、何でもない」と返した。対する彼女は、何かに気づいたように小さく「あっ」と声を上げる。
「ごめんなさい。全然、分からなかったですよね。えっと……来年の春、ハナコが四歳になるんですよ」
 クラウスは、ミノリと付き合い始める以前のことを思い返した。記憶が正しければ、確か茶飲み話で「エッダさんから牛を譲り受けた」と語っていたことがあった気がする。その頃がゼロ歳だとすれば―。
「そうか。もう、そんなに経つのか……」
 感慨深げに相槌を打った彼の心中など知る由もなく、ミノリは続ける。
「はい。それで、そろそろ子供を産ませてあげた方がいいのかな、って……。でも、それってわたしがそう思ってるだけで、ハナコはどうなんだろう、って迷っちゃいまして……」
 そこまで説明し、はあ、と溜め息を吐いた。
「どっちにしても、わたしの勝手な気がするんです。ハナコの気持ちが分かればいいんですけど。……クラウスは、どう思いますか?」
 相手は経済動物なのだから、そこまで深く考える必要は無いだろう―というのが彼の本音だったが、家畜も家族の一員と考えて接している妻の手前、ストレートにそう答えるのも憚られた。クラウスはしばらく考えた末、静かに口を開く。
「オレは動物に詳しくないから、参考になるか分からないが……ハナコにも生殖本能はあるだろうし、お前がそこまで気遣ってやっているなら、人の手で繁殖を促したところで勝手だとは思わないがな」
 彼は「種付けするにしろしないにしろ、その気持ちはちゃんとハナコに伝わると思うぞ」と穏やかに微笑んで締め括った。その言葉へ真剣に耳を傾けていたミノリは、片頬に手を当て、深く思案する。
「そっか……。本能、なんですよね……」
 再確認するように、真顔でそう呟いた。クラウスは自分で言った台詞にもかかわらず、彼女の口から改めて「本能」という単語を聞き、急にいたたまれなくなってくる。
「まあ、そうだな……。今日明日で決めなければいけない事でも無いだろうし、ゆっくり考えればいいんじゃないか?」
 ハハッと一笑して気恥ずかしさを誤魔化すと、彼はグラスを煽った。
「……そうですね。ありがとうございます。もうちょっと、考えてみることにします」
 
 
 彼女の言う「ちょっと」は、本当に「ちょっと」だった。
「昨日、あれから、よく考えたんです。それで今日、マリエルさんにお願いして、ハナコに種付けしてもらいました」
「そうか。子牛が楽しみだな」
 あれだけ悩んでいたのにもう決めたのか、と困惑気味の夫に対し、ミノリは屈託なく微笑んで礼を述べる。
「はいっ。クラウスが相談に乗ってくれたおかげです。ありがとうございました」
「ああ。役に立てたなら良かったよ」
 ここでふと、クラウスは兼ねてから抱いていた疑問の一つを思い出した。いい機会なので、はっきり尋ねてみることにする。
「ハナコのおめでたに便乗して聞くが……ミノリも、子供が欲しいか?」
 本来ならば結婚する前に話し合うのが望ましいのであろうが、今まで何となく避けていた話題だった。もし子供ができたら―などという、ふんわりした会話はした事があったものの、自分の妻があまりに純真なので、現実的な話をしたら引かれるのではないかと躊躇っていたのだ。
 が、そんな心配は杞憂だった。ミノリはしばらく考えてから、真顔でぽつぽつと答える。
「できれば……欲しい、です。けど……」
 言葉を濁して一呼吸置いた後、「クラウスは?」と問い返した。
「オレも、できれば……な。だが、時期はいつでもいいと思ってる」
 そこで会話が途切れ、室内がしん、と静まりかえる。
 二人は、無意識に体を強張らせた。
 時計の振り子が、コチ、コチと十数回ほど鳴ったところで、ミノリが徐に口を開く。
「あの……。『いつでも』って言ってると、どんどん先延ばしになっちゃうと思うんです。そうしたら、産むのも、育てるのも、大変になっちゃうかな、って……。だから、欲しいなら、早めに決めたほうが、って、思うんです、けど……」
 もっともな意見だった。クラウスは、「そうだな」と全面的に同意する。自分の妻はぼんやりしているように見えて、こうして考えるべきところはきちんと考えているのだ。だからこそ、話をしていて楽しいし、年は下でも心から尊敬している。
 彼は一考した上で、うん、と頷いた。
「経済的には問題無いだろうし、お前さえ良ければ……」
 心拍数が、僅かに上がる。
「……子供、作ってみるか?」
 ミノリもドキドキしつつ、こくんと頷いた。
「……はい」
 再び訪れる、沈黙。
 双方とも、たった今、人生における大きな選択の一つをしたのだという自覚があった。暫くその余韻を噛み締めていたが、数十秒の後、今度はクラウスが若干言い難そうに切り出す。
「ところで、ミノリ……子供の作り方は、知ってるよな?」
 ミノリは一瞬で、ボッ、と茹蛸のように赤面した。
「しっ……知ってますよ。みんな、学校で習うでしょう?」
 初心の見本のような反応につられ、尋ねた当人も思わず赤くなってしまう。
「そうだな。ならいいが……」
 避妊具が終わりそうだったが買い足す必要は無いな、と彼は頭の片隅で冷静に考えた。少し遅れて、つまりそれはどういうことかという「具体的な」想像をしてしまう。
(まずい、興奮してきた……)
 しかし、今の今で彼女を押し倒すのも気が引けたので、もう少し時間を置くことにした。
 思い返せば、避妊をせずに事に及んだことなど今まで無かった。若い頃は様々な無茶をしたものだが、さすがにそこまで浅はかでは無かった。万一、遊び相手との間に子供ができてしまったり、病気を遷されたりしたら、一生を棒に振りかねないと考えるだけの頭はあった。
 さも難しい事を考えているかのような顔でそんな思考を巡らせている夫へ、ミノリはあせあせと声をかける。
「あっ……あの。でも、詳しいことは、分からないんです。何か、知っておいたほうがいいことって、ありますか?」
 真面目に問う妻の姿に、クラウスの胸が罪悪感でチクリと痛んだ。全く、情けない。そう思いつつも、外面は紳士の皮を被る。
「どうだろうな……。何しろ、オレにとっても初めての経験なんだ。これから、二人で勉強していこう」
 彼は穏やかに微笑んで、ミノリの頭をそっと撫でた。
 
 
 甚だ都合の良い話だが、こういう時こそ「持つべきものは友だ」と思う。クラウスは自身の仕事場で二十年来の腐れ縁を前にして、二脚のグラスへワインを注いだ。
「悪いな、こんな相談を持ち掛けちまって」
「いいのよ。大事なコトだもの」
 本来ならば身内に相談するような内容なのだろうが、クラウスにもミノリにもその「身内」が存在しない。だから、こうして彼の友人にして医者でもあるマリアンが呼び出されたのだった。相談を受けた本人もそれを承知しているため、嫌な顔はもちろん、茶化しもしなかった。そういう細やかな心遣いが本当に有難い、とクラウスは思う。
「まず、ミノリちゃんはお酒を控えた方がいいわね。少しくらいなら問題ないけど、子供が欲しいのなら、ボトル一本は呑みすぎだわ」
「ああ、それは本人も言っていた。あれでも普段の晩酌はグラス二杯程度なんだが、しばらく酒は止めるそうだ」
「賢明な判断ね」
 のっけからそんな話題になる辺りが、彼女が町内において如何に酒好きとして認識されているかを物語っている。クラウスだけは、彼女がザル―否、ワクであっても決して大酒呑みではないことを知っているが、良い虫除けになるので、あえて訂正もしていなかった。
 マリアンは焼き魚に箸をつけ、よく噛んだ上でごくんと飲み下し、「それから」と続ける。
「やっていない感染症の予防接種があれば、受けておいたほうがいいわ。受けた場合は避妊期間を取らないといけないから、必要なら早めに言ってちょうだい。分からなければ、抗体検査してあげる」
「分かった。ミノリに聞いておこう」
 さすがは医者だ、とクラウスは感心した。
(マリアンに相談して正解だったな)
 アドバイスを記憶に留めつつ、彼はワインを一口含んだ。
「妊娠前の注意点は、それくらいかしら。あとは授かりものだと思って、気負わずにいることね。欲しいと思ってすぐにできるようなものでもないし。あまり焦ると、それがストレスになっちゃうから」
「なるほど。……そうだな」
 クラウスは、神妙に頷く。ある意味、一番重要な事柄かもしれない。ミノリの性格上、一人で気負って悩んでしまうことも十分にあり得る。この言葉は、特にしっかり伝えておかなければ。
「ありがとう。為になったよ」
「どういたしまして。また分からないことがあったら、何でも相談なさいよ。ミノリちゃんにも、そう言っておいて」
「ああ」
 こうしてひとまず本題を終えた二人は、一区切り置いて、何となく雑談に入る。
「それにしても、あんたが『子供』ねぇ……。なんか、信じらんないわ」
「ああ、オレもだ。自分の事ながら信じられん」
 ブッ、と噴き出すマリアン。腹を抱え、ケラケラ笑い始めた。
「あんたがそんなんでどうするのよ。ミノリちゃんが困っちゃうじゃない」
「……あいつに言うわけないだろう」
 僅かに頬を赤らめ、ふてくされたように述べた友人を、マリアンは待ってましたとばかりに冷やかしにかかる。
「お熱いわね~。『時期』と『頻度』についてもアドバイスしてあげようと思ってたケド、必要ないかしら~?」
「ああ、無いな。その辺は全く問題ない」
「元気ねぇ。いいおっさんのクセに」
「お前に言われたくは無いな」
 二人はお互い、ニヤリと意味ありげに笑い合った。
 
 
 その頃。自宅で早めの夕食を終えたミノリは、動物小屋にいた。
「ハナコ、具合は大丈夫ですか? 痛かったり辛かったりしたら、ちゃんと呼ぶんですよ?」
 優しく語りかけると、小屋の隅でじっとしていた牝牛が「フーッ」と鼻を鳴らす。その頭を、ミノリはよしよしと撫でた。そして、自身も深く息を吐く。
(子供、ですか……)
 家畜の種付けや出産は学生時代から幾度も経験してきたが、まさか自分自身が子作りを計画する日が来ようとは。未だに信じられない気持ちで一杯だった。嬉しさと不安とが渦を巻き、胸がドキドキする。
(やっぱり、産むときは痛いんでしょうか。……それより、生まれたら、ちゃんと育てられるんでしょうか……)
 重い憂慮に心を支配されそうになり、ミノリは慌てて頭を振った。
(ううん、きっと大丈夫。一人じゃなくて、クラウスもいるんですから)
 ふわりと微笑みつつ「ねっ」と同意を求めれば、ハナコが「モ~」と鳴いた。
 
 

三十三話 カモミール

 
「クラウス、明日、お仕事お休みですよね?」
 赤いソファに腰を沈めてぼんやりしていたミノリは、風呂上がりの夫が向かいに座るなり、そう尋ねた。彼が、書棚から持ってきた専門書を開きつつ「ああ」と答えれば、パッと嬉しそうに微笑む。
「じゃあ、今夜は、アロマポットを使ってもいいですか?」
「ああ、構わないよ」
 彼女がわざわざこう聞くのには、理由がある。調香師である夫の翌日の仕事に響かないようにとの配慮だ。一人暮らしの時には毎晩のように枕元のアロマポットで香を焚き、ハーブやニンニクを使った料理も好んで食べていたミノリだが、調香師が日常気を付けていることについては恋人時代に聞いていたため、結婚後はクラウスが何も言わずとも、一旦はそれらをパタリと止めていた。しかし、妻が元々安眠のために香を用いていたことや、においの強い料理も好きなことはクラウスも知っていたので、休前日等、仕事に影響のないときは香り物を用いても良い、と取り決めていたのだった。
「いつも気を遣ってもらって悪いな」
「いえ。わたしにも、役得がありますし」
 ミノリはフフッと悪戯っぽく笑って立ち上がり、パタパタとキャビネットへ駆けていくと、自分用の引き出しから茶色の小瓶を取り出す。その足でキッチンへ向かい、今度は陶製のミルクポットに水を入れた。小瓶とミルクポット、二つを持ってベッド脇へ行くと、ナイトテーブルの上のアロマポットにちょろりと水を注ぐ。続いて、小瓶の中身を三滴落とした。
 薄い虹色の油膜が小皿に広がると同時に、ふわりと漂う甘い香り。すう、とその芳香を吸い込み、ミノリは「はあ……」と幸せな溜め息を吐く。
「クラウスの作るお香って、いい香りなのはもちろんですけど、落ち着く香りが欲しいって言ったらホントにそういう香りが作れちゃうんだから、すごいなって思います」
 半ば独り言のように言いながら、ミノリはマッチを擦る。その火を素早くポット下段のキャンドルに移し、手にしていた棒の先端を吹き消した。
「そう褒められると、少し照れるな」
 振り返れば、ニコニコ顔の夫と目が合う。ミノリも「エヘヘ」と微笑み返した。
 ナイトテーブルの上にミルクポットを残し、彼女は小瓶をキャビネットへしまいに行く。そして、再びキッチンに立った。マッチ殻を三角コーナーへ捨て、肩越しにソファを見る。
「今夜は、なに呑みますか?」
「そうだな……ぶどうワインを頼む」
「分かりました」
 食器棚から二脚のグラスを、冷蔵庫からぶどうワインとオレンジジュースのボトルを取り出し、それぞれのグラスに八分目まで液体を注いだ。深紅と橙色のグラスを両手に持つと、慎重な足取りでソファへ戻った。
「はい、どうぞ」
「ああ。ありがとう」
 グラスの一方をクラウスに渡したミノリは、テレビ脇の雑誌入れから通販雑誌を持ち出す。それを小脇に抱えて、ベッドへ移動した。
「今日はそっちなのか?」
 クラウスが本に目を落としたまま何気なく問えば、ミノリも短く「はい」と返す。彼女はアロマポットから少し離してグラスを置き、掛布団の上へごろりと横になった。
 パラパラと雑誌を捲る音が、ソファまで届き始める。
 あまり気にも留めず一人で酒を嗜みながら読書を続けていたクラウスだったが、三十分もすると、ふと寂しくなってしまった。ソファの背凭れから身を乗り出し、パーティションの向こう側にあるベッドを覗いてみれば、もぞもぞ動くミノリの足裏が見える。そして珍しいことに、「はあー」と深い息を吐く音が微かに漏れ聞こえた。
「溜め息なんか吐いて、どうした?」
 不意に指摘され、びくっと肩を震わせるミノリ。上半身を軽く起こして爪先の指す方向を見ると、夫が心配そうな顔をこちらへ向けていた。
「……いえ、何でもないです」
 苦笑しつつ答えても、彼女の表情を読んだクラウスは、訝しげに眉根を寄せただけで。「ほう?」と含みを持たせて呟く。
「疲れてるのか?」
「ん……ちょっとだけ。でも、大丈夫です」
 大丈夫に見えないから指摘されたのだということは答えた本人にも解っていたが、そう返事するしかなかった。案の定、これで会話は終わらない。クラウスは、ニヤリと口角を上げる。
「当ててやろうか」
「……」
 当たるはずがない、とミノリは無言で苦笑った。が、対するクラウスは、どこか楽しげに憶測を始める。
(最近、また出荷数を増やして忙しそうだが、単に疲れているだけなら、とっくに居眠りでも始めているだろうしな)
 そもそも牧場関連の内容であれば「大丈夫」などと宣う前に、彼女自ら夕食時の雑談で嬉々として話を持ち出しているはずである。だとすれば、他は一択。
「また、人間関係での悩み事か?」
「……どうして、分かっちゃうんですか」
 ミノリは得意顔の夫へ、口を尖らせて見せた。
「それくらいは、な。……で、何があった?」
「話しませんよ。陰口みたいで嫌ですし」
 真面目だな、とクラウスは微笑ましく思う。彼女のそういうところは好きだが、自分が気付いたからには一人で抱え込ませたくもなかった。巻末に挟んでいた栞を読み途中のページへ移し替えると、彼はパタンと本を閉じ、それをソファ上に残して妻の傍へ歩み寄る。
「何があったか話すくらいなら、陰口とは言わないだろう。話してみれば、解決することだってあるかもしれない」
 そう語りながら、ギシリとベッドの端に腰掛けた。尤もな意見に、きゅっと唇を結んで僅かに視線を落とすミノリ。少し迷った末、静かに口を開いた。
「この前、貿易ステーションで、マルゴットさんに会ったんですよ。それで、初めてゆっくりお話しさせてもらったんですけど。その時、『今度、家でお茶でもしましょう』って、誘われたんです」
「ああ」
 クラウスはさらりと相槌を打ったが、内心では「あの人付き合いの悪いご婦人が?」と意外に思った。
(だが、ミノリは聞き上手だからな。その辺が気に入られたのかもしれない)
 一人納得する彼を他所に、ミノリは続ける。
「そうしたら、今日、またマルゴットさんに会いまして。二人とも時間があったので、一緒にお茶をさせてもらったんです。けど……」
 そこで表情を曇らせ、言葉を切った。
「何か言われたのか?」
「いえ。わたしのことじゃ、ないんですけど……」
 言い淀み、微かに溜め息を吐く。そのまま黙り込んでしまったが、クラウスはあえて促そうとはせず、静かに次の発言を待った。しばらく経つと、ミノリは再び言い難そうに切り出す。
「……マルゴットさん、クロンさんのこと……あんまり、好きじゃないみたいなんですよ」
「そうなのか?」
 初耳だった。クラウスは、やや驚く。ヨーナス夫妻ともゲイザー夫妻ともそれなりの年数付き合いはあるが、そのような話を聞いたことなど一度もなかった。目を丸くする夫へ、ミノリはこくんと一つ頷きかける。
「マルゴットさんは、いろいろ言ってましたけど……わたしはクロンさんのことも、いいひとだと思ってますし。ちょっと困っちゃいました」
 それだけです、と締め括り、ミノリは苦笑した。何となく状況が想像できたクラウスも、同じく苦笑いを返す。
「お前も大変だな。そういう時は『忙しいから』とでも言って、断ったっていいんだぞ?」
「いえ。それ以外のお話は、楽しかったんですよ。マルゴットさんって、家事もお料理もすごく得意みたいで。いろいろ教えてもらいました」
「そうか」
 会話が途切れると、ミノリは徐に起き上がった。ベッドの端までにじり寄り、アロマポットに水を注ぎ足す。気化したばかりの強めな香気を掌で煽って楽んだ後、ベッドの真ん中へ戻って、また横になった。
「……気持ちはね。分からなくもないんですよ」
 ぽつりと言いながら、ミノリは雑誌のページを弄ぶ。内容を読みはしなかったが。
「マルゴットさん、町の外からお嫁にきて、この町にはお友達も、気の合うひともいない、って言ってましたし。クロンさんも外からお嫁にきてるけど、お友達が多いから、羨ましいのかな、って……」
 それが解ったところでどうしようもないから、一人でこっそり溜め息を吐いていたのだろう。クラウスは妻の頭へ手を伸ばし、ふわふわと撫でた。
「ミノリが気にすることじゃないさ。少なくとも、マルゴットさんにはお前という話し相手ができたわけだしな」
「……そうですね」
 ミノリは顔を上げ、心持ち申し訳なさそうに微笑む。
「ごめんなさい。あんまり楽しくないお話で」
「いや、そうでもなかったさ。それに、お前だって家の中でくらい、遠慮なく愚痴を吐いていいんだぞ?」
「はい。ありがとうございます」
 愚痴嫌いな彼女は夫の言う通りにする気など毛頭無かったが、心遣いは素直に嬉しかったので礼を述べた。もぞもぞ身を起こすと、ちょこんとアヒル座りをしてクラウスに向き直る。
「……あの、クラウ」
 言いかけたところで、その肩がにわかに力強く抱き寄せられた。硬い胸板に顔を埋める格好になったミノリは、数秒ほどぽかんとした後、フフッと笑って彼の背中に手を回す。
「あのね、クラウス」
 呼びかけられた方は、彼女の髪を優しく梳きながら「ん?」と答えた。腕の中にすっぽりと納まった柔らかな肢体が、熱を増す。
「……大好きです」
 蚊の鳴くような声で囁かれる、不意打ちの告白。
「ああ。オレもだよ」
 クラウスは余裕ぶって返したが、意図せず染まってしまった頬を見られなくて良かったと、内心ホッとしていた。
 
 

三十四話 華麗に大変身

 
 
 秋の月、十四日。ミノリは宿屋前で、メルティとエリーゼに詰め寄られていた。
「ぜったい、もったいないよ! ミノリさん!」
「そうよ! 百着も持っていながら、毎日同じ格好だなんて!」
 だって、着る服を選んでいる時間が惜しいんだもの―ミノリはそう主張したかったが、白熱している二人の前で口にする勇気はない。代わりに、硬い作り笑顔で「はい」と答えた。
「ミノリさん、今からあそべる? あそべるよね?」
「えーっと……まあ……。遊べます、けど……」
 止む無く肯定すれば、待ってましたとばかりにエリーゼが畳みかける。
「では、これからお宅へお邪魔するわ。イリスさんも誘って」
「そうね。わたしとミノリさんは、先に行ってるよ!」
 家主を置いてポンポン進む話に混乱したまま、ミノリはメルティの小さな手に引かれて市街地を後にしたのだった。
 
 
 時は、前日に遡る。前回に引き続き今回のファッションショーでも優勝を果たしたミノリはホクホク顔で、夫であるクラウスの元へ真っ先に駆け寄った。
「おめでとう、ミノリ。ミノリのセンスが認められて、オレも嬉しいよ」
「ありがとうございます。今日は難しいテーマだったので、ちょっと不安だったんですけど。優勝できてよかったです」
 優勝賞品の裁縫図セットを胸に抱え、ミノリはエヘヘとはにかむ。クラウスは今すぐにでも彼女を抱き締めて頭を撫でながら褒めちぎりたかったが、それは二人きりになってからだ、と耐えた。
「今夜はお祝いしないとな。何か食べたいものはあるか?」
「えっと、じゃあ……グラタンが食べたいです」
「分かった。気合を入れて作るから、楽しみにしていてくれ」
「はいっ!」
 そんな平和な会話を繰り広げていると、出し抜けにミノリの背中がポンッと叩かれた。虚を突かれ、びくっとして振り返れば、そこに立っていたのは珍しくもエリーゼだった。彼女は胸の下で腕を組み、少し照れた様子で宣う。
「ミノリ。前から思っていたけれど、あなた、なかなかいいセンスしてるわね」
 言い方は上から目線でも半分は照れ隠しであることを承知しているミノリは、素直な賞賛と受け取り、ふわりと微笑んで「ありがとうございます」と礼を述べた。エリーゼは元々赤らんでいた頬を更に真っ赤に染め上げ、そわそわした風で続ける。
「それでっ、その……ちょっと、聞きたいのだけれど。あなた、服も自分で作っているそうね?」
「はい。裁縫工房で作ってます」
「何着くらい持っていて?」
「服ですか? ……確か、百着くらいです」
「そ、そう。そこそこ持っているのね」
 エリーゼは「わたくしの五十分の一程度だけれど」としっかり付け加える。なぜ突然そんなことを質問されたのか分からないミノリは、不思議そうな表情を彼女に向けた。黙って続きを待たれ、エリーゼは盛大に焦る。
「そっ、それだけよ。ごきげんよう!」
 一方的に会話を切り、彼女はスタスタとその場を立ち去ってしまった。ミノリが「何だったんでしょう?」と小首を傾げてクラウスを見上げれば、彼は軽く笑いながら「さあな」と答える。
「お前と仲良くなりたかったんじゃないか?」
 その憶測は、当たらずとも遠からずだった。
 
