【クラミノR-18】樫の下に君の影 -恋人編-

「牧場物語 つながる新天地」の準プレイ日記的な妄想クラミノ小説。
二次設定多め、一部R-18、基本的にいちゃこらしてるだけです。
ハピカブ合わせで発行した同人誌の中身(全部)です。

ピコ通販にて同人誌版を頒布しております。
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私は18歳以上です【ENTER】

一話 春雨にスズランの香り

 
 
(今日は、一日雨か)
 コーヒーの香ばしい匂いを吸い込みつつ、クラウスは窓際に立って、しとしとと降り続ける雨粒をぼんやり眺めていた。
 こんな日では来客もなかろう。レコードを聴きながら、ソファで読書でもしようか―そんなことを考えていた矢先、コツ、コツ、と玄関扉を叩く音が室内に響いた。彼は少し眉間に皺を寄せたが、すぐに涼しい顔を取り繕って扉を開ける。
「はい」
 そこに立っていたのは、見知らぬ少女だった。
「あの……こんにちは」
「ん? 見掛けない顔だな」
「はい。一週間前に引っ越してきたばかりなので……。はじめまして。ミノリといいます」
 そう名乗った少女は気まずそうに微笑み、水色の傘の下でぺこりと一礼した。僅かに水分を含んだ亜麻色の前髪が、額に張り付いている。彼女の自己紹介を受け、クラウスは先日マリアンとレストランで交わした会話を思い出した。
「ああ、新しく来たっていう牧場主か。オレはクラウスだ。この町で調香師をしている。これからよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 ミノリと名乗った少女は、弾かれたように再度ぎこちなく腰を折った。バネ人形のように滑稽なその動きに、クラウスは思わず口元を緩める。
「オレに何か用か?」
「あっ、はい。マリアン先生から、クラウスさんが香水を作るお仕事をされていると伺ったもので……。安眠効果のある香水を、作っていただけませんか?」
 彼女はほんのり頬を染め、傘を持っていない左手でエプロンの裾をぎゅっと握りしめた。かなり緊張している様子だ。クラウスは「どう対応したものか」と心の内で苦笑した。
「ああ、構わないが……。とりあえず、入ってくれ」
 彼が出来る限り明るい調子で促すと、ミノリは静かに傘を畳んでレンガ造りの外壁に立て掛け、小さく「おじゃまします」と呟いて敷居を跨いだ。
「そこのソファに座っててくれ」
「はい」
 ソファに腰を落とした客人の姿を横目で確認し、クラウスはキッチンへと向かう。
「一口に『安眠』と言っても、いろいろある。病気が原因かもしれないなら、まずマリアンのところへ行ったほうがいいと思うが……」
 話しながら戸棚から茶葉の缶を取り出して、慣れた手つきで二人分の紅茶を淹れ始めた。その背中をそわそわと窺いつつ、ミノリはぎゅっと自分の両膝を握る。
「いえ。病気だなんて、そんな大したことじゃないんです。ただ、ちょっと寝付きがよくないだけで……」
「何か、心配事でもあるのか?」
「いえ。あ……っと、……ただの、ホームシック……かと……」
 二つのティーカップを手にクラウスが振り返れば、そこには顔を真っ赤にしてバツが悪そうに縮こまる少女の姿があった。彼は、吹き出しそうになるのをすんでのところで耐えた。
「今までも、寝る前に、よく眠れるように香水をつけていたんです。……けど、使い切ってしまったので」
 カチャリ、カチャリ、とカップを机に置きつつ、クラウスは彼女がわざわざ調香師を頼ってきた理由について納得した。
「確かにこの町では、その手の香水は手に入りにくいからな」
「……はい」
「分かった。すぐに調香してやろう」
「あっ、いえ。急ぎでなくてもいいんです。他のお仕事が終わってからで……」
 慌てて頭を振るミノリを、クラウスは「大丈夫だ」と片手で制した。
「難しい調香ではないからな。安眠だとか痛みの緩和だとかは、ある程度レシピが決まっているんだ。すぐに出来るから、少し待っていてくれ」
「……はい。ありがとうございます」
 クラウスは仕事机に向かいながら、若く可愛らしい少女からの依頼に、ほんの少し胸が高鳴るのを感じた。要件を満たすだけであれば戸棚から既成のレシピ本を引っ張り出してその通りに作業をするだけで十分だったが、そこにもう少し手を加えてやろう。思わず、そんなことを考えてしまうくらいに。
(ぱっと見だが、この子のイメージだと……スズラン辺りか?)
 若く、瑞々しく、清楚。まだ何ものにも染まっていない、爽やかな白。それでいて、しっかりと仄甘く自己主張をしてくる。クラウスはラベンダーやカモミール、マジョラムといった精油を配合するだけの既存のレシピに、ほんの少しスズラン風の香りを加えた。
「ほら、出来たぞ。とりあえず二週間分だ。気に入ったらまた来るといい」
「ありがとうございます」
 飾り気のない小瓶をそっと両手で受け取ると、ミノリははにかんだ微笑みを浮かべた。が、次の瞬間、その表情はぱっと真剣なものに変り、大きなチョコレート色の瞳が真っ直ぐにクラウスを見上げる。
「あの、お代は……」
 クラウスは彼女が皆まで言い切る前に、それを手で制した。
「今回は結構だ。まあ、あれだ。引越祝いってことで、な」
「そんな、申し訳ないです」
「こういう時は、素直に受け取っておいたほうが可愛げがあるぞ?」
 ハハッと笑いながら、クラウスはミノリの頭をポンポンと優しく叩いた。
「……はい。ありがとうございます」
 耳まで真っ赤に染めて俯き、消え入りそうな声でそう呟く少女。
「……では、わたし、これから牧場の仕事があるので……失礼します」
 ぺこっと頭を下げ、慌て気味に部屋を後にしていった。その背中を見送りきってから、クラウスはクスリと笑う。
(ずいぶんと可愛らしい子が越してきたものだな)
 それは妹か、ともすれば娘に抱くような感情だった。このときは、まだ。
 
 

二話 キャロットジュース

 
 
 午前十時。クラウスは書棚から調香の基礎レシピ本を引き抜くと、作業机の片隅に置いた。それとほぼ同時に、玄関扉がコンコンとノックされる。誰が訪ねてきたのかは大方検討が付いた。
「こんにちは」
 半分ほど開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは、案の定、ミノリだった。ここ一週間、香水の礼と称して毎日のようにキャロットジュースを差し入れに来るのだ。しかも訪ねてくる時間は、大体が午前の仕事が終わる頃。律儀なことである。
 クラウスは春の空気と一緒に、僅かに香るラベンダーとスズランの香りを吸い込んだ。
「ああ。今日は暖かいな。過ごしやすい、いい天気だ」
「そうですね」
 ミノリがふわりと控えめに微笑む。小柄で、見た目もどこか幼さが残るが、こういう表情をする時は少し大人びて見えた。
「あっ、これ。今日の分のキャロットジュースです」
「いつも悪いな」
「いえ。あと、これも。空の香水瓶なんですけど……その……また、調香をお願いできますか?」
 幾分申し訳なさげに差し出された空瓶を、クラウスは「ああ」と軽く頷いて受け取る。そして、ふと思いついたように「そうだ」と切り出した。
「ちょうど、お茶の時間なんだ。飲み終わったらすぐに調香してやるから、一緒にどうだ?」
 途端に、ミノリの表情が曇る。
「えっ……でも、おじゃまでは……?」
「そんなことはない。それに、たまには若い子の話でも聞いておかないと、老ける一方だからな」
 客人に気を遣わせないよう、おどけた調子で誘う彼の言葉に、ミノリはクスッと笑った。
「そんなこと言って……クラウスさん、全然お若いじゃないですか」
「それは嫌味か?」
 クラウスもククッと笑いをこぼし、ミノリの頭を小突く。
「嫌味だなんて、そんな。本心ですよ」
「まあ、どっちでもいいさ。周りからどう見えても、中年に片足突っ込んでるおじさんなのは動かぬ事実だからな」
 そんな他愛のない会話を交わしながらミノリを招き入れると、彼は手早く二人分の紅茶と一人分の焼き菓子を用意した。
「……クラウスさんは、お菓子、食べないんですか?」
「ああ。オレは甘いものは苦手なもんでな。取引先から仕事のお礼だとかでよくお菓子を貰うから、こうして家には有り余っているんだが。ミノリは、甘いものは好きか?」
「はいっ。大好きです」
 出会って以降、どこか遠慮がちで大人しめだったミノリが、このとき初めて大きな瞳を輝かせてはっきりと返事したので、クラウスは思わず失笑してしまった。そんな彼の反応にミノリはふっと笑みを消し、口を尖らせて尋ねる。
「……何か、可笑しかったですか」
「いや、なに。ミノリがお菓子好きだということが、よく伝わってきてな」
「大好きですよ。……つい、返事に力が入っちゃいました」
 ほんのり頬を染め、コホンと小さく咳払いをし、彼女は居住まいを正して紅茶を一口啜り―咽せた。その一連の流れに、クラウスは笑いを堪えるのに必死だった。
「大丈夫か?」
 激しく咳込みながらこくこくと頷き、「きっ、気管にッ……ゴホッ、入っただけです……」と、必死で大したことのない風を装うミノリ。
ああ、可愛いな。もし妹か娘でもいたら、こんな気分になるのだろうか―そんなことを考えながら、クラウスは目を細めて彼女を眺めていた。
 その視線に気付いたミノリは急いで息を整えると、すまし顔で紅茶を啜りなおし、ツンとした声音で宣う。
「そんな、子供を見るような目で見ないでください」
 しかし、顔は上気して真っ赤だ。クラウスは尚も笑いを押し殺しながら、おしゃまな子供をなだめるような調子で「降参だ」と言うように両の手を半分挙げて見せた。
「悪かったよ。つい、な」
「……」
 無表情のまま彼に一瞥をくれ、無言でお菓子を食べ始めたミノリを前に、流石に怒らせてしまったか、とクラウスは少し後悔した。音のない空間に、カチャカチャとフォークの音だけが響く。
 黙って向き合うこと、およそ一分。気まずさから逃げるように、クラウスはソファを立った。
「それじゃ、調香してくるよ。ミノリはゆっくりお菓子を食べていてくれ」
「……お願いします」
 棘のある声色で、ミノリはぼそりと応えた。
 
 
 結局、その日の内に彼女が機嫌を直すことはなかった。
 
 

三話 特別な調香

 
 
「昨日は、すまなかったな」
 クラウスの第一声は謝罪の言葉だった。バツが悪そうな様子の彼に、ミノリは慌てて首を横に振って見せる。
「いえ、私の方こそすみませんでした。大人げなかったです……。あっ、これ、いつものです」
 ミノリは鞄からキャロットジュースの瓶を取り出すと、クラウスに渡した。昨日も香水の代金を受け取って貰えなかったため、お馴染みとなったお礼の品を持参したのだった。
「ありがとう。正直、もう来てくれないかと思ったよ。ほっとした」
 クラウスは軽く笑いながら冗談めかして言ったが、本心だった。もっとも、彼女が来なくなったからといって実損はないのだが、「女性を子供扱いして本気で怒られ、喧嘩別れしました」とあっては、気分的にも世間体的にもよろしくない。
「わたし、よく子供に見られるんです。でも、そういうの、あんまり好きじゃなくて……。それで、ついカッとなってしまいました。ごめんなさいっ」
 勢いよく頭を下げるミノリ。「そういう素直過ぎる言動が子供扱いされる遠因じゃないのか」と喉まで出かかったが、クラウスは同じ過ちを繰り返すまいと言葉を飲み込んだ。
「お詫びと言っては何だが、今日もお茶をご馳走させてくれ。お菓子も用意してあるぞ」
「お菓子」と聞いたミノリの瞳に、一瞬、ぱあっと光が差す。が、それはすぐによそ行きの微笑に取って代わった。
「ありがとうございます。ぜひ、ご一緒させていただきます」
 
 
 クラウスの家の中は、甘い香りに満ちていた。調香師の仕事場なのだからいつものことではあったが、特にこの日は一段と香りが強かった。ミノリがそれを指摘すると、クラウスは「さっきまで調香の作業をしていたんだ」と答えた。
「ひょっとして、お仕事中でしたか? すみません……」
「いや、今日のは仕事じゃなくて、暇潰しみたいなものだ。気にしなくていい」
 謝るミノリに対しクラウスは慌ててそう説明したが、彼女は自分に気を遣わせないための虚言と捉え、申し訳なさげな視線を向ける。
「作業途中でしたら、お茶はまた今度でも……」
 断ろうとするミノリを見下ろしながら、クラウスはどうしたものかと考えた末、「そうだ」と切り出した。
「せっかく来てくれたんだ。毎日牧場仕事を頑張っているミノリのために、とっておきの香を調香してやろう」
 途端に、彼女の面差しが明るくなる。よくまあ、こうもくるくる表情が変わるものだとクラウスは目を細めた。
「わたし、一度調香の作業って見てみたかったんです。……あっ、でも、いいんでしょうか? いつも香水を作っていただいてるのに、その上……」
「構わないよ。暇潰し、だからな」
 ミノリはほっとした顔で、親を追いかける雛鳥のように、作業机へ向かうクラウスの後をてくてくと付いていった。クラウスは椅子に掛けると、調香台に置かれた香料からいくつかを選び出して手元に置く。
「よし、それじゃすぐ完成させるから、少し待っていてくれ」
 
 
 そうして出来上がったのは、ふんわりと優しい香りのマッサージオイルだった。クラウスはムエットをミノリに差し出す。
「どうだ? 少しカモミールを足してあるんだが……」
 ミノリは紙の上を小さな手で煽り、すう、と香りを吸い込むと、幸せそうに深く息を吐いた。語彙力への自信のなさから、どう答えたものか少し迷ったが、結局、思ったことをそのまま述べる。
「なんだか、とっても優しくて、気持ちが落ち着く香りですね」
 その感想に、満足げに頷くクラウス。
「そうか。そう思って貰えたなら良かった。意図した通りだ」
 彼は出来上がったオイルを慣れた手つきで青いボトルに詰めると、それをミノリに手渡した。
「緊張して眠れない時にでも使うといい」
「ありがとうございます」
 ミノリは、心から嬉しそうに礼を言った。こんな風に喜んで貰えるのであれば、また作ってやってもいいな―そう思わせるような笑顔だった。
「ああそうだ、お茶にするのをすっかり忘れていたな。貰い物だが、ケーキがあるんだ。オレは食べないから、落ち着きついでに食べていくといい」
 その言葉に、彼女の瞳が輝きを増す。周りの空気までもが、キラキラして見えるほどに。
「ケーキ、大好きですっ。嬉しいです」
 子供扱いされたくないとは、どの口が言ったものか。クラウスはハハッと笑った。
「ミノリには香よりもお菓子を貰うほうが、癒し効果があるみたいだな」
「……また、やっちゃいました」
 どこかで聞いたようなやり取りである。ミノリは顔を真っ赤に染め、恥ずかしそうに足下へ視線を落とした。クラウスは笑いを噛み殺しながら、昨日の失敗を踏まえてフォローを入れつつ、うまいこと話題を逸らそうと試みる。
「いや、そういう素直なのは可愛くていいと思うぞ。飲み物はコーヒーで大丈夫か?」
 効果は抜群だった。ミノリは「可愛い」という単語に反応していっそう頬を赤らめながらも、その部分は聞かなかったフリをして、最後の問いにだけ答える。
「はい。……ミルクとお砂糖も、お願いします」
「よし、それじゃミノリのためにとっておきのコーヒーとおいしいお菓子を用意してくるとしよう。座って待っていてくれ」
 クラウスはコーヒーを淹れながら、堪えきれず、ミノリに悟られないよう、ククッと笑いを漏らした。
 
 

四話 行動は慎重に

 
 
 ミノリが牧場主となって、初めての夏。クラウスの家を訪ねるようになってから四週間が過ぎようとしていた。
 その日も変わらず、彼女は冷えたキャロットジュースを鞄に潜めて調香師の家の扉をノックする。しかし扉を開けた男性は、珍しく眉間に皺を寄せていた。
「ああ、ミノリか。すまない、今忙しいんだ。ちょっと待ってくれ」
「あっ、ごめんなさい……。では、出直しますね」
 申し訳なさそうに微笑んで踵を返そうとしたミノリの肩に何気なく手を置き、クラウスは彼女を引き留める。
「いや、せっかく来てくれたんだ。どのみち、この仕事が終わったらお茶にするところだった。もうすぐ終わるから、悪いがソファにでも座っててくれ」
 ミノリは家に上がると、言われた通りソファに腰を沈め、出された紅茶に口を付けながら、作業部屋へと戻っていくクラウスの背中を横目で見送った。
待っている間手持ちぶさたになった彼女は、きょろきょろと室内を見回す。家主の人柄を体現するように、シックな調度品で統一されたセンスの良い内装だ。部屋を満たす爽やかな香りも相乗効果をもたらし、とても居心地の良い空間を作り出している。
(落ち着くなあ……)
 ミノリは、ふう、と溜息を吐いた。
 牧場仕事は楽しいが、一人でいると次々やるべきことが思い浮かんでしまい、あまりゆっくり休む時間がない。ここ二週間ほぼ毎日の習慣となっているクラウスとのこのひと時は、彼女にとって貴重なものになっていた。
 何もせず、ただぼんやりしていると、だんだんと眠くなってくる。ミノリの瞼はゆっくり降りていき―やがて、小さな寝息を立て始めた。
 
 
「待たせて悪かったな。ちょっと仕事がたてこんでいて……」
 申し訳なさそうに言いながら仕事部屋から戻ったクラウスは、目下の状況を見て、ふと言葉を切った。
 ソファには、ゆるやかな亜麻色の髪を肩に落とし、すうすうと眠る少女。その寝顔の幸せそうなことといったら。
 クラウスは彼女の無防備さに呆れ返り、はあー、と盛大に溜息を吐いた。気丈に働いているとは言え、日頃の疲れが溜まっているのだろう。このまま寝かしておいてやりたいとは思うが、そういうわけにもいかない。
「ミノリ、起きるんだ」
 ゆったりと上下する華奢な肩に手を掛け、優しく揺すってやる。すると、小さく「んぅ……」と声を漏らし、ミノリは静かに目を開いた。
「……ああ……わたし、寝ちゃってたんですね……。ごめんなさい」
 寝ぼけ眼の少女は、うーん、と伸びをした。思わず頭を抱えるクラウス。
「ミノリ、お前なあ……。独身男の部屋に二人きりって状況で、寝入るやつがあるか?」
「……え? ああ、ごめんなさい……」
 寝てしまったことを指摘されたのだと思ったミノリは、すぐに謝った。しかしその反応からクラウスは、この子は自分が何を言われているのかイマイチ分かっていないな、と推測した。
「ミノリ、オレが何に対して呆れているか、理解してるか?」
「え? 寝てしまったことではなく……?」
 クラウスは「これだから子供扱いされるんだ」と口に出しかけ、すんでのところで飲み込む。と同時に、この子供扱いされるのが嫌いな女の子に対して、ちょっとした悪戯心が沸いてしまった。
「うん? 解らないか? そうだな……つまり、だ」
 クスリと笑うとミノリの隣に腰掛け、距離を詰めるクラウス。困惑顔の彼女の細い首元に、すい、と右手を添える。
「男に対して、そうやって警戒心を欠いていると……悪いオオカミに食べられて家に帰れなくなるかもしれないから、気をつけたほうがいいってことだ」
 ミノリは硬直し、照れるでもなく、ただじっと目の前にある金色の瞳を見つめた。
(……ん? 何かおかしいぞ?)
 クラウスがそう思い始めた頃になってようやく、彼女は僅かに視線を落とし、小さな唇を開いて、一言。
「……ごめんなさい。やっぱり分かりません……」
 そのあまりに予想外の反応に、クラウスはパッとミノリの傍を離れると、耐えきれず腹を抱えてクックッと笑い出してしまった。
「なっ、何がそんなに可笑しいんですか!? もっと分かりやすい例えで教えてください……!」
「アハハハ! 本当に意味が解らないのか? ごめんごめん、わからないならいいさ」
「……答えになってません」
 ミノリは、拗ねたようにそっぽを向く。
 ああ、またこのパターンか―そう思いながらクラウスは無理やり息を整えて立ち上がり、向かいのソファにどさりと腰を下ろした。
「忠告ついでに、ちょっと悪乗りしてみただけだ。仕事に集中した後はどうにも気分が開放的になっていけないな」
「……」
「いや、こっちの話だ。しかしその純粋さは……いろいろと大丈夫かね。オレが悪い大人じゃなかったからいいようなものの……相手が相手なら大変なことになりかねないぞ」
「……大変なこと?」
 まだ理解出来ていないらしい。一体どのような環境で育ったら、こんなにも世間知らずな娘が出来上がるというのか。
「まあ、これだけ純粋なら相手も毒気を抜かれそうな気がするが。ともかく、男と二人きりという状況で、あまり気を緩めないほうがいい。寝ている間はもちろん、起きている時だって、どんな危険な目に遭うとも限らないんだからな。これからは行動に気をつけるように。……返事は?」
「……はい」
 ミノリにはまだ「大変なこと」「危険な目」の内容が飲み込めていなかったが、彼があまりにしつこく忠告してくるので、渋々返事をした。
「よし、いい子だ。それじゃ、今日のところはこれで解散。オレもまだ少し仕事が残ってるしな」
「……おじゃましました」
 ミノリは肩を落とし、心なしかしょんぼりした様子で帰って行った。その後ろ姿にチクリと胸が痛んだが、クラウスは保護者的な感覚で「誰かがこのくらい言ってやらねば」と一人納得し直した。
 さて、仕事の続きだ。ふう、と息を吐いたところでふと脳裏に浮かんだのは、ミノリの柔らかそうな亜麻色の髪。意外に長い睫。薄紅色の唇。白く滑らかな胸元。
 じわり、と熱い何かが、クラウスの胸の辺りに小さく滲んだ。その熱を包み隠すように、自身の口元を大きな掌で覆う。
 