 
 そして、翌日―冒頭の日の朝。
 実は、ファッションショー会場でエリーゼとミノリのやり取りを耳にしていた人物が、もう一人いたのだった。エリーゼが陣取りエリアの見回りに行こうと町へ繰り出すと、その姿を目ざとく見つけた少女が、パタパタと彼女に走り寄った。
「エリーゼさん、おはよう~!」
「あら、メルティ。ごきげんよう」
 朝から元気ね、と少し呆れた様子で呟いたエリーゼへ、メルティは「エヘヘ~」と悪戯っぽく微笑みかける。
「昨日のお話、きいちゃったよ♪」
「昨日……?」
「ほら、ミノリさんとの」
 エリーゼは少し考えた上で前日のミノリとの会話を思い出し、「ああ」と納得して頬を赤らめた。
「……あの話ね。それが、どうかして?」
 平静を装いながらも明らかに動揺を隠しきれていないエリーゼだったが、メルティは全く気に留めることなく、楽しげに続ける。
「ミノリさんって、いつも同じ服じゃない? だから、センスはいいのにオシャレ嫌いなのかな、って思ってたんだけど。ホントは、たくさんお洋服もってたのね」
「そうね。わたくしも意外に思ったわ」
 素直に同意すれば、ニコッと笑う小悪魔少女。
「わたし、ミノリさんの持ってるお洋服も見てみたいな。エリーゼさんも、そう思わない?」
「……まあ、否定はしないわ」
 エリーゼは、僅かに唇を尖らせて答えた。対してメルティは、彼女の言葉に「だよね、だよね!」と興奮した様子で飛び跳ねる。
「ねえ、ミノリさんの家で『女子会』やらせてもらえないか、聞いてみようよ!」
 ハッとするエリーゼ。その手があったか、と。彼女は両手を軽く腰に当て、こくりと頷いた。
「そうね。これから『三人で』聞きに行ってみましょうか」
―以上が、経緯である。
 
 
 そして、所変わって高原の牧場地、ミノリの家。押しかけた「三人」はお茶など要らぬと、真っ先に家主を衣裳部屋へ案内させた。
「あら、結構広いじゃない。わたくしの屋敷の衣裳部屋には、到底及ばないけれど」
 相変わらずの高慢な態度で宣うエリーゼに、ミノリは苦笑するしかない。そんな微妙な心境の家主などそっちのけで、メルティが無邪気に服を見て回る。
「わあ、この服ステキ! これも、自分で作ったの?」
「はい。裁縫図は、買ったものですけど……」
 率直に褒められ、ミノリも多少気を緩めてはにかんだ。
「いろんな服があるのね。あら、鍛冶服やシスター服なんてのもあるわ」
 同じく目を爛々と光らせて持ち服チェックに掛かっていたイリスへ、ミノリはあせあせと説明する。
「ここの服は、一応、出荷物のサンプルなんです。わたしの服ではありますけど、ぜんぜん着てませんし……」
「もったいないな~。着ちゃダメってわけじゃないんでしょ?」
「えっと……はい。まあ……」
 これから何が起こるか大体予想のついているミノリは、メルティの問いに言葉を濁した。が、「女子会」の常連メンバー三人は、全くお構い無しだ。顔を見合わせ、ニコッと微笑む。
「それじゃ、まずはどの服にしようかしら?」
「これなんてどうかな? 意外性があって、いいと思うよ!」
「いいんじゃないかしら。さあミノリ、これを着てみてちょうだい」
 そう言ってエリーゼが押し付けてきたのは、ゴージャスコート一式。ミノリは、ぶんぶんと激しく首を横に振った。
「そんなのっ……似合いませんよ」
「大丈夫よ。似合うように『演出』してあげるから」
 何時の間に取り出したのか、ブラシやらメイク道具やらをスタンバイし、イリスが宣う。ミノリは渋い顔で「うー……」と唸ったが、自分に向けて注がれるキラキラした視線に、やがて逃げられないと悟り、不承不承ハンガーを受け取った。
 
 
「ただいま」
 クラウスは普段通り、何気なく玄関扉を開け―ビクッと肩を震わせた。不意に、廊下の奥からキャッキャッと女性の楽しげな声が響いてきたためだ。目を丸くして音のした方を振り向くが、よくよく耳を傾けてみれば、それらは聞き慣れたもので。邪魔をしては悪いだろうか、とも考えた。しかし黙ったままというのもどうだろうと思い直し、玄関脇のキャビネットの上へ鞄を置いた彼はツカツカと衣裳部屋へ歩み寄ると、扉を軽くノックした。
「失礼。ミノリ、帰ったぞ」
 声を掛ければ、扉の向こうから「あっ、クラウス。おかえりなさい!」と愛しい妻の声がする。が、その後、ガチャリと扉を開けて顔だけ出したのは、宿屋の看板娘の小さい方―メルティだった。
「クラウスさん、こんにちは。おじゃましてます。ミノリさん、いま変身中だから、ちょっと待っててね!」
 それだけ告げると、彼女は返事も待たずにパタンと扉を閉めてしまった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をするクラウス。
「変身……?」
 どうやら中に居るのはミノリとメルティ、そして漏れ聞こえる声から、イリス、エリーゼの、計四人のようだ。場所と顔ぶれ、そして「変身」という単語から、ここで行われていることを推測してみれば。
(着せ替えされているのか……)
 その一択だった。おそらく、イリスから話に聞いていた「女子会」、すなわち「女の子を可愛く演出する会」が、何故か今、自宅の衣裳部屋で催されているのだろう。クラウスは呆れた風で小さく肩を竦めると、静かにその場を離れる。ふと、コートを着たままだったことを思い出し、脱ぎながら廊下の反対端まで移動して浴室脇のクローゼットにしまった。その間も、家の片隅からは賑やかな声が聞こえ続けている。
(随分と楽しそうだな)
 こっそり聞き耳を立ててみれば、「もっと髪を巻いた方が」だの「口紅はもう少し濃い色で」だの話し合っている模様。そこにミノリの発言が一切ないことから、彼女が好き勝手遊ばれているのであろうことは容易に想像できた。が、どうしてやることもできない。

そして、およそ十五分後。
 クラウスがテーブルで紅茶を飲みつつ本を読んでいると、何の前触れもなく、バタンと衣裳部屋の扉が開いた。
「お待たせしました~♪」
 まず小躍りしながら現れたのは、メルティ。続いて、上機嫌のイリスが姿を見せる。
「終わったのか?」
 クラウスが紙面から顔を上げてそっけなく尋ねれば、イリスも短く「ええ」と答えた。その表情は、秋晴れのように清々しい。クラウスは、じと目で彼女を見遣る。
「さ、ミノリ。出て来なさいな」
 奥から、エリーゼの声が聞こえた。しかし、ミノリは未だ無言だ。
「着付けもメイクも完璧なんだから、自信を持ちなさい」
「……ムリです」
 ようやく、ボソッと一言、ミノリが呟く。一体どんな格好をさせられたのやらとクラウスは同情したが、一方で、少々楽しみにもなってきた。彼が読みかけの本を閉じると同時に、脇からイリスの声が降ってくる。
「ほら、ミノリさん。クラウスも見たいって言ってるわよ」
 クラウスはギョッとし、慌てて彼女へ視線を向けた。しかし目の合った相手は悪びれもせず、ニコッと微笑みを返す。引き攣り笑いで「そんな事を言った覚えはないが」と囁いたものの、イリスに「顔に書いてあるわよ」と小声で返され、彼はぐっと口を閉ざした。
 その後、エリーゼとミノリの間で不毛な問答が繰り返されること、数十秒。結局、ミノリが折れた。彼女は仕方なしに「分かりましたよ……」と呟くと、エリーゼに背を押され、満を持して登場する。その姿を見たクラウスは、言葉を失った。
 紫色をベースとした光沢のある生地に、レースとフリルたっぷりのミディアム丈ドレス。フェミニンなデザインだが、肩から腕、背中にかけて露出しているため、セクシーでもあった。加えて、髪型はハーフアップからボリューム感のあるカールを緩やかに肩口まで流している。面立ちが大きく変わらない程度に、しかしバッチリと化粧も施され、普段とは全く違う、大人びた印象に仕上がっていた。
「最高傑作だわ……」
 イリスが改めて、うっとりとその全体像を眺める。ミノリは両手でスカートを固く握り締め、頬を真っ赤に染めてひたすら俯いていた。
「どう? クラウスさん」
 メルティに問われて我に返ったクラウスは、思わず「あ? ……ああ」と間の抜けた返事をしてしまった。
「……似合うんじゃないか?」
 取り繕った笑顔で述べられた感想に、イリスが小さく溜め息を吐く。
「あなたねえ。もうちょっと気の利いたコメントはできないの?」
 指摘されてよくよくミノリを見れば、格好は一丁前でも、履き慣れないヒール靴の所為で足がプルプルしていた。その微笑ましい姿にクラウスは頬を緩め、普段の余裕を取り戻す。
「うん、似合ってるよ。いつもより大人っぽく見える」
「そ……そうでしょうか」
 ミノリは一寸はにかんだものの、内心は複雑だった。嬉しさよりも、恥ずかしさの方が勝っていたためだ。注目の的となり、すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、叶うはずもなく。
「こんなに素敵な服を持っているのに、今まで着たことがなかっただなんて。宝の持ち腐れだわ」
 強い口調で主張するエリーゼに、ミノリは真っ赤な顔で項垂れたまま、ボソボソと応える。
「えっと……牧場仕事ばっかりしてると、こういう服って、着る機会がないので……。わたし、ヒールの高い靴、苦手ですし……」
 派手な服や露出の多い服は好みじゃない、というのが本音だが、今主張しても無意味なのであえて口にしなかった。浮かない顔のミノリへ、メルティが厳しい突っ込みを入れる。
「ダメだよ、ミノリさん! そんなこと言ってると、あっという間に枯れちゃうよ?」
 ブッ、と噴き出すイリスとクラウス。よく意味の分からなかったエリーゼはきょとんとし、意味が分からないながらも年長者たちの反応を見て何かを察したミノリは、力無く笑った。
「ねっ。クラウスさんだって、そう思うでしょ?」
 顔を逸らしてクックッと忍び笑っていたクラウスは、突然話を振られてギクリとする。内心焦りつつも、ゴホン、と一つ咳払いをしてから、慎重に台詞を組み立てた。
「……いや。確かに、そういう格好も新鮮でいいが……。好きな服を着るのが一番じゃないか?」
 あまりに無難なその回答に、メルティは可愛らしく口を尖らせる。
「そうかもしれないけど……」
 不服そうな少女へ、イリスがフフッと笑いかけた。
「クラウスの言う事はもっともだけど、メルティちゃんの言葉にも一理あるわ。だから、ね?」
 彼女は一旦言葉を切り、くるりとミノリを振り返る。キラキラした笑みを湛えて。
「ミノリさんも時々でいいから、私たちの『女子会』に参加しましょう?」
 返事に困るミノリだったが、結局、頷くしかなかった。
「……はい」
 エリーゼとメルティは、さすがですお姐様、とイリスを仰いだ。
 
 ほどなくして柱時計が五時の鐘を打つと、女子会メンバーはそのままの格好のミノリと彼女の夫を残して、各々自分の家へ帰って行った。嵐が去った後のように静まりかえった部屋の中、しばらく立ちっぱなしでぼんやりしていたミノリだが、やがて疲れた顔で「ふう」と一つ息を吐いた。
「……脱いできます」
 そう呟き、よろよろと衣裳部屋へ足を向ける―が、その手首をクラウスが掴んで引き止めた。
「せっかく綺麗にして貰ったんだから、しばらくそのままでいたらどうだ?」
 下心がありありと浮かぶ顔つきの夫へ、ミノリはじと目を送る。
「イヤです。脱いできます」
 しかし、ツンと尖らせた唇も、不機嫌そうな半目も、薄ら色が乗ったそれはいつもより艶っぽく見えて。
「待てって。とりあえず、ソファにでも座らないか? 今、お茶を淹れてやるから」
 クラウスは、彼女がその場で髪を解こうとするのを全力で阻止しにかかった。三年来の付き合いだ、夫が何かしら企んでいることくらい簡単に予想はついたが、散々遊ばれた後で疲れきっていたこともあり、ミノリは不本意ながら首を縦に振る。
「……分かりました。でも、ご飯前には脱ぎますよ」
「ああ。それでいい」
 妻がふらつく足取りでソファへ移動し、ぽすっと腰を沈めるまでの様子を見守り終えると、クラウスはニコニコ顔でキッチンへ向かった。途中、くるりと振り返り、「髪もそのままでな」と念を押す。頭皮のチクチク感が嫌で、さっそくピンを一つ二つ抜こうとしていたミノリは、それを聞いて不機嫌顔で手を引っ込めた。
 何気なく天井を見上げれば、カールした髪がふわりと揺れる。慣れない感触で、首元がくすぐったかった。
「ねえ、クラウス」
 ミノリがソファから、夫の背中へ声を掛ける。ティーポットに茶葉を落としている最中だったクラウスは、振り返ることなく「何だ?」と促した。彼女は視線を自分の膝上に落とすと、僅かに表情を曇らせる。
「……わたし、オシャレとかお化粧とか、もっとしたほうがいいんでしょうか?」
 実のところ、予てから気にはしていたのだった。クラウスから指摘されないのをいいことに今まで目を背けてきたが、周囲から「子供っぽい」と評される一因が、服装や常時スッピンという外面にあるのも自覚していたし、同年代の女の子を見て多少の危機感を抱くこともあった。しかし、牧場仕事をするにあたっては「動きやすい、怪我をしにくい、汚してもいい服装」が基本となる。汗もたくさん掻くので、化粧をしない方が顔を拭いやすくて良い。町へ出る前に着替えるという方法もあるが、その時間も惜しくて。そうやって利便性を取ってきた結果が、今日、エリーゼやメルティから受けた指摘だった。
 クラウスはポットへ湯を注ぎながら、妻の問いに答える。
「いや、今のままでいいと思うぞ。普段からそんなに気合を入れていたら、仕事に差し支えるだろう?」
 彼が自分と同じ見解だったことにホッとして、思わず頬を緩めるミノリ。
「……はい。やっぱり、そうですよね」
 カチャンとポットの蓋を閉めると、クラウスはソファの方へ体を向け、軽く腕を組みつつシンクに背を預けた。
「あいつらに言われた事なら、気にするなよ。単にお前を着せ替えて遊びたいだけだろうからな」
 穏やかに微笑んで、そう述べる。彼は続けて「それだけ、お前が可愛いってことだ」などと口走りかけたが、客観視して気恥ずかしくなり、思い止まった。
「もし嫌なら、オレからイリスに伝えておこうか?」
 しかし彼の言葉に元気付けられたミノリは、ふわりと微笑んで頭を振る。
「いえ、大丈夫です。……たまになら、いいかなって思いました。ちょっと、恥ずかしいですけど……」
「そうか」
 ならば、できれば次回も自宅でやって欲しいものだと、クラウスは密かに思った。
 
 
 
 
~ 後日談 ~
 
 
 クラウスの仕事場へ暇潰しにやってきたイリスは、フフッと悪戯っぽく微笑んだ。
「それで、あの後どうなったの?」
「何がだ?」
 彼女の質問の意図は分かっていたが、クラウスはあえてとぼける。しかし、それしきで諦める女小説家ではない。
「何がって、ミノリさんとどうなったか、よ」
 爛々と目を光らせて身を乗り出す彼女へ、クラウスは少しばかり肩を竦めて見せ、紅茶を一口啜った。
「そんなことを聞いてどうする」
「小説のネタに使わせていただくわ」
「絶対話せないな」
 断言されたイリスは、残念そうに「あら、そう」と呟き、すっと身を引く。
「ならいいわ、ミノリさんに聞くから」
 そうくると思った、とクラウスは渋い顔をした。マリアンといい、レーガといい、勝手知ったる者はよくこの常套句を使ってくるが、そう何度も同じ手管に落ちるものか。彼は、落ち着き払った態度で口を開く。
「話すような事は何も無かったぞ。疑うなら、ミノリにも聞いてみるといい」
 彼の返しが意外だったのか、イリスは束の間、目を丸くした。そう、ほんの「束の間」。その表情は徐々に緩み、最終的には、いかにも楽しげなニコニコ顔へ変わった。
「おかしいわね。ミノリさんに訊いたら、顔を真っ赤にして逃げられてしまったのだけど……」
 クラウスは、啜りかけの紅茶で咽た。下を向いてゴホゴホと激しく咳き込む彼へ、イリスは笑い混じりに「大丈夫?」と問う。大丈夫なわけがないだろう、と内心思いつつ、クラウスは首を横に振った。
 どうにか呼吸を落ち着かせると、彼は紅潮した真顔をイリスへ向ける。
「……訊いたのか?」
 尋ねれば、相手は悪びれもせず、にこやかに「ええ」と宣った。後でミノリに注意を促しておけばいいか、などと軽く考えていたクラウスは、己が浅はかさに凹んだ。はあー、と一つ深い溜息を吐き、とうとう観念する。
「……お察しの通りだよ。おかげで楽しませて貰った」
「そう。それは良かったわ」
 彼の反応と答えに満足したイリスは、上機嫌でティーカップに口を付けた。飴色の液体を一つ飲み下し、笑顔で語る。
「きっとまた、あなたたちの家で『女子会』をやらせてもらうこともあるでしょうから、その時にはリクエストも聞くわよ」
「それはありがたいな」
 クラウスはわざとらしく、ハハッと乾いた笑いを漏らした。
 
 

三十五話 メイド in 牧場

 
 
 住居のダイニングテーブルにて、持ち帰った帳面と睨み合いをしていたクラウスは、ガチャリと玄関扉が開く音に顔を上げた。室内に入ってきたのは、畳まれた服を数個の化粧箱の上に山と積んで、それらを両手いっぱいに抱えたミノリだった。
「随分と大荷物だな」
 脇から飛んできた呆れ混じりの声に、ミノリは衣裳部屋へ向けていた足をはたと止め、テーブルを振り返る。ちょうど、万年筆を置いた夫が席を立つところだった。彼はツカツカとミノリの傍へ歩み寄り、箱の上へ不安定に積まれていた服を一気に攫い上げる。そしてミノリが礼を言うより早く、「どこへ運べばいいんだ?」と尋ねた。
「あ……えっと、クローゼットにお願いします」
「分かった」
 クラウスは一つ微笑むと、くるりと踵を返して廊下の奥へ向かう。その背を慌てて追うミノリ。彼女は両手の塞がっている夫のために扉を開けようとして、抱えていた箱を床に置きかけた―が、クラウスはそれを待つことなく、服の束を軽々と片腕に持ち替え、危なげなくドアノブを回した。
「ありがとうございます」
 ミノリが、はにかみつつ礼を言う。作業台の上へ荷物を置いたクラウスは、その頭を愛おしげに見下ろしながらポンポンと優しく叩いた。
「荷物を運ぶくらいいつでも手伝うから、オレがいるなら呼んでくれよ」
 素直に「はい」と言えないミノリは少し困ったような笑顔を浮かべ、黙ってこくりと頷く。そして、抱えていた箱を静かに床へ降ろした。その所作をひとしきり見守った後、クラウスが「それにしても」と切り出す。
「久々にクローゼットへ入ったが、随分と服が増えたな」
 室内を見回しながら感心したように言えば、途端にパッと顔を輝かせるミノリ。
「そう思います? 今年に入ってから、出荷する服の品数を増やそうと思って、ちょっと頑張ったんですよ」
 彼女は夫の後ろで、いささか得意げに胸を張った。
「この服は、今日仕上がった物なのか?」
 先日の一件もあり、ミノリの作る服飾品に興味を持ち始めていたクラウスが、今しがた作業台の上へ置いた服の山を指差して尋ねる。ミノリは「はいっ」と小気味よく肯定し、嬉しそうに説明を始めた。
「上から五セットは、明日出荷する用の『カウボーイスタイル』です」
 語りながら、彼女は一番上の服―白い木綿のシャツと茶色い合皮ベストのアンサンブルを、手早く広げて見せた。
「これと、バンダナと、ジーンズと……あと、そこの箱に入ってるベルトとブーツがセットになってます」
 クラウスはミノリから渡された服を両手で広げてまじまじと眺め、「ほう」と感嘆の声を上げる。
「これも、自分で作ってるんだよな?」
「はい。半分は自動ですけど」
「なかなか良い仕立てだな」
 他でもない夫から褒められたミノリは、「エヘヘ」と照れ笑った。その可愛らしい表情に、目を細めるクラウス。
「オレも学生時代、劇でカウボーイ役をやった時一度だけ、こんな格好をしたことがある。この服を見ていると懐かしい気分になるな」
 和やかに語った彼へ、ミノリが冗談めかして「クラウスのも作りましょうか?」と尋ねれば、頭上からハハッと軽い笑いが降ってきた。クラウスは手にしていたシャツを妻に返しつつ、小さく肩を竦めて見せる。
「いや、こんなおっさんには似合わないだろう」
「そんなことないですよ。きっと似合いますよ」
「そうか? ……でも、遠慮しておこう」
 クラウスは苦笑いで断ると、「他は?」とさりげなく話を逸らした。それを受けたミノリは、手にしていたシャツを手早く畳んで脇に置き、いかにも楽しげに別の服を引っ張り出す。
「こっちは、この前のファッションショーでもらった裁縫図で作った服です」
 そう言って次に広げたのは、モノトーンのショート丈エプロンドレス。クラウスはフリルたっぷりのその服を受け取って、先刻と同じように鑑賞する。
「メイド服なんてものも作ってるのか。これも出荷用か?」
「いえ、こっちはサンプルです。あと、色違いでピンクと水色も作りました」
「そうか」
 短く相槌を打つと、彼はふと口を閉ざした。そのまま数秒ほど黙していたが、再び頬を緩め、いたって自然な調子で妻へ問いかける。
「自分では着てみないのか?」
「もう着てみましたよ。さっき、工房で試着してきました」
 ミノリは何の疑念も抱かず、素直にそう答えた。しかし別の反応を期待していたクラウスは、口元と下心を隠して「そうか」と相槌を打ちながら、この後、どう会話を続けたものかと考える。
「着て見せて欲しい」と率直に要求したところで、今のミノリなら自分の意図など簡単に予想した上で、顔を真っ赤にして断固拒否してくるだろう。そんな可愛い妻を少しばかり虐めつつ合意にこぎつけるのも一興だが、先日も似たような状況で半ば強引に事に及んでしまった経緯があるため、調子に乗りすぎて嫌われるのは怖い。とは言え、諦めるのも面白くない。
「後ろの仕上がりは、どうやって確認しているんだ?」
「トルソーに着せて見てます」
「なるほどな」
 それらしい理由を与えようとしても、洋裁に関しては素人知識しか持ち合わせていないため、取り付く島がない。だが、彼は諦めが悪かった。
「メイド服というと仕事着だから、動きやすさも重要だよな」
「そうですね」
「そういった事も試すのか?」
「んー……自分で着る服はちゃんと確認できますけど、それ以外のは、軽くしか見てないです」
 妻の表情が僅かに曇ったことを認めたクラウスは「これはいけるぞ」と心を弾ませ、急いでダメ押しの台詞を考え始める。が、そう毎度毎度、シナリオ通りに事が運ぶはずもなく。それまで自然に会話をしていたミノリが、出し抜けにぽっと頬を赤らめ、想定外の一言を放った。
「あの……着て欲しいなら、着てもいいですけど……?」
「え」と声を零し、固まるクラウス。直後、彼は可愛い妻が既に自分の腹の内を読んでいたという事実を認識して、かあっと赤面した。慌てて顔を背け、答えに詰まってバツが悪そうに頭を掻いていると、まるで先程の発言など無かったかのようにミノリが続ける。
「……えっと……そろそろ、片付けてご飯作りますね」
 頬を染めたままそう宣言して、作業台の上に広がった服をいそいそと畳み始めた。クラウスは内心複雑だったが、この機を逃すのも惜しかったので、観念することに決める。
「あー、待て。……お前がいいなら、着て見せて欲しいんだが……」
 若干の敗北感を覚えた。
 