「……あー……。しかしさっきのは……、なかなかにまいったな……」
 
 

五話 自主学習

 
 
「……おじゃまします。イリスさん、少しお時間いいですか?」
「ええ、構わないわよ」
 最近この町に越してきたという、年若い女牧場主。あまり社交的ではないと噂の彼女が、何度か挨拶を交わした程度の自分を訪ねてくるとは一体どんな用件だろう。そんな好奇心に胸を躍らせつつ、イリスは読書の手を止めて椅子を動かし、ミノリの方へ体を向けた。緊張した様子の彼女は、一呼吸置いてからゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……マリアン先生から、この手の相談はイリスさんが適任だって聞いてきたんですけど……ある人から、男性に対して警戒心を欠いているとオオカミに食べられちゃうとか、男性と二人きりの時は行動に気を付けなさいって言われたんです。でもわたし、それがどういう意味なのか、よく分からなくて……。教えていただけませんか?」
 イリスは、ぷっと噴き出しそうになるのを危ういところで止めた。これはとんでもないネタが転がり込んできたものだ。あえて話を回してくれたであろうマリアンに、心の内で感謝した。
「その忠告、誰から受けたのかしら?」
 イリスは瞳をらんらんと光らせて尋ねたが、答えは大方予想出来ていた。ミノリとの接点を噂されており、尚且つそのような忠告をしそうな人物と言えば、マリアンかクラウス辺り。そしてマリアンでないとすれば、自ずと対象は絞られる。
 しかしミノリは首を横に振って「ごめんなさい。誰から言われたかは、言えません」と、俯きがちに言った。イリスはこの段階でミノリに対し、ちょっと世間ズレしているようだけれど真面目で良い子だわ、と好評価を与えた。
「そうね、言わないのが賢明だわ。あのね、世の中では、男性が女性に対して危害を加える事件がたくさん起きていることは知っているわよね?」
「はい」
「そういった事件では、もちろん加害者が悪いのだけれど、内実は被害者に落ち度がある場合も多いわよね」
「……はい」
「例えば、女性が一人きりで夜道を歩いていました。そこへ悪い男性が近付いてきました。……どんな危険が待ち受けているか、大体想像がつくかしら?」
 ミノリはハッと目を見開き、コクコクと首を縦に振った。
「はいっ! 物を盗られたり、暴力を振るわれたりする可能性がありますね」
「そうね。だから、できれば夜道は一人で歩かないほうがいいわよね」
「はい。やっと意味が解ってきました」
「では、もう一つ例え話をするわね。女性が男性と二人きりの密室で眠り込んでいました。この場合は、どんな事件が起こる可能性が考えられるかしら? 具体的に挙げてみて?」
「えっと……やっぱり、暴力を振るわれたり……とか?」
「そうね、それもあるわ。でも一口に『暴力』と言っても、いろいろあるの。……この先は、ミノリさんのためにも一人でお勉強したほうがいいわね。この本を貸してあげるから読んでみて。よかったら、後で感想も聞かせてね」
 そう言ってにっこりと微笑みつつイリスが手渡したのは、自身の著作の一つである恋愛小説だった。
「はい、ありがとうございます。……おじゃましました!」
 少女は勢いよくお辞儀をすると、軽い足取りで階段を駆け下りていった。その足音を聞きながらイリスは、「さあて、どんな感想をくれるのかしら♪」と、唄うように呟いた。
 
 
 翌日の夜。アンティークショップの二階を訪れたミノリは耳まで真っ赤に染まった顔で、借りていた本をイリスに差し出した。
「……あの、本。……ありがとうございました」
 礼を言う声はハッキリしていたが、その態度は、とても心からの感謝を述べるそれではなかった。
「あら、読むのが早いのね」
 イリスは、ニッコリとミノリに微笑みかける。
(初心な子ね。可愛いわ……)
 そしてあくまで口調は柔らかく、しかし今のミノリにとっては非常に残酷な問いを投げ掛けた。
「どうだった? 感想は?」
 ミノリはふるふると首を横に振り、蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と呟く。
「わたしには、その……難しくて……この前質問した内容については、解決したんですけど……」
 その後はごにょごにょと何を言っているのやら、イリスにはさっぱり聞き取れなかった。しかし上気した頬やゼンマイ仕掛けのような動作が、読後の感想を言葉以上に物語っている。意図した通りの反応を返してくれたミノリに大変満足した彼女は、キラキラした笑みを浮かべた。
「そう。ミノリさんには、まだちょっと早かったのね」
 では別の本を貸してあげるわ、とイリスは机の引き出しから予め用意していた本を取り出し、半泣き状態の少女に差し出した。ミノリの「お勉強」は、まだまだ続きそうだ。
 
 

六話 ワインを嗜む少女

 
 
 午後九時の、客足の途絶えたレストラン。
 ミノリはいつも通り、一杯のワインをちびちびと口に含みながら和風パスタを食していた。いつもと違うのは、一口飲み込む毎に手を止め「はあ……」と溜息を吐くこと。
 何度目かの溜息を吐いた時、見かねたレーガが声を掛けた。
「どうしたんだ、ミノリ? 何か悩み事か?」
 ミノリは、ビクンと肩を震わせる。振り返った彼女の頬は、ほんのり赤くなっていた。普段はグラスワインを飲んでいても全く顔に出ないほどアルコールに強いのだから、これは酔いが回ったせいではないのだろう―レーガはそう考えた。
「あ……レーガさん。……いえ、何でもないです。ちょっと考え事です」
 それだけ言うと彼女は視線をテーブルに落とし、またもや溜息を吐いた。これは相当重症である。レーガは向かいの椅子を引いて横向きに座ると、ミノリの顔を覗き込む。
「ミノリ、顔赤いぜ? 熱でもあるんじゃないのか?」
 無言でふるふると首を横に振るミノリ。そうして一分ほど沈黙を貫いていたが、頬杖をついたまま動かないレーガをちらと見やると、観念したようにぽつりと話し出した。
「……わたしって、ホント子供だなあ……って、ちょっと考えちゃって」
「ハハッ、何だそんなことか」とレーガは笑う。
「そりゃ、オレらくらいの年齢じゃ、誰でも一度は考えることなんじゃないか? オレだって、未だに自分なんてまだまだガキだなって思うぜ?」
「……ううん、そういうのじゃないんです。詳しくは言えませんけど……」
 はあ、とまたもや溜息を吐く。しかし、パスタはしっかりともう一口食す。
 その直後、ミノリの邪気のない質問がレーガを急襲した。
「ねえ、レーガさんは……『恋』って、したことありますか?」
「……は?」
 一瞬、呼吸を忘れ、間を置いて顔を赤らめるレーガ。
「……ハハ。そんなこと聞いて、どうすんだよ」
 照れを隠そうと、茶化すように問い返した。しかしミノリは答えを追求するでもなく「やっぱりありますよね」と、力なく呟く。
「わたし、恋愛とか、そういうの全然分からないんです。今まで、興味も持たなかったので……。でも、分からないままじゃいつまでたっても子供のままなのかな、ってちょっと考えちゃって……」
(この年まで? 興味も持たなかった?)
 レーガにはにわかに信じ難かったが、本気で悩んでいる様子のミノリに対し、それなりに真面目に応えようとする。
「……この年まで、っていうのは確かに珍しいかもしれないけど……別に、無理に今すぐ分かろうとしなくてもいいんじゃないか? ミノリは、ミノリのペースでさ。そもそも、分かろうとしてどうにかなる、ってモンでもないだろうし」
 天啓だった。ぱっと顔を上げるミノリ。少し潤んだその目には、光が戻っていた。
「そ……そうですか?」
 その瞬間、レーガの心臓がドキリと跳ねた。
(……何だ、コレ)
 目がチカチカする。レーガは戸惑いながらも、心なしか苦しくなった呼吸に抗うように、声を絞り出す。
「……オレは、そう思うぜ?」
「……そっか。そうですよね、急ぐ必要もないですよね……。なんだか吹っ切れました。レーガさん、ありがとうございます」
 ミノリは満面の笑みで礼を言うと、残りのパスタを一気に平らげ、グラスに半分ほど残っていたワインを一口で飲み干す。タン、とグラスを置くと、涼やかに微笑んで「ごちそうさまでした!」と宣い、颯爽と店を出て行った。
 何だ、この変わり様は。結局オレは振り回されただけなのかと、レーガは盛大に溜息を吐く。しかしそんな脱力感の片隅で、ミノリの濡れた瞳と上気した頬に、鼓動だけは正直に反応し続けていた。
  
 

七話 花火大会の夜

 
 
 ここ数日、明らかにミノリの挙動がおかしかった。真っ赤に頬を染めたかと思えば、次の瞬間には顔面蒼白になり。強気に出たかと思えば、その数秒後にはしゅんと肩を落とす。自分を避けてみたり、縋るような目で見つめてきたり。
 初めは、先日の忠告が原因かと思った。それならそれで良い。危機感を持って貰えたのであれば何よりだ。しかし、今日は打って変わって平然としている。いや、以前以上の余裕すら感じられる。一体、昨日の間に何があったのか―クラウスは向かいのソファに座る少女に、外面では笑いかけながらも、内心訝しんでいた。「何かあったのか?」と尋ねてしまえば早いのだろうが、それは過ぎた詮索というものだろう。
 そんな小さな葛藤など露知らず、ミノリは柔らかい微笑みを彼に向ける。
「ベロニカさんから、明日の花火大会について聞いたんです。とってもきれいなんだそうですね。楽しみです」
クラウスは「そうだな」と半ば上の空で相槌を打った。
「クラウスさんは、誰かと行かれるんですか?」
「オレは毎年一人だよ。……いや、イリスやミステルと見た年もあったか」
「だったら、今年はわたしもご一緒していいですか? 一人だと、ちょっと心細くて」
 意識してかしないでか、助詞に「も」を使った辺り、二人きりはよろしくないと自覚したと思って良いのだろうか。クラウスは、よし良い子だ、と心の中で彼女を褒めてやった。
「そうだな。賑やかに見るのも、いいかもしれないな」
 
 
 そして、花火大会当日。
 自身の言葉通り「賑やか」に見ることとなった今の状況を、クラウスは少しだけ、ほんの少しだけ後悔していた。もっとも、そんな微かな後悔すら、彼自身は決して認めはしないが。
「わ、ミノリ、気合い入ってるなー」
「なかなかお似合いですよ」
 レーガとミステルの褒め言葉に、ミノリははにかみながら「ありがとうございます」と頭を下げた。
「これ、浴衣って言って、サクラの国では夏の定番衣装なんだそうです。イリスさんに着せてもらいました」
 集まった面々に対して、自慢げに両袖を挙げてみせる。紫陽花柄の薄紫色の生地が、ふわりと宙を舞った。
「ねっ、イリスさん」
 振り返ったミノリの視線の先には、浴衣姿の少女をうっとりと眺めるイリスの姿。自身は、いつもの出で立ちであったが。
「ミノリさんなら、絶対似合うと思ったのよ。ほら、髪も大人っぽくアップにしてみたの。鴇色のピアスも。似合ってるでしょ? ねえ、クラウス?」
 突然話を振られ、それまで蚊帳の外だったクラウスの心臓がドキッと跳ねた。
「……ああ、似合ってるよ」
 気まずそうに微笑んでそれだけ言うと、クラウスはミノリから僅かに視線を逸らした。そんな彼の様子を目ざとく捉えたミノリは、クラウスの腕を軽く引き、輪の中心に引き込む。
「ほら、ベロニカさんの挨拶、始まりますよ」
 興奮を隠しきれない弾んだ声でそう言って、ミノリはステーションの中心を指す。その表情が既に花火のような眩しさなのだと、彼女は自覚しているのだろうか。
 数分もしないうちに、ベロニカの音頭によって花火の打ち上げが開始された。
 ヒュー、という涼しげな音の後、夜空に大輪の花が咲けば、七色の光にミノリの横顔が映し出される。うっとりと天を見上げるその表情は、普段より大人びて見えた。クラウスは思わず、ぐっと胸元を握り締める。
 もっと見ていたい、という思いも頭を掠めたが、耐えかねて彼女から視線を外せば、先程までの自分と同じようにミノリの横顔をちらと伺うレーガが目に入ってしまった。クラウスは、慌てて視線を上に向ける。
(……そうか。レーガはミノリを意識しているのか)
 イリスによれば、今回レーガが自分たちと一緒にいるのは、彼がミノリを花火大会に誘ったためだという。それに対し、ミノリは無邪気に「先約があるんです。レーガさんも一緒にどうですか? 人数は多いほうが楽しいですし」などと宣ったらしい。同じ男として、同情を禁じ得ない。
(レーガの恋路を応援してやりたくもなるが、肝心のミノリがこれではな……)
 振り回されてばかりの自分と、おそらく同じように振り回されているのであろうレーガの姿を重ね、クラウスはミノリに気取られないよう、小さく溜息を吐いた。
 
 
「なんだか、あっという間でしたね。ちょっと寂しいです」
 興奮冷めやらぬ様子で、「エヘヘ」と少し寂しげに微笑むミノリ。しかし、もう夜も遅い。名残惜しそうに「それじゃ、おやすみなさい」とお辞儀をし、彼女の足は真っ直ぐ馬乗り場へ向かおうとした。それを、クラウスが慌てて制止する。
「おい、ちょっと待て。その格好で馬に乗るつもりか?」
「えっ、そうですけど。裾を捲れば、跨げますよ?」
 浴衣の裾をつまみ上げてヒラヒラしながら「スカートみたいなものですよね」と屈託なく笑うミノリに、クラウスは頭を抱えた。
「……イリスからも言ってやってくれ」
 二人のやり取りを心底楽しげに黙って見守っていたイリスは、「仕方ないわね」と口を開く。
「ミノリさん。女の子なんだから、そこは気を遣ったほうがいいわよ?」
 優しく諫められ、ハッとするミノリ。
「ごめんなさい。わたし、またやってしまうところでした……」
「そう気落ちしなくても、次から気を付ければ大丈夫よ。ほら、クラウスが送っていってくれるそうよ」
 イリスの不意打ちを食らったクラウスは、思わず「バカ」と言いかけて「ば」の字だけを吐き出した。
「そういうのはオレじゃなく、レーガが適任だろう」
 こちらも、唐突に爆弾を回されたレーガ。一瞬でかあっと赤くなり、クラウスを睨む。
「おっさ……いや、クラウスさん! こういうのは、年長者の役目だろっ」
 当のミノリはいまいち状況が飲み込めていない様子で、「いえ、一人で歩いて帰れますから」などと口を挟み始める始末。この収集がつかなくなった状況に、ミステルの鶴の一声が終止符を打った。
「では、こうしましょう。クラウスさん、レーガさん、『お二人で』ミノリさんを家まで送って差しあげてください」
 
 
 高原の牧場地までの道中、気まずい空気が流れ続けていたのは言うまでもない。
 
 

八話 おじさんは心配性

 
 
 毎日のように自分の家へお茶をしに来るミノリについて、クラウスは新たな懸念を抱き始めていた。そこで、本人に対して率直に尋ねてみることにした。
「ミノリ、この町で女友達は出来たのか?」
 直後、彼女の顔からさっと笑みが消えた。クラウスは自身の発言を後悔したが、もう遅い。―いい年こいた大人が、地雷原に自ら足を踏み入れるような問いを投げ掛けてしまうなんて。
 ミノリは僅かに目を伏せ、棘のある声音で返答する。
「……いませんよ。立ち話をする人なら、何人かいますけど」
 暫時、気まずい空気が流れる。
「そもそも、友達って、無理して作るものでもないと思うんです。わたしは、別に……友達がいないと、ダメな性格でもないですし」
 吐き出すように言うと、ミノリはきゅっと唇を引き結んだ。が、すぐにそれが「大人げない態度」だと気付いたのか、ハッと前に向き直り、再び笑顔を取り繕う。
「えっと、でも、レーガとは、よくレストランで話しますよ。たまに相談にも乗ってもらってます」
「レーガ」という単語に、今度はクラウスがぴくりと反応した。確か、この間の花火大会では「さん」付けで呼んではいなかったか。この一週間ほどの間に、一体何が―。しかし動揺を気取られぬよう、こちらも普段通りの自分を取り繕った。
「確かに、あいつもいいやつだからな。だが、女同士でないと出来ない相談もあるだろう」
「そういうのは、イリスさんやマリアン先生にしてます」
 マリアンを「女同士」のカテゴリに分類している点については盛大に指摘したかったが、大方間違ってもいないだろうと思い直し、聞き流すことにした。
「あっ。『お友達』と呼んでいいのかは分かりませんけど……イリスさんのお部屋にも、よくお邪魔してます。本を貸してもらったり、たまにお茶をいただいたり」
「そうか」
 イリスなら安心だ、とクラウスはほっとした。もっとも、別の面での不安はあるが。ともかく心配は杞憂に終わったようだ。しかし自分は何故、そんなことが気に掛かったのだろう。
「……そろそろお暇しないと。ごちそうさまでした」
 ミノリは立ち上がって二人分のティーカップを手に取り、キッチンへと向かう。その二つを手早く洗い終えると、乾いた布で水気を取り、戸棚にしまった。そして、足早に玄関扉へ歩み寄る。
「おじゃましました」
 彼女は軽く会釈し、ひらりと外へ飛び出していった。
 ミノリが帰った後も、クラウスはそのままソファから動かなかった。両腕を背もたれに預け、ぼんやりと天井を仰ぐ。
(……ああ、そうか。オレは、あいつがオレの目の届かないところにいる間のことが気に掛かったのか)
 それこそ余計なお世話である。が、あの無防備さでは、要らぬ心配をしてしまうのも仕方がないだろう―そんなことを考えながら、クラウスは、ふう、と溜息を吐いた。
 
 
(友達、かあ……)
 ミノリは家路につきながら、はあ、と盛大に溜息を吐いた。
 友達と呼べるような知り合いが、全くいないというわけではない。町の外へ出れば比較的付き合いのあった同級生がいて、年に一度は同窓会も開いている。しかし町の内にも外にも、特定の「女友達」は一人もいなかった。友達付き合いというものが、総じて苦手なのだ。
(そんなに会いたいと思うほど、気の合う人もいないし……)
常日頃から「野菜と家畜が親友であり、恋人でもある」という感覚でいるため、そもそも、友人の必要性を感じてこなかった。
(わたしとしては、この町に来て、かなり人付き合いをするようになったと思う。けど、クラウスさんには「友達のいない寂しい子」って思われちゃったのかな……)
 ミノリは、しゅんと肩を落とした。
 