 
 ミニ丈のメイド服姿で夕食を作るミノリの後姿―主にウエストから絶対領域にかけて―を緩みきった顔で眺めながら、ダイニングテーブルに着いたクラウスは左手で頬杖を突き、右手で万年筆を軽く持ち上げては指の力を抜いて帳面の上へストンと落とす動作を、一定のリズムで繰り返している。ほんのり頬を赤らめたミノリはそんな彼をチラと振り返り、すぐに視線を鍋へ戻した。
「そろそろできますけど、お仕事終わりますか?」
「ああ。すぐに片付ける」
 実のところ、終わるどころか全く進んでさえいなかったのだが。クラウスは、明日早めに家を出て仕事場で処理すればいいか、と開き直っていた。帳面と書類を速やかに纏め上げ、「よっ」と声を上げて立ち上がると、急ぎ足で玄関横へ向かって、キャビネット上に置かれている仕事鞄の中へそれらをしまう。テーブルに戻って席に着くなり、ミノリが料理の載った皿を手際良く並べ始めた。
「そうやっていると、本物のメイドみたいだな」
 機嫌良さげに言う夫へ、しかしミノリは口を尖らせて返す。
「本物のメイドさんだったら、一緒にご飯なんて食べれませんね」
 棘の立つ物言いに、浮ついた気分も一転して「怒らせてしまっただろうか」と不安になるクラウス。
「いや、その……似合ってるって意味だ。可愛いよ」
 冷や汗を掻きつつ褒め殺しで誤魔化そうとすれば、目論見通り、ミノリは元々薄桃色だった頬を更に赤く染めて、大人しく向かいの席に着いた。クラウスは少しホッとしたものの、継ぐ言葉が見つからない。二人はお互い「いただきます」とだけ言って、黙々と食事に手を付け始める。
―気まずい空気だった。
 この状況を作ってしまったことに責任を感じたクラウスは、あれこれ考慮した上で何とか切り出す。
「その服、確かエリーゼのところのメイドと同じデザインだよな?」
「はい。今回のファッションショーの賞品は、エリーゼさんが提供されたんだそうです。高品質のができたら買い取ってあげる、って言われました」
 そう語り、ミノリはようやくフフッと笑みを零した。
「エリーゼさん、この町のことをよく『田舎だ』って言ってますけど、この間、わたしの作った服を着て歩いたら町の物産品の宣伝になるかしら、ってお話してたんですよ。なんだか嬉しかったです」
 幸せそうにふわりと微笑む妻につられ、クラウスの顔も自ずと綻ぶ。
「彼女も彼女なりに、この町のことを考えてくれているんだな」
「そうみたいです」
 会話を切って、美味しそうにシチューを啜るミノリ。その姿を自身の夫が鼻の下を伸ばして見詰めていることに、彼女は微塵も気付いていない。
「五つ星のリネンを使ってるから素材の品質は保障できますし、着た感じも問題なさそうなので、今度エリーゼさんに見てもらおうと思います」
「お眼鏡に適うといいな」
「はいっ」
 
 そんなやり取りを続けつつ、結局、二人は普段通りの和やかな雰囲気で夕餉の時間を終えた。
 ミノリがメイド服で過ごしているという奇妙な状況に変わりはなかったが、その後の会話の中で一方は「動きやすさを確認するため」、もう一方は「着ているところが見たかっただけ」という大義名分を樹立し、「お互いに」腹積もりを隠してごく自然に振る舞っていた。
「皿はオレが洗っておくから、先に風呂へ入ってくるといい」
 クラウスがてきぱきとテーブルの上を片しながら言う。しかしミノリは、ほんのり頬を染めて首を横に振った。
「いえ、わたしは夕方にシャワーを浴びたので……。クラウスが入ってきていいですよ」
 促しつつ、慌てて片付けを手伝い始める。クラウスは「そうか」と応じ、手を止めた。
「悪いな、料理も皿洗いも任せちまって」
「気にしないでください。もうちょっと動いてみて、袖口の丈夫さも確かめたいんです」
 軽く腕を上げて袖の脇下部分を引っ張って見せるミノリを、クラウスは微笑ましく眺める。自分に気を遣わせないよう理由を後付けたと見えるが、口振りからして実際に確認もするのだろう。今回は顔見知りとの取引ということで、より慎重になっているのかもしれない。仕事に対する真摯な姿勢は見習わないとな、と彼は自戒した。
 が、そんなまっとうな事を考えている裏では、風呂上がりのお愉しみに対する期待感をじわじわと高めていた。
 
 
「上がったぞ」
 浴室を出たクラウスは部屋を横切りながら、ソファに座る妻へ声をかけた。読みかけの本から顔を離した彼女は未だメイド服のまま、座面に上がってこぢんまりと斜め座りをしている。ミニスカートの裾から覗く膝をもぞりと動かす仕草が、幼さの残る外見に反して仄かに艶っぽい。
 クラウスがミノリの隣に腰を下ろそうとすると、彼女は無言で視線を上に投げ、パタンと本を閉じて脇に追い遣った。その動きに違和感を覚え、密かに動揺するクラウス。いつもなら、本や雑誌を頑なに手放そうとしない彼女を上手く蕩かして、手の中の物をそれとなく取り上げるところから始めるものを。そもそも、「メイド服を着てもいい」と言い出したのもミノリだ。今日はどこか様子がおかしいと身構えつつも、クラウスは彼女の肩に手を回し、軽く抱き寄せた。
 優しく髪を梳かれ、彼の肩に頭を預けるミノリ。クラウスがチラと表情を伺うと、半分閉じられた瞳を縁取る長い睫毛が視界に入った。
「よく、その服を着てくれる気になったな。前のドレスの時は、あんなに嫌がっていたのに」
 探りを入れてみれば、ミノリは少し口を噤んだ後で、ぼそぼそと答える。
「クラウスしか見てませんし、いいかな、って……」
 そう言ってじわりと頬を染め、面を伏せて再び両腿を擦り動かした。その愛らしい姿態にクラウスが口元を緩めたまま数秒ほど黙っていると、ミノリが恥ずかしさを誤魔化すように硬い笑顔をつくり、上目遣いで夫を見上げる。
「あっ、あの。でも、やっぱりミニスカートって、脚がスースーして変な感じです」
 天然でこれをやってのけるのだから敵わないと思いつつ、クラウスは亜麻色の髪に触れていた手を、彼女の体の線に沿って、そろりと脚へ移動させた。指先が素肌に触れた瞬間、腕の中で華奢な肩がぴくんと跳ねる。
「本当だ。少し冷えてるな」
 腿の露出部を温めるように掌を添えながら耳元で囁けば、常套手段の効果はてき面で。ミノリは一瞬にして上気し、俯く。首尾は上々とばかりに、仕掛けた側は口角を上げた。
 クラウスが自身の両足を閉じ、軽く膝を叩いて「おいで」と誘うと、ミノリは恥じらいながらも勝手知ったる風で躙り寄り、背を預けてその上に座ろうとする―が、クラウスは彼女のウエストに手を添え、くるりと半回転させて向い合せに腰を下ろさせた。
 二人の胸の間には、拳三つ分ほどの距離。甘い緊張感が満ちた空気の中、二人はおもむろに見詰め合う。
 そうしてしばらく経った後、ささやかな衣擦れの音と共に動いたのは、ミノリだった。彼女は夫の肩へ静かに手を置くと、口端にそっと顔を近付け、柔らかく啄んだ。
 想定外の行動に、クラウスの心臓がドクンと跳ねる。彼は、自身の体温が急激に上昇するのを感じた。
「今日は、やけに積極的だな」
 荒くなりかけた息をやっと抑えて言葉を絞り出し、ミノリの背中に腕を回す。抱き締めると同時に触れ合った、互いの頬が熱い。暫時待っても返事がなかったので、クラウスは彼女に倣い、しかしわざと音を立てて桜色の頬に口付けた。
「……ミノリ」
 小さな耳元で吐息混じりに名を紡ぐと、白いパフ・スリーブが微かに震える。愛しさが込み上げ、衝動に任せて彼女を襲いたいと体は叫ぶが、ぐっと抑えて右手で優しく背中を撫でた。そうして何往復かしたところで、今度はその手を脚へ持っていき、ミニスカートの裾を押し除けて太腿をさすり始める。すべすべと滑らかな感触が、掌に心地良い。
 ミノリはクラウスの両肩を掴んで彼の胸に張り付いたまま、無言を貫いている。しかし徐々にリズムの乱れていく微かな息遣いが、彼女の感情と快感の高まりを言葉以上に物語っていた。その音を間近で捉えたクラウスは、よりいっそう興奮を促され、ミノリのショーツのサイド部分に親指を掛けた。
 降ろそうとしても今の体勢のままでは無理な事は解っていたので、少しの間、焦らすようにウエストゴムを弄ぶ。パチン、と爪弾くと同時に、ミノリの体もびくんと震えた。クラウスは密やかに嗤いつつ、ようやく、前面のレースに沿って指先をクロッチ部分へと移動させる。そこは意外にも、既に湿り気を帯びていた。
「……濡れてる」
 クラウスが何の気なく実況すれば、彼の肩へ載せられた手にきゅっと力が入る。
「だって、クラウスが触るから……」
 言い訳とも不平ともつかない、ミノリの発言。僅かに震えるその声が、彼女の夫の悪戯心を刺激する。彼はニヤリと意地悪い笑みを浮かべながら、染みの中心に形作られた溝に沿って、軽く中指を這わせた。
「背中や太腿を少しさすられたくらいで『こう』なるのか?」
「……」
 返事はない。しかし、クラウスは構わず続ける。
「いつから『こう』なってた? その服を着た時からか?」
 彼の肩に顔を押し付けたまま、ミノリがふるふると首を横に振った。時を同じくしてクロッチがずらされ、彼女の敏感な部分にクラウスの指が直接触れる。ごくささやかな刺激だったが、ミノリは思わず「んっ」と小さく声を漏らした。
「最初から誘ってたのか? それならそうと言ってくれれば、すぐにでも愉しませて貰ったんだが……」
「ちが……ぅ」
 否定の末尾で、するりと内部に侵入してくる異物。既に準備が整っていたそこは、いとも容易く彼の指を通してしまった。内壁をツンツンと突かれ、ミノリの息が荒くなる。
「ん? 違うのか?」
 クラウスは「我ながらオッサン臭い」と心の内で自嘲したが、妻の反応があまりに可愛いので止められなかった。更に興に乗り、充血した芽を親指の腹で剥きながら追及を続ける。
「何が違うんだ?」
 弱い部分を弄ばれて小刻みに肩を震わせ、落ち着きなく下半身を揺らすミノリ。時折漏れるくぐもった声が、悪い大人を大いに煽る。が、調子付くのもこれまでとばかりに、ミノリが彼の手首を掴んで静止させた。ようやく顔を上げた彼女は潤んだ瞳を向け、拗ねた声音で抗議する。
「……いじわる」
 クラウスにとっては上々の反応だった。口にした当人は、心から恨み言を述べたつもりでいたのだが。
 悪戯の結果に満足したクラウスは自由な方の手でミノリの後頭部を支え、包み込むようなキスを仕掛ける。彼女の唇を撫でるように舌先を巡らせると、一旦顔を離し、間髪入れずに今度はその舌を口の中へ差し入れる。ミノリはミノリで大人しく目を瞑り、顎の力を抜いて彼の動きに応じた。
 
 未だ初々しさの残る妻の、上も下もすっかり蕩かしきったところで、クラウスはようやく彼女の中から二本の指を引き抜く。ほぼ一方的に攻められ続けていたミノリは切なげに熱い息を吐きながら、力なく夫の胸へしがみついた。
「さて、どうして欲しい?」
 あくまで優しく、かつ意地悪く質問され、黙って首を横に振るミノリ。「聞かなくていいから好きにして」とつっけんどんに返したかったが、甘い疲労感と恥ずかしさとでままならない。しかし端から返答など期待していなかったクラウスは、構わず「希望がないなら、」と続ける。
「このまま、ここでしようか」
 そう言ってミノリの両肩を持ってそっと引き離し、二人の間に空間を作ると、自身の寝間着のズボンを下着ごと腿まで下ろした。既に準備万端と主張する彼の下半身を、ミノリは呆けた表情で見下ろして、元々赤くなっていた頬をいっそう赤らめる。目を逸らしつつ、黙って頷くので精一杯だった。
 難なく同意を得たクラウスは、戸惑うミノリのショーツに手を掛け、ほんの少しずり下ろす。しかし当然、ミノリが彼の両足の上に跨った状態では、脱がせられない。クラウスは伏しがちなチョコレート色の瞳を覗き込み、次の行動を促すように薄く微笑みかけた。
 ミノリは彼の両肩を支えにして素直に膝立ちすると、黙って下着を下ろさせる。布が膝付近に達すれば、自ら片脚を浮かせて協力した。一方の足を抜いたところで反対側もと動きかけるが、ここで手を止めるクラウス。ミノリの片脚にショーツを残したまま、彼は硬くなった分身の根元を軽く摘まんで立たせ、「後は分かるよな?」とでも言いたげな顔でミノリを見上げた。
 ミノリはきゅっと唇を引き結び、恐る恐る腰を落としていく。いくらか屈んだところで、股の間にひた、と生暖かいものの当たる感触が。それ以上動くことを躊躇していると、そこにあったものが、出し抜けにぬるりと動かされた。
「っん……」
 ミノリは思わず声を上げ、クラウスの肩を掴む手に力を入れる。彼女を刺激した張本人はその様相をいかにも楽しげに眺めながら、容赦なく自身の先端をミノリの割れ目に沿って往復させた。敏感な部分への攻勢に耐え切れない体からは徐々に力が抜け、自然に腰が落ちてくる。するとクラウスは、すかさず棒の先を彼女の中心に定めてあてがった。
 観念したミノリは「ん……うぅ……」と微かに呻きつつ腰を沈めて夫に体を預ける。クラウスの太腿の上に彼女の臀部が載る頃には、二人は完全に一つになっていた。
 はあ、と熱の籠った溜め息を一つ吐くクラウスと、そんな彼にしがみつき、ふぅ、ふぅ、と小刻みに息を漏らすミノリ。
「……ミノリ」
 耳元で、心なしか切なげな優しい低音が響く。同時に大きな掌が、さわ、と彼女の脇に触れた。その手に促され、ミノリは重そうに上体を起こす。
 しばし見詰め合う二人。
 先にクラウスが視線を外し、メイド服姿の愛妻の頭頂からスカートの裾までを、舐めるように眺め回した。
「……可愛いな」
 いきなりストレートに褒められ、ミノリは恥ずかしそうに夫から目を逸らす。対するクラウスは薄い笑みを浮かべて、ミノリの肩に掛かる亜麻色の髪を梳いた。彼はその手をそのままミノリの首元へ持っていき、白いシャツのボタンを上から三つ、プチプチと無言で外す。蝶ネクタイから襟を引き抜くと、胸元を開いて満足げに鎖骨をなぞった。
 その繊細な指の動きに、ミノリの肩がぴくんと震える。
「あっ……あの……動いたほうがいいですか?」
 動揺し過ぎて、上擦った声で尋ねてしまう。珍しく積極的な彼女の発言に、今度はクラウスがぴくりと反応する番だった。厳密には、彼の「下半身」が。
「そうだな」
 短く答えると、彼はソファの背に預けっ放しだった上体を静かに起こす。そしてミノリの腰に手を添え、チュッと音を立てて彼女の頬にキスした。
「動けるか?」
 確認の質問を受けてからミノリは少し後悔したが、今更「いいえ」とも言えず。
「……はい」
 肯定し、もぞ、と腰を動かした。再びクラウスの両肩へ手を置くと、ぎこちなく上下運動を始める。中が擦れる度、リズミカルに「んっ、んっ」と声を漏らしはするものの、未だ自ら動くことに慣れないのか、その表情に快楽の色は見えない。むしろ辛そうな印象さえ受ける。一方クラウスは、必死で奉仕する彼女の姿と程よい締め付け感に十分満足していたが、さすがに見兼ねて「ミノリ、ちょっと待て」と静止した。幾度か繰り返しているこのパターンに、フッと笑みを零しつつ。
 ぺたんと腰を落とし、荒い息を吐くミノリ。クラウスはその頭を二回ほど優しく撫でた後、彼女の太腿を軽く持ち上げ、結合はしたままで両膝を立てさせる。彼女の腰に手を戻すと軽く臀部を引き寄せ、ソファの弾性を利用して、一度、下から激しく突き上げた。
「っあん……!」
 瞬間、嬌声が上がる。最奥を一突きされたミノリは、衝撃にびくんと全身を跳ねさせた。その後、余波にふるふると身を震わせながら、耳まで真っ赤に染まり、慌てて口を押える。
「強すぎたか?」
 余裕ぶって、しれっと問うクラウス。ミノリは物言いたげな顔で彼の瞳を真っ直ぐ見据え、こくんと頷く。それでも相手は怯まず、かえって楽しげに「それじゃ、」と呟き、今度は赤子をあやすように優しく、ミノリの下半身を上下に揺すり始めた。口を覆った手の隙間から、「んっ……あぁ……ん」と、再び可愛らしい囀りが漏れ始める。
 クラウスは彼女の邪魔な手を退けると、吸い付くように唇を重ねた。お互い別の動きも兼ねているため、絡め合う舌の間からは吐息と唾液とが余計に零れ落ちる。しかし興奮している彼は、構わずミノリの唇を貪り続けた。
 悦い場所への甘い刺激と濃密なキスに恍惚とした表情で浸っていたミノリだったが、しばらくして彼の動きに慣れてくると、広い肩に置かれた手で寝間着の生地をきゅっと握り締め、自分から腰を揺らし始める。それに気付いたクラウスは、元々緩慢だった動きを更に緩めた。
「……ミノリ」
 愛おしさのままに名前を呟いても返事はなかったが、代わりに高い啼き声が彼の聴覚を愉しませる。コツを掴み、感じる場所を自ら彼のもので擦りつつ動きを速めていくミノリの淫靡な姿を眼前に置き、クラウスは征服欲を満たすと共に、ゾクゾクするような快感を覚えた。
 ギシッ、ギシッとソファのスプリングを軋ませ、徐々に昇り詰めていく二人。特に危うかったのはクラウスの方で、彼は眉根に皺を寄せ、妻が先に達するまで耐えた。鼻先で揺れる瑞々しい果実を目の当たりにしながら興奮を抑えるのは、至難の業であったが。
 不意に、ミノリがクラウスの肩をぎゅっと掴んで、動きと嬌声を止める。同時に、全身の筋肉をびくびくと強張らせた。対してクラウスは、限界まで膨張しきった分身が締め付けられるのを感じ取り、「待ってました」とばかりに一方的に腰を振り始める。疲れきってぐったりしている妻の耳元で、口先だけは「悪い」と囁いてから。
「あっ……ふ……ぁ」
 一度達しているミノリは涙ぐんだ虚ろな瞳で、気だるげな声を漏らす。その音を心地良く聴きながら、クラウスもすぐに絶頂を迎えた。
 
 
 自身の寝間着と「使用済みの」メイド服を洗濯籠に放り込み、彼は穏やかな表情で「ふぅ」と溜め息を吐いた。浴室に入り、首から下にシャワーの湯を浴びながら、幸福感に浸る。軽く汗を流し終え、キュッと蛇口を捻ったところで、彼は明日仕上げねばならない帳面のことをうっかり思い出してしまい、気分を一転させて「はぁ」と溜め息を吐くのだった。
 
 

三十六話 焼きいも天国

 
 