 
 翌日、ミノリがクラウスの家を訪ねると、先客がいた。
「ああ、ミノリか。おはよう」
「あら、ミノリさん? おはよう」
 クラウスと一緒にいたのはイリスだった。ミノリは少し戸惑いながらも、おずおずと会釈する。
「おはようございます。……えっと、おじゃまでしたか?」
「いいえ、ついさっき用件が済んだところよ。それじゃ、また」
 イリスはふわりと片手を振ると、上品な足取りで彼の部屋を後にした。
 彼女の姿が見えなくなった後、やや間を置いて、ミノリは真っ赤に上気した顔でクラウスを見上げる。クラウスは、思わずドキッとした。しかし、真顔で何を言い出すのかと思えば。
「クラウスさんとイリスさんって、お付き合いされているんですか!?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、クラウスは「……は?」と呟いた。
「何故、いきなりそうなる」
 あまりに唐突かつ直球の質問だった。しかしミノリには、すぐにそのような思考に至っただけの理由があった。
「いえ、あの……恋人のいる男性と二人きりになるというのは、良くないと思ったので……」
「だからと言って、話をしていただけの相手をいきなり恋人と勘違いするのはどうかと思うぞ」
「……すみません。近頃、恋愛小説の読み過ぎかもしれません……」
 ミノリは心底恥ずかしそうに、両の手で頬を覆った。やれやれ、と渋い顔で額に手を当てるクラウス。
(全く、イリスにも困ったもんだ。さっき頼み事をしたのは失敗だったか……?)
「でも、お二人は恋人ではないんですね。わたし、イリスさんに失礼なことをしちゃったかと思いました。よかったです」
 エヘヘ、とほっとした様子ではにかむミノリ。その可愛らしい表情にクラウスは思わず目を細めたが、「ほっとした理由はそこか」という心の声がチクリと胸を差した。その小さな痛みは、数秒を置いて僅かな苛立ちに変わる。彼は、こつんとミノリの額を拳で小突いた。
「前に『行動に気を付けろ』と言っただろう。男の前でそんな顔をしていると、勘違いされかねないぞ」
 理不尽なことを言っているのは分かっていた。完全に八つ当たりである。
「えっ、顔? ……そんなこと言われても……」
 まだ頬の熱が引かないまま、ミノリはおろおろと困惑する。長い睫に縁取られる、潤んだチョコレート色の瞳。
(ああ、それだ。そういう表情が、男を引きつけちまうんだ)
 苛立ちの増したクラウスは限界を感じ、余裕ある大人の仮面が剥がれてしまう前に、静かに微笑んでミノリに告げた。
「悪いが、これから急ぎの仕事があるんだ。今日はここまでにしてくれないか」
「そうなんですか。分かりました。……おじゃましました」
 軽く頭を下げると、キャロットジュースの瓶をそっと机の上に置き、ミノリは踵を返す。玄関扉を閉める前にひょこっと頭だけ出して、はにかんだ微笑みを見せた。
「お仕事、がんばってくださいね。では」
 ぱたん、と閉まる扉。
 クラウスは痛烈な罪悪感に苛まれ、ミノリが出て行った扉に背を向けた。きっと、今の自分は酷い顔をしているに違いない。
 同時に、ミノリが来る直前にイリスにした頼み事についても後悔する。彼女のためと思って依頼したその内容が、実は自分のためのものであったことに気付いてしまったから。
(あいつの身に変わったことがあればオレにも知らせて欲しいだなんて、馬鹿げたことを……)
 
 

九話 もっと、知りたい

 
 
「ミノリは、何で牧場主に志願したんだ?」
 彼女は口の中のさつまいものパスタを飲み込むと、顔を上げ、キラキラした瞳を厨房に向けた。
「それはもう、農畜産業が大好きだからです」
「……それだけ、か?」
 少し呆れた様子のレーガ。そんな彼に、ミノリは拗ねた表情で返す。
「それだけじゃ、理由になりませんか?」
「いや、立派な理由だとは思うけどさ」
 目の前に座る、唇の端にさつまいものカスをつけたままむっとしている少女に、レーガは苦笑して見せた。
「牧場仕事って、大変じゃないか?」
「大変と言えば大変ですけど……でも、自分の手で、最高においしいものを作れるんですよ? 収穫した野菜を食べたら、大変さも吹っ飛んじゃいますよ」
 牧場の話になるとこんなにも活き活きするんだな、この子は―レーガは微笑ましくミノリを眺める。
「……そういえばさ、ミノリって、歳、いくつなんだ?」
「二十五です」
「えっ、オレと二つしか違わないの? ……もっと全然、年下かと思った」
「ひどいです。まあ、確かに、よくそう言われますけど……」
 ミノリは再び口を尖らせ、本気で驚いた様子のレーガから視線を逸らした。彼は慌てて先程の発言に対する弁解を始める。
「あっ、いや。可愛いから、そう思っただけだって。悪い意味じゃないからさ」
 そして、何言ってんだオレは、と顔を赤らめた。ミノリもつられて頬を染めつつ、ワインを一口煽ってから話題を変える。
「レーガは、何で料理人になろうと思ったんですか?」
「オレか? ……オレは、じいさんの店を残したい、って思ったから……ってのもあるけど、結局は、料理が好きだったから、かな」
 その返答に、クスリと笑うミノリ。
「なんだ、レーガだって、似たような理由じゃないですか」
「……そうだな」
 二人は顔を見合わせ、アハハと笑いあった。
 その時、不意に背後から「ごちそうさま」と低い声が響いた。店内にいるのがミノリだけではないことを思い出したレーガは、慌てて店の奥へ視線を向け、「ありがとうございました!」と声を張り上げる。
 ミノリが振り向けば、席を立ったのは見知った男性―クラウスだった。しかし。
「あっ、クラウスさ……」
 声を掛け終わるのを待たず、彼は足早に店を出て行ってしまった。ミノリは店の出口を見つめたまま、きょとんと呟く。
「……ぜんぜん気付きませんでした。いたなら、声をかけてくれてもよかったのに」
「忙しかったんじゃないのか?」
 レーガは他意なく言った。「そうかもしれませんね」と小さく返して、ミノリはフフッと笑った。
 
 
 クラウスは、彼にしては珍しく苛ついていた。理由は自覚していたが、あまり認めたくなかった。
(……馬鹿馬鹿しい)
 閑散とした家路を歩みながら、思わずククッと自嘲的な笑いを漏らす。ミノリはもう二十五で、酒も呑める。自分の意思でこの町の牧場主になることを志願し、立派に仕事をこなしている一人の女性だ。そんな基本情報を今さら、盗み聞きで知ることになろうとは。
道端の落ち葉を、すう、と冷たい空気が運んでいく。
 クラウスは、はあ、と溜め息を吐いた。毎日のように自分の元を訪ねてくることから、この町の誰よりも彼女から信頼されているのだと、いつしか愚かな錯覚を抱いていた。そんな虚構に舞い上がって彼女の保護者を気取っていたが、手放しで子供扱いしていた相手が成人女性だとは、今の今まで疑いもしなかった。冷静に振り返れば彼女との会話はいつも当たり障りのない世間話ばかりで、お互いのプライベートなど碌に知りもしない。
(ミノリにとって、オレは一体何なのだろう)
 もっと、彼女のことを知ろうとしていれば良かった。そうしなかったのは、くだらない大人のプライド―体面を気にする気持ちが先行してしまったのだろう。いい歳をした男が、若い女の子の身辺について根堀り葉掘り聞くような真似など恥ずかしくてできない、と。
 しかし先刻の光景を目の当たりにしたことで、クラウスは考えを改めた。その動機は焦りだったが、そこまでは自覚していなかった。
 
 
 翌日。ミノリがクラウスの家を訪ねると、彼の雰囲気がいつもと違っていた。気のせいか、ピリピリしている。
「あの……忙しかったですか……?」
 遠慮がちに尋ねたミノリに対し、クラウスは薄く微笑み「いや」と首を横に振っただけで、無言で彼女を招き入れた。
 いつもの席に、そっと腰を落とすミノリ。クラウスは未だ黙ったまま二人分の紅茶を用意し、戸棚から菓子を出した。それらをテーブルの上に並べ終えると、ドサッとソファに体を預ける。紅茶を一口啜り、ようやく彼は口を開いた。
「……ミノリ」
 低い声で名前を呼ばれた当人は、ビクッと体を震わせる。
「はい」
「ミノリは、酒を嗜むのか?」
 唐突な質問だった。何故、突然そんなことを聞くのだろう―彼女はそう思ったが、余計なことは口にせず「はい」とだけ答えた。
「……好きなのか?」
「はい、大好きです。特にワインが」
「そうか」
 意外な共通点を見つけたクラウスはにわかに嬉しくなり、思わず「オレも同じだ」と言いかけたが、話が逸れてしまうと考えて言葉を飲み込んだ。今日の限られた時間の中で、彼女に訊きたいことは他にもあるのだ。
「酒は強いのか?」
「……たぶん」
「どのくらいで酔うんだ?」
「酔い始めるのは、グラス……三杯目くらいからです」
(ならば、一杯程度の晩酌は問題ないな)
 クラウスは勝手に納得して頷く。そして一呼吸置き、本題に入った。
「お前は、毎日差し入れを持って来てくれるが……負担になっていないか? 調香の礼なら、もう十分だぞ?」
 彼が堅い顔つきで尋ねたのは、下手をすれば「それならもう来ない」と言われてしまう可能性もあったからだ。しかし幸い、ミノリは目を丸くして「ぜんぜん、負担なんかじゃないです」と答えた。
「その……お礼、っていうのもありますけど……。とっても居心地が良いので、つい……」
 お茶とお菓子が貰えるから、というのが彼女の本音であったが、あえて言わなかった。「あの、ご迷惑でしたか?」と上目遣いで尋ねれば、クラウスは僅かに表情を緩め、ゆっくりと首を横に振る。
「そんなことはない。……が、少し気になっただけだ。若い女性が大した用もないのにこんなおじさんの家を訪ねてくるなんて、普通じゃあり得ないことだからな」
 その声音は、茶化している風には聞こえなかった。今日はやはり、雰囲気がおかしい。ミノリは固唾を呑み、思わず両の手を握りしめる。が、彼は続けざまに次の問いを投げ掛けてきた。
「ミノリは、レーガのことが好きなのか? その……異性として」
 またもや意外な内容だった。この手の話題が苦手なミノリは眉をひそめたが、真面目に尋ねている様子のクラウスに質問の意図を訊き返すのも憚られ、ぽっと頬を赤らめつつ馬鹿正直に答える。
「……異性として、好きなわけではないです。そもそも、わたしは……」
 言いかけて、彼女はきゅっと唇を引き結んだ。一呼吸置いて何かを続けたそうに口を開くが、声は出て来ず、再び口を閉ざした。
「……どうした?」
 針のように鋭い琥珀色の双眸でミノリをソファに縫い止め、クラウスは答えを促す。言葉を濁して誤魔化すことはできそうにない―そう感じたミノリは、意を決してクラウスに本音をぶつけた。
「恋愛とかそういうの、よく分かりませんし、あんまり興味もないです」
 キッパリ言い切って、ちらと向かいの男性を窺う。恋話を持ち掛けてきた相手に対してこの返答では不興を買ってしまっただろうかと不安に思ったが、杞憂だった。彼女の答えを受けたクラウスは、ふっ、と表情を和らげる。
「そうか」
「はい」
 ミノリは、こくりと頷いた。二人の間に流れていた緊張感が急に解け、彼女はようやく茶菓子のバタークッキーに手を付けることが出来た。
対するクラウスは、ほっとしたのが半分、落胆半分。そう感じた根拠となる自身の想いについては、見て見ぬ振りを決め込んだ。
「質問攻めにして悪かったな」
「いえ。でも、どうして突然?」
 どうしてと問われても、真意を伝えられるはずがなく。クラウスは「我ながら大人げないことをしたものだ」と心の内で自嘲し、苦笑する。
「少し気になっただけだ。もしそうなら、協力の一つもしてやろうと思ってな」
 冗談めかして言い、紅茶をもう一口、ゆっくりと啜った。
(嘘をつけ。そんなはずはない、ということを確認したかっただけだろう)
「ああ、でも、ほっとしました。わたし、また何かやっちゃったのかと思いましたよ」
 ミノリが、ふわりと微笑む。クラウスは少々罪悪感を覚えながらも、思わず目を細めた。この時間を居心地の良いものと感じているのは、自分も一緒だ。一人の時は感じなかった―むしろ、一人のほうが気楽でいいとさえ考えていたが、存外、人恋しかったのかもしれない。
「最近のミノリは、だいぶ成長したと思うぞ。会ってすぐの頃は、見ていてヒヤヒヤしたが」
 本心を言えば、未だにヒヤヒヤしっぱなしだ。とは口に出せなかった。そんな彼の内心など知る由もなく、ミノリは満足げに頷く。
「イリスさんのおかげかもしれません。……あっ、もちろん、クラウスさんにいろいろご指摘いただいてるのも大きいですけど。男子ばかりの学校に通っていたので、その辺の知識に疎いんです」
 クラウスは、「そうか、ハハハ……」と笑いかけたところで、耳を疑った。
「男子ばかりの……?」
「はい。農業系の専門学校です」
 ミノリはニコニコしながら答えたが、対するクラウスの背中には冷たい汗が浮かぶ。必死で動揺を抑えたが、隠しきれている自信はなかった。
「そんな環境で、その危機感の無さだったのか」
「あっ……はい」
 クラウスは思わず額を押え、盛大に溜息を吐く。ここまできてようやく、ミノリはまずいことを言ってしまったと気付いた。
「ミノリ」
 真顔で、静かに名前を呼ばれる。ミノリは顔を真っ赤にして縮こまった。
「……はい」
 言いたいことはありすぎて有り余るほどあったが、クラウスはその中から一番効果がありそうな言葉を慎重に選び、重低音で放つ。
「良かったな。『何もなくて』」
 それは、自身に向けたものでもあった。もっとも、「何か」があった後であれば、一人の女性にここまでヤキモキさせられることも、その純粋な可愛らしさに惹かれることもなかったのかもしれないが。
 ミノリは肩を竦めたまま、消え入りそうな声で「はい」とだけ返した。そして数秒置いて、「わたし、そろそろ牧場仕事に戻らないといけないので……」などと都合の良い理由をつけ、気まずさから逃げるようにそそくさと帰っていった。
(……狡い女の子だ)
 部屋に一人取り残されたクラウスは、うるさい鼓動に文句を言うように、ぐっと胸を掴む。掴んだそこは、苦い思いで溢れ返っていた。
 ミノリのことをもっと知りたいと望んだのは自分だが、知れば知るほどに心が掻き乱され、この辺でやめておけと止める声がする。それでも。
(もう、認めるしかないか)
 情愛と呼ぶには熱過ぎて、恋慕と呼ぶには重過ぎる、ドロドロした「何か」。
(これは、独占欲ってやつなんだろうな)
 
 

十話 三十路男の恋煩い

 
 
 出会ってひと月ほど経った頃から、惹かれ始めていたことは自覚していた。しかしそれは妹を可愛がるような感情であり、決して恋などではない―はずだった。クラウスは、隣に座る「彼女」の顔をチラと窺い見る。ワイングラスに触れる桜色の唇が思いがけず視界に入ってしまい、慌てて目を背けた。鼓動が、僅かに早まる。
(失敗したな……)
 レストランに入っていく後ろ姿を見掛けてふらりと追いかけてきてしまったものの、彼女を単なる「可愛い女の子」ではなく「自分のものにしたい女性」として意識し始めてしまった今となっては、接し方に迷い、隣に座るだけで年甲斐もなく緊張した。しかし、今更後悔しても遅い。どうにか平静を装うと、彼は意を決して口を開く。
「ミノリは本当に酒に強いんだな。顔色が全く変わってない」
 話し掛ければ、右隣のカウンター席に座っていたミノリが、エヘヘとはにかんで見上げてくる。
「二杯くらいなら、ぜんぜん平気ですよ。赤くなりにくい体質みたいです」
 そう言って彼女はパスタをフォークに巻き付け、一口頬張った。いかにも幸せそうに食す姿を微笑ましく眺めていたのはクラウスだけでなく、キッチンで皿を洗っているレーガも同様だった。彼も、自然な流れで会話に参加する。
「そうだよな。確か、一番呑んでた時で三杯だったか? あの時だって、平然としてたもんな」
「そうでした? 自分では、分かりませんけど……」
 二人のやり取りに、クラウスがぴくりと反応する。
(「あの時」とは、何時の事だ……?)
 内心穏やかでなかったが、今回は態度に現さなかった。代わりに、胸の内を悟られないよう慎重に言葉を選んで探りを入れる。
「三杯か。それだけ呑むと酔うだろう。何か良い事でもあった日だったのか?」
「はいっ。初めての作物祭で優勝した、次の日です。すっごく嬉しかったので、つい、おかわりしちゃいました」
 当時を思い出してニヤニヤするミノリへ、クラウスは笑顔で「そうか」と相槌を打った。レーガとの間に特別な何かがあったわけではなかったことにほっとしてしまった己を自覚し、少々情けなくなる。そんな心中を誤魔化すように、ミノリに倣ってワイングラスを傾けた。
(ミノリには、レーガのような同年代のしっかりしたやつがお似合いだって事くらい、解ってるんだがな……)
 思わず溜息を吐きそうになり、彼は慌ててそれを酒と一緒に飲み下した。
 
 
 その後も三人で軽い雑談をしながら夕食を終えると、クラウスとミノリは揃って店を後にする。季節は、秋。昼間は過ごしやすかった気温も、夜になると肌寒い程度に下がっていた。
「涼しくなりましたね」
 どこからともなく聞こえてくる虫の音を聞きながら、ミノリが言う。「そうだな」と相槌を打てば、何が可笑しかったのか、彼女はフフッと笑った。
 クラウスの中で「もう少し彼女と話していたい」という想いが頭をもたげたが、恋人同士でもない上に時間も時間だったので、家へ誘うことは叶わない。ならばせめて高原の牧場まで送ろうか、とも考えた。しかしこの程度の時刻であれば彼女にとって山道の往来などごく日常的なことであったし、やはり「恋人でもない相手に」と躊躇する。歯痒かった。そうこう考えている内に、大して話す間もなく雑貨屋の前へ到着してしまう。
「では、またあした。おやすみなさい」
 何の未練もなさげにふわりと微笑まれ、クラウスは胸が苦しくなった。それでも、普段通りの穏やかな笑顔を返す。
「ああ。おやすみ」
 くるりと向けられる、小さな背中。町の外へ向かって足早に歩き出したミノリを闇の彼方へ見送りきると、彼はようやく微笑を崩し、深い溜息を吐いた。
(しんどいな……)
 帰途に就きながら、思わず頭を抱えてしまう。分不相応な慕情が、これほど精神を消耗させるとは知らなかった。今まで恋愛など駆け引きで成り立つものと考え、マリアンがよく口にしているような「本気の恋」というものを心のどこかで馬鹿にしていたが、まさか三十路も後半になってから、それを経験する日が訪れようとは。
(駆け引きどころか、オレのような甲斐性もない中年が望んでいい相手じゃない。もっと年が近くて、オレ以上にあいつの事を理解してやれる男なら、他にいくらでもいるんだ)
 それくらい、解っている。かと言って、彼女が他の男のものになるのを黙って見ていられるかと問われれば、自信は無かった。
 堂々巡りの思考に陥りつつ階段を下りきると、ほどなくして家に到着する。鍵を開けて中に入るなり、クラウスはドサッとソファに身を沈めた。
(明日も来るんだろうか)
 おそらく、来るのだろう。いつものように、キャロットジュースを持って。それは大きな楽しみでもあったし、少し憂鬱でもあった。
 
 
「クラウスさん、ひょっとして……最近、ちょっと元気ないですか?」
 クッキーを摘まむ手を止め、ミノリが尋ねた。クラウスは内心焦ったが、外面には出さない。
「いや、そんなことはないぞ」
 否定すれば、彼女は「なら、よかったです」と返したものの、依然心配げな表情だった。完璧に隠しているつもりだったのに、この子は妙なところで鋭いな、とクラウスは固唾を飲む。現在進行形で「無かったこと」にしようとしている彼女への想いを、当の本人に悟られるわけにはいかなかった。彼女の注意を逸らそうと、それとなく話題を変える。
「そういえば、この間、アーシェさんから聞いたんだが。頼めば、シルクロードの国の酒も売ってくれるらしいな」
「えっ、ホントですか? 今度、わたしもお話を聞いてみますっ」
 大好物である酒の情報に、ミノリは一瞬で瞳を輝かせた。クラウスも、つられて破顔する。
「そんなに酒が好きなのか?」
「はいっ。おいしいお酒は大好きです」
 ならば、今度一緒に―そう言いかけた言葉を、彼はぐっと飲み込んだ。既に意識してしまっている以上、今以上親密になるのはまずい。酒を酌み交わすなど、言語道断である。
「そうか。強い酒もいけるのか?」
「はい。ウイスキーとかラムなら、よく呑んでました」
「それなら、アーシェさんにお勧めのラムを聞いてみるといい。シルクロードの国は、ラムで有名だからな」
「へえ、知りませんでした。クラウスさん、お酒にも詳しいんですね。すごいです」
 最高の笑顔とともにキラキラした尊敬の眼差しを向けられ、彼の頬が意思に反して緩む。
「聞き齧った知識だよ。大して詳しくはない」
 いつもこんな調子で、自分の話を楽しそうに聴いて貰え、事ある毎に持ち上げられ、しかもそこに一切のわざとらしさが感じられないのだから、もっと彼女と話したい、この時間を自分だけのものにしたい、と望んでしまうのも自然なことだった。それはもう、泥沼に嵌ったように。自覚はしていても、欲してしまうのを止められなかった。それでも、彼女の幸せを願うなら今すぐ止めるべきだと「頭では」思っている。
 ふと、沈黙が訪れた。しかしそれは決して居心地の悪いものではなく、いわゆる「間」というやつだ。ミノリはこの沈黙を無理に破ろうとはしないし、破られなくても全く気にしない。これも、クラウスが好きなところの一つだった。
 窓の外から、微かな小鳥の囀りが聞こえてくる。
 ミノリはゆっくりとクッキーを一つ食べ終え、静かに紅茶を啜ると、ふと口を開いた。
「……そうでした。そろそろさつまいもが収穫できそうなんですけど、クラウスさん、いりますか?」
 問われて、同じくカップに口を付けていたクラウスも顔を上げる。
「ああ。貰えるなら、ありがたくいただくが……いつも悪いな」
「いえ。わたしこそ、毎日お茶とお菓子をごちそうになっちゃってるのに、それくらいのお礼しかできなくて……。すみません」
 申し訳なさそうに苦笑するミノリ。その謝罪に対し、クラウスは僅かに力を入れて「いや、」と返す。
「逆に、貰い物のお菓子で申し訳ないくらいだ。今度町の外へ出た時、ケーキでも買ってこよう」
「えっ……そんな、わざわざ……。いいですよ」
 予想外の申し出に、ミノリは慌てて頭を振った。しかし断わりながらも、顔がニヤついてしまっている。分かりやすいな、とクラウスは笑った。
「老舗のだから、美味いと思うぞ。楽しみにしているといい」
「ありがとう、ございます……」
 控えめに、しかし嬉しそうに礼を述べた彼女は、横目でチラリと時刻を確認する。壁掛け時計の針は、ちょうど十時半を指していた。
「えっと……わたし、そろそろ失礼しますね」
 そう告げると、静かに席を立つ。クラウスも追って時計を見遣り、「ああ、もうそんな時間か」と呟いた。
「ごちそうさまでした。では、またあした」
「ああ。またな」
 ぺこりと頭を下げ、一つ微笑んで帰っていくミノリを見送りながら、クラウスは「またやってしまった」と思う。
(つい、次の機会を作っちまうんだよな……)
 本気で恋慕を断ち切りたいのであれば、二人きりでお茶などしなければいい。「彼女のほうが通ってくるのだから仕方ない」と言い訳をしているが、こちらから誘わなければ、元々遠慮深い彼女が積極的に上がり込んでくることもないだろう。そもそも、彼女が毎日キャロットジュースを持ってやって来るのは、定期的に頼まれる「安眠の香」の礼なのだ。調香の代金を請求してしまえば、それすらなくなるはずである。
(だが、ミノリはまだこの町に馴染みきれていないようだし……突き放すのも酷だな)
 こうやって、また「彼女のため」と理由付けをしてしまう。クラウスは、己の不甲斐なさに呆れて溜息を吐いた。
 
 

十一話 独り立ち

 
 
 ミノリは夕刻の水やりを済ませると、一旦自宅へ戻ってから、急いで隣の敷地へと走った。
「こんばんは、エッダさん。お差し入れに来ましたよ」
 コンコンと扉をノックし、返事を待たずに開ける。そんなミノリを、老齢の女性がいつもと変わらぬ穏やかな笑顔で迎えた。
「こんばんは、ミノリちゃん。いつもありがとうねえ」
 冷えで痛むのか、曲がった腰をさすっている。ミノリはかぶサラダの入ったバスケットをテーブルの上に置くと、その腰にそっと手を添えた。
「ウフフ、ミノリちゃんの手は温かいねえ」
「さっきまで、アンゴラウサギを抱っこしてましたから。そうだ、ウサギさんを腰の上に載せたら、暖まって痛みが和らぐかもしれませんよ」
 冗談めいたミノリの言葉に、二人は顔を見合わせてフフッと笑い合った。エッダはゆっくり椅子に移動すると、「よっこらせ」と腰掛ける。
「どうだい。牧場仕事には、慣れたかい?」
「はい、なんとか。まだ、試行錯誤しているところですけど……」
 ミノリは、小首を傾げてはにかんだ。
「そうかい。けど、無理だけはしないようにね。ミノリちゃんは頑張りやさんだから、おばあちゃんは少し心配だよ」
「大丈夫ですよ。いろいろできるようになっていくのが、楽しいんです」
 その答えに、エッダは少し複雑そうな表情で笑う。
「一人で困ったことがあったら、相談しておくれね」
 
 
 いつまでも、そう言って貰えるのだと思っていた。
 ミノリは白く冷たい墓石の前に立ち、ぐしっ、と涙を拭う。そして、こくんと頷いた。
頑張ろう。エッダさんに、心配を掛けないように。おばあちゃんの牧場を、しっかり守っていけるように。もっともっといろいろなことを、一人でできるようにならなくちゃ。
 ミノリは白い花をそっと墓前に供えると、足下に置いていた虫かごを持ち上げて、蓋を開ける。
 一匹のモンシロチョウが、雪のようにふわりと空に舞った。
 
 

十二話 「大丈夫」

 
 
 冬の月、三日。一昨日の葬儀は町民全員の参列の元で執り行われたが、街頭でその話題を口にする者は誰一人おらず、皆、普段通りの日常を送っている。しかし長年この町を暖かく見守り続けてきた老婦を偲ぶ者がいないはずもなく、各々の家ではしめやかに彼女の思い出が語られていた。クラウスとて例外ではなく、午前に尋ねてきた女流作家との話題は、専らエッダに関するものだった。
 会話の中で、イリスがふと表情を曇らせ、思い出したように呟く。
「そういえば、ミノリさんは大丈夫かしら……」
 それは、クラウスも気になっていた。ミノリがこの町に来て最初に世話になったのは他ならぬその老婦人であり、クラウスに対する以上の信頼を持って接していたことは日常会話から容易に推測出来た。そんな彼女が、昨日今日と姿を見せていない。ほぼ毎日、キャロットジュースを差し入れてくれていたにもかかわらず、だ。
「どうだろうな」
 苦笑しつつ答えれば、イリスが訝しげな表情を向けてくる。
「ミノリさん、今日もここへ来たんじゃないの?」
「いや、昨日から来ていない」
 あっさりしたその返事に、イリスは、はぁー、と大きな溜息を吐いた。
「あなたねえ……。様子を見に行ってあげたりはしないの?」
 クラウスの胸が、罪悪感でズキンと痛む。確かに、昨日の朝会わなかった時点で見舞に行こうかと考えはした。しかし昼間は仕事で町外に出ており、帰ったのが午後七時頃だったため、恋人でもない若い娘の家を夜分に訪ねるのはまずいだろう、と断念したのだ。とは言え、今更そんな説明をしても言い訳がましいので、黙っていることにした。代わりに、渋い顔で宣う。
「そう言うなら、お前が行ってやればいいんじゃないか?」
 至極もっともな意見にもかかわらず、イリスはあからさまな呆れの眼差しを彼に送った。
「そうね、別にあなたじゃなくてもいいわよね。私は午後いっぱい執筆で忙しいから、ミステルが帰ってきたら行って貰おうかしら」
 その発言―特に「ミステル」という単語に、ギクッとするクラウス。
「確か今日、あいつは町の外へ買い付けに行ってるんだよな?」
「ええ。帰りは六時頃になるでしょうね」
「……そうか」
 必死で焦りを隠そうとしているが隠しきれていない彼の有り様を、イリスはクスリと笑った。
「あなたなら、今日の午後は時間があると思ったのだけど。行けないなら、仕方ないわよね」
「いや、行けないとは言ってないぞ。お前も暇だと思ったから、だな……。午後になっても来なかったら、オレが訪ねてみよう」
 
 
 散々イリスに遊ばれたが、結局、彼が高原の牧場まで出向く必要はなくなった。
 昼食後、仕事机で軽く書類整理を終えたクラウスは、散歩がてらミノリの家まで足を延ばしてみようと身支度を整えていた。そこへ、不意に玄関扉がノックされる。
(もしかして、ミノリか?)
 仄かに期待しつつドアを開ければ、予想通りだった。玄関口にちょこんと立つ女牧場主の姿に、クラウスの頬が思わず緩む。
「こんにちは。……あっ、お出かけするところでした?」
 出迎えた男性がコートを纏っていたことからミノリはそう推察し、途端に申し訳なさそうな表情を浮かべてあせあせと尋ねた。普段と何ら変わらぬその様子に安堵し、クラウスは穏やかに微笑んで「いや、気にしなくていい」と返す。
「この時間に来るのは珍しいな。お茶、していくか?」
 しかし、ミノリは静かに頭を振った。
「いえ、すみません。今日は、ちょっと忙しので……。キャロットジュースだけでも、と思って寄らせていただいたんです」
 そう言って彼女は、カバンの中から鮮やかな濃橙色の液体が入った中瓶を取り出す。クラウスは「ありがとう」と礼を述べ、外気と同じくらい冷えきったそれを受け取った。
「では、わたし、これから貿易ステーションに行かないとなので……。失礼しますね」
 用件を果たすなり、踵を返そうとするミノリ。クラウスはにわかに驚き、慌ててそれを止めようとする。
「ちょっと待て」
 咄嗟に彼女の手首を掴んだ。ミノリが不思議そうに小首を傾げて、彼を見上げる。
「……何でしょう?」
 尋ねられても、引き止める理由を考えていなかったため、すぐに言葉が出てこない。
「あー……、何だ。その……」
 クラウスは、言い淀んだ末。
「大丈夫か?」
 つい、率直に、かつ舌足らずに訊いてしまった。当然ながら何のことやら全く分からないミノリは、返事に困る。
(まずい、何か言わないと……)
 クラウスが焦っていると、その間に彼の質問の意図を察したミノリが、「ああ」と声を上げた。そして、ふわりと微笑む。
「エッダさんのことなら、大丈夫ですよ。いつまでも悲しんでたら、エッダさん、心配しちゃいますし」
 スマートにはいかなかったものの結果的に欲しい答えが得られ、クラウスはほっと胸を撫で下ろした。
「……そうか。なら、良かった」
 緊張が解けたら、続く台詞はすらすらと出てくる。
「困ったことや辛いことがあれば、何でも言ってくれ。オレで力になれることは、協力するからな」
「はい。ありがとうございます」
 ミノリはぺこりと頭を下げると、「では」と言ってパタパタと駆けていった。本当に急いでいたのか、とクラウスはその背を見送る。
(強い子だな)
 この時の彼は、そう思った。後に、ミノリの「大丈夫」は信用出来ないと知ることになるのだが、それはもう少し先の話である。
 
 

十三話 可愛げのない子

 
 
 ミノリは、おそろしく器用だった。経理関係も含めた牧場仕事はもちろんのこと、伐採、釣り、裁縫、醸造、果ては建築まで、たった一人で何でもこなしてしまう。そんな彼女の姿を見た町の人間は口を揃えて「無理はするな」と忠告したが、その度にミノリは屈託のない笑顔で「大丈夫です、慣れてますから」と返し続けていた。実際、誰かの手助けが必要になることなど、建築の時くらいしかなかった。
 だからこのときもミノリは、「問題ない。自分で何とか出来る」と思ってしまったのだ。
「キミ、可愛いね。この町に住んでるの?」
 見知らぬ男が、向かいの席に座ってきた。ミノリはナポリタンを口に運ぶ手を止め、不思議そうな顔で相手を見上げる。
「……どちら様でしょう?」
 
 
 レーガは、店の奥をチラと見やった。
 今日のミノリがレストランを訪れたのは、珍しく午後七時という混雑時。いつも座っているカウンター席は既に満席だったため、彼女は再奥端のテーブル席で食事を取っていた。そこへ、見知らぬ男が合席したのだった。
 胸騒ぎを覚えたレーガは、ミノリの注文した品を急いで調理すると、料理の載った皿を手に、ゆっくりと席へ近付いた。周囲の喧騒に混じり、二人の会話が聞こえてくる。
「そう、牧場主やってるんだ」
「はい」
「オレ、ここへは観光で来てるんだ。牧場を見学しに。ミノリちゃんのところも、ぜひ見せて欲しいな~」
 ああ、やっぱりナンパか。レーガは素知らぬ風を装いつつ、どう助け船を出したものかと考え始める。
「お待たせしました。ご注文の品です」
 声を掛けて料理をテーブルの上へ置くと、ミノリは軽く微笑んで頭を下げたが、件の男はまるっきり無視だった。彼はミノリから視線を逸らさず、答えを促す。
「な、いいだろ?」
 レーガは「これはまずいか?」と思い、横槍を入れようとした。が、先にミノリのほうが口を開いた。
「明日のお昼頃でしたら、どうぞ。牧場を見学されたいということでしたら、近くにも何件か牧場があるので、他の牧場主の方にもお話しておきますね」
 まるで他意など含まないといった風の、いつものふわりとした笑顔で切り返す。レーガは、思わずニヤリとしてしまった。
(上手いな)
 彼女の機転に少し安堵し、席を離れる。もっとも、その一言で相手が引き下がるとも思えないため、警戒は怠らなかったが。レーガはカウンター席に戻ると、念のため、食事にがっついているフリッツへ耳打ちした。
「悪いけど、食べるの中断して、急いでクラウスさん呼んできてくれないか?」
「えー!? 何でだよ!」
「何でも。『アンタのお気に入りの子がヤバそうだから、すぐに来い』って伝えてくれ」
 その差し迫った様子からは、普段は脳天気なフリッツもさすがにただならぬものを感じたようだ。状況は全く飲み込めていなかったが、声の大きさをレーガに合わせて「分かった」と囁き、ひょいと店を駆け出て行った。
(後は、間に合うかどうかだな)
 しかしそんなレーガの思惑とは裏腹に、ミノリはフリッツが出て行ったおよそ十分後に席を立った。出口へと向かう彼女の後ろを、件の男が追う。店を出ようとしたところを、レーガは慌てて呼び止めた。
「ミノリ、ちょっと待ってくれ」
 ミノリが振り返る。
「……何でしょう?」
 今まで見たことのないその表情に、レーガはギクッとした。口角は上がっているが、目が全く笑っていない。
(そりゃ、あれだけ粘着されればイラつくよな……)
 ミノリはすぐにレーガの心中を察したようで、フフッと絶対零度の微笑みを浮かべて、きっぱりと宣う。
「ごめんなさい。わたし、今、ちょっと忙しくて。お話なら、明日伺いますね」
 言外に、「一人で対処できるから放っておいて」と。レーガは、肝心な時にいつもの鈍さを発揮しなくてどうする、と苦々しく思った。
 
 
 夜の馬乗り場前に人影はなく、ミノリと、観光客を自称する男は二人きりになった。ミノリは男を無視して足早に歩き、振り切ろうとしたが叶わず。それでも、馬乗り場に着いてしまえばこっちのものだった。尚も無言のまま、自分の馬を呼び出す。
「なあ、聞いてるんだろ? 無視するなよ」
 男は馬とミノリの間に無理やり割って入った。ミノリは頭にきたが、冷静を装い、普段よりワントーン低い声で静かに返す。
「だから、何度も言ってるでしょう? 夜は、ダメです」
「……じゃあ、無理にでも押し掛けるまでだな」
 とうとう痺れをきらしたのか、男がミノリの手首を無理やり掴んだ。
―と、同時だった。息を切らして現場に駆けつけたクラウスが叫んだのは。
「ミノリ!!」
 しかし、その直後に起きたことをクラウスは逐一見ていたにもかかわらず、すぐに理解出来なかった。
 くるりと腕を回して男の手をふりほどきながら、股間へのつま先蹴り。流れるようなその攻撃が決まった瞬間は、鮮やかだった。
「……っ」
 男は崩れ落ち、股間を押さえてうずくまる。
 満足げな表情でミノリは男に背を向け、馬の手綱を取った―が、そこに立っていた人物と目が合い、硬直する。彼女の顔は一瞬で赤くなり、さーっと青くなった。
「く、クラウスさん……?」
 呆然と立っていたクラウスはミノリに名前を呼ばれて我に返り、彼女の手首を無表情で乱暴に掴むと、素早く踵を返す。
「やっ、ちょっ、待って……! 痛いです!」
 しかしクラウスはその訴えに耳を貸さず、歩速を緩めることもせず、無言のまま足早に自宅へと向かった。
 
 
「ミノリ。そこへ座りなさい」
「……はい」
 いつものソファに座らされたミノリは、向かいに腰を下ろしたクラウスへ、ちらと視線を向ける。彼は今までになく怒り心頭だ。
「こうなることは分かっていたんだろう。何故、店で時間を稼がなかった」
「……ちょっと、頭にきたので……」
そう。しつこいナンパ男を懲らしめようと、ミノリはわざと彼を人気のないところに誘い出したのだ。男へのお仕置きが終わった後のミノリの満足げな顔から、そのことは容易に推測出来た。
「お前は、馬鹿か!」
 クラウスは、怒号を飛ばした。その剣幕にびくりとしつつも、ミノリは先刻の興奮冷めやらぬ様子で、初めて彼に食ってかかる。
「バカじゃないです! わたしだって、何も考えてなかったわけじゃないんですよ。護身術を習ってたから技は完璧にかけられるし、牧場仕事をしてるから体力にも自信があります!」
 クラウスは、これはいけない、と頭を振る。柄にもなく声を荒げてしまったが、決して怒鳴り合いをしたいわけではない。彼は冷静さを取り戻そうと、険しい顔のまま、ふー、と長く息を吐いた。そして、威圧的ではあるが抑えた声音で説教を始める。
「じゃあ聞くが、相手が武器を持っていたらどうするつもりだった? それで脅されていたら?」
「……っ!」
 ミノリは、ハッとクラウスを見上げた。そこまで考えていなかった、という顔だ。あっという間に反論の余地を失い、真っ赤になって今にも泣き出しそうな面持ちで目線を外す。そのいじらしい様は、クラウスの加虐心をくすぐった。答えられないのが分かり切っていて、彼は同じ問いを繰り返す。
「どうするつもりだったんだ。言ってみなさい」
 それでも小さな抵抗としてだんまりを決め込むミノリだったが、クラウスが「ほら、どうした?」と更に煽ると、やがて観念したように口を開いた。
「……どうにも、できません」
 クラウスは変わらず厳しい顔をしていたが、その答えに満足した様子で頷く。
「そうだな」
 そして一呼吸置いてから、先刻までとは打って変わった穏やかな口調で、宥めるように言い含めた。
「大体ミノリは、何でも一人でやろうとし過ぎなんだ。こういう時こそ、遠慮なく人を頼りなさい」
「……」
 ミノリは返事をせず、微動だにしなかった。しかしその瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ち始める。彼女は自身の弱さを隠そうと、更に深く頭を垂れ、手の甲で目を拭った。
 手を伸ばせば届く距離にある華奢な肩を、優しく抱きしめたい。そんな衝動に駆られ、クラウスの心臓が早鐘を打ち始める。叱るべきだったとは言え、こんな時刻に彼女を自宅へ連れ込んだのは失敗だった。後悔したが、時既に遅し。
「ミノリ……」
 彼が優しく名前を呼んでも、泣き続けるばかりで反応は無い。
 
 そうして、およそ十分が経過した。
 ミノリはようやく泣き止むと、何の前触れもなく、すっと立ち上がった。
「……帰ります」
 その言葉に「助かった」と言わんばかりのほっとした表情で、クラウスも腰を上げる。
「そうか。もう夜も遅いから、家まで送っていこう」
 ところが、ミノリは彼を待たずに玄関扉へ駆けて行ってしまった。
「一人で帰れます!」
 吐き捨てるようにそう言い残し、バタン、と扉を閉めて出て行く。
「ミノリ!?」
 呆気にとられて追いかけるのが一足遅れたが、クラウスも慌てて外に出る―が、ミノリの姿は既にそこになく、遠くから馬の駆ける音が聞こえるのみであった。
 
 
 それから、数日が経った。その間、ミノリがクラウスの家を訪ねることは一度もなかった。それどころか、レストランにも足を運んでいないらしい。
クラウスはさすがに心配になり、彼女の行きそうな場所を訪ね回ってみた。しかし、ここ数日の間にミノリを見掛けたという人間は皆無だった。貿易ステーションの商人にも尋ねてみたところ、どうやら彼女は人の少ない時間帯を狙って出荷だけは行なっているようだ。
「元気がないわね、クラウス?」
 不意に、背後から声がかかった。
「……イリスか」
「ミノリさんじゃなくて、残念だったわね」
 イリスは、フフッと悪戯っぽく微笑む。
「保護者気取りで、お説教しすぎるからこうなるのよ。ミノリさんだって一人前の女性なのよ?」
 気まずい表情で視線を落とし、クラウスは、ふう、と溜息を吐いた。
「反省してるよ」
「それなら、反省ついでに診療所へ行ってみることね。ミノリさん、昨晩過労で倒れて担ぎ込まれたそうよ」
「なっ……!」
 クラウスは、驚愕で目を見開く。
「だから、あれほど言ったのに……!」
 苦々しく呟くと、「イリス、すまない」と言い残し、コートの裾をひらりと翻して走り出した。その背中に向けて、イリスはどこか楽しげに言う。
「あの子にはあの子なりの葛藤があるってこと、ちゃんと解ってあげなさいね!」
 