 ひだまり牧場の北側に並び立つ、四棟のビニールハウス。「秋の太陽」が設置されたそれらの中に植えられているのは、さつまいも、さつまいも、さつまいもだった。
「何度見ても見事なものだな……」
 クラウスが、呆れたように一人ごちる。彼の背後には、もうもうと白い煙を上げる大きな枯葉の山が四つ。辺りに立ち込める空気は大変焦げ臭い。「これは帰ってすぐにコートとベストを洗濯しないとだな」などとぼんやり考えていれば、東の方角からパタパタと元気な足音が聞こえてきた。
 相手は愛妻だと決めてかかり、クラウスは嬉々として振り返る。
「早かったな、まだ十分くらいしか……」
 言いかけて、途中で眉尻を下げた。
「……何だ、フリッツか」
「『何だ』はねーだろ、オッサン!」
「オッサン」の眼前に急ブレーキで立ち止まったのは、山のふもとで牧場を経営している少年だった。両手を腰に当てて口を尖らせた彼は、一仕事してきた後なのであろう、頬に泥汚れを付けたままだ。クラウスはやれやれといった様子でベストの胸ポケットから紺色のハンカチを取り出すと、「顔に泥が付いてる」と指摘しながら、それを拭ってやった。
「……よし、落ちたぞ」
「サンキュー!」
 礼を言うが早いか、落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回すフリッツ。周辺に目当ての人物がいないと知るや、彼は不思議そうに尋ねる。
「あれ、ミノリはいないのか?」
「あいつなら、裁縫工房にいると思うぞ」
「そっか……なんだ、今日は別の仕事してるんだ」
 そう呟いて、フリッツはしゅんと肩を落とした。
「何か用でもあったのか?」
 クラウスが何気なく問えば、彼は気まずそうに頭を掻く。
「えーっと……いや、大したことじゃないんだけどさ」
 会話を切った二人の間で、パチパチと焚き火が爆ぜた。
「……オッサン、『これ』の番を頼まれてんのか?」
「ああ」
「じゃあ、ミノリから何か聞いてない?」
「いや、特に何も言われていないが」
「そっか……」
 フリッツは、再び残念そうに肩を落とす。珍しく歯切れの悪い言動を繰り返す彼が、クラウスは段々と心配になってきた。
「ミノリへの言伝があれば預かるし、オレで用が足りるなら、言ってくれて構わないぞ?」
「いやっ、いいんだ。ホントに大したことじゃ―」
 彼がぶんぶん頭を振りながら断りかけたところで、不意に「グ~ッ」という間の抜けた音が響いた。一瞬で顔を真っ赤に染めるフリッツ。
「あー……アハハ……」
 何故か誤魔化し笑う少年をクラウスは訝しげに見下ろしたが、ふと、音の正体と、彼がこのひだまり牧場を訪れた目的に考え至り、図らずも「プッ」と吹き出した。
「そうか……焼きいもを貰いに来たのか」
 クラウスが口元を覆い隠してクックッと忍び笑いつつ推察の結果を述べると、フリッツは大慌てでそれを否定しにかかる。
「ちっ、違う違う! 煙が上がってる時にたまたま遊びに来ると、いつもミノリがくれるから……!」
 なるほど煙を目印にやって来るのか、何も違わないじゃないか、とクラウスは思ったが、尚も笑い続けるだけに留めて、追及はしなかった。ひとしきり腹を抱えた後、彼は「ふぅ」と呼吸を落ち着け、冷静に考える。
(しかし分けてやりたいのは山々だが、ミノリのいないところで勝手に渡していいものか……)
 目の前の焚き火の中にあるのは、大量の焼きいもだ。これらが新たな貿易国を呼び込むために必要な出荷物であるということは、彼も承知していた。
(だがフリッツの言う通り、あいつなら気前良くくれてやるんだろうな)
 クラウスは多少迷ったものの、万一不都合があれば何かしら手伝って埋め合わせることに決め、背後のビニールハウスに立てかけてあったピッチフォークで手近な山を軽く引っ掻いた。一掻きしただけで、アルミホイルに包まれた塊がゴロゴロと転がり出てくる。
「まだ、少し早いかもしれないが……」
 そう言いながら彼は、より直火に近い所に埋まっていたと思しき一つをフォークの先で器用に弾き出し、残りを手早く元の山へ埋め戻した。僅かに焦げ目の付いた銀の塊を指先でちょんちょんと突いて熱さを確認した上で、それを手近なところに落ちていた枯れ枝に刺してフリッツに差し出す。
「ほら。熱いから気を付けろよ」
「えっ、貰っていいのか!? ありがとう、オッサン!」
 屈託ない笑顔で礼を言われたクラウスは、「自分が良い事をしたような気分になってしまうな」と、同時に「『オッサン』は余計だ」と思いつつ、苦笑った。
「オレへの礼はいいから、後でミノリに言っておけ」
 
 
 フリッツは熱々の焼きいもをその場で頬張ると、「また近い内に来る」と言い残し、ミノリを待たずにさっさと帰ってしまった。彼は彼で忙しいのだろうが、それにしても現金な奴だと、クラウスは呆れ笑いでその背中を見送った。
 一息吐き、ハウスの横へ適当に積まれていた出荷用の木箱に腰かける。懐中時計を確認すれば、彼が火の番を始めてから三十分が経過していた。
 背後の針葉樹を揺らして吹き抜ける秋風の音に耳を傾けつつ街の方角を眺めていると、再び、動く人影が目に入る。遠過ぎて姿は良く見えなかったが、南側のゲートから入ってきたことを考えると、おそらくミノリではないのだろう。相手は、子供を二人連れている。この辺りで遊んでいる子供と言えば、メルティとルッツくらいしかいない。
 近づくにつれ姿がはっきりとしてきた訪問者の正体は、リコリスだった。そして彼女の周囲をちょろちょろしていたのは、案の定、樫の木タウンの数少ない年少組。
「こんにちは、クラウスさん!」
 真っ先に駆け寄ってきたメルティが、元気良く挨拶した。その後ろで、ルッツとリコリスも控えめに「こんにちは」と言う。クラウスも、穏やかに微笑んでそれに応えた。
 焚き火の傍へ来るなり、リコリスは先刻のフリッツ同様、ひとしきり辺りを見回す。
「ミノリはいないのか?」
 クラウスにとっては、本日二度目の質問だ。
「ああ。あいつなら、裁縫工房で仕事があるそうだ。あと三十分もしたら戻ると思うぞ」
「そうか。また牧場周辺を調査させて貰ったから、帰る前に話でも、と思ったんだが……忙しいなら、いい」
「では、また」と言って早々に踵を返そうとしたリコリスの陰から「えー!?」と声を上げたのは、メルティ。
「残念だなぁ。この前みたいに、焼きいももらえるかなって思ってたんだけど……」
 そう言って彼女は、チラ、と上目遣いにクラウスを仰いだ。あまりに直球で可愛らしいおねだりに、クラウスはフッと笑いを零す。焚き火で冷えた手を温めながら半ば空気と化していたルッツは、そんな二人を代わる代わる見上げ、あたふたし始めた。
「だ、ダメだって、メルティ。自分から欲しがったりしたら、失礼だよ」
 小声で窘めるが、相手の少女は全く聞く耳を持たない。彼らの脇で一連のやり取りをぽかんと聞いていたリコリスも、呆れ笑いを浮かべて肩を竦めた。
「お前たちは、だから突然『私の作業を見学したい』なんて言い出したのか?」
「いえっ……あの、ボクは、純粋な興味からですね……」
 言い訳は相棒に任せ、メルティは尚も幼気な瞳で「ね? 二人で一個だけ!」とクラウスにダメ押しを仕掛ける。無論、最初からそのつもりでいたクラウスは「末恐ろしい女の子だ」と心の中で笑いつつ、フリッツにしてやったのと同様に、枯葉の中からさつまいものホイル包みを二つ取り出した。
「夕飯前だから、子供たちは二人で一つだぞ。リコリスも、良かったら持っていくといい」
 念願叶ったメルティは「やったー!」と飛び跳ね、ルッツとリコリスは申し訳なさそうに、しかし嬉しそうに頭を下げる。
「クラウスさん、ありがとう!」
「すみません。ありがとうございます」
「私まで、すまないな。後でミノリにも礼を言っておく」
「ああ。そうして貰えると、あいつも喜ぶだろう」
 大人たちが静かに言葉を交わす横で、メルティとルッツは早々に牧場の東へ向かって駆け出していった。しばらく行ったところで少年だけがピタッと立ち止まり、振り返って大声で叫ぶ。
「クラウスさーん! 水道、お借りしていきまーす!」
 土地の住人は声を返す代わりに、軽く手を降って承諾の意を示した。
「子供は元気だな」
 小さな背中を微笑ましく見送りつつクラウスがしみじみと呟けば、フフッと笑うリコリス。
「そうだな。だが、ミノリも似たようなものだろう?」
 彼女の的を射た指摘に、クラウスも一笑して「違いない」と応えた。
「それじゃ、私もそろそろお暇するよ。ミノリにもよろしく頼む」
「ああ。また、お茶でもしに寄ってくれ」
 
 
 リコリスたちが帰ってから、三十分近く経った頃。これで本日の来客は終わりかと思いきや、またしても牧場を訪れる人物があった。時刻は五時半。日はすっかり傾き、枯葉の山だった場所も今や灰ばかりで、火も消えかけている。
 一時間ちょっとで戻ると言い置いていたミノリが未だ戻らない中、やって来たのはこの街が誇る女傑―ベロニカだった。クラウスは周辺の小枝を拾っては焚き火にくべて暇を潰していたが、彼女の姿を認めると、パンパンと手の汚れをはたいて立ち上がる。
「こんばんは、お疲れ様です。視察ですか?」
「ええ、こんばんは。お邪魔しますね」
 そう言って彼女は、ぐるりと辺りを見回した。そして再び目の前の男性へ視線を戻すと、先の二人同様に尋ねる。
「ミノリさんはお留守ですか?」
 クラウスは、思わず苦笑した。
「いや、隣の裁縫工房にいると思うが……。呼んできましょうか?」
「いえ、それでしたら結構です。煙が上がっていたので、てっきりこの周辺にいるのかと……」
「今は、オレが火の番を代わっていまして」
「そうでしたか」
 短く応えて、ベロニカが一旦言葉を切る。彼女は少し疲れた横顔で遠く西の空を見上げ、ふう、と小さく一息吐いた。そのまま数秒ほど黙考していたが、やがてクラウスに向き直り、会話を再開する。
「こちらの牧場には、何かお変わりありませんか?」
「はい、特には」
「そうですか。それは良かったです」
 そう言うと彼女は、フフッと微笑んだ。
「近頃、ミノリさんには本当に頑張っていただいているんですよ。おかげさまで、もうすぐ全ての周辺国を誘致できそうです」
 出し抜けに妻を褒められたクラウスは、誇らしさを感じて自然と頬を緩める。
「この街も、どんどん賑やかになるな」
「ええ、本当に。三年前までの寂れ具合が嘘のようです」
 そんな調子で、焚き火を挟んで穏やかに世間話をしていると、ふと、遠くから軽快に駆ける靴音が聞こえてきた。気付いた二人が音のする方を見れば、そこには慌てた様子で走り寄ってくるミノリの姿があった。
「ごめんなさい、すっかり遅くなっちゃいました」
 はあはあと肩で息をする彼女を見下ろし、クラウスは傍目にも分かるほど嬉しそうに微笑む。
「いや、大丈夫だ。作業は終わったのか?」
「はい。金リネンの染色に、思ったより時間がかかっちゃいまして……。でも、クラウスのおかげで、今日の分は全部終わりましたよ」
 ミノリは遅くなった理由をあせあせと説明した後、隣に立つベロニカへ向き直った。
「こんばんは、ベロニカさん。見回りですか?」
「ええ。ミノリさんには、何かお変わりありませんか?」
 明快に「はい」と答えるミノリ。それから少し間を置いて、思い出したように「あ、そうだ!」と続ける。
「今日作った焼きいもと服を全部出荷したら、料理と服の出荷数が、ベロニカさんの言ってた数になりますよ!」
 嬉々として語られた彼女の言葉に、普段は冷静沈着なベロニカも、この時ばかりは子供のようにぱあっと顔を輝かせた。無理もない、その報告こそ彼女がここ数週間心待ちにしていたものであり、今は亡き夫と共に長年抱き続けていた夢を叶えるための重要な鍵だったのだから。
「それは素晴らしい! ミノリさん、本当にありがとうございます」
 パン、と一つ手を叩きつつ、ベロニカが礼を述べた。それに対し、ミノリは照れ笑いを浮かべて「明日のお昼前に、出荷してきますね」と返す。妻との日常会話で大体の事情を知っていたクラウスも、「二人とも、おめでとう」と祝福した。
「ありがとうございます。今回の出荷実績をもって氷の国と交渉しますので、無事に誘致できたら近日中にお祝いの式典を催したいと考えています。その際はミノリさんも功労者として、ぜひご参加くださいね」
「はいっ! 楽しみにしてます」
 必要な事柄を伝え終えると、ベロニカは心なしかそわそわした様子で「では、また」と踵を返す。その背に、ミノリは慌てて「ちょっと待ってください」と声をかけた。
 さっと屈み込んで手にしたのは、ちょうど良い具合に冷めた、二つの焼きいも。
「あの、良かったらこれ、持って行ってください。帰る頃には冷めちゃうかもしれませんが、甘煮にしてもおいしいと思うので……」
 
 
 ベロニカの姿が黒い門の向こうへ消えた後で、ミノリは改めてクラウスに頭を下げる。
「今日は、ありがとうございました。ここを片付けたら、急いでお夕飯作りますね」
「いや、オレが先に帰って作ろう。……ああ、それと、お前がいない間にフリッツとリコリスと、ちびっ子二人が遊びに来てな」
 その報告に、ピッチフォークで灰の山を掻き回し始めていたミノリは「えっ」と声を上げて手を止めた。
「すみませんでした。呼んでくれてよかったんですけど……」
「いや、みんな遊びに寄っただけだそうだ。それで、お前がいつもそうしていると聞いたから、全員に焼きいもを持たせたんだが……良かったか?」
 少し申し訳なさげに尋ねたクラウスへ、ミノリは「もちろんです!」と答える。
「ありがとうございます。お外で焼きいもを焼いてると様子を見に来てくれる人が結構いるので、お裾分けしてるんですよ。最初に言っておけばよかったですね」
「そうか。なら良かった」
 自身の判断が間違っていなかったことにホッと胸を撫で下ろしたクラウスは、自宅の方角へ足を向けた。
「それじゃ、先に戻ってる」
「はい。わたしも、あと三十分くらいしたら帰ります」
 ミノリはそう言うと、灰の上へ大量に転がっているさつまいものホイル包みを見下ろした。
 
 

三十七話 貿易都市の祝賀会

 
 
 右手に持ったマイクと左手に携えたワイン入りのグラスが、同期して震える。ミノリは「ヒュッ」と小さく息を吸い込むと、その勢いでようやっと声を絞り出した……が。
「えーっと……貿易国の皆さん。本日は、お集まりいただきまして、ありがとうございます。……また、日頃からのお取引にも、深く感謝しちぇっ……し……しております……」
 噛んだ。恥ずかしさで、彼女の顔がかあっと熱くなる。反して、背筋には冷たい汗が滲んだ。
 正直に言えば、今すぐにでもこの場を逃げ出したい気持ちで一杯だった。しかしそんなわけにもいかず、ふぅ、と小さく息を吐くに留めて口上を続ける。
「あー……えー……先ほど、ベロニカさんから、ご紹介に預かりました、ミノリです……。ベロニカさん、目標の……いえ、えっと……樫の木タウンを……その……立派な、貿易都市にするという、目標の達成、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 ベロニカが、にこやかに返礼した。その様子に安堵し、ミノリも「エヘヘ」と笑顔を返す。そして、今度は少し……本当に少しだけ、肩の力を抜いて語り始めた。
「えーっと……わたしたち牧場主も、同じ目標を目指して、今日まで、がんばってきました。……わたしも、微力ながら、ご協力させていただきましたが……それも、貿易商の皆様や、他の牧場主のみんなや、町のみなさんの……えっと……お力添え、あってのことだと思っています。……えー……えーっと……」
 お世辞にも上手いとは言えない、「えー」の多過ぎるスピーチである。この間、七か国の貿易商人を筆頭として、樫の木タウンのギルドマスター、三人の牧場主、そして、貿易ステーションに集った住民一同はグラス片手に棒立ちになったまま、固唾を飲んで檀上の彼女を見守っていた……のだが、とうとう痺れを切らしたのは、お馴染みフリッツ。
「もういいだろ!? ミノリ、乾杯、乾杯!!」
「えっ!? あっ……あっ、『乾杯』!!」
 不意に飛んできた横槍をまともに食らったミノリは考えるより早く発声してしまい、ワンテンポ遅れて、慌ててグラスを掲げた。
 
 
 グラスの中身を一瞬で飲み干し、「ありがとうございました」とだけ言っておぼつかない足取りで壇上から降ると、拍手喝采を受けながらも這う這うの体で真っ直ぐに向かったのは、もちろん、夫の元。
「お疲れ、ミノリ」
 穏やかな微笑みに迎えられ、ミノリはようやく脱力して「はぁー……」と盛大に溜息を吐いた。
「疲れました……」
 その頭を、クラウスが「よしよし」と撫でる。
「ほら、二杯目を注いでやるからグラスを出せ」
「ありがとうございます」
 ミノリの牧場のラベルがついた瓶から深紅の液体がなみなみと注がれ終えた頃、ベロニカが静かに二人の傍へ寄って来た。彼女はクラウスに軽く会釈し、ミノリへ向き直る。
「乾杯のご発声、ありがとうございました。突然お願いしてしまって申し訳ありませんでした、事前にお伝えしておけば良かったですね」
 謝罪が胸に痛い。
「いえ……大丈夫です」
 ミノリは苦笑いで首を横に振った。
「急なお話でしたもんね、しょうがないですよ……」
 溜息交じりに言って、ワインを一口、口に含む。ベロニカも苦笑しつつ「そうですね」と頷いた。
「急に祝賀会を開くことになったとメノウから聞いて来てみたが、企画したのはベロニカさんじゃないのか?」
「いえ。言い出したのはフリッツです」
 ミノリは続けて、クラウスに説明する。朝一で、全貿易商人と牧場主を集めて内々に執り行った「貿易都市実現の祝賀会」のこと。その場でフリッツが、せっかく全ての貿易商人が一同に会したのだから、今夜、町民を集めてパーティーを開いたらどうか、と提案したこと。その話をベロニカの承諾も待たずにレーガへ通して、急遽、料理の用意を頼んだこと。たまたまそこへ居合わせたモーリスも乗り気になり、クロンとリーリエにパーティー用のお菓子作りをお願いしたこと。あっという間に話が広まり、若い女性陣総出でのお菓子作りが始まったこと。アンジェラを通してそれを知ったベロニカが、慌てて貿易商人たちを招待し、会場を設営したこと。午後の仕事を終え、三時頃、さあ本日分の出荷をしようと再び町へ降りてきたミノリが遅れてそれを知り、急いで牧場に戻って大量のワインボトルをステーションへ運び込んだこと。等々。
「オレは休日で一日山の上にいたから全く知らなかったが、なるほど、そんな経緯があったのか……」
 クラウスは心から同情した様子で「二人とも、お疲れ様」と労をねぎらった。
「気付かなくて悪かった。言ってくれれば手伝ったんだが……」
「いえ……わたしもベロニカさんも、本当に慌ててたんですよ。クラウスを探して、説明してる暇もなくて……こちらこそ、ごめんなさい」
 ミノリとベロニカが揃って、またまた「はぁ……」と大きな溜息を吐いた。が、ベロニカは思わず溜息を吐いてしまった自身に気付き、ハッと顔を上げる。そして疲労感を振り払うように、半ば無理矢理笑って見せた。
「……しかし皆さんのおかげで、急ごしらえにしては素晴らしい祝賀会になりました。貿易商人の方々も、『素晴らしい会に招待してくださってありがとうございます』と仰っていましたよ」
「そうですか。なら、よかったです」
 そんな穏やかな会話を楽しんでいたところへ、突如、嵐の中心フリッツが乗り込んできた。
「おーい、ミノリ! なんで今日の主役がこんな隅っこにいるんだ? ベロニカさんも!」
 露骨に「見つかってしまったか」とでも言いたげな顔をした二人を横目に、プッと噴き出すクラウス。直後、二人分の恨めしげな視線を受け、即行で「悪い」と謝る。
 フリッツは現れるなりミノリの腕を引っ掴んで、彼女の返事を待たず、強引にレーガや他の若者集団の輪の中へ引きずっていった。可哀想に、と思いながらもどうにもしてやれない彼女の夫は、とりあえず軽く片手を上げてそれを見送り、ワインを一口飲んだ。
 
「では、私も貿易商人の方々とお話がありますので……」
 そう言って去って行ったベロニカと入れ違いに、イリスとミステルがクラウスの元へやってきた。
「クラウス、これ美味しいわよ。お一ついかが?」
 イリスの差し出す皿にいくつか載ったサンドイッチの内一つを、クラウスは「ありがとう」と言ってつまむ。おそらく二人は、連れのいなくなってしまった自分を気に掛けてくれたのだろう。そう察したクラウスは、心の内でもう一度礼を言った。
「あの様子だと、今日はこの祝賀会が終わるまで、ミノリさんに相手をして貰えそうにはありませんね」
 クスリと笑って意地悪げに宣ったミステルへ、クラウスも余裕の笑みを返す。
「そうだな。『オレの妻』が大人気で、『夫として』鼻が高いよ」
「どうします? 若い鳶に攫われてしまったら」
「鳶も鷹が出て来たら逃げ出すだろう」
 そんなやり取りを傍で聞いていたイリスが、フフッと噴き出した。
「『鷹』……ね」
 自身の発言を繰り返され、少々気恥ずかしくなったクラウスは、僅かに頬を染めて「ゴホン」と咳払いをする。
「……まあ、冗談だ。それより、今日は二人とも時間があったのか?」
「都合をつけて来たわ。町を挙げてのお祝いだもの、参加させて貰わないわけにはいかないでしょう?」
「そうだな」
 そうこう話している間にも、クラウスはチラチラと「妻」の方を伺い続けていた。目線の先の彼女は再びフリッツに引き摺られ、今度は異国の商人の集団へ放り込まれたところだ。相手が見知った面々とは言え、ああも一気に大勢の相手をさせられては、人馴れていないミノリのことだ、さぞや疲れるだろう―と同情を禁じ得ない。
「我らが町の救世主も、大変ですね……」
「……だな」
「助けに行って差し上げないんですか?」
「今オレが出て行ったら、あからさまに助けに入ったみたいになっちまうだろう」
「それもそうですね」
 クラウスは渋い顔で、グラスの中身を一気に煽った。
「……折を見て助け舟を出すさ」
 その発言に、クスクスと笑うイリス。
「ミノリさんは良いわねえ、素敵な騎士様がいらして」
「お前らは、オレをからかいに来たのか……?」
「ええ」
「はい」
 同時に肯定され、クラウスはげんなりした様子で肩を落とした。
 
 
 七人の商人にぐるりと取り囲まれたミノリには、一寸の逃げ道もなかった。楽しくないわけではなかったが、正直に言えば、早く家へ帰って静かに晩酌を楽しみながら、祝いの余韻に浸っていたいところであった。しかしそんなわけにもいかず、愛想笑いを浮かべつつ控えめに会話へ参加する。
「この町の生産物は本当に品質が良くて高値で取引できるので、我々としても、どんどん出荷していただけると助かります」
「せやせや。『全部の国へ均一に』ってのは、ちぃと難しいやもしれまへんがな」
「ソコは、わたしたちの間でも上手く商品を回していきまショー」
「ミノリさん、これからもよろしく!!」
「はっ、はい。今後ともよろしくお願いします」
 律儀に腰を折るミノリを、ヨシノが「そんな畏まらんでええんやで。ワイら、そんな仲でもありまへんやろ」と豪快に笑う。すかさず、横からカトリナが「飲んで……」と、空になったミノリのグラスへワインを一杯に注いだ。
「ありがとうございます……」
「このワインも、わたしの国でとっても評判がいいんですよ~」
「フッ。ワインの本場である我が国でも、大変良い出来だと驚かれているよ」
「そ……そうですか……?」
 イオアネとエンニオからご自慢のワインに対する賞賛を受け、照れ笑いを浮かべるミノリ。そこへすかさず、横からカトリナが「飲んで……」とボトルを傾けてきた。ミノリは慌てて、グラスの中身を一気に飲み干す。と、間髪入れずにグラスが紅い液体で満たされた。
「お料理も……どうぞ……」
「あっ、ありがとうございます」
 二人が一口サイズのキッシュをもぐもぐやっている間にも、話は弾む。
「料理と言えば、焼きいも!! すごかった!!」
「あ~、あの量はすごかったですね~。甘くてほくほくだから、すぐ売れちゃいましたけど~」
「すみません……大量に作れるのが焼きいもくらいしかなかったので……」
「いいのいいの~、人気だったよ~。また出荷してね~」
 そこへすかさず、横からカトリナが「飲んで……」と新たなボトルを持って来た。ミノリは残ったワインを煽り、笑顔で「ありがとうございます」と言って、相手へグラスを差し出す。と、カトリナはすぐにそこへドバドバと酒を注ぎ入れた。
「さっきから気になっていましたが、お二人は酒豪なんですね……」
 ようやく、アーシェからツッコミが入る。出来上がり始めていたミノリは、緊張が解けた様子でふわりと笑った。
「酒豪だなんて、そんなことないですよ。お酒は大好きですけど」
「わたしの国では、普通の量……」
「オー、スゴイですねー! それじゃ、わたしももっといただきまショー!」
 ケネスも加わり、貿易商人との和やかな懇談の場は、今まさに国境を越えた酒盛りへ変貌を遂げようとしていた。
 