 
 慌ててギルドに駆け込んだクラウスは、休憩所のテーブルで優雅にコーヒーを啜っていたマリアンに、鬼気迫る様相で詰め寄った。
「ミノリは!?」
「ただの過労ね。ぐっすり眠ってるわよ」
 マリアンは、しれっと言った。ほっと胸を撫で下ろすクラウス。
「……起きたら、会わせて貰えるか?」
「会ってどうするのよ」
 じと目で聞き返され、彼は言葉に詰まった。マリアンは、畳み掛けるように続ける。
「大体、ミノリちゃんが無理し過ぎた遠因はアンタにあるんでしょ? どんな顔して会うつもりよ」
「オレのせいじゃ……。いや、オレのせいかもしれないが……」
 確かに言い過ぎたかもしれない。しかし、それもこれも全てミノリの考え無しな行動が招いた結果だ。全て自分が悪いと認めるのも、納得いかない。
「レーガから聞いて、大体の事情は知ってるわよ。確かに、ミノリちゃんが悪いわ。けど、どーせアンタがキツく言いすぎたとか、そんなトコでしょ?」
「……」
 苦虫を噛みつぶしたような顔で、クラウスは視線を床に落とした。
「ああ、それとも、子供を諭すみたいに叱った、とか? ミノリちゃん、子供扱いは カ ナ リ 嫌がるものね~」
 どちらも正解である。
「……悪かった、と思ってる」
 マリアンは、キッとクラウスを睨んだ。
「アンタ、ミノリちゃんのコト、何だと思ってンの?」
「何って、それは……」
 可愛い妹のようなもの、と言いかけて、口を噤む。マリアンはそんなクラウスに「全て分かり切っている」とでも言わんばかりの態度で告げた。
「だったら、ちゃんと大人の女性として扱ってあげなさいよ。ミノリちゃんの話も、ゆっくり聞いてあげて?」
 そして「ホラ、来たわよ」とクラウスを小突く。振り返れば、しょんぼり俯きがちに診療所から出てくるミノリが目に入った。数日振りに見る彼女の姿に、クラウスの胸は締め付けられる。
「ミノリ……!」
「!!」
 名前を呼ばれたミノリが反射的に声のする方へ顔を向ければ、今一番会いたくなかった人物を視界が捉えた。彼女は逃げるようにその場を去ろうとする―が、脇から伸びた大きな掌に、がっしりと腕を掴まれてしまった。
「痛っ」
「あっ、……すまない」
 クラウスは、慌てて手の力を緩める。それでも、彼女を逃がそうとはしなかった。ミノリは真顔でクラウスを見上げる。
「離してください」
「離したら、逃げるだろう」
「……はい」
 クラウスは、次に掛ける言葉を必死で探した。
「……話が、したい」
「……」
 無言で瞳を伏せるミノリ。クラウスは絶望的な気分だった。それでも往生際悪く、掴んだ腕を離そうとはしない。するとギルドを利用していた人々が、次第に二人の様子をチラチラと伺い始めた。
 周囲の視線を感じたミノリは、じわりと頬を染める。
「……分かりました、から。離してください」
 当然、クラウスも自分に突き刺さる好奇の目には気付いていた。いつもは落ち着き払っている彼だが、その顔は珍しく紅潮していた。それでも、なりふり構っていられない。
「いや、このままオレの家まで行こう」
 抵抗しても、余計に人々の関心を引くだけだ。そう悟ったミノリはこくんと頷くと、黙って彼に腕を引かれていった。
 
 
 クラウスの心臓は、ここ数年感じたことのない程の速さで脈打っていた。その苦しさにほんの少し顔を歪めたが、何とか眉間の皺を伸ばそうとする。
 手元のティーカップから立ち上る湯気が、ふわりと揺れた。
「……その……この間は、本当にすまなかった。怒鳴ったり、子供扱いしたりして」
「……」
 ミノリは俯いたまま、答えない。クラウスはマリアンやイリスの忠告を思い出し、多くを語りすぎないよう、細心の注意を払って言葉を継ぐ。
「子供だと思ってるわけじゃないんだ。そう取られても無理のない言い方をしてしまったが、それは、その……言葉の綾で……」
「……」
 ミノリは尚も沈黙を守り、ず、と紅茶を啜った。
(駄目か、これでは……)
 クラウスは意を決したように、真っ直ぐにミノリを見つめ直す。
「それだけ大事なんだ、お前が」
ゴホッ。
 ミノリは、紅茶で咽せた。カチャンと音を立ててぞんざいにティーカップを置くと、口元についた水滴を指先で拭う。その顔は耳まで真っ赤になっていた。それでも彼女は無言を貫く。
「オレの目の届かないところで、お前が危ない目に遭ったらと思うと耐えられない」
「……っ」
 ミノリはパッと顔を上げ、非難がましい目を彼に向けた。あともう一押しだ、とクラウスの胸が高鳴る。
「だから……」
「もう、いいです」
 とうとう、ミノリが折れた。
「……わたしが、悪かったです。ごめんなさい……」
 泣きそうになりながら謝るミノリに、クラウスは静かに首を横に振って見せる。
「謝って欲しいわけじゃない」
「……じゃあ、どうして欲しいんですか」
 クラウスは口元に手を当て、暫時思案する。
(どうして欲しい、か。考えていなかったな)
 その頭に一瞬不埒な考えが浮かんだが、彼は無かったことにした。
「ミノリの話が聞きたい。この間は、どうしてあんなに怒ったんだ? 子供扱いされたからか?」
「……それは……」
 言い淀み、ミノリは再び視線を落とす。クラウスは彼女をじっと見つめたまま、両手指を顔の前で組み、黙って次の言葉を待った。
 数秒後、ミノリはぽつぽつと話し始める。
「……悔しくて……」
「うん」
「……だって、どうしたらいいか、分からなかったから。……ああいう時。レーガが、助けてくれようとしてるって、気付いた、けど」
 ミノリは、そわ、と身じろぎした。
「……一人で、何とかできると思ったから……えっと……」
 自分でも伝えたいことが分からなくなってきたミノリは、そこで言葉を切る。そして、少し考えた上で仕切り直した。
「……頼っていい、って、言われても、いまさら……分かりませんっ」
 吐き出すように言うと、ミノリの目からぶわっと涙が溢れ出す。
「なのに、あんなこと、言われて……なんだか、……悔しかったです」
 ぼろぼろ泣きながらも、彼女はきちんと理由を言い切った。それをじっと見守っていたクラウスは、胸の詰まるような感覚を覚える。
(ああ、そうか)
 彼女の言葉は、ストン、と彼の腑に落ちた。熱い何かが心を満たし、思わず貰い泣きしそうになる。
(久しく忘れていたな。……オレも同じか)
 もし自分が同じ状況で、同じ言葉を、諭すように言われたら。クラウスは自分の身に置き換えて想像し、心からミノリに申し訳なく思った。
「……本当に、すまなかった」
 両膝に手をつき、クラウスは深々と頭を下げる。
「お前の気持ちが、よく分かったよ。……ミノリはこれまで、何でも一人で解決出来るように、努力や我慢を重ねてきたんだな」
「……」
 ミノリは肯定しなかったが、否定もしなかった。
 年を重ねることで、そういった葛藤を丸ごと「無かったこと」にしてきたクラウスは、かつて自分もそうであったはずなのに、何でも一人で解決するしかない状況に慣れ過ぎてしまうと、人に頼るという選択肢自体が消えてしまうのだということをすっかり忘れていた。そういう者に対し、安易に「もっと人を頼れ」などと言えば、努力を否定されたと取られても仕方がない。
(似た者同士だからこそ、オレはミノリと話しているとこんなにも落ち着くのか)
 彼女への愛しさが募る。守ってやりたい。この手で、優しく抱きしめてやりたい。
 クラウスは身を乗り出し、黙々と涙を拭い続けるミノリの頭を、テーブル越しにそっと撫でた。
 
 
「……困りました。こんな顔じゃ、外へ出られません」
 冷水で顔を洗ったミノリはシンクの底に映る自分の顔を見て、誰にともなく不平を言いながら小さく溜息を吐いた。
「今すぐ牧場に戻らないといけないのか?」
 クラウスは名残惜しい気持ちを押し隠し、何気ない風を装って尋ねる。もう少しここにいて欲しい。その願いもむなしく、ミノリは首を縦に振った。
「はい。仕事がありますから」
「そうか……」
 ほんの一瞬だけがっかりした表情を浮かべたクラウスを、ミノリは見逃さなかった。
「えっと……でも、泣いたら小腹がすいてしまいました」
「そうか、いつもならお茶にしている時間だな」
 クラウスは少し照れた様子で口元に手をやると、彼女から顔を背ける。
「……もう少し、付き合うか?」
「はいっ」
 ミノリは泣きはらした目で、ようやくいつものように、ふわりとクラウスに微笑みかけた。
 
 

十四話 おせっかいなひと

 
 
 ミノリは帰るなり、乱暴に靴を脱ぎ捨ててドサッとベッドへ倒れこんだ。涙に濡れた瞳を枕に押しつけ、両の手でシーツを握りしめる。どうしようもなく悔しくて、情けなくて。何故と自分自身に尋ねてみても、その答えは得られなかったが。
 一人身には広すぎる家の中に、柱時計のカチコチ音と忍び泣きの声が、静かに律動を刻む。
 ひとしきり嗚咽を終えると、不意に激情の波がすーっと引いていった。小さく痙攣を続ける横隔膜を宥めすかすように、深い溜息をゆっくりと二、三度繰り返す。酸欠気味だった頭が徐々にはっきりし、ようやく彼女は冷静さを取り戻した。
(どうしよう。クラウスさんは、心配してくれたのに……失礼な言い方しちゃいました)
 つい先刻のやり取りを思い返し、今度は罪悪感に胸を締め付けられる。自分が全面的に悪いということは理解していた。頭にきたからという理由で無謀な行動に出たことも、それを指摘されて逆切れしたことも、大人げないことこの上ない。猛省したが、それでも胸の片隅にしこりが残った。
 一人で対処できると思ったし、そうしたかった。それなのに―
 再び、涙が込み上げる。
(みんなが気にかけてくれるのは、ありがたいです。けど……)
 件のナンパ男が凶器を持っていなかった点については運が良かったと言うしかないが、もしクラウスがあの場に現れなければ、計算通り先方に制裁を加えた上で、スッキリした気分で家に帰れていたはずだ。
(おせっかい……なんて思っちゃう自分が、すごくイヤ……)
 ネガティブな思考に囚われ、しばらく堂々巡りの自責を続けていたが、やがて考えることに疲れてずるずると暗い眠りに落ちていった。
 
 
 当然のことながら、翌朝の寝起きは最悪だった。
 重い頭と体を無理やり働かせ、日課である作物の水遣りを済ませたミノリは、一旦家に帰って出荷物を鞄に詰めつつ時刻を確認する。
午前九時。
これから普段通り貿易ステーションへ行き、出荷と買い物を済ませて―ここまで予定を組んだところで、ぴたりと作業の手を止めた。
(クラウスさんのお家へ行くの、どうしましょう……)
 仕事中はあえて考えないようにしていたが、いつまでも結論を先延ばしにしているわけにもいかない。会って謝るか、会わずに済ませてしまうか。彼の親切心を無下にしてしまったことに対しては謝りたい気持ちでいっぱいだった。しかし、未だ心に引っかかるものがある。
 何が、素直に謝ることを躊躇させているのか。上手くまとめることが出来ず、ミノリは胸の内に湧き上がった感情を一つ一つ確認する。
 大人げないところを見られてしまった恥ずかしさ。「馬鹿か」と怒鳴られたことに対する怒り。子供扱いされたことに対する悔しさ。加えて―
(人を頼るなんて、考えたこともありませんでしたし……べつに、頼らなくたって……)
 クラウスが、単なる親切心から「遠慮なく頼れ」と言ってくれたことは解っている。しかし、その一言が最も悔しくて、悲しかった。両親が他界してからというもの、助けてくれる人間などほとんどいなかったし、稀に手を差し伸べてくれる者が現れても、迷惑を掛けたくないという理由で何事も一人で対処出来るよう努力してきた。農畜産業に関することだけでなく、法制度などの生活全般に関わる知識も身に着け、同級生の男子と同等の農作業をこなせるよう勉学の合間を縫って体を鍛えたり、自分の身は自分で守ろうと護身術を習ったりもした。それらの地道な努力を、全て否定されたような気がした。
 気持ちが顔や態度に出やすい自分のことだ、こんな精神状態でクラウスに謝罪したところで、更に非礼を重ねるだけだろう。そう判断したミノリは、結局、彼と顔を合わせないよう、出歩く人の少ない午後八時頃に出荷を先伸ばすことにしたのだった。
 
 
 心にモヤモヤを抱えたまま、それから三日も過ごしてしまった。ミノリはクラウスとのお茶の時間がないことに寂しさを覚えながらも、燻ぶる悪感情を消し去ることも叶わず、牧場に引き籠るより他なかった。この町に引っ越してきた当初がそうであったように、一人で過ごしていると、つい休憩を忘れて朝から晩まで働いてしまう。彼女の顔には、明らかな疲労の色が浮かんでいた。
(クラウスさん、心配してるでしょうか……)
 ピッチフォークの柄の上に両手と顎を乗せ、はぁー、と本日何度目かの深いため息を吐く。そんなミノリを気に掛けてか、愛馬のスピカが暖かく湿った鼻息を吹き掛け、額を摺り寄せてきた。
「……どうしたら、いいと思いますか?」
 人の言葉を話さぬ彼女に尋ねてみても、答えは返ってこない。行きつくところはここ何日か繰り返し続けてきた自問自答であろうが、疲れの溜まっていたミノリはこれ以上頭を働かせることが億劫で、放棄した。
「……木を伐ってきますか」
 誰にともなくぽつりと呟くと、道具箱からフォークと入れ替わりに斧を取り出し、重い足を引きずって家の裏手へと向かう。外壁に沿って回り込めば、裁縫工房の陰に大きな針葉樹が一本現れた。木材にするため、十分成長するのを待っていたのだ。
 ミノリは幹の前に立つと、ここまで懸命に生きてきた命へ敬意を示すように、木肌を優しく撫でる。そして斧を構え、すう、と息を吸った。勢いよく振り切れば、コンッ、という小気味良い音と共に、幹へ傷が入る。間髪入れずに、二度、三度と伐り込んでいった。
 木を一本伐り倒すには、相当な体力が要る。既に息は上がっていたが、まだいけるだろう、とミノリは伐採作業を続けた。しかし、見込みが甘かった。
 突如、ぐらりと視界が歪む。
 何事かと探る間もなく、目の前が真っ暗になり―
 
 気付けば、診療所のベッドの上だった。
 
 
 瞼を開けきると、頭上から甘ったるいハスキーボイスが降ってくる。
「やっと気がついたわね。ここは、診療所よ」
 派手なピンク色が、ぼんやりと目尻に映った。本調子でない思考力でも、マリアン先生だな、とすぐに分かった。
「あなたは倒れたの。覚えてる?」
「……はい」
 ゆっくりと上体を起こし、軽く目を擦る。顔を左に回せば、心配そうに自分を見つめるマリアンとアンジェラが視界に入った。
「しょうがない人ですね。もう少し注意力というものを持ってください」
 未だしくしく痛む頭で状況を理解し、アンジェラの苦言を受け入れたミノリは、しょんぼりと面を伏せる。
「ごめんなさい……」
「まぁまぁ、病人なんだから」
 消沈しきった様子のミノリを見兼ねて、マリアンが苦笑しつつ部下を宥めにかかった。が、アンジェラは依然厳しい表情を崩さない。
「先生は甘いですよ。今度からは倒れないでください。運んでくるのも骨が折れますから」
「はい。……ご迷惑、おかけしました……」
「憎まれ口を叩いてるけど、ミノリちゃんのこと心配してるのよ」
 フフッと笑いながらマリアンが言うと同時に、診療所の扉が開いた。アンジェラと同じく硬い様相で入ってきたのは、この町のギルドマスターであるベロニカだった。
「ミノリさんは、大丈夫でしたか?」
 彼女がマリアンとミノリへ交互に視線を送って尋ねれば、横からアンジェラが「ただの過労です。心配ありません」と答える。ベロニカはほっと胸を撫で下ろし、表情を和らげた。不思議そうに一同を見上げるミノリへ、マリアンが説明する。
「あなたが牧場で倒れているところを、ベロニカさんが見つけて知らせてくれたのよ」
 ああ、とミノリは納得した。ベロニカは夕方頃、頻繁にミノリの牧場へ様子を見に来てくれているのだ。
「ありがとうございました。ご迷惑おかけして、すみませんでした……」
「いえ、無事で何よりです。それでは、私は上に戻りますね」
 ニコリと愛想笑いを返して早々に踵を返したベロニカの背を見送ると、マリアンは「うーん」と小さく唸って伸びをした。彼やアンジェラに時間外労働をさせてしまったことに今更ながら気付いたミノリは、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「それじゃ、あたしも帰るわ。ミノリちゃん、今夜はここに泊まっていきなさい。さっき寝ている間に、ビタミン注射を打っておいたから。明日起きたら、帰っていいわよ」
「私も、失礼します。二階にいますから、何かあったらすぐに呼んでください」
「はい。本当に、すみませんでした……。おやすみなさい」
 
 
 翌朝目覚めたミノリは、横になったまま壁掛け時計で時刻を確認し、愕然とした。
(八時半……)
 普段なら目覚まし時計など掛けなくとも、きっかり五時半に目覚めるものを。気付かぬ内に、相当疲れが溜まっていたのだろう。
(悔しいなあ……)
 薄目で白い天井を見上げて、ぼんやりと考える。やはりどんなに背伸びをしてみたところで、自分は体調管理も満足に出来ない子供だということか。悔しさと情けなさとで、いつまでも布団を被って寝ていたい気分だった。しかし、そんなわけにもいかない。すう、と息を吸い、がばっと上半身を起こした。注射の効果で、体はすっかり軽くなっている。ベッドから這い出て立ち上がると、服の皴と髪の寝癖を軽く正した。
 はあ、と一つ溜息を吐き、肩を落として診療所を後にしようとする。ガチャリと扉を開き、部屋の仕切りを跨ぐ―と。
「ミノリ……!」
「!!」
 出し抜けに名前を呼ばれ、声のするほうに顔を向ければ、今一番会いたくなかった人物を視界が捉えた。ミノリは逃げるようにその場を去ろうとする―が、素早く駆け寄られ、脇から伸びた大きな掌にがっしりと腕を掴まれてしまった。
「痛っ」
「あっ、……すまない」
 下腕を圧迫した痛みに声を上げれば、クラウスが慌てて手の力を緩める。しかし、離しては貰えなかった。ミノリは、真顔でクラウスを見上げる。
「離してください」
 咄嗟に刺々しく言うと、彼は眉間に皺を寄せ、低い声で返した。
「離したら、逃げるだろう」
 ミノリはそこまで考えていなかったが、もし解放されていれば、おそらく反射的にそうしただろう。嘘を吐けない性分から、肯定するよりなかった。
「……はい」
 心臓が、ドキドキと早鐘を打つ。こういう時、どう会話を続けたらいいのだろう。酷く混乱した。そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、クラウスは静かに次の言葉を紡ぐ。
「……話が、したい」
「……」
 無言で瞳を伏せるミノリ。一体、何を話すというのか。また先日と同じように、未熟さを指摘されて責められるのだろうか。謝罪をするいい機会だとも思ったが、それ以上に、追い打ちを掛けられるのが嫌だった。
 返答を渋っていると、ギルドを利用していた人々が次第に二人の様子をチラチラと伺い始める。周囲の視線を感じたミノリは、じわりと頬を染めた。
「……分かりました、から。離してください」
 現状を打開したい一心から、つい、そう答えてしまった。しかし、クラウスは静かに首を横に振る。
「いや、このままオレの家まで行こう」
 抵抗しても、余計に人々の関心を引くだけだ。そう悟ったミノリは、こくりと頷くと、黙って彼に腕を引かれていった。
 
 
 ミノリはちらとクラウスの顔色を窺い、すぐに視線を膝に落とした。手元のティーカップから立ち上る湯気が、ふわりと揺れる。
(気まずい……)
 どう切り出そうか考えつつ黙りこくっていると、先にクラウスが口を開いた。
「……その……この間は、本当にすまなかった。怒鳴ったり、子供扱いしたりして」
 こちらこそ、すみませんでした―そう言いたかったが、胸に居座る悔しさが邪魔をして、声に出せない。謝るべきは、元凶である自分のほうなのに。改めて己の幼稚さを認めると共に、彼は大人だ、と思った。そんなことを考えつつ俯いたままでいると、クラウスが落ち着いた態度で話を続ける。
「子供だと思ってるわけじゃないんだ。そう取られても無理のない言い方をしてしまったが、それは、その……言葉の綾で……」
 その言に、ミノリは僅かに苛立った。
(……嘘ばっかり)
 カップを握る手にほんの少し力を入れ、ず、と紅茶を啜る。再び訪れる、重い沈黙。
 数十秒の後、クラウスが僅かに息を吐いた。彼は顔を上げ、真っ直ぐにミノリを見つめ直す。
「それだけ大事なんだ、お前が」
ゴホッ。
 あまりの不意打ちに、ミノリは咽せた。カチャンと音を立ててぞんざいにティーカップを置くと、口元についた水滴を指先で拭う。思わず赤面してしまった。
(いきなり、何を……)
 真意を問う暇もなく、続けざまに甘い台詞が放たれる。
「オレの目の届かないところで、お前が危ない目に遭ったらと思うと、耐えられない」
「……っ」
 ミノリはパッと顔を上げ、非難がましい目をクラウスに向けた。が、彼の表情があまりに真剣だったので、思わず視線を逸らしてしまった。
「だから……」
「もう、いいです」
 相手の言葉を遮り、はあ、と嘆息する。
「……わたしが、悪かったです。ごめんなさい……」
 気恥ずかしさと情けなさとが、つまらない意地に勝った。しかし、ミノリがようやく口にした謝罪に対し、クラウスは静かに首を横に振る。
「謝って欲しいわけじゃない」
「……じゃあ、どうして欲しいんですか」
 早く、この場から逃げ出したい。そんな気持ちが声音に表れ、自然と棘が立ってしまった。
(また、怒られるんでしょうか……)
 ミノリは、口元に手を当てて思案するクラウスを重い心持ちで眺める。が、予想に反し、彼はいたって穏やかに尋ねてきた。
「ミノリの話が聞きたい。この間は、どうしてあんなに怒ったんだ? 子供扱いされたからか?」
「……それは……」
 その通りである。ミノリは、再び視線を落とした。クラウスは彼女をじっと見つめたまま、両手指を顔の前で組み、黙って次の言葉を待っている。
 どんなに虚勢を張ってみたところで、結局、彼には敵わないのか。ミノリは観念し、ぽつぽつと語り始めた。
「……悔しくて……」
「うん」
「……だって、どうしたらいいか、分からなかったから。……ああいう時。レーガが、助けてくれようとしてるって、気付いた、けど」
 ミノリは、そわ、と身じろぎした。
「……一人で、何とかできると思ったから……えっと……」
 自分でも伝えたいことが分からなくなってきたので、そこで一旦口を閉ざす。
(そうじゃない。そうだけど、それが一番イヤだったわけじゃない……)
 最も腹立たしかったのは。
「……頼っていい、って、言われても、いまさら……分かりませんっ」
 吐き出すように言うと、ミノリの目からぶわっと涙が溢れ出した。
「なのに、あんなこと、言われて……なんだか、……悔しかったです」
 こんな風に泣いたりしたら、目の前の優しい人を困らせてしまう。いや、やはり子供だと呆れられてしまうかもしれない―そう思っても、止められなかった。
 しかし、クラウスの抱いた感情は、そのどちらでもなく。
「……本当に、すまなかった」
 彼は両膝に手をつき、深々と頭を下げた。
「お前の気持ちが、よく分かったよ。……ミノリはこれまで、何でも一人で解決出来るように、努力や我慢を重ねてきたんだな」
 その柔らかい言葉に、ミノリの全身がぞわっと震えた。それは、まさに彼女が主張したかったこと、そのままだった。無論、自分だけでなく、誰だってその人なりの努力や苦労をしていることは分かっている。だから、口にするつもりはなかったが。
 それでも、今まで子供扱いされる度に、悔しくて仕方なかったのだ。クラウスに限らず。本当に助けて欲しい時には誰も助けてくれないのに、それらを一人で乗り越えるために努力してきたことなど想像もせず、安易に「頼っていい」などと言われるのは、非常に腹立たしかった。しかし―
(認めて、もらえた……)
 それ一つで、悔し泣きは嬉し泣きに変わった。ここ何年か分溜め込んでいた鬱憤が解け、涙となって堰を切ったように溢れ出す。
(わたし、誰かに認めて欲しかったんですね……)
 黙々と涙を拭い続けるミノリの頭を、クラウスがテーブル越しに身を乗り出し、切なげな面持ちでそっと撫でた。
 
 
「……困りました。こんな顔じゃ、外へ出られません」
 冷水で顔を洗ったミノリはシンクの底に映る自分の顔を見て、誰にともなく不平を言いながら小さく溜息を吐いた。今更ながら、あんなに泣くんじゃなかった、と思う。
「今すぐ牧場に戻らないといけないのか?」
 クラウスが何気なく尋ねた。もう少し一緒にいたい、というのがミノリの本音だったが、これ以上彼の時間を奪うわけにはいかない。遠慮して、首を縦に振る。
「はい。仕事がありますから」
「そうか……」
 彼は笑って応えたが、ミノリには、ほんの一瞬だけがっかりした表情を浮かべたように見えた。
(気のせい、かもしれませんけど……)
 気のせいでないとすれば、彼も、もう少し話したいと思ってくれているのだろうか。
(だったら……甘えてみても、いいんでしょうか……)
 ミノリは小さく唾を呑み、おずおずと切り出す。
「えっと……でも、泣いたら小腹がすいてしまいました」
 また素直じゃない言い回しをしてしまった。やはり、どうにも人に甘えるのは苦手だ。それでも、クラウスが「そうか、いつもならお茶にしている時間だな」と変わらぬ態度で返してくれたので、内心ほっとした。
「……もう少し、付き合うか?」
「はいっ」
 ミノリは泣きはらした目で、ようやくいつものように、ふわりとクラウスに微笑みかけた。
 
 

十五話 それは勘違い

 
 
(そろそろ、白黒はっきりつけたほうがいいのかもしれない。だが……)
 相も変わらず、クラウスは思い悩んでいた。こと最近については、「告白」の二文字が頭にちらついて離れない。というのも、毎日一緒にお茶をする間柄ではあっても恋人同士ではないというミノリとの中途半端な関係に、歯痒さが募っていたからだ。
 もっと知りたい。甘やかしたい。触れたい。恋人であれば満たそうとすることが許されるそんな欲求も、現状はすべて抑え込むしかない。これが、馬鹿にならないくらい彼の神経を擦り減らしていた。
 ミノリに対する特別な感情を自覚した時点では、心のどこかで「時が来れば自然と諦めもつくだろう」と軽く考え、ずるずると対策を先延ばしにしていた。ところが、諦めるどころか想いは強くなる一方で。このままでは精神衛生上よろしくないし、いつか間違いを犯してしまいそうだった。
 ならば、いっそ当たって砕けてしまえばいいのではないか、とも考えた。彼女のほうは単なる茶飲み相手、良くて「頼れる年上の隣人」くらいにしか自分を見ていないようだし、十以上の年齢差もある。いきなり想いを告げたところで、万が一にも受け入れられることはないだろう。はっきり断られてしまえば、否が応にも距離を置くことになるはずだ。
 しかし、それは自分の勝手で彼女に不快な思いをさせてしまうことに他ならないし、その後も同じ町の住人として付き合っていくに当たって、しこりを残す可能性が高い。やはり、本心を隠して現状を維持すべきか―
 などと仕事そっちのけで堂々巡りの一人会議を続けていたところで、時刻は午前十時を回り、今日も彼の家にノック音が響く。扉を開けて行われるのは、幾度となく繰り返されてきたやり取りだ。
「こんにちは、クラウスさん」
「ああ。こんにちは」
 普段通りミノリをお茶に誘い、室内へ通せば、彼女は迷わず玄関側のソファに腰掛ける。必ず、向かって中央より少し右寄りに。そんな行動の一つ一つに対する愛着が、この関係に終止符を打つ決心を鈍らせている。
「これ、いつものキャロットジュースです」
「ありがとう。いただくよ」
 冷えた瓶を受け取って冷蔵庫にしまうと、クラウスはその足でキッチンへと向かい、戸棚から焼き菓子の入った箱を取り出す。それをミノリの前の卓上に置けば、途端に彼女の顔がぱあっと明るくなった。あくまでお菓子目当てなのか、とクラウスは少々切なくなる。
「紅茶を淹れてくるから、それを摘まんでてくれ」
「はいっ、ありがとうございます。いただきます」
 ミノリは箱の蓋を開け、少し迷った上で個包装のチョコレート・ブラウニーを手に取った。その様子を肩越しに観察してから、クラウスは紅茶を淹れにかかる。イリスとミステルが愛飲しているような洒落たフレーバーティーなどこの家には無く、常備されているのはストレート茶葉のみだ。ケトルに水を入れて火に掛けると、円筒缶の中身をティースプーンで掬い、二杯分、ポットに落とす。
「……ミノリがこの町に来て、もうすぐ一年になるのか」
 缶の蓋を閉めながら、クラウスがふと呟いた。ミノリは彼の背中へ顔を向け、口の中のブラウニーをこくんと飲み下す。
「はい。今月末で、ちょうど一年です」
 そう答えて、すぐに視線を菓子箱に戻した。
 二人が最初に出会ったのは春の月の中頃だったので、この関係もおよそ三か月間続いていることになる。それだけの時間を共有していれば特別な感情も芽生えるわけだと、クラウスは一人納得した。同時に、彼女のほうはどうなのだろうと気に掛かる。キッチンに背を向けてシンクに凭れ掛かり、彼はぼんやりとミノリを観察し始めた。彼女は彼女で考え事でもしているのか、菓子箱へ視線を落としたまま微動だにせず、見られていることには全く気付いていない様子だ。
(オレを意識している風は全く無いな。お菓子しか眼中に無いように見える)
 しかし、仄かに期待する気持ちが「果たして、調香のお礼とお菓子のためだけに『毎日』通ってくるものだろうか」と囁く。彼女の律義さと子供っぽさの表れだと言ってしまえば、それまでだが。
(確か、前に「オレの家は居心地がいい」と言っていたな。あの時は額面通り受け取ったが、考えてみれば、あれはどういう意味だったんだ?)
 クラウスの心臓が、僅かに鼓動を早めた。
 その瞬間、ケトルの蓋が、何の前触れもなくカタンと音を立てる。
 大した音量でもなかったが、クラウスはビクッと肩を震わせた。我に返って急に気恥ずかしくなり、再び調理台に向き直ってポットの位置を置き換える。この行為に、特に意味は無い。
 それから数十秒ほどで、湯が湧く。彼はシューシューと音を立てるケトルを持ち上げ、ポットへ熱湯を注いだ。すぐに蓋をし、茶葉が開くのを待つ。その間に、ティーカップを二つ用意した。まだ時間が余っていたので茶菓子の残量を確認してみると、戸棚の中には貰い物のチョコチップ・クッキーの箱が一つのみ。何とはなしに、また何か買ってくるか、と心に留める。
 ミノリを振り返れば、彼女は二つ目の茶菓子を選んでいるところだった。流れで時計を見ると四分が経過していたので、ポットの中身をティーカップへ注ぎ分ける。ミノリ相手の場合、砂糖やミルクを用意する必要はない。そのままソーサーを持ち上げ、ダイニングテーブルへ移動した。
「待たせたな。ほら、お茶だ」
「ありがとうございます」
 ミノリは手にしていたマドレーヌの包みを置き、ティーカップを取り上げて紅茶を一口啜る。心底、幸せそうな表情で。この笑顔をいつも傍に置きたいという欲求がクラウスの中で頭をもたげ、また彼女を意識し始めてしまった。彼もミノリの向かいのソファに腰掛けると、緊張を誤魔化すようにお茶を飲み始めた。
 
 
 今後の身の振り方を決めるための判断材料が欲しい―そう考えたクラウスは、カマをかけてみることにした。自分もつくづく諦めの悪い男だ、と心の内で嘲笑しながら。
「前々から気になっていたんだが、ミノリはこんなおじさんとお茶をしていて、楽しいのか?」
 つい、「もっと若いやつとのほうが」と続けそうになったが、彼女には同じ年頃の友達が少ない上にそれがコンプレックスであることを思い出し、慌てて言葉を飲み込んだ。
 ミノリは、ふわりと微笑んで即答する。
「楽しいです。クラウスさん、物知りですし……」
 そこで一旦言葉を切り、じわりと頬を赤らめた。彼女は、視線を逸らしがちに続ける。
「わたし、人とお話するのって、あんまり得意じゃないんです。けど、クラウスさんだと、お話しやすいので……」
 クラウスの心臓が、ドクンと跳ねた。彼も、思わず赤面する。
「……そうか」
 この反応は、まさか。ドキドキが止まらなかった。
 しかし緊張していたのはミノリも同様であり、自分のことで手一杯の彼女は明らかに挙動不審な眼前の男の様子など全く意に介さず、逆質問する。
「クラウスさんこそ、退屈じゃないですか? わたし、子供っぽいですし……。ぜんぜん、面白いお話もできなくて……」
 クラウスは小さく深呼吸して平静を取り戻し、静かに頭を振った。
「そんなことないぞ? お前は年の割にしっかりしているし、話を聞くのも上手い。いつも、ついつい話しこんじまう」
「そっ、そうですか? なら、よかったです……」
 ミノリは嬉しそうに、しかし頭から湯気を出さんばかりに赤くなって俯いた。まさかこんな雰囲気になると思っていなかったクラウスは、激しく動揺しつつ次の話題を探す。
「その……ミノリは、イリスともよくお茶をするんだろう? オレなんかより、あいつのところへ行ったほうがいいんじゃないか?」
 その言葉に、ミノリの顔色がさっと変わった。面を上げた彼女は、少し寂しげな笑顔でクラウスの表情を伺う。
「あの……やっぱり、ご迷惑でしたか?」
 ミノリの変化に気付いたクラウスは、自身の考え無しな発言を振り返って、盛大に焦り始めた。
「いや、違う。そういう意味で言ったんじゃない。あー……、何だ。もし、まだ調香の礼などと気を遣っているんだとしたら、申し訳ないと思ってだな……」
 ぶんぶんと首を横に振るミノリ。
「違いますっ! いえ、違わないですけど……っ」
 言い淀んで、彼女は頭を抱えた。「うーん」と三回ほど唸ってからパッと顔を上げ、再び口を開く。
「えっと……香水のお礼は、したいな、って思ってます。けど、それだけじゃなくて……。クラウスさんとお茶するの、ホントに、楽しいんです。いえっ、イリスさんとお茶するのが、楽しくないわけじゃないんですけどっ! クラウスさんといると、落ち着くっていうか……」
 見るからに混乱しているミノリに段々と申し訳なくなってきたクラウスは、カチャン、と音を立ててティーカップを置いた。
「……悪かった。オレも、こうやってお前と話をするのは楽しいと思ってる。だが、もしお前が気を遣って付き合ってくれているだけだとしたら断ってくれて構わない、と言いたかったんだ」
「いえっ、お断りする理由なんてないです。わたしの方こそ、すみません。毎日なんてご迷惑かなって、思ってはいたんですけど……」
「迷惑なんて、全然そんな事はないぞ。むしろ……」
 勢いで続けかけて、クラウスはハッと口を噤んだ。そして、再び赤面する。
「いや……、あー……。迷惑じゃない。いつでも、来てくれていいからな」
 ミノリも真っ赤に頬を染め、きゅっと胸元を握り締めた。
「……はい。ありがとう、ございます……」
 
 
 この日、ミノリが帰った後でクラウスは思った。
(確か、銀とほたる石だったか。明日、調達してくるか……)
 
 

十六話 ほたる石の指輪

 
 
 その日の仕事を早めに切り上げると、クラウスは大きく伸びをして一つ深い溜息を吐き、作業机の一番上の引き出しを引いた。そして、ほたる石が一粒キラリと光る小さな指輪を取り出す。
彼には、根拠のない確信があった。
(ミノリはきっと、これを受け取ってくれるだろう)
 一人頷いて、指輪を内ポケットに忍ばせた。
 
 
 いつもと同じ時刻に、コンコンと玄関扉が叩かれる。相手は、見ずとも分かっていた。ミノリである。
「こんにちは」
「ああ」
 ソファで雑誌を読みながら彼女を待っていたクラウスは、すぐに立ち上がって玄関先で出迎えた。その後、普段であれば「今日の茶菓子は何がいい?」とでも尋ねる彼だったが、この日は違った。
「お茶の前に、少し外を歩かないか?」
 不思議そうに首を傾げるミノリ。しかしすぐにふわりと微笑んで、彼の提案に頷いた。
 コートを羽織ったクラウスはストーブの火を消し、外へ出て、玄関の鍵を閉める。昨夜までの猛吹雪などまるで夢であったかのように、空は晴れ渡っていた。陽光を受け、白い路地がキラキラと輝いている。
「いいお天気ですね」
「そうだな」
 月並みな言葉でも、それを彼女が口にすると何やら素晴らしいことのような気がしてくるから滑稽だ―クラウスはそう思い、口元を綻ばせた。
 ゆったりした速度でサクサクと音を立てて歩く長身の男の三歩後ろを、小柄な女子が雛鳥のようについて歩く。道中出会った人々に対してクラウスが慣れた様子で挨拶をすれば、内気なミノリも少し遅れて会釈した。それが「便乗」であると気付けるのは、彼の他にはマリアンとイリスくらいのものだろう。
 そうして町の中心部を抜けると、ほどなくして山の麓へ到着する。橋の上まで歩を進めたところで、クラウスは不意に足を止めた。
 ミノリが欄干から身を乗り出し、キラキラした瞳で川面を覗き込む。
(これは、魚影を確認しているな)
 そう推察し、クラウスはハハッと笑った。
「晩飯のおかずを見繕うのはいいが、落ちるなよ?」
「……もう。何で分かっちゃうんですか」
 ミノリはわざと、拗ねたようにツンとそっぽを向いて見せた。そんな可愛らしい姿をひとしきり堪能した後、クラウスはコホン、と一つ咳払いをする。
「ところで、大事な話があるんだが」
「……何でしょう?」
 いつになく真剣な様子の彼に、ミノリは欄干からそっと手を離して向き直った。クラウスは胸に手を当て、跳ねる心臓を落ち着かせる。そして、静かに口を開いた。
「ここしばらくの間、ずっと言うべきか悩んでたんだが、やっと気持ちが決まった。いきなりのことで困るかもしれないが、聞いてくれ」
「何ですか、改まって」
 フフッ、と笑うミノリ。
「どうぞ?」
「オレは……ミノリが好きだ」
「……え」
 本当に、いきなりだった。
「……ちょっと、待ってくださいっ」
 一瞬で耳まで紅色に染まったミノリは、ふるふる首を横に振ると、冷えた両手を頬に当てる。しかしクラウスは、自身も僅かに顔を赤らめつつ「いや、続けさせてくれ」と彼女の制止を振り切った。
「最初は、父のような、兄のような気持ちでおまえのことを見守っていきたいと思うだけだった」
「し、失礼ですねっ。娘ほどの年の差はありません。そんな風に思ってたんですか?」
 この子は、黙って聞けないのか。恥ずかしさもあって、クラウスは少々苛立たしく思った。ミノリを片手で制し、構わず続ける。
「そのうち、それでは満足出来なくなった。年の差を気にしないわけじゃないが、それ以上に気持ちが育ってしまったんだ」
(……そうだ。いつでも手の届くところに置いて、守ってやりたい。オレだけを頼らせ、オレだけに甘えさせたい)
そんな愚にもつかない独占欲を抱かせるくらいには。
「だから、ミノリも……オレのことが好きじゃないならそれでいい。でも、もしも年の差が気になるなら、そんなものは気にならないくらい大事にして、幸せな思いをさせると約束しよう。だから、オレの恋人になって欲しい」
「……」
「もう一度言う。オレはおまえが好きだ、ミノリ」
 クラウスは懐を探ると、コートの内ポケットから指輪を取り出して彼女に差し出した。
「わ、わたしは……」
 ミノリはクラウスから目を逸らし、半歩後ずさって止まる。ぱっと顔を上げて何かを言いかけ、また視線を落とし、今度は困ったような顔を向け、また目線を外し―を、二度ほど繰り返した。そうして、ようやく発した言葉は。
「わたしも、クラウスさんのことが……好き……な、ん、でしょうか?」
 疑問形だった。思わず脱力するクラウス。
「いや、オレに訊かれてもな……」
 呆れたようにそう言うと、ミノリは未だ顔を赤らめたまま「ですよね」と調子外れに笑った。
「だっ、だって、分からないんです。『好き』とか、『恋』って、どんなものなのか」
 困り顔で瞳を伏せてしまった彼女を前に、クラウスは「ハハ……」と力なく笑う。
「そうか。ミノリには、まだ早かったかな」
 そう言って、指輪をポケットに戻そうとした。しかし、ミノリは慌ててその手を小さな両手で包んだ。
「まっ、待ってください。指輪は、くださいっ」
「……? 何を……」
 言ってるんだ、この子は。クラウスは混乱する。
「一緒に、いたいんです」
「……は?」
「クラウスさんの『好き』と、わたしの『好き』が、同じなのかは分かりません。……けど、クラウスさんのことは好きだし、これからも、一緒にいたいです」
 彼を見上げるその瞳は、いたって真剣だった。
「……ミノリ。恋人になる、ってのがどういうことか、分かってるか?」
「はい。……たぶん」
 クラウスは、ふうー、と深い溜息を吐く。全く、この子には振り回されっぱなしだ。
(まあ、これからゆっくり教育していく、というのもアリか。……いろいろと、な)
 縋るように握られたミノリの手を優しく剥がし、その右片方を取ると、クラウスは彼女の小さな薬指にそっと指輪をはめた。
「それじゃ、ミノリ。これからは恋人として、よろしくな」
 
 

十七話 リプライ

 
 
 リビングテーブルに着いたミノリは室内灯の下で、右手の薬指にキラリと光る「それ」をぼんやりと眺めていた。
『オレは……ミノリが好きだ』
 昼間聞いた「彼」の声が、早鐘を打つ胸の内側で繰り返し再生される。同時に、その言葉に対する自身の返答を思い返して頭を抱えた。
(どうして、あんなお返事をしちゃったんでしょう……!)
 咄嗟に漏れ出た正直な気持ちだったとは言え、「好きかどうか分からない」だなんて、失礼もいいところだ。最終的に彼は普段通りの微笑みを向けてくれたが、内心呆れていたに違いない。悪くすれば、真剣な告白を茶化されたと受け取られたり、彼の心を傷つけてしまったかもしれない。
 しかし、今になって後悔しても遅い。
(あした会ったら謝りましょう……)
 何と言って謝ろうか。恋愛感情を抱いていると言えば嘘になるが、特別な好意を持っていることは確かで、彼との関係に「恋人」という肩書が付くことにも抵抗がないどころか、奇妙な嬉しささえ覚えている。それを、どう伝えよう。
 ぐるぐる思考を巡らせていると、ふと、ミノリの頭に別の案件が浮かんだ。
「そうでした、指輪」
 思わずぽつりと声をこぼして、再び薬指に目を落とす。
(確か、これって恋人同士が贈り合うものでしたよね)
 自分には縁のない話だと聞き流していた「お付き合い」に関するベロニカの説明。記憶の片隅に追いやっていたその情報を、ミノリは慌てて手繰り寄せる。数分ほどうんうん唸った結果、「手作りの『ほたる石の指輪』を恋人へ贈ることがこの地域の風習である」という大雑把な情報だけは辛うじて引き出せた。
(ということは、この指輪は……クラウスさんの、手作り……?)
 意識した瞬間、頬が、ぼっ、と一瞬で熱くなる。
 今更ながら、何というものを受け取ってしまったのだろう。しかも「異性として好き」とは言い切れない、「これからも一緒にいたい」などという曖昧な気持ちで。クラウスは、多かれ少なかれ心を込めてこの指輪を作ってくれたのだろうに。
(お返しするべきでしょうか……。いえ、そんなことをしたら、ぜったい傷つけちゃいますよね……)
 またもあれこれ考え悩み、机に突っ伏して唸り始める。が、「恋人」に対する自身の思いすら定かでないのに、良案など浮かぶはずもなく。とうとう半ばやけっぱちになって、ガタンと椅子から立ち上がった。
(とにかく恋人になったんだから、わたしからも指輪を渡さないと!)
 