 
「折を見て助けに入る」とは、どの口が言ったものか。イリスとマリアンを相手にすっかり話し込んでいたクラウスは、しばらくの間、愛妻から目を離してしまっていた。彼がそのことに気付いたのは、貿易商人たちの集う場が何やら騒がしくなってきてからだった。同時に、独身男性の会へ席を移していたミステルが、わざわざ彼を呼びに来た。
「クラウスさん、そろそろミノリさんをお迎えに上がったほうがいいんじゃないですか?」
 他人事に淡泊なミステルが、あえて自分を呼びに戻った理由を察せない年長者ではない。クラウスは「そうだな、ありがとう」と短く礼を言い、足早にミノリの元へ向かった。異国の商人たちの輪へ近付くにつれ、耳に届く音声が明瞭になる。
「……やっぱり、スパイスは入ってますよね……」
「はい。そういう食文化ですから……」
 ミノリとアーシェが何やら話しているようだが、一聞したところ普通の会話のようだ。
「何を話しているんだ?」
 クラウスがミノリの背後からすっと話に加われば、途端に彼女は振り返り、瞳を輝かせた。
「あっ、クラウス! 今、シルクロードの国へ旅行に行った時の話をしていたんですよ」
 ニコニコ顔で、グラスに半分ほど残ったワインをぐいっと飲み干す。クラウスの額に、ほんのり冷や汗が滲んだ。
「ミノリ……それ、何杯目だ?」
「え? ……えっと……忘れました。何杯目くらいでしたっけ?」
 質問を流した先は、氷の国の商人。しかし、カトリナも首を横に振る。
「分からない……」
 彼女は言葉少なく答えて、目の前に集められた空の瓶を指差した。
「飲んだ……これくらい……」
 ざっと、十本はあるだろうか。クラウスの視界が、一瞬ぐらりと揺らいだ。彼は片手で額を抑える。
「……飲みすぎだ、ミノリ。お前はそれくらいにしておけ」
「え……? ……はい、じゃあ、これで終わりにしますね」
 そう言って彼女は、グラスの淵ギリギリまでワインを注いだ。クラウスは溜息を吐く。そんな彼へ、明らかに酔った様子のイオアネが、ゆらゆらとワイン瓶を揺すって見せる。
「クラウスさんも~、どうぞぉ~」
 クラウスは彼女の酌を、「ありがとう」と苦笑で受けた。
「ハーイ、オツマミもいかがデスカー?」
 顔を真っ赤にしたケネスが差し出した皿には、コショウの効いたピリ辛チキンが載っている。クラウスは「辛い物は苦手なんだ」と断りかけたが、先にケネスが「オ~」と言いながらその皿を引っ込めた。
「クラウスさん、コレはダメでしたね。モウシワケないデース」
「は……?」
 思わず、間の抜けた返事をしてしまう。「何故それを知っているんだ」と尋ねようとしたが、その後の会話から、すぐに答えは解った。
「フッ、誰にでも苦手なものはある。仕方がないさ」
「わたしも! 辛い物より、チーズが好き!」
「ちょっと待て、何の話を……」
「さっきね、シルクロードの国へ行った時、クラウスの苦手な辛い物ばっかりで大変だった、って話をしてたんですよ」
「……そうか」
 彼は商人たちの態度に得心がいった。少々複雑ではあったが、「辛い物が苦手だ」と吹聴された程度であればダメージは少ない。そう、「その程度であれば」。
「初めての旅行者がお腹を壊すのも、良くあることですよ……」
「!?」
 うんうん、と頷きながら発せられたアーシェの言葉に、目を丸くするクラウス。
「辛い物食べたら……誰でも、そうなる……」
「お腹壊したら、ヨーグルト!! よく効くよ!!」
「いや……何の話だ……?」
 一人置いてけぼりを食らったミノリの旦那様は、貿易商人たちから憐憫の込もった視線を一身に受け、頬を染めつつ焦った様子で頭を振る。
「フッ……大丈夫、ここだけの話にしておきますよ」
 助けを求めるようにミノリへ視線を向ければ、夫の顔色を見てようやく「まずいことを言ってしまった」と気付いた可愛い奥さんが、気まずげな表情でそろりとクラウスから目を逸らした。
「ワイの国には、『うぉっしゅれっと』っちゅー、尻に優しいハイテク商品もありまっせ~。ちぃとお高いですが、ひとつ、お取り寄せしまひょか?」
「ミノリ……お前、一体何を喋ったんだ……!?」
 
 

三十八話 樫の木チャンネル ~特番~

 
 
 昼下がりのレストラン。窓の外では一陣の木枯らしが口笛を吹きながら、カサカサと落ち葉たちを運んでいく。その音が鳴り止むと同時に。
「イヤですっ! 絶対、イヤですっ!!」
 店の外まで、ミノリの声が響いた。彼女はリーリエとレーガを相手に、ぶんぶん首を横に振る。
「いくらリーリエさんのお願いでも、こればっかりは、ムリです!」
 彼女の隣に座るリーリエは少し困った顔で、「えー?」と声を上げた。
「お願いっ! そんなこと言わずに、ね? みんな楽しみにしてるんだよ?」
 パンッ、と両手を合わせて懇願するが、やはりミノリは首を縦に振らない。
「ムリっ……ムリです! この前の、あのスピーチ……聞いてたでしょう……?」
「うん、聞いてたよ。上手だったじゃない。大丈夫だって、ちょっとカッシーさんの質問に答えるだけだから!」
「でっ、でも、テレビに出るんでしょう……? イヤですよ」
「たったの十五分くらいだよ?」
 もはや「無理」か「嫌」しか返答の言葉が見つからないミノリは、口を引き結んだまま激しく頭を振る。取り付く島のない彼女をどう説得すべきか、「うーん」と唸るリーリエへ助け舟を出したのは、キッチンカウンターの向こう側で二人のやり取りを聞いていたレーガだった。
「オレも出演したことあるけど、カッシーさんは気さくな人だし、ちょっと雑談する感じで取材を受けるだけだから、大したことないぜ?」
「その、『ちょっとの雑談』が、ムリなんです……!」
「あまり喋れなくても、カッシーさんが適当に間を埋めてくれるし……」
「ムリです! それでも絶対、ムリですっ!」
 意固地な牧場主を前に、二人は黙り込むしかなかった。彼女が断るであろうことは予想の範疇だったが、ここまで言っても拒否されるとは。
「あ……あの、もう、仕事へ戻っていいですか……? 必要なら、カッシーさんへはわたしから謝りますから……」
「うーん……そこまで言うなら、無理強いはできないかな……。ミノリさんが謝る必要はないよ、私たちがお願いする立場なんだもの」
「そうですか……。すみません、お役に立てなくて。では」
 そう言い残すと、ミノリは逃げるようにそそくさと店を出て行った。その後姿を見送った後、リーリエは「はぁ……」と溜息を吐く。
「どうしよう……。ジョルジュさんかエリーゼさんにお願いしてもいいんだけど、絶対『貿易都市化実現の立役者、話題の女牧場主はどんな人物なのか』って問い合わせが来ると思うんだよね……」
「そうだな。この町ではミノリだけ、樫の木タイムに出たことがないもんな。名前は町外でも結構知れてるのに」
「そうなんだよ……」
 再び嘆息するリーリエ。少しの間そのまま黙考していたが、突然何かを閃いたように、彼女はぱっと顔を上げた。
「クラウスさんからお願いして貰おうかな?」
 しかしレーガはその案に対し、静かに首を横に振る。
「無理無理。ミノリがあの様子じゃ、奥さんにベッタリ甘々のオッサンのことだから『やっぱり無理だった』って言われるだけだろ」
「だよねえ……。はぁ……」
 リーリエは、本日三度目の溜息を吐いた。
 
 
 しかし、後日。リーリエへの追い風は、思わぬ方向から吹いた。
 リーリエとカッシーが揃って、正式に「樫の木チャンネル特別番組『祝・貿易都市化実現特集』」の構想をベロニカへ話しに行ったところ。
「ゲストには、ミノリさんが適任だと思います」
 そう断言したのは、他ならぬギルドマスターだった。彼女の鶴の一声によってその日の内にギルドへ呼び出された女牧場主は、町の長とニコニコ顔のリーリエ、樫の木チャンネルの名物リポーターとを前にして、石の如く固まっていた。
「今後の展開も考えていかなければならない時ですし、ちょうど良い機会です。町の宣伝も兼ねて、ミノリさんにはぜひ、功労者としてご出演願います」
「私からも、ぜひお願いします! お時間は取らせませんから……」
「ほら、ね? だからミノリさん、よろしくね!」
 三対一の状況で、ミノリに逃げ場はなかった。彼女は「うーん」とひとしきり唸る……が、やがて渋々と首を縦に振った。
「……分かりました。取材、お受けします……」
 
 
 極小ローカル放送局のフットワークは軽く、収録はその翌日、翌々日の二日間で、あっという間に終わった。そして更に翌日には、早くも放送日。
 娯楽の少ない田舎町のことである、既に住民全員が件の番組のことを知っており、皆が皆、放送を楽しみにしていた。クラウスとて例外ではなく、こと自分の妻がゲスト出演するとあっては、朝一で空のビデオテープをテレビにセットし、リモコンの録画ボタンに手をかけて、ソファの特等席で放送が始まるのを今か今かと待っていた。
「見なくていいって言ったのに……」
 隣に腰掛けて口を尖らせる妻を他所に、彼は心なしかニヤつきながらモーニングティーを一口啜る。
「そう拗ねるな。もう出演しちまったんだ、今更言ったって仕方ないだろう」
「そうですけど……」
 ミノリは抗議を続ける代わりに、足をバタつかせた。そんな幼い仕草をクラウスが微笑ましく眺めている内に時計の針は朝の七時を差し、いよいよ初回放送時刻がやってくる。
「ほら、始まったぞ」
 すかさず録画ボタンを押しつつ彼がリモコンで差した先には、町の自然を背景として「樫の木チャンネル特別番組『祝・貿易都市化実現特集』」の文字が大々的に映し出された。まずはナレーターによる町の簡単な紹介から入り、リポーターのカッシーが現地での案内を始める。町の外から乗合馬車でやって来た彼女は貿易ステーションに降り立ち、貿易商人や住民たちとの雑談を交えながら、施設と店を一つ一つ回って紹介していった。
「ほらミノリ、オレたちの牧場が映ったぞ」
「…………」
 そこには、家畜の世話をするミノリの姿も映っていた。が、画面の中の彼女は真剣に仕事をする振りをして、それとなく牛たちの背後に回り込んでしまう。それがわざとであることを解っているクラウスは、フフッと笑った。
「顔が出たのは一瞬だったな」
「…………」
 ミノリは湯気が立ちそうなほど顔を真っ赤にし、ソファの上で両膝を抱えて縮こまった。
 高原の牧場を最後にカッシーの観光案内は終わり、今度は場所をギルドの休憩室に移す。そして、ギルドマスターとしてベロニカが紹介された。彼女はパネル等を用いて、町の歴史について分かりやすい解説を行なう。その堂々たる弁舌を目にしたミノリは、はぁ、と小さく溜息を吐いた。
「ベロニカさん、さすがですね……。この後がわたしだなんて、恥ずかしいです……」
 しかし画面に集中したいクラウスは相槌を打つことなく、無言で彼女の頭をポンポンと叩くに留めた。
 お手本のような一礼でベロニカが締めると、次はいよいよゲストとの対談コーナーだ。カメラが自宅へと移動し、向かい合って座るカッシーとミノリの二人を映し出す。
「今いるここがテレビに映っているなんて、妙な気分だな」
「そうですね…………」
 そして、画面の向こうのカッシーが口を開いた。
『それでは本日のゲスト、ミノリさんをご紹介します! 先程も高原の牧場で少しだけご紹介しましたが、ミノリさんは三年ほど前にこの町へやって来てから女手一つで牧場を経営し、樫の木タウンの貿易都市化に多大な貢献をされたスーパーウーマンです。これまでカメラNGだった彼女が、本日、ついに取材に応じてくださいました。それではミノリさん、よろしくお願いします!』
『よっ……よろしくお願いします』
 いきなりハードルを上げられたミノリは、画面越しにも伝わるくらいガチガチに緊張していた。さっそく「大丈夫か?」と不安になるクラウス。が、黙って続きを見守る。
『牧場経営は大変なお仕事だと聞きましたが、牧場主になろうと思ったきっかけみたいなものはあるんですか?』
『えっ……えっと……、作物を育てたり、動物を育てたりするのが好きだったので……』
『おおっ! つまり、好きなことをお仕事にされたわけですね?』
『はっ、はい』
『素敵ですねー。中でも一番好きな作物や動物ってありますか?』
『えーっと……一番……。……作物の中では、トマトが一番好きです。動物は……みんな、同じくらい大好きです。家族、みたいなものなので……』
『なるほどなるほど。家族の一員としてお世話して貰えるなんて、ミノリさんの牧場の動物さんたちはきっとみんな幸せでしょうね~』
 感慨深げに「うんうん」と頷くカッシー。対してミノリは、登場した時には既に赤みがかっていた頬を、更に茹蛸のように上気させた。
『では、逆に苦手なものはありますか? もちろん、作物や動物以外でも……』
 軽く俯いてしまった彼女の顔を軽く下から覗き込むようにしながら、カッシーはマイクを差し出す。容赦ない。しかし拒否するわけにもいかないミノリは、どうにかこうにか顔を上げた。
『えっ……えっと……、…………思いつきません』
 長考の末の解答だった。が、それを聞いたクラウスはすぐに「嘘だな」と思った。
(心霊モノやホラー映画は大の苦手だろう)
 とは言え、愛する妻の苦手分野など他人に知られない方が良いに決まっているので、今後も対外的には「ミノリに苦手なものなどない」で通すことに内心決めた。
『苦手なものがないだなんて、さすがスーパーウーマンですね! ……では、次の質問に移りましょう。樫の木タイムをご覧の皆様にはお馴染みのこの質問。好きな色について教えてください!』
『えっと……水色、とか……青系が好きです』
『おっと、意外ですねー。いつも赤いバンダナをされているので、てっきり暖色系が好きなのかと思いましたが……』
『あっ……と、これは、友人からの贈り物なので……。でも、気に入っているので、ずっと使ってます』
 そんなやり取りを聞いたクラウスはテレビを見つめたまま、ほんの少し不機嫌そうに「初耳だな」と呟く。彼の後頭部しか見えないミノリはその表情変化に気付くことなく、何の気なしに「あれ、言ってませんでしたっけ?」と返した。
『ご友人というのは、この町のどなたかですか?』
『いえ、学生時代の友人です』
『なるほど、そうなんですか。……学生時代と言えば、ミノリさんの旦那様のクラウスさんは、学生時代、とてもワイルドだったそうですね?』
 青天の霹靂とでも言うべきか、予想だにしなかった話の展開に、啜りかけていた紅茶をブッと噴き出しかけるクラウス。このリポーターは、いきなり何を言い出すんだ―などと目の前の家電に向かって文句を言う暇もなく、インタビューは続く。
『えっと……、らしい……ですね? わたしは、あまり詳しく知りませんけど……』
 困惑顔で言葉を濁したミノリを、彼女の夫は「なかなか良い対応だ」と心の中で褒めてやった。
『そうですか。この件に関しては以前、クラウスさん直々に取材を拒否されてしまいましたが、やはりトップシークレットなのでしょうか? うーん、余計に気になります……。ところで、お二人はとても仲睦まじいご夫婦とお聞きしていますが……?』
 若い女性インタビュアーの新たな問いかけに対し、好きな色に関する質問辺りから本来の肌色に戻り始めていたミノリの頬に、再びぽっと紅が差す。
『えっ……えっと……、……はい』
『馴れ初めなど、お聞きしても?』
『えっ!? ……えー……、わたしが、この町へ引っ越してきて、すぐの頃……香水を、作っていただいて……、それで、いろいろあって……えっと……お付き合い……することに、なりまして……』
 話している間にも、どんどん顔の赤さが増していく。クラウスは思わずニヤニヤしてしまった。反対隣に目を向ければ、現実のミノリも同じように真っ赤になっていた。
『え……えっと……、こんな感じで……?』
『うーん……? ……なるほど。クラウスさんのご職業は調香師ですが、お二人の出会いにも香水が関わっているなんて、ロマンチックですね!』
 耳まで赤く染まったミノリは、何も答えなかった。
『それでは、最後に。今後の抱負などお聞かせ願えますか?』
 この流れでその質問か―と、ククッと笑うクラウス。彼の忍び笑いを耳聡く捉えたミノリは、「笑い事じゃないです」と小声で囁いた。
『えっ!? 抱負……? えっと……、えっと……、えー……これからも頑張りますので、よろしくお願いします……』
『……ありがとうございました! それでは、ゲストのミノリさんでした~!』
 その後ナレーションが締めの口上を述べ、放送は無事終了した。
 
 
「もう、二度とインタビューなんて受けません……!」
 ミノリは真っ赤な顔を両手で隠し、弱弱しく首を横に振る。
「なかなか上出来だったぞ? 思っていたより悪くなかった」
「それは、もっと悪くなるって思ってたからでしょう……?」
 不平を言いながら彼女は、未だテレビの方を向いている夫の肩へ、手で覆ったままの顔を背後からぽすぽすとぶつけた。
「いや、そんなことはない。ちゃんと受け応えできていたじゃないか」
「慰めはいいです……」
 涙声で、今度は彼の背中に額を擦り付ける。可愛らしく甘えられて口元を緩めっぱなしにしつつも、本気で凹んでいる様子の妻が少々可哀想になってきたクラウスは、彼女へ向き直ってぎゅっと抱きしめた。そして、よしよしと背中を撫でてやる。
「今日は、町へ下りたくないです……」
「出荷があるなら、家で昼飯を食ってから一緒に行ってやろうか?」
 普段なら「いえ、大丈夫です」と返しそうなミノリだが、今日ばかりは。
「……お願いします……」
 消え入りそうな声で、そう答えた。
 
 

三十九話 彼と彼女のお財布事情

 
 
 クラウスは獲物を前にした狼の如く鋭く光る双眸で、仕事机の上を睨み付けていた。その視線の先には、香料の通販カタログ、請求書、そして仕事用の預金通帳。五秒後、彼は「はぁ……」と声に出して最大級の溜息を吐き、頭を抱える。そのまま、柔らかい黒髪を両手でぐしゃぐしゃやった。
(ちくしょう……! 新種の香料が買えん……!)
 事業の運転資金は十分にあるものの、先月も研究目的で高価な香料を購入してしまったばかりなので、ふた月連続で高額商品を経費で落とすには預金残高が心許ない。こういう時は、自分の小遣いを使うのが通例だ。しかし、財布からポンと出すのも難しい金額だった。
 やはり、今回は諦めるしかないか―だが、嗅いでみたい。知り合いの同業者に頼み込んで、何とかサンプルだけでも分けて貰えないだろうか―いや、そんな恥知らずな真似はできない。その時、彼の耳に悪魔の囁きが聞こえた。
(ミノリに金を貸して貰えばいいんじゃないか……?)
 結婚後も財布は完全に別で、金銭の使い道についてはお互い不干渉、話題に上ることもほとんどないので妻の総資産額がいか程か詳細には知らないが、確か、現在の月収は五百万Gを超えると小耳に挟んだ気がする。彼女なら、三十万Gくらい快く貸してくれるのではないか。
―が、すぐに考えを改め、そんな下衆な思考に陥ってしまった己を責める。
(オレは、最低な男だな……)
 彼は、ここ一か月間で最高に凹んだ。
 
 
 ミノリは眉間に皺を寄せ、死んだ魚のような目でダイニングテーブルの上を眺めていた。その視線の先には、農業機械の通販カタログ、収支を記した帳面、そして仕事用の預金通帳。五秒後、彼女は「はぁ……」と声に出して最大級の溜息を吐き、頭を抱えた。
(次は、何を買ったらいいんでしょう……)
 牧場経営を始めた頃はほぼゼロだった預金残高が、今ではプラス数千万にのぼる。無論、資金が多いに越したことはないが、こうも増えると使い所に困った。
 私物で欲しい高級品もないので、やはりここは大型の農業機械を導入すべきか―とは言え、今以上に牧場を広げる気もないし、何より、地道な手作業や手摘みが好きなのだ。使わない物を購入したところで邪魔になるだけである。ならば資材等を買い込めば良いのかもしれないが、そのほとんどを自給自足できる今、あえて外から仕入れる意味は地域経済への貢献以外になく、いずれ持て余して転売することになるのは目に見えている。その時、ふと閃いた。
(そうだ、クラウスなら使い道があるかも……?)
 結婚後も財布は完全に別で、金銭の使い道についてはお互い不干渉、話題に上ることもほとんどないので夫の総資産額がいか程か詳細には知らないが、確かこの前、欲しい香料があるものの若干高価なので今は手が出せない、などとぼやいていた気がする。彼なら、この余剰資産を有意義に使ってくれるのではないか……?
 が、そんな提案をしたら彼を喜ばせるどころか逆にプライドを傷付けてしまうだけだと、すぐに考えを改める。
(何か、快く使ってもらえる方法があればいいんですけど……)
 彼女は、再び深い溜息を吐いた。
 
 
「ただいま……」
 明らかに元気のない声で帰宅の挨拶を呟いた夫を、ミノリは心配しつつ、控え目に「おかえりなさい」と言って出迎えた。玄関で鞄とコートを受け取ると、それらを手際良く廊下奥のクローゼットへ片付けながら、肩越しに尋ねる。
「今日は、何かありました……?」
 クラウスは空元気すら出そうとしない自身の身勝手さを承知しつつも、今は優しい妻に甘えたい気持ちで「はぁ……」と溜息を吐いた。
「ああ……ちょっとな」
 そう答えてツカツカと彼女の傍へ歩み寄り、後ろから抱き締める。両腕にすっぽりと収まる柔らかな身体は暖かく、首元から漂ってくる牧草の青臭さと花の香り、そして甘酸っぱい体臭の入り混じった匂いが心地良い。
 一方、抱き締められた側は、初めてのことでもないので「ああ、今日はそういう日なんだ」と軽く理解した。結婚して二年にもなるとこんな事も珍しくはなく、多少ドキドキしつつも、彼が満足するまで黙って抱擁を受ける心積もりだった。
 ミノリの思った通り、夫はしばらく抱き締めて満足すると、ふう、と一息吐いて彼女を解放する。
「元気が出たよ。ありがとう」
 穏やかに微笑んだ彼へ、ミノリも「ん」と一声応えて微笑み返した。クラウスは、深く聞いてこない伴侶に心の内で感謝する。
「今からお夕飯を作りますから、先にお風呂へ入ってきたらどうですか?」
「ああ。そうさせて貰おう」
 