 
 翌日。
 いつもの時刻―午前十時に玄関扉がノックされると、家の主であるクラウスは、ウキウキと来客を出迎えた。
「おはよう、ミノリ」
 普段よりも明るい調子で声を掛ける。しかし敷居の向こうに立つ新米の恋人は「おはようございます」と微笑み返してきたものの、心なしか疲れた様子だった。
「どうした? あまり体調が良くなさそうだな」
 心配げな彼の言葉に、ミノリは苦笑しつつ首を横に振る。
「いえ……そんなことないですよ」
 彼女をリビングへ招き入れながら、少々不安になってきたクラウス。昨日の今日だ、何か思うところがあるのではないか、と。ミノリの顔をよくよく見れば、目の下には薄らクマが浮かんでいる。「寝不足か?」と尋ねようとしたが、仮に肯定されたとしてその理由を聞くのが怖くなり、別の言葉を選んだ。
「今日も紅茶でいいか?」
「はい」
 ミノリは、何気なく頷く―が、慌てて「あ、えっと、その前に……」と呟きながら、クラウスの袖を軽く引いた。そして、少し焦った風でスカートのポケットに手を突っ込む。
「お渡ししたいものがあって。えっと……これ、なんですけど」
 彼女が取り出したのは、綺麗に折り畳まれた薄水色のハンカチ。小振りな掌の上でそっと広げられた布の中央からは、銀色に輝くシンプルなデザインの指輪がころんと現れた。
「これを、オレに?」
「はい」
 クラウスは予想外の出来事に戸惑いつつも、それを摘み上げてまじまじと眺める。幅太めな指輪の側面には、薄紫色のカット石が一つ、控えめに埋め込まれていた。
「ほたる石の指輪……か?」
「はい。大体これくらいかなってサイズで作ったので、もし合わなかったら直させてください」
 作った、というミノリの言葉を、クラウスは脳裏で反芻する。ふと彼女のクマの原因に思い至り、先刻までの不安が一気に吹き飛んだ。
「昨日の内に作ってくれたのか?」
「……はい」
 頬を染めて俯きがちに返事したミノリを見下ろし、クラウスは思わず口元を緩める。さっそく右手の薬指を指輪に滑り込ませてみると、予め測っていたかのようにピッタリ嵌まった。
「凄いな、サイズもお前の見立て通りだ。ありがとう、嬉しいよ」
「いえ、合っててよかったです。……あの」
「ん? 何だ?」
 食い気味に尋ねられ、真っ赤になって口ごもるミノリ。その様子があまりに可愛らしくて愛おしくて、クラウスは今すぐ彼女を抱き締めたい衝動に駆られたが、まだ時期尚早だ、とどうにか抑えつつ次の言葉を待つ。
 しばらくもじもじした後で、ミノリはようやく口を開いた。
「昨日は、あんなお返事をしてしまって、すみませんでした。えっと……わたしも、クラウスさんのこと……ちゃんと、好き……ですから」
 尻すぼみな告白に、クラウスはフッと笑みをこぼす。
 この指輪も彼女の言葉も、恋愛感情を伴わない、半ば形式的なものであることは承知している。しかしミノリが自分と恋人関係にあることを受け入れ、夜鍋をしてまで指輪を作り、はっきり「好きだ」と告げてくれたことが、舞い上がるほど嬉しかった。
(今は、これで十分だ)
 クラウスは内面、外見共にどこか幼い恋人の頭へ手をやり、優しく撫でる。
「オレも、昨日はああ言ったが……付き合うことになったからと言って、すぐに何かが変わるというわけでもないからな。これまでと同じように、お互い都合のつく時にお茶や散歩でもしよう」
 浮かれた気持ちを押し隠しつつ穏やかに語った彼を見上げ、ミノリはほっと安堵の息を吐き、ようやく曇りなく微笑んだ。
「はいっ」
 
 

十八話 「さん」付けの理由

 
 
 レストランに足を踏み入れた彼を、若い店主がカウンターの向こうから爽やかな笑顔で迎えた。
「クラウスさん、いらっしゃい。それと、おめでとさん!」
「……もうお前の耳にも入ってるのか」
 クラウスは、思わず苦笑した。ここは小さな町だ、噂が広がるのもあっという間である。
「顔、緩んでるぜ」
 悪戯っぽくニヤリとするレーガに、クラウスはハハッと笑って片手を上げて見せた。
「そうやって、大人をからかうのはよせ」
 レーガは手近なワイン瓶の上に顎を載せると、視線を天井に向けてわざとらしく妬む。
「いいよなー。ミノリ、可愛いもんなー」
 その発言に、「ミノリの彼氏」はぴくりと反応した。
(そういえば、レーガもあいつのことを気にしていたんだったか)
 かつては、彼の恋路を応援してやろうと思ったこともあった。しかし今となっては、レーガにも他のどの男にも、可愛い恋人をくれてやる気など毛頭無い。クラウスはフッと笑って彼との距離を詰め、低い声で宣う。
「……譲ってやらんぞ?」
「いいぜ。恋人がダメなら、妹にするから」
「それも駄目だ」というのがクラウスの本音であったが、そこまで独占欲を丸出しにするのはさすがに恥ずかしくて言えなかった。
「……と言っても既に、ミノリはこの町の若い男全員から妹みたいな扱いされてるけどな。まっ、がんばれよ、オッサン」
 茶化すように言うレーガ。あえて「オッサン」の部分を強調して。
(……嫌味か)
 痛いところを突かれたクラウスだが、普段通り、余裕たっぷりの態度を崩すことはなかった。
「せいぜい大事にするよ」
 
 
 恋人となってからも、ミノリは午前のお茶の時間か早朝にクラウスの元を訪れ、紅茶とお菓子を楽しみながら一時間ほど居座るだけで帰っていく。ミノリらしいと言えばミノリらしいが、クラウスは多少の物足りなさと焦りを感じていた。
 先日レーガも言っていた通り、彼女を狙っていた男は多いのだろう。しかも、この免疫の無さである。今は自分が恋人とは言え、いつ横から掻っ攫われてもおかしくない。クラウスは向かいのソファで紅茶を啜りながら園芸本を捲っているミノリを見て、小さく溜息を吐いた。
「……ミノリ」
 不意に名前を呼ばれ、「ん?」と顔を上げるミノリ。
「何ですか?」
 つい名前を呼んでしまったが、いい大人が正直に「何でもない」などと言うのは気恥ずかしかった。クラウスは話題を探す。
「オレはいつも適当に紅茶を出しているが、飲み物の好き嫌いはないか?」
 ミノリは、ふわりと微笑んだ。
「ブラックコーヒー以外は大体飲めますけど、紅茶が一番好きです。……クラウスさんは?」
「オレも、どちらかと言えば紅茶派だ。好みが一緒で良かった」
 クラウスは何気なく答えたが、先程のミノリの発言について「何か」が引っかかった。その正体は分からなかったが、とりあえず会話を続ける。
「紅茶と言えば、茶葉は育てているのか?」
「はい、最近植えてみました。来年の春には収穫できそうですよ。もし良作だったら、持ってきますね」
「良作だったらと言わず、ぜひ初物をいただいてみたいな」
「ダメです。いくら初物でも、おいしくないものをクラウスさんのお口に入れるわけにはいきません」
 ミノリは口を尖らせ、ツンとそっぽを向いた。その横顔は、どことなく楽しげである。牧場仕事の話になると、途端にミノリは高揚する。分かりやすいな、と微笑ましい気持ちでクラウスが眺めていると、ふと先程の違和感の正体が分かった。
「……ミノリ。オレたちは、その……恋人同士になったわけだし、そろそろ『クラウスさん』なんていう野暮な呼び方はやめにしないか?」
 再び本に落としかけていた視線を、ミノリはパッと上げる。そしてワンテンポ遅れて「恋人」という言葉に反応し、頬を赤らめた。
「えっと、それは……呼び捨てにしろ、ってことですか?」
「そうだ」
 彼が頷くと、ミノリは「でも……」ともじもじし始める。その煮え切らない態度に、クラウスは小さな苛立ちを覚えた。
(レーガは気安く呼び捨てにしているのに、か)
 律儀なこの子のことだ、「年上を呼び捨てにするのは気が引ける」などの理由から躊躇しているのだろう。年の差の壁を作られているようで腹立たしい。続ける声色に、自然と棘が立つ。
「何か、問題でもあるか?」
 ミノリはビクッと肩を震わせ、首をぶんぶん横に振った。
「ちっ、違うんです。その……」
 ミノリのほんのり染まった頬が、さらに色付く。
「さん付けをやめると、ホントに恋人なんだなあ、って思っちゃうので……」
 言っちゃった、という仕草でミノリは顔を両手で隠し、恥ずかしそうに俯いた。予想外に可愛らしい理由を聞かされ、クラウスの心臓がドクンと跳ねる。
「じゃっ、じゃあ、明日から! 明日からでっ」
 あせあせと宣う彼女に対し、ニヤリと意地悪い笑みを浮かべて頭を振るクラウス。
「いや、今からだ」
「明日から! そうじゃないと、ずっとさん付けにしちゃいますからっ」
 ミノリには、存外頑固な一面がある。この断言振りから察するに、おそらくテコでも意思を曲げないだろう。うまく誘導して「はい」を言わせるのも楽しいだろうが、ここは譲ってやるか、とクラウスは柔らかく微笑んだ。
「分かったよ。それじゃ、明日からな」
「はい」
 真面目くさった顔で頷いたミノリの頭をくしゃりと撫でると、クラウスは紅茶のおかわりを淹れるため、彼女に背を向ける。そして、これは気の長い戦いになりそうだ、と忍び笑った。
 
 

十九話 この気持ちの名前

 
 
「ミノリさん、おめでとう」
 イリスは、本を返しに訪れたミノリを笑顔で祝福した。不意打ちを食らった側は、頬を真っ赤に染めて俯く。
「……ありがとうございます」
「わたしの小説は、お役に立てたかしら?」
「はい。とっても勉強になってます……」
 消え入りそうな声で言うミノリ。そんな彼女を、イリスはわくわくした気持ちで眺める。
「そうだわ、ミノリさん。よかったら一緒にお茶でもどうかしら?」
「はい。ぜひ、いただきます」
 ミノリは上気したままはにかみ笑いを浮かべ、小さく頷いた。相手の真意には全く気付かずに。
 
 
 彼女の淹れた紅茶は、とても良い香りだった。ミノリは、すう、とその芳香を吸い込み、幸せそうな表情を浮かべる。
「ベリーミックスのフレーバーティーですね。ウチでも作ってみたいです」
 しかしイリスは、その発言を完全に聞き流した。そして、唐突に尋ねる。
「それで、どう? クラウスとはうまくいっているの?」
 これを訊くことが、今回の「お茶」の目的だった。途端に真っ赤になるミノリ。本当に、この手の話には免疫がない。
「はい。……たぶん」
「何か、気になることでもあるのかしら?」
 ミノリは、答えに詰まって俯いた。しかし「これはいい機会だ」と思い直し、意を決して目の前の達人に相談してみることにする。
「わたし、クラウスさんのこと……恋人として好きなのか、よく分からないんです」
 出し抜けに投下された爆弾に、イリスはキラリと目を光らせた。
「それはつまり、どういうことかしら?」
「うまく、言えないんですけど……。クラウスさんのことは大好きです。たぶん、一番。けど……それだけで、いいのかなって……」
 イリスの頭がフル回転する。すなわち、付き合うことになったは良いものの、異性として好きなのか人として好きなのか未だに分からない、ということだろうか。あるいは、安心感が先に立ち、その先を望む気持ちが全く沸かない、ということかもしれない。
「彼と一緒にいるとドキドキしたり、胸が苦しくなったりすることはあるかしら?」
「えっと……どちらかというと、無いです」
 その答えを聞いたイリスは、心の中でクラウスに向かって「ご愁傷様です」と手を合わせた。
「でも、ずっと一緒にいたい、とは思うんです。一人になると、ふと会いたくなったりもします。それは、クラウスさんじゃなくちゃ、イヤなんです」
 恥ずかしそうに、しかしキッパリと言ってのけるミノリ。ああ、これは彼も夢中になるはずだわ、とイリスは微笑ましい気持ちになる。
「だから、わたしはずるいんだと思います。クラウスさんはわたしのことを恋人って言ってくれますけど、わたしは……」
 恋をしていないのだから、素直に恋人と呼べない―そこまではっきりとは言えなかった。イリスは沸き上がる創作意欲を押さえ込むように、ふう、と溜息を吐く。
「確かに、それが『恋』と言えるかは微妙ね。けれど恋愛にも人それぞれの形があるし、『好き』って気持ちに嘘がないのなら、『この人と一緒にいたい』というのは、十分、彼と付き合う理由になると思うわ」
 これだけ分かりやすい子であれば、ミノリの感情が友人以上恋人未満のそれであることなど、クラウスも承知の上だろう。育てる楽しみも味わえるとは、なんと贅沢な。イリスはうずうずした。これは、負けていられない。
「そうだわ。ミノリさんに、一つアドバイスよ」
 
 
 クラウスは、怪訝顔でミノリを観察していた。
 今日は、何かがおかしい。訪ねてきた時には既にガチガチに緊張した様子で、頬も染まりっ放しだ。彼女は普段通りを装い、農業雑誌を捲りながら紅茶を啜る。が―ああ、やっぱり咽せた。ゴホゴホと咳き込む恋人を前に、非常に分かりやすい子だ、とクラウスは苦笑した。
 不意に潤んだ瞳で上目がちに見られ、彼の鼓動が高鳴る。
「く……クラウス?」
 敬称は付いていない。クラウスは、よし、と心の中で頷いた。
「そんなに緊張するな。オレまでつられるだろう」
「あ……ごめんなさい」
「いや、謝らなくていい」
「そ、そうですか……?」
 ミノリは、調子外れにアハハと笑う。クラウスが「何か言いたいことでもあるのか」と問おうか迷っていると、珍しく彼女のほうから切り出してきた。
「……あの、クラウス」
「何だ?」
「隣に、座ってもいいですか?」
 奇襲だった。普通に聞けば何でもない発言だが、それを真っ赤な顔のミノリがもじもじしながら放つと、その理性破壊力は凄まじい。クラウスは口元を覆って表情と下心を同時に隠しつつ、どうにか平静の仮面を被って「ああ、別に構わないが」と返事した。
 ミノリは、そっと席を立つ。クラウスは少し左へ避け、彼女のための場所を確保した。
 トサッ、と恋人の隣に腰を下ろすミノリ。おずおずと移動し、自ら肩を密着させる。
 じわりと広がる柔くて生暖かい感触に、クラウスの背筋がゾクリと震えた。彼は痛いほどの速さと強さで脈打つ心臓を持て余し、この状況をどうしたものかと考える。しかし理性と本能が頭上をぐるぐる回るだけで、何の答えも見いだせなかった。とにかく手だけは出すまいと、両拳を膝の上で固く握りしめる。
 そんな男の葛藤など、ミノリは知る由もなく。
「……あ」
 中空を見つめたまま、ごく小さな声を漏らした。
 そうだ、それだ。とにかく、何か会話をせねば―そう思ったクラウスは、往生際悪く余裕の大人を演じながら、ミノリにその先を促す。
「どうした?」
「ドキドキします」
「……は?」
「……あっ! いえ、あの……何でもないです……」
 うっかり口にしてしまったのだろう。真っ赤なミノリは気まずそうな顔で明後日の方を向いたまま、すすす、とクラウスから距離を取った。
「何でもない、ってことはないだろう」
「ほっ、ホントに、何でもないんです!」
「……」
 ミノリが離れたことで粗熱の冷めたクラウスは、慌てる彼女をスッキリした頭で観察する。そして少し間を置き、ニヤリと口角を上げた。
「今、『ドキドキする』と言ったか?」
「いっ……言ってません」
「嘘をつけ」
 今度は、クラウスからミノリに近付く。可愛い恋人は席を立って逃げようとするが、そうはさせない。彼はミノリの腰を力強く抱き寄せた。
「ん? 隣に座るんじゃなかったのか?」
「もう、いいです! 戻ります!」
 ミノリは、ぐぐっとクラウスを押し戻そうとする。その力は意外と強かったが、それでも男性の腕には敵わなかった。
「もーどーりーまーすー!!」
「正直に言うまでは離さん」
「……」
 ミノリは観念したように、ふっ、と力を緩めた。そして、ふー、と息を吐くと、急に静かになる。その横顔が少し大人びて見え、ギクッとするクラウス。
「クラウスの隣に座ったら、ちゃんとドキドキしましたよ」
 視線を外したまま小声で呟くと、ミノリはチラッとクラウスの表情を伺った。クラウスは慌てて目を逸らし、ミノリの腰に回していた手をそっと引く。その手で、自分の口元を覆った。
「……そうか」
 嬉しい、嬉しい、と彼の心が叫ぶ。同時に沸き上がる、これ以上の関係を望む欲求。ミノリには決して悟られてはいけない。今は、まだ。
「それじゃ、次は膝の上に座るか?」
「……っ!!」
 
 

二十話 カウントダウン

 
 
(今年はホントに、いろんなことが一気にやってきたなあ……)
 ミノリは年越し蕎麦をぼんやりと啜りながら、「いろいろ」の内容を思い返していた。牧場主になって、新しい知り合いができて、エッダさんとのお別れがあって、恋人ができて―
 隣に立つ長身の男性を、チラと窺う。すると、想定外に目が合ってしまった。何だか気恥ずかしくて「エヘヘ」と誤魔化し笑う。
「ん? どうした」
「なんだか、今年はいろいろあったなあ、って……」
「そうか。……そうだな」
 それは、クラウスにとっても同じだった。日常に大きな変化はなかったものの、まさかこの歳になって、こんな若い子に惚れ込み、しかも恋人として付き合うことになろうとは。去年の自分が知ったら、どう思うだろう。
「きっと、来年もいろいろあるんでしょうね」
 その「いろいろ」が、みんな楽しいことであればいいのに―ミノリはそう思いながら、少し寂しげに笑った。その横顔が愛おしくて、クラウスはそっと彼女の頭を撫でる。
「ああ、そうだな」
 