 クラウスが風呂場から戻る頃には、夕食の準備はすっかり整っていた。二つ並んだグラスの片方にワインを、もう片方にぶどうジュースを注いでいたミノリは、手の中のボトルを置いて顔を上げる。
「おかえりなさい」
「ああ。お先に」
 応えながら、寝間着姿の彼は席に着いた。ミノリも二本のボトルを冷蔵庫にしまい終えると、続いて椅子に座る。どちらからともなく声を揃えて「いただきます」と発した後、二人は笑顔で夕食を食べ始めた。
 自分の皿に取り分けたラザニアを一口飲み下したミノリが、何気なく会話を切り出す。
「クラウスは、今、何か欲しい物ってありますか?」
 唐突かつ時期が時期な質問だっただけに、ドキッとしたクラウスは、飲みかけのワインでむせてしまった。ミノリも慌てて、咳き込む夫を「大丈夫ですか!?」と気遣う。
「ゲホッ……、……いや、大丈夫だ。……特に、欲しい物はないが……」
 妻から差し出されたナプキンで口元を拭いつつ、彼は何とかそう答えた。息を整えると、今度は「いきなりそんな質問をして、どうしたんだ?」と逆に尋ねる。「んー……」と難しい顔をするミノリ。
「……ちょっと、聞いてみただけです」
 ぽつりとそう言って、彼女はラザニアをもう一片、口に運んだ。意図を汲みかねたクラウスはそれ以上追及することもできず、ひとまず「そうか」とだけ返しておいた。すると口の中の食べ物を飲み込み、ミノリが続ける。
「……えっと、高い物とか……家具とか、そういうのでもいいんですけど。クラウスの仕事場で使う物でも。何か、あったほうがいい物ってないですか?」
 今度は、クラウスが「うーん……」と声に出して考える番だった。が、彼は「では、香料を一つ……」などと宣いたい気持ちを軽くいなして、「いや、やはり無いな」と答えた。
「そうですか……」
 ミノリは、少し気落ちした様子で呟く。何か金銭トラブルでも起きたのだろうかと、だんだん心配になってきたクラウス。
「何かあったのか?」
 彼は妻の顔を覗き込むようにして、優しく尋ねた。が、向かいに座る伴侶は「いえ、何もないです」と首を横に振るだけで。少し卑怯とは思いつつも、クラウスは真面目な顔を彼女に差し向け、今度は心持ち低い声で静かに語る。
「もし金銭が絡むことなら、一人で抱え込まない方がいいぞ。問題が大きくなると困るからな。オレに相談できる事なら、遠慮なく言ってくれ」
 彼の予想通り、ミノリは慌てて「そんなに深刻な話じゃないんです」と前置いた後、唐突な質問の理由をぽつぽつと語り始めた。
「……お金が、ね。けっこう、たくさんあるんです」
「そうか。……それで、何か困っているのか?」
「いえ。ぜんぜん、困ってはいないんですけど……」
 クラウスは「うん」と一言だけ相槌を打ち、黙って続きを待った。その無言の促しに抗えず、ミノリは話を進める。
「今は、自分で買いたいものがないので、どんどん貯まっちゃって……。だから、二人で使う物とか、クラウスの欲しい物があれば、買えるんですけど……」
「……なるほどな」
 頷くクラウス。
「だが、それなら無理に何か買おうとしなくても、貯金しておけばいいんじゃないか?」
 至極もっともな意見だった。しかしミノリは「それは、そうなんですけど……」と言葉を濁す。暫時、口を噤む二人。
 その沈黙の中、クラウスは妻が煮え切らない態度を取っている理由に、ようやく思い至った。
「……もしかして、オレに気兼ねしているのか?」
 今度は、ミノリがドキッとする番だった。彼女は首をぶんぶん振って「違います!」と否定したが、その慌てた態度から、図星であることは丸分かりだった。クラウスは苦笑するしかない。
「そうか。気に掛けてくれるのは嬉しいが、お前は遠慮せず、自分の欲しい物を買えばいい」
「…………」
 ミノリは黙って、しょんぼりと肩を落とす。そんな優しい妻に愛おしさを感じながらも、同時に、クラウスは自身の甲斐性のなさを省みて、彼女と同様に肩を落とした。食卓に、気まずい空気が流れる。
「あ、あの……なんだか、ごめんなさい」
「いや……オレの方こそ、気を遣わせて悪いな」
 謝罪の応酬を最後に、また会話が途切れた。そのまま三分近く二人は黙々と食事を啄んでいたが、重い空気を振り払おうとミノリが口を開く。
「そっ、そういえば、もし赤ちゃんができたら、いろいろ必要になりますね!」
 彼女に悪気はないのだろうが、今のクラウスにとっては引き続き耳に痛い話題だった。が、そんな心中は欠片も見せず、彼は「そうだな」と笑って相槌を打つ。
「もしできたら、の話ですけど……服とか、ベビーベッドとか、いろいろ買えるのかなって思うと、すごく楽しみです」
「ああ。当然だが、オレにも買わせてくれよ?」
「はい! ……あっ、そうだ! そうですよ!」
 突如ミノリが瞳を輝かせ、ポンと手を叩いた。そしてテーブルに半ば身を乗り出して、今度は弾んだ調子で話し出す。
「家を、大きくしてみるのはどうでしょう?」
「……は?」
 前触れもなく降って湧いたスケールの大きな提案について行けず、素っ頓狂な声を上げるクラウス。彼は軽く頭を抱えて考えてから、確認するように尋ねる。
「それは、つまり……この家を、増築するってことか?」
「はい。今までも増築は自分でやってましたけど、子供ができてからだと、自分ではできませんよね? だから、子供部屋とか、今から造っておいたらどうかな……って」
 彼女にとっての「子供部屋をつくる」とは、世間一般のそれと少々意味が異なるらしい。クラウスは苦笑しつつ「そうだな……」と応えた。
「どこに部屋を追加するんだ? 北か? それとも、東西の廊下の奥か?」
「そうですね……簡単に思い付くのは、その辺のどれかですけど……でも、見栄えがあまり良くないですし……二階を造ったらどうでしょう?」
 質問形式にはなっているものの、彼女の中では言い出した時点で既に決定事項なのだろう。この女性と一緒だと本当に飽きないと思いつつ、クラウスは笑った。
「いいんじゃないか? ただ、大きな工事になるんだろう? 無茶はするなよ」
「はいっ。せっかく二階建てにするなら、ベランダとかも付けたいですね。明日、さっそくゲイザーさんに相談してみます!」
 ポンポン決まる話に、頷くことしかできないクラウス。妻が笑顔になって良かったと思いつつも、彼女の財布に頼りきりな己を改めて自覚し、密かに消沈するのだった。
 
 

四十話 天秤の皿に載せるのは

 
 
 近頃、苛立っている、と思う。
 クラウスは小さく溜息を吐くと、裸のまま眠ってしまった妻の髪をそっと梳き、静かに掛布団を引き上げてやった。彼自身もベッドの端に投げ捨てられていた下着だけを拾って身に着け、もぞもぞと隣に潜り込む。そして細やかな寝息を立てる彼女の睫毛を眺めながら、再び嘆息した。
(疲れているのは、解ってたんだがな……)
 純粋に「愛しているから、抱きたい」と、それだけの衝動でないことは自覚していた。言い知れぬ焦りや不安に苛まれ、「そうでもしなければやっていられない」という思いの方が強かった。たまのことであれば「甘えたい時だってある」などと己に言い訳をしてやり過ごせるが、ここ最近はずっとこのような感じである。そう、例の「祝賀会」以降。
 樫の木タウン貿易都市化実現の祝賀会に参加したことで、改めて自分の妻は魅力的な女性なのだと思い知らされた。無論、それが解っていたからこそ結婚したのだが、どこか子供っぽいと思っていた彼女が一社会人として大勢から業績を認められている様を目の当たりにすると、自分のことのように嬉しかった反面、つい、我が身と比較してしまった。おどおどした新米牧場主だった彼女がいつの間にか、地位的にも金銭的にも、遥かに自分を凌ぐ立ち位置に居る。
 決して、ライバルとして見ているわけではない。今は「愛している」と言ってくれる妻が伴侶の不甲斐無さに気付き、いつか愛想を尽かす日がくるのではないかと、そのことが怖かった。
(今のオレは、ただの「甲斐性無しのオッサン」だからな……)
 クラウスは、三度目の深い溜息を吐いた。
 また、この町には顔も性格も良く、「若い」独身男性が多いことも、彼をやきもきさせる一因となっている。当然ながら、年が近い彼らとミノリは友人として親しくしており、その友情がいつ恋愛感情に発展してもおかしくはない、とクラウスは常日頃から思っていた。
 妻は不貞を働くような女性でないと信じているが、それでも、恋愛感情とは御し難いものだ。自分が年甲斐もなく彼女に惚れ込んでしまっているように、ある日突然、ミノリと他の誰かとの間に特別な感情が芽生えてしまったとしても、それを止める術はない。
 考えるほどに不安が募り、クラウスは眠るミノリの体をぎゅっと抱きしめた。起こしてしまうかもしれないから止めるべきだというまっとうな思考と、目を覚まして微笑みかけて欲しいという甘えを同時に抱きながら。しかし結果はそのどちらでもなく、ミノリは「ん……」と小さく声を漏らし、軽く身じろぎしただけだった。彼女の滑らかな肌がクラウスの胸板を撫で、鎖骨に吐息がかかる。その優しい温もりに癒され、彼はようやく眠りに就くことができた。
 
 
 翌朝。樫の木タウンに、初雪が降った。
 全裸で目覚めたミノリはほんのり頬を染めつつせかせかと身支度を済ませると、毎朝そうしている通り、まずは家中のカーテンを開けにかかる。最初に、南側の窓の覆いを掻き分け―慌てて、外へ飛び出して行った。少し遅れて着替え終えたクラウスが彼女の後を継ぎ、中途半端に開かれた垂れ布を、左右できっちりと束ねる。中央の閂を上げ、窓ガラスを外へ向けて押し出せば、冷たい空気がヒュッと家の中へ流れ込んできた。
 窓枠から身を乗り出し、薄らと雪化粧を始めた庭の中に妻の姿を探す。彼女は玄関扉から点々と続く足跡の向こうにいた。家の東側に積まれた増築用の資材に、大急ぎでブルーシートをかけているところだった。
「手伝おうか!?」
 クラウスが声を張り上げると、一瞬の間を置いて「すぐ終わるので、大丈夫です!」と返事が。彼は誰にともなく小声で「そうか」と呟き、静かに窓を閉めた。そして作業中の妻に代わってカーテンを開け、軽い朝食を作り始める。
 ミノリが戻ったのは、ちょうどクラウスが調理を終えた頃だった。
「ごめんなさい。雪が降るとは思ってなかったので……」
 肩にかかった粉雪を玄関マットの上で掃い落とす妻に、クラウスは笑顔で「大丈夫だ」と応える。
「朝からお疲れ様。さあ、冷める前に食べよう」
 そう言いながら、ダイニングテーブルにトーストと目玉焼き、オニオンスープ、ほうれん草のソテーを並べた。ほかほか湯気が立ち上る皿を前にしたミノリは、ふにゃりと微笑んで椅子に座る。
「わたし、クラウスが結婚してくれて、本当によかったです」
 彼女はいかにも機嫌良さげに、トーストの上のバターを薄く塗り伸ばした。それは何気ない一言だったが、不意打ちを食らったクラウスは、殊のほかドキッとする。思わず取り落としそうになった自分の皿を、カチャンと音を立ててテーブルに置き、赤らんだ頬を隠すためミノリに背を向けた。
「……そうか」
 彼は、そう答えるので精一杯だった。しかし、尚も続けるミノリ。
「はい。お料理も上手だし、お料理だけじゃなくて、何でもできるし……とっても頼りになります」
 自分は、そんな大層な男じゃない―喉まで出かかった台詞をぐっと飲み込んで、クラウスは「ハハッ」と乾いた笑いを漏らす。
「褒めても、デザートは出てこないぞ?」
 フライパンを洗いながら冗談めかした返しをすれば、ミノリが口を尖らせて「期待してないですよー」とそっぽを向いた。そして、バターを塗り終えた自分のトーストを皿の上に置き、夫の分にも同じく塗り始める。きつね色の食パンの表面に、溶けたバターがじわりと染み込んだ。
「牧場のお仕事って不規則なことも多いから、クラウスが、何も言わなくてもいろいろやってくれるの、本当に助かっちゃいます。いつもありがとうございます」
「どういたしまして」
 こそばゆさを覚え、苦笑で返す。と同時にミノリの笑顔がふっと陰ったのを、たった今鍋を洗い終えて振り返るところだったクラウスは見逃さなかった。
「……あと、ごめんなさい。わたし、あんまりいい奥さんじゃないですよね」
 ぽつりと発せられた謝罪。咄嗟に返答が思い付かず、クラウスは中途半端に口を開けたまま、暫時固まってしまう。内心焦りつつ、ようやく絞り出した言葉は「いや、そんなことないぞ」という、月並みなものだった。
 ミノリは、静かに首を横に振る。
「本当に、甘えてばっかりで……。クロンさんやマルゴットさんみたいに、もっとクラウスのお手伝いができればいいんですけど。クラウスも、わたしにできることがあったら何でも言ってくださいね」
 心なしか申し訳なさげな笑顔で、そう述べた。それから少し間を置き、ボソボソと付け加える。
「牧場のお仕事も、もっと減らした方がよければ、そうしますし……」
 妻の発言を受けたクラウスは難しい顔をすると、胸の前で腕を組んだ。そのまま数秒考えた後、思い出したように腕組みを解き、黙ったまま席に着く。そして「とりあえず、食べようか」と食事を促してフォークを手に取った。その先端で目玉焼きの白味を切り分けながら、ようやく先程のミノリの発言に言及する。
「……お前が『出来た妻』でないと言うなら、オレだって『夫失格』だと思うぞ。……正直に言うと、さっきまで、オレも自分の事をそう思っていた」
 真顔で静かに語る夫へ、ぶんぶん首を横に振って見せるミノリ。
「そんなことないです! クラウスは、すごく頼れる……えっと……『旦那さん』です……」
 何故か「旦那さん」の部分で照れて赤くなる妻の可愛らしさに、クラウスは表情筋の強張りを解いた。そして含み笑いと共に「そうか」と返し、今度はいくぶん明るい調子で語り出す。
「オレにとっても同じだよ。お前は、最高の奥さんだ。……オレは、世間の通例に囚われ過ぎていたみたいだな」
 クラウスはスッキリした表情で半分残った目玉焼きを口へ放り込み、豪快にもぐもぐやって飲み込んだ。ミノリもつられて、三分の一ほど目玉焼きを口に運んだ。
「一人で暮らしているわけじゃないから多少の調整は必要かもしれないが、オレ達はお互い、自分の仕事が好きでやっているんだ。相手に気兼ねして、制限し合うのは勿体ないことだよな。今までもそうしてきたように、それぞれが自分のペースで働いて、忙しい時や困った時は持てる物を出し合えばいいだけの話だ。……それが、夫婦ってものだよな」
 自分に言い聞かせたかのような彼の口述に、ミノリは真面目顔でうんうんと頷く。
「……そうですね。つい気にしちゃいますけど、なるべく、クラウスに頼ってばっかり……って考えないようにします」
「ああ。オレもそうしよう」
「ただ、無理をして倒れないでくれよ」と笑って念を押すクラウスに、ミノリは花が咲いたような笑顔で「はい」と返事した。
 
 

四十一話 スーツの魔法

 
 
貿易都市化実現の話をどこで耳にしたのやら、牧場主の仕事について、母校で簡単な講演をして欲しいという依頼があった。気は進まないが、恩師の頼みとあっては断るわけにもいかない。明後日から二泊三日の出張に出かけるので留守を頼む―そんな話を聞かされたのが、三日前のこと。
その翌日、桜色のヒール付きラウンド・トゥ・パンプスが玄関に置かれていることにはすぐに気付いたし、更にその翌日、妻がフリルとリボンの付いた真っ白なブラウスにアイロン掛けをしている様子も視界に入れていた。が、まさか。
「そんな格好で出掛けようとしているとは思わなかったな……」
「えっ!? 変ですか!?」
 出張当日の早朝、衣裳部屋から出てきたミノリは、明るめなグレーベージュのビジネススーツにビシッと身を包んでいた。髪はハーフアップで軽くまとめ、薄らと化粧も施している。普段がすっぴんの着たきりすずめなだけに、その変身振りは驚くべきものだった。
「いや、変じゃない。むしろ、似合っているが……てっきり、いつもの格好か、他の作業着で行くものと思っていたから……」
 クラウスは口元に手を当て、心底面食らった様子で顎を揉んだ。そんなやや失礼な夫へ、ミノリは複雑そうな微笑みを返す。
「講演なのに、作業着で行くわけないでしょう……?」
「……だよな。……それにしても、似合ってるよ」
 上から下まで舐め回すように見入りながら、クラウスは二度目の賛辞を送った。
「スーツを着ていると、だいぶ印象が変わるな。かなり大人っぽく見えるぞ」
 そう言ってコーヒーカップをリビングテーブルに置くと、ソファから立ち上がり、妻の前へつかつかと歩み寄る。彼の顔は見るからにニヤついていた。
「こんなに可愛い若妻が三日も出掛けちまうなんて、おじさんは心配だ」
 腰に手を回しながら耳元で囁かれ、途端にぽっと頬を赤らめるミノリ。が、それほど時間に余裕のない彼女は黙って彼の手を他所へやり、足早に玄関へと向かう。
「たったの三日ですよ」
 マットに屈み込んで、履いたばかりのパンプスを、いつものブーツに履き替えた。そして脱いだ靴を手際良くビニール袋へ入れると、玄関脇のキャビネット上の旅行鞄の中へ押し込む。厚手のトレンチコートをぱぱっと羽織り、適当にマフラーを撒けば、旅支度の完成である。
「じゃあ、そろそろ行きますね」
「もう少し別れを惜しませてくれよ」
 ミノリの後を着いて玄関に立っていたクラウスは、半ば無理矢理、妻を抱き寄せた。
「若い鳶に攫われないようにな」
 額をくっつけつつ艶めいた低音で念を押され、ミノリの体はかあっと熱くなる。が、何の事やら、彼の言葉の意味はよく解らなかった。
「鳶……?」
 聞き返すものの、夫は緩みきった口元を更に緩めるばかり。とは言え、その様子から「悪い狼」と似たような意味であることは察しがついた。
「……攫われませんよ」
 答えるとほぼ同時に、尖らせたミノリの唇がチュッと啄まれる。ピンクベージュの色が、少しだけ彼に移った。
「では、行ってきます。留守の間、よろしくお願いしますね。ジョルジュさんは十時頃に来てくれると思いますから」
「ああ、行ってらっしゃい。気を付けてな」
 寂しげな表情など微塵も見せない妻の背中を見送ると、クラウスはバタンと閉まった玄関扉を見詰めたまま唇に付着した紅を右手の親指で拭い、「はぁ……」と深く溜息を吐いた。
 
 
―「三日も」だ。
 翌日の夜、寝間着姿のクラウスはぐったりとソファに背を預け、ウィスキーの入ったロックグラスを片手に、生気の抜けた瞳でテレビ画面を眺めていた。
 愛妻の出掛けに、新鮮なスーツ姿など見せ付けられたのが悪かった。おかげで、ストッキングを履いた脚がタイトスカートから延びる絵面が頭にちらついて離れない。昨晩など、色っぽくジャケットを脱いでブラウスのリボンを緩めるミノリの姿態を、夢にまで見る始末だ。言わずもがな、朝起きた時には雄々しく勃っていた一物を手っ取り早く解放してやったものの、求めているのは両腕の中にすっぽりと納まる可愛らしい「妻自身」なのだから、全く物足りない。早く体を重ねたくて仕方がなかった。まだ、たった一日半しか経っていないにもかかわらず。
 正直なところ、昨日の内は久々の開放感でいっぱいだった。ちょうど休日だったので、帰ってきたミノリを喜ばせようと気合を入れて水回りの掃除をしたり、午後は家畜やペットと遊んだりして過ごした。夕方になって一人遊びのネタが尽きてくると、今度は町へ降りて仕事場で趣味の調香を行なってみたりもした。が、夜も更けた頃、出来上がった自信作の香水を持って牧場へ戻ったところで家の灯りは点いておらず、褒めてくれる相手がいないのを実感して急に寂しさが募り、さっさと入浴、食事を済ませてベッドへ入ってしまったのだった。そして今朝からは、仕事をしている間を除きずっと、先に述べた調子である。
 せめてマリアンと差しで飲めていれば少しは気も紛れようものだが、仕事終わりに声をかけてみたところ、こんな日に限って所用があるとのこと。一人の家に真っ直ぐ帰るのが嫌で、レーガを話し相手にレストランで早めの夕食を摂ったのだが、仕事中の彼は当然忙しく、潰せた時間は三十分程度だった。
 
 帰宅してからは、何をする気も起きず。暇潰しの鉄板と言えばレコードを聴きながらの読書と決め込んで手を付けてみたが、元々気分が落ち込んでいたので、逆に虚しくなってしまった。
 酔いの回ったクラウスはふらりと立ち上がると、グラスを一旦テーブルの上に置いて、寝間着の上にコートを羽織った。更に履物はブーツという珍妙な格好で、グラスとウィスキーのボトル、バースプーン、オリーブの酢漬けが入った瓶を手に、黙って家を出る。帰宅時にちらついていた雪はすっかり止んでおり、空には星が煌めいていた。
 積もった雪を踏み固めながら、工事用の足場に覆われた外壁に沿って東へ回る。彼が向かったのは、ペット小屋だった。入り口のマットで靴裏の雪を念入りに落としてから、おもむろに小屋の扉を開ける。建物の中は自宅と同じく常時冷暖房が入っていて、今の時期は暖かい。
 ミノリの仕事上のパートナーでもある二匹の犬と一匹の猫は、時間が時間だけに眠っていた。彼らは物音を聞きつけて目だけは開いたものの、入ってきたのがクラウスであることを察知すると、再び頭を床に付ける。これがご主人様であれば、千切れんばかりに尻尾を振られて歓迎の出迎えを受けるのだろうが―と考え、クラウスは苦笑した。
 彼は室内左手のデスク上に一人酒の準備を整え、椅子へ腰かける。そして、壁際に置かれていたラジオの電源を入れた。スピーカーから流れてきたのは、樫の木チャンネルのニュース音声。すると関心を引いたのか、秋田犬のシリウスがひょこひょこ近寄って来た。
 シリウスは、ウィスキーのロックをちびちびやり始めたクラウスの腿へ、顎を載せる。普段なら寝間着に動物の毛を付けるなど言語道断だが、今日ばかりは目を瞑る事にした。クラウスはオリーブの瓶にバースプーンのフォークを突っ込んで一つ取り出すと、それを口へ放り込みつつ、愛犬の頭を指先で掻くように撫でる。眉間を軽くわしゃわしゃされ、シリウスは気持ち良さげに目を細めた。
「お前も、ご主人様が留守で寂しいか?」
 話しかけてみても、当然、返事はない。クラウスは己が行為の滑稽さに苦笑する。手持無沙汰な彼は、手元にあった動物ノートをパラパラ捲った。紙上にはペットや家畜についての情報が、ミノリの手書きで仔細に記されている。傍から見れば、毎日同じ事―餌をやって、ブラッシングをして、遊んでやっているだけにも見えるが、食べた餌の量やストレス状態、搾乳量や毛艶、刈った毛の量なども常時管理されていることを知り、思わず「ほう」と声を上げた。
「お前のご主人様は凄いな」
 故意か偶然か、シリウスが誇らしげに「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「お前の事も書いてあるぞ。……そうか、今年で二歳になったのか」
 頭をぽんぽん叩かれたシリウスは親愛の情を込め、彼の中の序列では上から三番目に該当する男の手を、ペロリと一舐めした。無論、一番上は飼い主であるミノリ、二番目は自分、三番目が現在の顎置きである。が、そんな序列など知る由もないクラウスは、心底嬉しそうに「良い子だ」と褒めてやった。
 その後もラジオを聴きながら黙々とノートを読むこと、およそ一時間。時刻はようやく十一時を回った。
 クラウスがゆっくり席を立つと、一緒にシリウスも立ち上がる。「帰るの?」と問うような彼のつぶらな瞳に、クラウスは「ああ。おやすみ」と語りかけた。
 元からそこにあった物を全て自分が来る前の状態に戻し、運び込んだ酒とつまみを持って、静かに小屋を出る。外気は一段と低くなっており、少し息を吐くだけで白い靄が尾を引いて流れていった。
 足早に自宅へ戻った彼は、暖炉の前で少し体を温めると、用を足してテレビを消し、ぐだぐだと余計な事を考えてしまう前にさっさとベッドへ潜り込んだ。「早く明日の夜になれ」とだけ願いながら。
 
 
 出張最終日の午後八時半。隣町から出ている樫の木タウン行きの最終バスで戻ったミノリは、土産の入った紙袋を両手いっぱいに持って、雪の舞い始めた貿易ステーションに降り立った。すっかり日は落ちているものの、外灯の光が白んだ道に反射し、そこかしこを照らし出しているため、それほど暗くは感じない。
 顔見知りから声を掛けられるのを嫌がり、なるべく目立たないよう人けのない場所を選んで歩いたものの、ビジネススーツを着た小柄な女の子が自身の体積ほどもある荷物を抱えてよたよたしている様は物珍しかったようで、周囲の視線をこれでもかと集めてしまった。それでも広場の出入り口へ辿り着くまでは誰とも会話をせずに済んだが、さすがにステーション案内係のジョニーを無視するわけにはいかず。
「こんばんは。お疲れ様です」
「おかえりなさい。ミノリさんも、講演お疲れ様でした」
 町のギルドには予め出張の話を通してあり、彼もギルドの従業員であるから出張の話が通っているだろうと予想はしていたものの、その理由まで知れ渡っているとは。ミノリは静かに苦笑いする。
 その後、ある程度の長話に発展することも覚悟していた。が、幸いにも―否、不幸にもと言うべきか、彼はニヤニヤしながら一番広場のベンチを指差し、こう告げただけだった。
「そこで、旦那さんがお待ちかねですよ。一時間も前からああしてるから、凍える前に行ってあげたほうがいいんじゃないですかね?」
 ミノリが慌てて左を向くと、そこには確かにクラウスの姿があった。ベンチに座る彼はコートのポケットに両手を突っ込み、白い息を吐いて中空を見上げている。一瞬で顔を真っ赤にしたミノリは、ジョニーに「ありがとうございます」と礼を言いつつ勢いよく頭を下げ、そそくさと夫の元へ向かった。
 
 タッタッという、軽快でやや速い足音を耳にしたクラウスは、期待を込めて音のする方へ目を向ける。案の定、そこには待ちに待った妻の姿があった。
「クラウス……ただいま」
 息を切らし、笑顔で言うミノリ。クラウスも満面の笑みで「おかえり」と応えた。彼は手の動きだけで「持つよ」と伝え、旅行鞄以外の荷物を受け取りながら愛妻に話しかける。
「お疲れ様。どうだ? 講演は上手くいったか?」
「えっと……そこそこ……」
 きっぱり「はい」と言わない辺り、きっと樫の木チャンネルの取材を受けた時と同様か、あるいはそれより少しマシ程度の出来だったのだろうな、とクラウスは忍び笑った。同時に、聞きに行けなかったのが残念だ、とも思った。
 しかしミノリはミノリで、既に全く別の事を考えており。
「クラウス、いつから待っててくれたんですか?」
 尋ねれば、クラウスはほんのり頬を赤らめた―が、元々寒さで赤くなっていた上、周囲は薄暗かったので妻には気付かれずに済んだ。彼は平静を装って「今さっき来たところだ」と答える。その言葉に、ミノリもクスッと笑った。
「肩に雪がついてますよ」
 指摘しつつ、両手が塞がった彼の首元へ手を伸ばす。ミノリの次の行動を察したクラウスは気持ち前屈みになり、白く煌めく粒を黙って掃って貰った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 彼は流れでミノリの頬へキスしそうになったが、往来の人目を気にしてぐっと堪える。そして、数歩歩いたところで再び会話を切り出した。
「オレの仕事場にスピカを連れて来ておいたから、すぐに持ち帰らないといけない物以外は置いて、久々に相乗りなんてどうだ?」
 スピカとは、ミノリの愛馬の名前である。気が利く夫の提案に、ミノリはぱあっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます! 町に着くまではずっとパンプスだったので、足が痛くなっちゃって……。イリスさんやマリアン先生はすごいですよね、いつもヒールの高い靴を履いてて」
「ああ。慣れもあるんだろうな」
 
 そんな話を続けている内に、間もなくクラウスの仕事場へ到着する。
 彼の言葉に従い、荷物のほとんどを仕事場のソファ上に置くと、旅行鞄と紙袋一つだけを持って、二人はスピカの背に跨った。手綱を握るのはミノリで、後ろに乗ったクラウスが彼女の背中を包み込むように抱く。人に見られて冷やかされるのを避け、普段は滅多に相乗りなどしない夫婦だったが、時間が時間だけに帰路で擦れ違う者もなかった。
 道中は口を噤み、軽速歩でスピカを駆る。上下の揺れをいなし続けることで二人の体温は若干上がり、密着した部分が熱を持つ。お互いその温かさを愛おしみつつ、しばし新婚の気分を楽しんだ。
 
 家に入るなり、クラウスは玄関先でミノリをきつく抱き締めると、噛みつくようなキスを仕掛けた。話す間もなく唇を奪われたミノリは驚き慌て、口の中を撫で回す夫の舌を押し返しながら「んーっ! んーっ!」と必死に身じろぐ。が、離しては貰えない。
 ミノリは割合すぐに諦め、彼に身を任せてキスに応じる。こういう時は夫の好きにさせておいた方が解放も早いと学習していたためだ。目論見通り、少しの間その味を堪能したクラウスは、自分が満足すると静かに顔を離した。
「……改めて、おかえり」
 悪びれもせずニコニコ顔で宣う旦那様へ、真っ赤に上気したミノリはじと目を向ける。
「……そっちが先でしょう?」
 文句を言いつつも、心なしか嬉しそうに「ただいま」と答えた。
「すっかり冷えちゃいましたね。クラウス、お風呂、お先にどうぞ?」
 コートを脱ぎながら促すが、対する夫は荷物を降ろしただけでその場から動こうとしない。緩みきった顔で自分を見詰めてくる彼の様子に、ミノリは嫌な予感を覚えた。
「あの……クラウス? お風呂は……」
 尻すぼみに尋ねれば、「おいで」と言わんばかりに両手を広げるクラウス。
「温まるには、別の方法もあるだろう?」
 ほら、二人同時に暖を取れる方法が―と続ける夫を華麗に無視して、ミノリはすたすたとクローゼットへ向かおうとする。しかしそこは慣れたもので、相手は素早くミノリの進路に立ち塞がると、有無を言わせず彼女をお姫様抱っこした。
「ちょっ……! おろしてください……!」
 今度は、クラウスが妻を無視する番だった。彼は黙ったまま、軽々とミノリをベッドへ運んでいく。そしてスーツ姿の彼女を、優しく縁に座らせた。
「留守はしっかり守ったんだ、多少強引でも許してくれるよな?」
 イエス以外の返事は認めない、そんな物言いだ。裏腹に、跪いて甲斐甲斐しくブーツを脱がせてくれる夫の頭を見下ろし、ミノリは密やかな溜息を吐いた。
「……ああ、痛めたというのはここか。靴擦れか?」
 まるで大切な宝物でも扱うかの如く足裏を持ち上げ、ストッキング越しに見える踵の絆創膏を指し示してクラウスが尋ねる。無言でこくんと頷けば、彼女の夫は途端に眉尻を下げた。
「可哀想に。……お疲れ様」
 そう思うなら早く寝かせて欲しいというのがミノリの本音だったが、ここまできて拒むのも何だか悪い気がした。それに、夫の温もりが恋しかったのは彼女も同じである。優しく抱き締めて貰えるならば、求めに応じるのもやぶさかでなかった。
 クラウスは妻のブーツを脇へ追い遣ると、今度は自分のコートを脱ぎにかかる。ミノリが普段から思っていることではあったが、その所作は男性的で格好良く、意に反して胸が高鳴ってしまう。かあっと熱くなった頬を、夫の冷えた指がするりと撫でた。
「今日も化粧をしているのか」
「はい。一応……」
「地顔も可愛いが、たまにはこういうのも新鮮でいいな」
 化粧をしている本人には、違いがよく解らなかった。
 クラウスは手際良く自分のブーツも脱ぎ捨て、ベッドの中央へ上がる。そして、縁に座っていたミノリを奥へ誘った。おおよそ抵抗する気の失せていた彼女は、僅かに困った表情を浮かべながらも、容易くその誘いに乗る。不意に、大きく骨ばった手がドレスシャツの上を滑るように腰を這い、ミノリは抗えずに「ひゃんっ」と小さく鳴いた。
 一瞬で真っ赤になって両手で口を押えた彼女を、クラウスは意地の悪いニヤニヤ顔で黙って見詰める。
「……っ! くすぐったかったんです!」
 何を言われたわけでもないのに反論を始める妻の可愛らしさに興奮し、彼女の夫は僅かに息を荒げた。その勢いで、性急にミノリを押し倒す。いきなり布団に沈められた彼女は「えっ!?」と驚愕の声を上げた。
「あっ、あのっ……!? ジャケットとスカートは、脱いでから……」
 話の途中でベッドに縫い止められ、無理矢理口を塞がれる。言い足りないミノリは、若干本気でクラウスの胸板を押し返した。が、相手も本気だった。お互い、重なり合った唇の隙間から激しく吐息を漏らしつつ、ひとしきり組んず解れつする。ミノリが先に陥落したものの、力を抜いたところでクラウスの舌による蹂躙は収まらず、むしろ大人しくなったのを良い事に、ねちっこく彼女の歯列の裏をなぞったり、小さな舌を吸ったり甘噛みしたりと、やりたい放題された。
 息も吐かせぬ攻勢に頭がぼうっとしてきたミノリは、イヤイヤと首を横に振ろうとする。クラウスの顔に押さえつけられているため叶わなかったが、それでも言いたい事は通じたのか、ようやく彼は妻を自由にしてやった。どちらのものともつかない唾液が、つー、とミノリの口端から零れる。
「はぁっ……ひど……」
 息も絶え絶えな彼女の文句は、言葉にならない。クラウスも呼吸を整えながら、しかし微笑って「ん?」と聞き返した。そんな余裕綽々の態度に、涙目のミノリは眉を顰める。
「っ……スーツ……皺に……なっちゃう……」
 今更言っても遅かった。皺になるどころか、ジャケットの襟にはしっかり唾液の染みができてしまっている。
「どのみち、クリーニングは必要だろう」
 クラウスはしれっと言って、今度は羽のように軽いキスを一つ、愛する妻の頬へ落とした。ほんのり鼻腔をくすぐるファンデーションの香りが、彼の劣情を煽る。小休止はこれまでだった。
「ミノリ……」
 掠れた声で愛しい名前を呼びつつ、クラウスは眼下で揺れるブラウスのリボンに手をかける。指先で端を摘まんで軽く引けば、いとも簡単にするりと解けた。襟元が開き、汗ばんだ鎖骨が覗く。瑞々しい肌に吸い寄せられるように顔を近付けると、クラウスは舌先でその骨をなぞり、次いで喉元を、そして顎の裏を舐め上げた。
 ミノリは声を殺そうと必死で口を押えていたが、背筋にはゾクゾクと甘い痺れが走り、小刻みに体が震える。その反応が、攻手の悪戯を助長する。
 ブラウスのボタンは全て容赦なく外され、タイトスカートは臍までたくし上げられ、ストッキングは膝まで降ろされた。多少の抵抗はしたものの、ミノリは終始まな板の鯉も同然だった。手際の良い夫によって美味しく調理された彼女は、仕上げの味付けとばかりに下着の中を優しく侵される。まずは芽を、花弁を、そして躰の中を、太い指で執拗に責められ、耐え切れず小鳥の囀りにも似た声を漏らす。
「んっ……ぅ……」
 その音を待ち望んでいたクラウスは指の動きを更に速め、指の腹で内壁の一部分をリズミカルに擦り続ける。一度発してしまえば零れる声は止まらず、ミノリは苦しそうに身じろぎながら、下半身に与えられる甘い刺激に合わせて小さく喘ぎ続けた。
「んっ……ぁ……っも……やめ……」
 懇願されても、悪い大人はそれを止めようとはしない。それどころか、より深いところに場所を変え、再びそこばかりをしつこく責める。つんつん突いたり、時には指の数を一本から二本、三本に追加してグラインドさせ、それでもやはり同じ位置を刺激してくる。達しそうになれば指の本数を減らされ、一旦指を抜かれ―ミノリはもどかしさで頭がフワフワしてきた。
「ね……っ、も……いい……からぁ……っん……」
 小刻みな呼吸の合間に訴えると、ようやくクラウスは手を止めた。が、これで終わりのはずもなく。彼はミノリを寝かせたまま彼女の背に手を回し、慣れた手つきでブラジャーのホックを外す。肩紐はそのままにカップだけを退け、今度は柔らかな乳房を両手で揉み始めた。
 ミノリはピクッと肩を震わせたが、それは彼の手が触れるほんの一瞬だけで、下半身を弄ばれていた時ほどの快感は無い。好きにしてくださいと言わんばかりに胸部を露出し、ただただ好きなようにされているだけの自分に対する恥ずかしさがあるばかりで。しかし、頬を赤らめた年上夫が心なしか嬉しそうに自分の体の一部を揉みしだいてくれるのは、何故か少し嬉しくもあった。
 ぼんやりとされるがままになっていると、出し抜けに下着が下ろされる。ミノリは小さく「あっ」と声を上げたが、その残響が消える頃には、クラウスの中指が濡れた溝を浅くなぞっていた。再びもたらされた下半身への刺激に、間を置かず「んっ」と詰まった声を漏らす。
「もう……それ、ヤです」
 無駄なのは承知の上で、クラウスの手を掴んで邪魔をするミノリ。彼女の想像通り、夫はニヤリと笑ってその手を振り払った。「嫌」と言っても「もっとして」と言っても、結果はおおよそ同じらしい。
「お前は……本当に可愛いな」
 今褒められたところで、ミノリはあまり嬉しくなかった。愛でる言葉と同時に、いきなり体内へ中指を突き立てられたのだから尚更だ。「あぅっ……!」と苦しそうな声を上げても、クラウスは変わらず笑っていた。ミノリはそんな彼を、潤んだ瞳で恨めしげに見詰め返す。正直に言えば、もっと続けて気持ち良くして欲しかったが、一方的過ぎて若干腹が立ってきたので、余裕のある今に抵抗を試みることにした。
 ミノリはクラウスの不意を突いて逃げ出すと、彼と向かい合って座る。そして何かされる前に、すぐさまベルトを外しにかかった。慌ててさえいなければ元々器用なほうなので、バックルは簡単に外れる。皮の板をしゅるしゅるっと引き抜くと、そのまま黙ってスラックスのボタンを外し、ファスナーを下ろした。
「近頃、積極的だな。慣れてきたのか?」
 嬉しそうな夫の発言を無視して、パンツも半分擦り下ろす。この時、既にミノリの顔は茹蛸のように真っ赤になっていたのだが、彼女は「そんなことはない」と自分に言い聞かせて作業を続けた。
 現れた男性の象徴は、立派に機能しており。
 ミノリは恐る恐る「それ」の先端に触れると、指先でこちょこちょくすぐる。フフッと笑うクラウス。
「ここは、いまいちですか……?」
 困惑気味に問うミノリに対し、彼は余裕で「そうだな」とだけ答えた。悔しくなった彼女は素早く腹這いになると、邪魔な毛を耳に掛けつつ、かぷっとクラウスの性器を咥え込んだ。
「……っ!」
 妻の動きを逐一目にしていたものの、急にかぶり付かれると思っていなかったクラウスは、突然の感触に思わず息を呑む。ミノリの「上の口」は「下の口」と同様狭いので、否が応にも男性の敏感な部分が刺激されるのだ。その上、なかなかに舌使いが上手く、少し気を抜くと持っていかれそうになることは以前の経験から解っていた。
 しかし夫のプライドなど知ったことでないミノリは、咥え込んだ下半身がぴくりと反応したのを感じ取ると、鼻で息継ぎをして舌を動かし始める。恥ずかしながらも彼のために購入した如何わしい雑誌から得た知識を元に、男性器を頬張りつつ、裏筋を幾度も強めに舐め上げ、雁首をつつき、更には空いた手で優しく竿を扱き、悪戯に陰嚢や臀裂を弄ぶ。顎が疲れてきたら一旦口を離し、今度は玉袋を頬張って柔らかく吸った。思わず「っあ……」と声を漏らすクラウス。
「ミノリ……もういい……」
 彼の切なげな訴えを聞き、ミノリは自信を得る。形勢逆転だった。
 鬼頭を唇で軽く挟んだまま上目遣いで夫を見上げれば、相手は顔を歪めてこちらを見下ろしている。多少の優越感と、経験豊富な彼を悦ばせることができた嬉しさに浸りつつ、ミノリはより深く男根を咥え込んだ。
「もういいからっ……」
 睾丸がせり上がってくるのを感じ取ったクラウスは、慌てて妻の肩を掴み、無理矢理引き剥がそうとする。が、あろうことかミノリは、鬼頭から口を離すと可愛らしく微笑んで「出してもいいですよ……?」などと宣った。
 快楽の中心は、再び暖かい粘膜に包まれる。もう我慢できなかった。
 クラウスは初めて、妻の口内へ精を放つ。全身の筋肉を強張らせ、びくっ、びくっと肩を震わせつつ溜まったものを出し切ると、彼は「はぁ……」と溜息を吐いた。それは満足感と征服感、自己嫌悪とをない交ぜにした、複雑な感情の込もったものだった。
「……すまない……」
 弱弱しく謝るクラウス。同時に、ミノリはチュッと鬼頭を吸い上げ、口の中のものをごくんと一息に飲み干した。意外な行動に、クラウスは目を丸くする。
 ミノリは少し間を置いて、いかにも苦々しげに顔を歪めた。
「…………」
 何も言わなかったが、どうやら相当不味かったらしい。クラウスは申し訳なく思いつつ、彼女の頭を優しく撫でる。
「……すまなかった」
 二度目の謝罪に、ミノリは作り笑いを返した。
「……いえ。……えっと……美味しかった……? です……」
 どこでそんな台詞を覚えてきたのやら。クラウスは力なくハハッと笑い、愛しい妻の濡れた唇を指で拭った。
 
「二度目は無い」のが通例なのは、夫婦間の暗黙の了解である。
 クラウスは達した後の甘い余韻に浸りつつも、申し訳なさでいっぱいだった。同時に、少々悔しくもあった。
「ミノリ……お前はまだ、一度も達せてないよな?」
 確認すれば、ミノリはぽっと頬を染めて気まずそうに視線を外す。そのまま何も答えなかったが、満足できていないことは明白だった。これはいかん、と疲労感を振り払う年上夫。もっとも、気合を入れたところでそう簡単に勃つものでもない。
 クラウスは、とりあえずミノリを抱き締める。そして雰囲気を壊さないよう、それとなくキスをしようとした―が、顔を背けて避けられてしまった。内心焦る。
「どうした……?」
「えっと、その……」
 夫から訝しげに問われたミノリは、もごもごと言葉を濁した。それでも黙って見詰められたまま発言を待たれ、仕方なしにぽつりと理由を零す。
「飲んじゃった……後なので……」
 その一言で、愛妻家の生気は一気に五割ほど回復した。瞳に光を戻した彼は、唐突かつお構いなしにミノリの唇を攫う。
「!?」
 一瞬、驚きで目を見開くミノリ。が、すぐに受け入れて瞼を閉じ、彼のキスに応え始めた。二人きりの静かな室内に、ちゅっ、ちゅっと濡れた音が響く。
 舌を絡め合いながら、クラウスはミノリの下半身へ手を伸ばした。腿を撫でるようにして、柔らかな曲線を縁取るスカートを再びたくし上げれば、即座に下の毛が露わになる。彼の指は、妻の秘部を容易く探り当てた。
 下着を脱ぎ捨てていたからか、そこは既に乾いていた。激しい熱情がない分、すぐに濡らしたいという欲求も薄かったクラウスは、手始めに四本の指先で亜麻色の薄毛を優しく撫でる。次は、足の付け根。内腿。スカートの下をまさぐり、くすぐるように愛撫するが、敏感な場所には決して触れない。
 最初はキスに夢中で彼の手の動きには無反応だったミノリだが、徐々に様相が変化してくる。解りやすい性感帯以外にも感じやすいポイントがあるようで、そこへ触れる度、ぴくんと体を震わせ、口端から「んっ……」と声を漏らすようになった。五分も経てば音の頻度は更に増し、四肢の力が抜けた彼女はクラウスに縋り付く。
「っ……ふ……ぅ……」
 クラウスは、切なげに身じろぎ始めた彼女から唇を離す。仕掛けた自分も、少し息が荒くなったのを感じた。ようやく「もっと乱してやりたい」という欲求が頭をもたげる。
「ミノリは脚を撫でられただけでも、声が出るほど感じるんだな」
 わざと耳に息を吹きかけつつ低い声で指摘すると、ミノリの小さな耳殻が一瞬で真っ赤に染まった。あまりの可愛らしさに、クラウスは思わず目の前のそれをぱくっと口に含んだ。
「やっ……あ」
 細やかな愛撫で焦らされ続けて敏感になっていたミノリは、想定外の刺激に声を上げる。クラウスはそんな妻を弄ぶように耳を犯しながら、下半身を撫で回していた手を上へ移動させ、薄桃色の小さな突起を、何の前触れもなく強かに摘まんだ。「ひゃんっ」と快い声を聴かせて貰えた事で気を良くした彼は、調子に乗って今度は彼女の膣内へ少々乱暴に指を突っ込む。
「あっ……う……」
「『ここ』には一切触れなかったのに、もうこんなになってるのか。おかげで、すんなり指が入っちまった」
「やぁ……だ……ぁんっ……」
「軽く三本はいけそうだな」
「あっ……や……あっ! ……あぁ……」
 意地悪く実況されても反撃する余裕のないミノリは、びくん、びくんと震えながら喘ぐ事しかできない。対してクラウスは余裕の笑みを浮かべ「やはり攻めるほうが好きだ」などと悠長に思っていた。
 始めと同じく、達せそうで達せない快感を無慈悲に与えられ続けるミノリ。再び白んできた頭で「おねがい……」と懇願する。
「ん? どうして欲しいんだ?」
 そう問われて、何故か急にミノリの思考の一部分が冷静になった。本当に「一部分」だけであり、大部分は享楽に溺れていたのだが。それでも、彼女はその一部分で考え始める。こういう時、いつもなら「クラウスの……」などと答えて彼を喜ばせているけれど、今はその回答が使えない、と。理由はお察しである。
 本音を言えば「そろそろ挿れて欲しい」と思っていた。いくら恥ずかしがって否定したところで、抗えぬ本能なのだろう。指よりもっと太い物で満たし、掻き回し、滅茶苦茶にして欲しかった。が、しつこいようだが、今はそれを要求することはできない。
「い……イかせて……くださ……」
 仕方なくこう答えれば、妻の思惑など露知らず、クラウスが心底嬉しそうに口角を上げる。ところが彼は指の動きを激しくするどころか、またもやそれを引き抜いてしまった。ミノリは元々潤んでいた瞳に、更に涙を滲ませる。縋るようにクラウスの腕へ触れてみても、彼は意地悪い微笑みを向けてくるばかりで、何もしてくれない。
 ミノリは文句を言うように「うぅ……」と小さく唸って、彼の下半身へ手を伸ばした。クラウスにとってそれは想定外の行動だったが、悪い気はしないので妻の好きにさせておく。と、彼女は力足らずな竿を無視し、その下に二つぶら下がる繊細な球体を、片方の手の中で優しく転がし始めた。クラウスは緩い心地良さに浸りながらも、どこでそんな技術を身に着けたんだ―と、若干不安になった。
 黙々と続けられる、核への労り。クラウスは、徐々にその場所へ血液が集中してくるのを感じた。情けなく下を向いていた彼の半身も、時折ぴくんと反応しながら堅さを増していく。
「……少し勃ってきたな」
 何気なく、しかし複雑な表情で呟かれたその言葉に、ミノリはぽっと頬を染めて心持ち嬉しそうにはにかんだ。
「そうですか?」
 予習で得た知識に対する裏付けが取れた彼女は、思い切って再びうつ伏せになり、またも突として、湿った陰嚢をぱくっと口に含む。そして、大きな飴玉でも舐めるかのように、片方ずつ舌の上でころころと転がし始めた。その奉仕は、萎んだ夫を復活させるに十分だった。
「おっ、勃ったぞ」
 何故か実況するクラウス。それを受けたミノリは、即座に起き上がった。が、素直に「欲しい」と言える雰囲気を逃してしまっていたので、言葉に詰まる。
「えっ……と……」
 もじもじする妻を前にして、まずは言葉の続きを待とうと考えたクラウスだったが、たった三秒でまどろっこしく思えてきた。彼は黙って妻の胴を鷲掴むと、ぐるんと回して軽々しく俯せに押し伏せる。当然、ミノリは驚き焦り、上半身を捻って不安げな表情で夫を見返した。
「あっ、あの……?」
 しかし彼女がその行為に対して物申す間もなく、クラウスはミノリの腰を掴んで引き上げると、スーツのスカートを捲って尻を丸出しにした上で、性急に秘所の濡れ具合を確認した。少し乾いてきてはいたものの潤いは十分だったので、むしろ完全に乾かぬ内にと、彼は花弁の隙間へ自身の先端をぴたりと宛がう。
 そして、そのままぐぐっと押し入った。
「はぁ……あぅ……っ!」
 ミノリが、甘く苦しげな声を上げる。掛布団をぎゅっと掴み、背広をひくひく震わせながら発せられたその声が、痛みによるものでないことは明白だった。待ちに待ったであろう一物を受け入れた妻の後頭部を見下ろし、クラウスは征服感に口元を歪める。
 後背位で致すこと自体はそれほど珍しくもないが、乱れたスーツは最高のエッセンスだった。
「仕事中の会社員が悪い事でもしているみたいで、燃えるな」
 クラウスは今更ながらタイを緩め、シャツの第一ボタン、第二ボタンを外す。
「……なあ、ミノリ?」
 意地悪くコメントを求められ、ふるふると首を横に振るミノリ。彼女は涙混じりに「うぅ……」と小さく呻いただけだった。
「せっかくのスーツがぐちゃぐちゃだ」
 クラウスは荒い息と共に述べつつ、一度だけ、大きく腰を叩きつける。
「っあ……ん!」
 堪らず吐き出された妻の嬌声に、クラウスの背筋がゾクゾクと震えた。彼は「いい声だ」と褒めてやり、ゆるゆると腰を動かし始める。
 たくし上げられたフォーマルなグレーベージュのスカートから、白く滑らかな臀部があられもなく露出している様は、例えようもなく淫靡だ。クラウスは己を急かす性欲をいなし、極力ゆっくりと分身を抜き差ししながら、絹のようなその肌を撫で回す。
「壇上で演説していたお前が、同じスーツをこんなに乱していやらしい事をしているなんて、講演を聞いていた奴らが知ったらどう思うだろうな?」
 彼の言葉に、ミノリは母校に集った友人たちの面々を思い出し、恥ずかしさでかあっと熱くなる。同時に、夫のものを包み込む肉壁がきゅっと締まった。クラウスの下半身に、ゾクリと快感が走る。
「ん? 想像して感じたか?」
 嗜虐心を煽られた彼は、いかにも楽しげに年下の妻を虐める。言葉で責めつつ、徐々に乱暴に腰を振り始めた。
 グチュッ、グチュッ、と粘膜の擦れ合う音が一定のリズムを刻む。最初の内は声を抑えていたミノリだが、次第にその音に合わせて「んっ……ぁんっ……」と濡れた声を漏らし始めた。
「可愛い声だ……こんな声、誰にも聞かせられないな」
 そう言ってクラウスは、躰の往復を止めないままミノリの腹から秘部へ手を伸ばし、充血してぷっくりと膨らんだ芽を軽く捻った。瞬間、ミノリは艶めかしい悲鳴を上げる。
「やぁっ……ん! ……あぁ……あっ……!」
 同時に、彼女の中がびくびくと脈打った。どうやら、先に達してしまったらしい。クラウスが動きを止めれば、ミノリは虚ろな瞳でハァハァ息をしながらも、おぼろげな意識の内に呼吸を整えようとする。
「何だ、先にイッちまったのか?」
 ミノリは、「クラウスのほうが先だった」とは、気付いていても指摘しなかった。無論、そんな不都合な事実などとうに忘れているクラウスは、「悪いが、まだ終わりじゃないぞ」などと得意げに宣いつつ、それ以上何も言わず、再び腰を振り始める。絶頂を迎え、より敏感になっていたミノリは、その刺激に再び甲高い声で囀った。
「っあ……! もぅ……やぁ……っ! あぁ……っ!」
 クラウスはひたすら激しく、彼女の最奥めがけて楔を打ち続ける。突起の先端にコツコツと子宮口を突かれる度、ミノリがしどけなく鳴いた。
 服装だけは格式ばっているにもかかわらず、二人の行為はおよそ動物的である。腹を空かせた狼が仔兎を食すが如く、本能のままに肉棒を出し入れするクラウスと、抗えない悦楽に支配され、助けを求めるようにシーツをぎゅっと掴んで喘ぎ続けるミノリ。二人の競演は、前者の射精によって幕を閉じた。
 
 
 翌朝。シャワーすら浴びずにそのまま眠ってしまった二人は、一時間寝坊した。
 服を着たまま致したにもかかわらず何故か裸で抱き合って目覚めたが、お互い、その経緯は記憶に無く。ただ、目覚めた際の幸福感は、双方とも最高だった。
 クラウスは妻の肌の温もりを感じつつ、優しく微笑んで彼女の頬に手を当てる。
「……おはよう」
 掠れた声で言えば、愛する妻も微笑み返す。
「おはようございます」
 外は快晴で、白い雪が朝日にキラキラと輝いていた。
 
 

四十二話 バニラアイス

 
 
 クラウスは妻の背に掛かる緩やかな亜麻色の髪を指先で退けると、彼女の背後から項へ顔を近付け、すん、と鼻を鳴らした。
(……やっぱり、変わっている)
 突然においを嗅いできた上、眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった夫を、ミノリは不安げな表情で肩越しに見上げる。
「えっ……と……、臭かったですか……?」
 困惑気味に問われたクラウスはハッとし、慌てて彼女から離れた。
「いや、何……いい匂いがしたから、つい、な」
 咄嗟に笑って誤魔化すクラウス。しかし彼の考えていた内容は「以前の体臭のほうが好きだった」などというしょうもないものであった。すぐに夫の嘘を見抜いたミノリは、顔を真っ赤にして訴える。
「臭いなら臭いって、はっきり言ってください。……恥ずかしいので……」
 そんな生真面目で可愛い若妻を前に、クラウスは多少の罪悪感を覚えた。そして焦りつつも、慎重に言葉を選んで弁明を始める。
「違うんだ。あー……、『甘いにおい』がする、と思ってだな……」
 そう。ミノリの体臭において、以前は強かった爽やかな「スズラン様の香り」が主張を弱め、どこか動物的で、甘く懐かしい芳香が強まっていたのだ。それは、「バニラアイス」を想起させる匂いだった。が、そう指摘しなかったのには理由がある。
 彼の言に納得したミノリは、ふわりとはにかんだ。
「そうですか? ……最近、『バニラアイス』ばっかり食べてるからでしょうか……」
 言うが早いか彼女は冷蔵庫へ向かうと、冷凍室から大きな角皿を取り出し、その足で台所からスプーンを持ってきて、ダイニングテーブルに着く。
「ちょっと、食べすぎかな……とは思ってるんですけど。でも、おいしいんですよ。バニラアイス」
 ニコニコ顔で「クラウスも食べますか?」と尋ねてくる妻を前に、彼は苦笑した。
(自覚はあったのか……)
 そして、静かに頭を振る。
「いや、オレはいい。……だが、ご飯もちゃんと食べろよ? 最近、そうやってアイスばかり食べては『お腹いっぱい』なんて言って夕飯を残すだろう。体を壊すぞ?」
 ミノリはスプーンの先端を唇で挟み、難しい顔で「うーん……」と唸った。
「……そうですね。気を付けます」
 
 
 翌日。
「ほら、言わんこっちゃない」
 クラウスはぐったりとソファに横たわるミノリを前にして「はぁ……」と溜息を吐いた。
 朝から、どうも彼女の顔色が悪いとは思っていた。朝食はいつも通り平らげたものの、食後のトイレがあまりにも長過ぎるので様子を見に行ってみれば、扉越しに聞こえてきたのは嘔吐く音。「大丈夫」と言い張って仕事へ出かけようとする妻をやんわりと叱りつけ、宥めすかし、ひとまずソファに寝かせて今に至る。
「今日は、仕事を休め。オレも付いて行くから、これから一緒に診療所へ行こう」
「そんな……大袈裟ですよ。きっと、アイスの食べすぎでお腹を壊しちゃっただけです。少し休めば大丈夫ですよ」
 力なくへらへら笑う緊張感の無い妻に対し、クラウスは厳しい目を向けた。
「そうやって素人判断するのは良くないと、さっき言ったばかりだろう。素直に言う事を聞きなさい」
「…………」
 ぴしゃりと諭され、反論できずにしょげるミノリ。
「スピカに荷車を付けてくるから、大人しく寝て待ってるんだぞ」
「いえ……私がやりますよ」
 素早く半身を起こした彼女の頭を、クラウスは同じくらいの素早さでクッションへ押し戻す。
「いいから、寝てなさい。オレが戻った時に起きていたら、後でお仕置きだからな?」
「お仕置き」という不穏な単語に、ミノリはぐぐっと下唇を噛んだ。悔しそうな妻を見下ろして、クラウスは満足げに「よし」と頷く。
「すぐに支度をしてくる」
 小走りに家を出て行く夫の背を見送ると、ミノリも「はぁ……」と溜息を吐いた。
 
 彼が戻ったのは、それから三十分後だった。どうやら、荷車の装着に手間取っていたらしい。ミノリは、だから私がやると言ったのに―と思いつつも、夫の優しさに深く感謝し、黙っていた。ちなみに、様子を見に行こうとして何度も上半身を起こしたり、思い直してクッションへ頭を沈めたりを繰り返していたことも、彼には秘密である。
「お待たせ。オレが手綱を握るから、お前は後ろで休んでいるといい」
 そう言われてふらつく足取りで外へ出てみれば、玄関に横付けされた荷馬車の上には、服が汚れないようしっかりとレジャーシートが敷かれ、ご丁寧にもペット小屋から持ち出したであろう座布団やクッション、ブランケットまで置いてあった。ミノリは、過保護だなあ―と思いつつも、やはり夫の優しさに深く感謝し、黙っていた。そして用意してくれた物の内、クッションだけはペット用であることも、あえて伝えなかった。
「さあ、行こうか。また吐きそうになったりしたら、すぐに言うんだぞ」
「はい。お願いします……」
 実は早くも吐きそうになっていたのだが、それも黙っていた。
 
 ゆったりと馬車に揺られる事、およそ一時間。振動によって殊更吐き気が増していたミノリはクラウスの肩を借り、這う這うの体でギルドを訪れた。
「クラウス、ありがとうございます……。歩いてたら、途中で倒れてるところでした……」
「ああ。大事を取って良かったな」
 クラウスは愛する妻の役に立てたことを嬉しく思う。が、それ以上に、彼女の容体が心配だった。
 単なるアイスの食べ過ぎにしては吐いても症状が治まらないし、今は起き掛けよりも具合が悪そうだ。振り返れば、ミノリは近頃、食事を残すことも多かった。まさか、何か深刻な病気に罹ってしまったのでは―
(もっと早く診療所へ連れて来ていれば良かったな……)
 今更思ったところで、遅いのだが。
 ミノリは体調を崩したり何か問題が問題が起きたりしても、人に心配をかけまいと本音を飲み込んでしまうことが多い。自己管理がなっていないと言ってしまえばそれまでだが、そんなところがまた、クラウスにとってはいじらしくて愛おしかった。だからこそ、夫である自分がもっと気を配ってやっていれば良かった―と、彼は後悔する。とは言え先に立たないので、大した病状でないことを祈るばかりだった。
 見るからに顔色の悪いミノリを慮ってか、ベロニカは目を合わせて軽く会釈しただけで、会話を持ちかけては来なかった。彼女の配慮を有難く思いつつ診療所の扉を開ければ、看護師のアンジェラが落ち着いた声遣いで案内してくれる。
「すぐに診察しますので、ミノリさんは中へ。クラウスさんは、ギルドの休憩所でお待ちください。何かあったらお呼びします」
 二人はその言葉に頷いて一瞬顔を見合わせると、それぞれ不安を抱いたまま、診療所の内と外に別れた。
 
 入り口から一番遠いテーブルの最端に陣取ったクラウスは、人目を気にして平静を装いつつ、ギルドの蔵書を読む振りを始める。しかし、その頭の中では最悪の想像がぐるぐると駆け巡っていた。
(もし、命に関わるような病気だったら……)
 自分も生きてはゆけない、と思った。ミノリのいない人生なんて、考えられない。
 いずれ、どちらかが先に旅立つ日が来ることは解っている。が、その別れがこんなにも唐突に訪れてしまったら、とてもじゃないが耐えられない―そう考えた彼の背筋に、じわりと冷や汗が滲む。
(……いや、大丈夫だ。そんな筈はない。きっと、アイスの食べ過ぎだ)
 彼は自分を落ち着かせ、ふぅ、と鼻から息を吐いた。
―その瞬間。
「……クラウスさん?」
 不意に名前を呼ばれ、びくっと肩を震わせる。
 目を剥いて振り返れば、そこには見知ったギルドマスターの姿があった。
「ああ……ベロニカさんか」
 ほっと息を吐くクラウス。クスリと一笑して「ええ」と応えたベロニカは、すぐに真顔になった。
「……ミノリさんですが、どこか具合が悪いのですか?」
「ああ。今朝から顔色が良くなかったので、診療所へ連れて来たんだ」
「そうですか。……最近、色々と無理をさせ過ぎてしまったでしょうか……」
 暗い表情で面を伏せた彼女へ、クラウスは「ハハッ」と作り笑って見せる。
「……いや、そういうわけじゃないと思う。食べ過ぎか何かだろう」
 そうであってくれれば―という思いも込めて、彼はそう答えた。ベロニカも、少し安心した様子で微笑み返す。
「……そうですか」
 暫時、静寂が訪れた。
 お互い黙って話題を探していた二人だが、先に口を開いたのはベロニカだった。
「……ミノリさんはお若いのに本当に頼りになるので、少々甘えすぎてしまっていたかもしれませんね……」
「本当に頼りになる」ギルドマスターが、瞳を伏せてぼやく。クラウスは内心驚きながらも、「いや、」と静かに否定した。
「あいつは好きで牧場主をやっているから、仕事が認められる度に生き生きしているよ。……まあ、人前に出るのは少々苦手みたいだが……」
 そう答えたところで、またも出し抜けに、背後から声がかかる。
「クラウスさん。お話し中のところすみませんが、よろしいですか?」
 クラウスは再び、びくっと肩を震わせた。
 慌てて振り返れば、今度はアンジェラがそこに立っていた。
「あ……ああ。結果が出たのか?」
「はい。クラウスさんにもお話があるので、診療所へお願いします」
 一瞬で気分を変え、ごくりと固唾を呑むクラウス。夫の自分にも話があるとは、ミノリの身に一体何があったのだろう―無意識に、全身の筋肉が強張った。
「……分かった」
 それだけ答えて、彼は結果を急くようにすたすたと歩き出す。その後を着いて行くアンジェラと、心配そうに二人を見送るベロニカ。
 アンジェラは先にクラウスを診療所へ入れると、扉を閉める直前に後ろを振り返り、唇に人差し指を当て、母へ向けて薄く微笑んだ。
 
 診療所へ入ったクラウスの目には、えんじ色の椅子に座るマリアンが映っただけで、愛する妻の姿は視認できなかった。冷静さを欠いていたクラウスは、真顔で旧友に詰め寄る。
「マリアン。ミノリの具合はどうなんだ? 何かの病気か?」
 問われた側は、彼の珍しい様相を心の中で笑いつつ「落ち着いて」と諭した。
「大丈夫よ。とりあえず、見て欲しいものがあるの」
 そう言ってマリアンは、入院用のベッドが並ぶ隣の部屋へと彼を誘う。ミノリは一番奥の陽の当たる場所で、点滴を打たれながら眠っていた。クラウスの顔が、さあっと青くなる。
「重症なのか……?」
 マリアンは堪らず、ププッと噴き出した。
「……大丈夫って言ってるでしょ? とにかく、黙ってそこへ座りなさいよ」
 示された丸椅子へクラウスが渋々腰を下ろすと、同時にミノリが目を覚ます。
「あっ……クラウス」
 ふにゃりと笑う妻を見て、彼女の夫は少し安堵した。顔を合わせた二人が穏やかに微笑み合っている間、マリアンはミノリに掛けられた毛布を手際良く捲り、上衣をたくし上げ、腹部を露わにする。その行為に気付いたクラウスが訝しげな表情を向ければ、敏腕医師はミノリの下腹部に透明なゼリーを塗りつつ、ニヤリと口角を上げた。
 ここへきて、ようやく諸々を察するクラウス。
「おい……、まさか……?」
 マリアンは黙ったまま手を拭うと、コード付きの器具をミノリの肌に押し当てる。すると、すぐさまベッド脇のモニターに、不鮮明な白黒の映像が映し出された。画面の中でもぞもぞと動く、小さな白い『何か』を指差して、マリアンが告げる。
「クラウス、おめでとう。この子が、貴方たちの赤ちゃんよ」
 青天の霹靂に、彼はぽかんと口を開けた。が、すぐに閉じて、ごくんと唾を飲む。そして情けなく口元を揺るめ、瞳に涙を滲ませた。
「……赤ちゃん? それじゃ、気分が悪そうだったのは……」
「妊娠中に出る症状の一つね。体の状態はいたって健康。今、ミノリちゃんに打ってるのは、つわりを軽減する点滴よ」
 クラウスがもう一度ミノリの顔を見れば、彼女は再びニコッと微笑む。
「えっと……そういうこと、でした。……赤ちゃん、楽しみですね」
 はにかみ微笑う妻から優しい声で語りかけられ、これから父親になろうとしている男は、ずずっと鼻を啜った。
「そ、そうか……。オレたちの間に、子供が……。そうか……」
 そこへ水を差すように、医師のマリアンが「そ。」と口を挟む。
「良かったわね~。でも、ミノリちゃんは体に気を付けてね。今までみたいに、無理しちゃだめよ。なかなか実感が沸かないかもしれないけど、もうあなた一人の体じゃないってこと、しっかり自覚しなさい」
「はっ……はい」
 ミノリは横になったまま、神妙に頷いた。マリアンは「よろしい」と言って、今度は友人に向き直る。
「クラウスも夫として、ミノリちゃんのこと、今まで以上に気を付けて見てあげるようにね。出産の時は、今日みたいに、あんたが連れてきてあげなきゃいけないこともあるかもしれないわ。きちんと準備しておくのよ?」
「ああ……分かった」
 ずびっと鼻水を奥へ追い遣ってから、充血した目のクラウスも首を縦に振った。
 
 
「ミノリ……体は大丈夫か? 辛くなったりしたら、今度はすぐに言うんだぞ?」
 ソファに腰かけて夫の肩へ頭を預けたミノリは、心底幸せそうな微笑みを浮かべて「はい」と返事する。その頭を、クラウスが優しく撫でた。
「それにしても、オレたちの子供か……。急な話でまだ実感が沸かないが、嬉しいな」
「そうですね」
 フフッと笑うミノリ。クラウスも、つられてクスッと笑いを溢す。
「これからは、父親として今まで以上に頑張っていかないとな。……産まれてくる日が楽しみだ」
 そう言って彼が鼻先を寄せた妻の頬は、ほんのりバニラアイスの香りがした。
 
 
 終