 貿易ステーションの中心で、ベロニカがスピーチをしている。ほどなくして、カウントダウンが始まった。
「五、四、三、二、一―」
「明けましておめでとうございます。今年もみなさんにとって良い年でありますように!」
 
  
「あけましておめでとう、ミノリ」
「おめでとうございます、クラウス」
 ミノリは、照れたように微笑む。クラウスのコートの前立てをきゅっと掴んで、彼を見上げた。
「今年もいっぱい迷惑かけちゃうかもしれませんけど……よろしくお願いしますね」
 クラウスは優しく笑うと、彼女の亜麻色の髪を梳く。耳にかかっていた毛が、ゆるりと流れ落ちた。
「こっちこそ、こんなおじさんだが、見捨てないでくれると嬉しいな」
「フフッ、またそんなこと言って」
 ふと、クラウスは遠い目をする。
「今年は、どれくらいおまえとの仲を深められるだろうな……」
「もう、十分深まってるんじゃないですか?」
 茶化すように答えたミノリの頬を、不意に、クラウスの大きな手がヒヤリと包んだ。静かに、大人の男性の顔が近付く。息がかかりそうな距離まで。
「……もう十分? これで十分だと言ってるんじゃ、ミノリはまだまだ子供だな」
 魅惑の低音で囁かれ、ミノリは目眩がしそうになった。
―ああ、どうしよう。ドキドキする。顔が熱い。
 目を背けたくても、両頬に手を添えられているため叶わない。せめてもの抵抗として、彼女は強がりを言ってみせる。
「……こ……っ、子供じゃありません……っ」
 クラウスは僅かに顔を離し、ククッと笑った。
「ミノリ。口元にソバの食べかすがついてるぞ」
「……っ!!」
「……よし、取れた。新年早々、いきなり食いしん坊をアピールしてどうするんだ?」
 ミノリは耳まで真っ赤に染め上げ、恥ずかしさのあまりふるふる震えながら顔を伏せる。
「今年も、ミノリのおかげで退屈しない一年になりそうだな。期待してるよ」
 意地悪く笑って、クラウスは宣った。
 
 

二十一話 遠乗りの約束

 
 
 昼過ぎの仕事が一段落つき、雑貨屋でも覗いてみようかと町へ向けて馬を走らせていた矢先。見慣れた後ろ姿を追い抜いたので、ミノリは慌てて転回した。
「クラウス!」
「ミノリか。ちょうどよかった、お前の家に行くところだったんだ」
 ミノリは、するりと愛馬―スピカから降りる。
「何か、ご用ですか?」
「ああ。時間があるなら、オレとデートでもしないかと思って」
 その言葉に、ミノリの顔がぱあっと明るくなる。
「ぜひ!」
 
 
 馬乗り場にスピカを係留すると、二人はのんびり歩いて山を下った。特に何かをするわけでもなく、ただそれだけだったが、普段ほとんど家でお茶をしているだけの二人にとっては新鮮な時間だった。
 道中、ミノリが楽しそうに語る地理や自然の話に、クラウスは目を細めて耳を傾ける。そうして山の麓まで来たところで、クラウスがふと、空を見上げて呟いた。
「それにしても、今日は天気がいいな。こういう晴れた日には馬で遠乗りがしたくなる」
「馬、乗れるんですか?」
 ミノリは驚いた顔で隣に立つ男を見上げる。「ああ、言ってなかったか?」と、彼は苦笑した。
「この町に戻ってきてからずいぶんと長い間乗ってないが、学生時代には乗馬が趣味でよく乗ってたんだよ」
「わあ。馬に乗ってるクラウス、見てみたいです」
 その姿を想像し、きっとカッコいいんだろうなあ、と、ミノリは夢見るような表情を浮かべる。
「今度、久しぶりに乗ってみるかな。勘が取り戻せたら、ミノリを後ろに乗せて一緒に遠乗りするってのもいいと思うんだが……どうだ?」
「素敵です! 楽しみにしてますね」
 ミノリは目をキラキラさせて答えた。
「その時は、ぜひスピカに乗せてもらいましょう!」
「おっ、乗り気だな。まあ、相手が白馬の王子様じゃなくておじさんってのが残念かもしれないが、そこは許してやってくれ」
 冗談めかしてハハッと笑うクラウスに、ミノリは「またそんなこと言って」と微笑み返す。
「その代わり、その日は一日お姫様みたいに大事にしよう。……とは言え、普段から似たようなもんか。どうにもオレはお前を甘やかしちまう」
 ミノリは自嘲する彼に抗議の眼差しを向けると、すぐにふいっと顔を逸らした。
「……好きで甘やかしてもらってるわけじゃないです」
 子供扱いされて拗ねる彼女に最初こそ振り回されていたものの、今ではすっかり扱い方を心得たクラウスは、笑いながら「悪かったよ」と隣にある頭を撫でる。
「そんなに怒るな。別に子供扱いしてるわけじゃない。大切な恋人なんだ、甘やかしたくなるのは男の性だろ?」
「……」
 ミノリは、真っ赤な顔で俯いた。
「ハハッ、照れてるのか? 可愛いな。あまりそんな反応ばかりしていると、外だと忘れて抱きしめたくなるから程々にしといてくれよ」
 無言のまま、さっとクラウスから距離を取るミノリ。後ろ手に指を組んでそっぽを向いた。しかし耳まで赤く染まっているから、それが照れ隠しなのはバレバレである。
 好きな子ほど虐めたくなるというのはこういうことを言うのだろうな、とクラウスは可愛らしいミノリの所作を眺めながらぼんやり考えた。
(オレも大概子供だな)
 もっと彼女を見ていたいと思ったが、クラウスは太陽が傾きかけていることに気付き、ベストのポケットから懐中時計を取り出して時刻を確認する。
「さて、もう少し話していたいところだが、そろそろ帰らなくちゃいけない時間だな。家まで送って行こう」
 サクサクと足早に草を踏んでミノリの前に回り込むと、騎士宜しく仰々しい礼をしながら、愛しい女性に手を差し出すクラウス。
「……お手をどうぞ、レディ?」
 ミノリの心臓が、トクンと跳ねた。胸がキュッと締め付けられるように苦しくなり、思わず押さえ込む。
「……」
 少し迷った後、そっと手を載せようとする―が。
「……って、これじゃ何だかジョルジュのやつみたいだな」
 クラウスは、すっと元の姿勢に戻ってしまった。態度にこそ出さなかったものの、どこか残念な気持ちでいっぱいになるミノリ。
「約束の一日までには、もう少し様になるような台詞を勉強しておくことにしよう。今日のところはこれで我慢してくれ」
 そう言ってもう一度差し出された手に、ミノリは満面の笑顔で頷き答えると、今度は迷うことなく掌を重ねた。
 
 

二十二話 バラの香水瓶

 
 
 クラウスは自ら調香した香水瓶を箱に詰め、器用にラッピングした。職業柄、こういった作業は得意である。包装紙とリボンの色は、彼女の好きな水色系統で統一した。それをベストの胸ポケットへそっと忍ばせると、台所で火に掛けていたクリームソースとミネストローネスープ、冷蔵庫にしまっておいた生パスタ、サラダ、マッシュポテト、そして老舗洋菓子店のレアチーズケーキをバスケットに詰め、自宅を後にする。
 近頃は息が上がることも多くなってきた山登りだが、今日はやけに足が軽い。年甲斐もなく浮かれていることを認め、彼は自嘲した。
 高原の牧場地に到着したのは、夕刻だった。ミノリの牧場は装飾に乏しいものの、性格からかキッチリ区画分けされており、歩きやすいように石畳も整備されている。ゆくゆくは見学者を受け入れることも視野に入れ、一見して分かりやすいレイアウトを目指しているのだ、と以前語っていた。
 先日まで露地栽培を行なっていた場所には、代わりに四棟のビニールハウスが建っている。その中ではおそらく、春夏秋冬の作物が栽培されているのだろう。クラウスは興味深く眺めながら、彼女の家を目指した。
「ミノリ、いるか?」
 玄関扉をノックすると、その向こうから「はーい」という可愛らしい声と、パタパタ駆ける足音が聞こえた。間もなくドアは開かれ、愛しい恋人が顔を出す。
「クラウス! どうしたんですか?」
 目を丸くしてクラウスを見上げるミノリ。その反応も無理はない。何しろ、彼がミノリの自宅を訪れるのは今日が初めてなのだから。
 ミノリの髪はほんのり湿っており、良い香りがした。直前に湯浴みをしていたのだろう。クラウスの男性の本能が否応なしに刺激されたが、大人の余裕でそれを追い払った。
「今日は、お前の誕生日だろう」
 一瞬不思議そうな顔をしたミノリだが、すぐに「あっ」と小さな声を上げる。
「そうですね。忘れてました」
「自分の誕生日を忘れるやつがあるか」とクラウスは苦笑し、手にしていたバスケットを軽く持ち上げて見せた。
「口に合うか分からないが、料理を作ってきたんだ。一緒に食べないか?」
「わあ! 嬉しいです」
 ミノリはキラキラした笑顔で、手を叩いて喜んだ。
「お前の好きな、クリームパスタだぞ。パスタを茹でたいから、キッチンを貸して貰えるか?」
「はいっ。どうぞ」
 一歩部屋に足を踏み入れると、花木の香りがふんわりとクラウスの鼻孔をくすぐる。彼女の髪と同じ香りだ。
(そういえば、自家製のシャンプーを使っている、と言っていたか)
 落ち着いた色合いの内装と、機能的かつくつろぐことを重視した家具配置は、「落ち着く場所」を好むミノリの性質をよく表わしていた。枕元に置かれたアロマポットやテレビ前のソファが、自宅でのんびりする彼女の姿を想起させる。
 クラウスはコートを脱ぎ、袖を捲ると、手早くパスタを茹で上げた。熱々のパスタに暖め返したクリームソースを和えれば、クリームパスタの完成だ。その様子を、ミノリが部屋の散らかっている箇所を片付けながら、期待を込めた眼差しでチラチラと窺っている。
「座って待っていていいぞ」
 クラウスの言葉に彼女は大人しく腰を下ろしたが、そわそわと落ち着かない。料理が一品、また一品と並べられる度に、料理と彼の顔を見比べ、「まだ食べないの?」と言わんばかりの物欲しげな視線を向ける。パスタ、スープ、サラダ、マッシュポテト、そしてケーキがテーブルの上に並ぶと、クラウスはようやくミノリの向かいに腰を下ろした。
「年甲斐もなく張り切って作り過ぎちまった。喜んで貰えたなら嬉しいんだが……」
「わたしの好きな物ばっかりですね! クリームパスタは大好きなんですけど、レストランのメニューに無いし、今は小麦粉が貴重だからあまり自宅で作れなくて。嬉しいです」
「そうか、それなら良かった。さあ、冷める前に食べよう」
「はいっ。いただきます!」
 ミノリは、ぱくぱくと美味しそうに彼の手料理を口に運ぶ。
「クラウスって、お料理も上手なんですね。すごく美味しいです」
「料理は、わりと得意なほうなんだ。レシピを元に材料を決めて、量を計って最後は感覚で調整する……ってところは調理も調香も同じだからな」
「確かに。わたしも、レシピ通りに作るんですけど……たまに火加減や時間を間違えて、失敗しちゃいます」
 エヘヘ、とミノリは苦笑した。
 そんな話をしている内に、あれだけあった料理は綺麗に平らげられていた。クラウスは空いた皿をキッチンへ運び、手早く洗ってしまうと、それらをバスケットに戻した。そして、ソファに座って本を読みながら待っていたミノリの元へ歩み寄る。
「待たせたな。後片付けの方も終わったよ。それにしても……さっきからずっと顔が緩みっぱなしだぞ」
 ミノリは赤くなり、慌てて「そうですか?」と自分の頬をふにふに揉む。
「だって、こうしてクラウスが訪ねてきてくれて、おいしいものもいっぱい食べられて……すごく嬉しいんですよ」
「そんなに喜んで貰えるとは、頑張って作った甲斐があったということかな」
「はいっ。ありがとうございます」
 クラウスは眩しげに目を細め、ミノリを見つめた。そして、ベストの懐に手を入れ、水色の小箱を取り出す。
「これは、誕生日プレゼントだ。若者の好みなんて分からないから、オレの趣味で選ばせてもらった」
「えっ……いただいていいんですか? プレゼントなんてもらうの、何年振りでしょう」
 丁寧に包装を解くと、中から出てきたのはバラの模様が浮き彫りされた小さな香水瓶だった。
「きれい……! これって、香水ですよね。つけてみてもいいですか……?」
「オレがつけてやろう」
 クラウスは薄く微笑んで、ミノリの手の中の小瓶をそっと奪う。その目の奥にちらりと揺らめく、妖しい情欲の光。
(ほら、そんなに嬉しそうにしてると、悪い狼に食われちまうぞ)
 クラウスの両手が、ミノリの腰のくびれを這うように背中へ回る。途端に、彼女の表情が陰った。
「えっ、ちょっと、クラウス……?」
 困惑した声色で名前を呼び、胸板を押し戻そうとしても、クラウスはミノリを離さない。顎を彼女の左肩の上に載せると同時に、上衣の右裾をスカートから引き出す。
「や、やめてくださいっ」
 しかし彼は無言のまま左手を上衣の内に差し込み、指先で、すう、と素肌のウエストをなぞった。
「……んっ」
 ミノリの声が小さく漏れる。
「くすぐったい、です。……やめて」
 その懇願も無視し、上衣を僅かにたくし上げるクラウス。背中に回した右手で香水瓶の蓋を開けて、スパチュラの先で柔肌を突いた。ビクッと体を震わせるミノリ。
 瓶の蓋を閉め、たくし上げていた布を元の通りスカートの内側へしまうと、クラウスはようやく、パッと彼女の体を離した。
「どうだ、終わったぞ」
「……」
 ミノリは、上気した頬と潤んだ瞳で目の前の男を見上げる。その表情は泣きそうなものから、咎め立てるそれに変わり、最終的に、ふにゃりと情けなく緩んだ。
「……いい匂いです」
「誕生日おめでとう、ミノリ。歳の差を縮めることは出来ないが、心の距離ならいくらでも縮められる」
 クラウスはミノリの首筋に手を添えると、こめかみにそっと顔を近付け、優しく口付けた。
「……好きだ、ミノリ。毎年、こうして一緒に誕生日を祝って、二人の距離をもっと縮めていこうな」
 
 

二十三話 夜の逢瀬

 
 
「あの……明日から、夜の九時頃に来てもいいですか?」
 ミノリの発言に、クラウスはぶっと紅茶を噴き出しかけた。ハンカチで口元を拭うと、軽く呼吸を整える。
「……何か、理由があるのか?」
「はい。最近ハウス農法に変えたんですけど、作付け面積が増えて、ちょっと忙しくなっちゃったんです。できれば、午前中に牧場での作業を終わらせて、午後にまとめて出荷するようにして、夜を自由時間にしたいな、って」
「なるほどな。そういうことなら、別に構わないが……」
 夜分に男の家を訪ねたりして、どうなっても知らんぞ、とは言えなかった。ミノリは、ほっとした様子でふわりと微笑む。
「よかったです」
 その無邪気な笑顔を前に、苦笑するクラウス。未だ紳士を貫く恋人に安心しきっていると見えるが、チラリと覗く狼の牙に、彼女はいつ気が付くのだろう。
 ミノリは恋人で、しかも立派な成人女性なのだから、合意の上であれば手を出しても罪にはならないのだろう。しかし、果たして「合意」が成立するのか。甚だ疑問である。
強引に事を運んで拒絶されるリスクを負うくらいなら、合意が成立する時まで耐えて待ちたいと思っていたし、ある程度年齢を重ねた今の自分であれば容易いことだと思っていた。実際に、彼女と付き合い始めるまでは。
日ごとミノリは綺麗になっていくが、その割には色恋沙汰に関する知識と情緒はなかなか育っていない気がする。クラウスは、限界を感じ始めていた。「万が一」があって、拒絶されてしまったとしても止む無しか―などと自棄っぱちな気分で彼女の要請に許可を出してしまったのは、この暑さのせいもあるのかもしれない。
 
 
 九時、と言ったらほぼ九時きっかりに訪ねてくるところが彼女らしい。
「こんばんは、クラウス」
 シャワーを浴びてから出てきたのか、ミノリはほんのり香る髪で彼の家を訪れた。クラウスはその耳元に遠慮なく顔を埋めてやろうかとも思ったが、そんな醜態を晒して嫌われたくないという気持ちが僅差で勝る。
 ミノリは部屋へ入るなり、テーブルの上にそっとバスケットを置いた。そして、フフッと悪戯っぽく微笑む。
「今日は、いいものを持ってきたんですよ」
「何だろうな」
 彼女の手料理だろうか。クラウスはそう予想したが、中身はもっと手の込んだ物だった。
「じゃーん! 手作りワインです」
 ミノリがバスケットの中から自慢げに取りだしたのは、二本のワインボトルだった。
「おっ、桃ワインか」
 自分の好物に、クラウスは目を輝かせる―が。
「一緒に呑もうと思いまして」
 その言葉に、耳を疑った。
「……は?」
「……え? ……えっと、一緒に、呑みたいな、って……」
 恋人の反応を受け、ミノリは「自分はまた何かやらかしてしまったのだろうか」と困惑しつつ言い直した。クラウスは一呼吸置いて盛大に溜息を吐き、目の前の無防備なお子様に説教しようと口を開きかける―が、思いとどまった。
(そういえば、ミノリは酒に強いんだったか)
 自分も酒には強いほうだから、少しくらいの晩酌なら問題ないだろう。考えを改め、クラウスは「うむ」と頷く。
「二杯くらいなら、いいだろう。いただくよ」
 途端に、ミノリの顔がぱあっと明るくなった。
「よかったです!」
 彼女はパタパタと台所へ駆けていくと、二客のワイングラスを取ってきた。
「これ、初めて作ったワインなんですけど、桃の品質がよかったのか、とってもおいしかったんです。だから、クラウスに一番に呑んでもらいたくて」
 クラウスは思わず顔を綻ばせた。―全く、可愛いことを言う。
「品質改善の努力の成果が出たわけだな」
「はいっ」
 トクトクとグラスへワインを注ぎながら、ミノリは心底嬉しそうに笑う。注ぎ終わると、二人はそれぞれグラスを手に取り、軽く挙げた。
「「乾杯!」」
 一口含めば、ふわりと甘く広がる桃の味わい。一足遅れてやってくる仄かな酸味が、心地よいアクセントになっている。
「……これは美味いな」
「でしょう? あ、おつまみもあるんですよ」
 そう言ってバスケットの中から取り出したのは、マッシュポテトとカットトマトの載ったカナッペだった。
「甘い酒に合うつまみを、よく分かってるな」
「はい。いろいろ研究してるんです。もちろん、じゃがいもとトマトは自家製ですよ!」
 ミノリは「えへん」と自慢げに言った。美味いワインとつまみ、そして向かいには、可愛い彼女。クラウスは今、最高に幸せな気分だった。
 
 
最高に幸せな気分で、ワインを一瓶半、空けてしまった。
「でね、そのときハナコが……って、クラウス?」
 ミノリが気付いたときには、彼はぐったりとソファに背を預け、眠り込んでいた。
「……寝ちゃいましたか」
 ついさっきまで会話をしていた気がするのだが。ミノリは困り顔でそっと席を立ち、クラウスに近付く。
「クラウス? 寝るならベッドで寝ないと、体を壊しますよ」
 揺すってみるが、起きる気配は全くない。少し考えた後、彼女は屈み込んでクラウスの膝裏に手を入れる。そして彼の両腕を自分の首に回し、「よいしょっ」と担ぎ上げた。
(牧場仕事やってて、よかったなあ)
 そのままベッドまで運ぶと、出来る限りそっと横たえ、靴とベストを脱がす。するりとタイを解き、シャツのボタンを二つ外して、優しく布団をかけた。
 ミノリがソファへ戻ると、まだ瓶に半分ほど残っているワインが目に留まった。時刻を確認すれば、「まだ」十一時。
(……三十分もあれば帰れますね。全部呑んじゃいましょう)
 
 
 翌日の夜、彼女がクラウスに説教されたことは言うまでもない。
 
 

二十四話 お似合いの二人

 
 
 その日の午後、少し空き時間が出来たミノリは、何とはなしにアンティークショップを覗いた。すると、店の奥には先客が。緑色のコートを纏ったその後ろ姿に、彼女の心は躍る。思わず声を掛けようとして―はたと思いとどまった。
(……イリスさんと、お話中ですか)
 楽しげな二人の様子に、何を話しているのか少々気になる。が、「きっと自分には解らない話なのだろう」と、きゅっと唇を結び、静かに店を後にしようとした。しかし。
「ミノリさん? 何を店の入り口に突っ立っているんです?」
 ビクッと肩を震わせるミノリ。二階から降りてきたミステルと鉢合わせてしまったのだった。ミノリは気まずそうに、ぼそぼそと応える。
「あ……いえ、何でもないです」
 ミステルは、すっと店の奥に目をやった。
「……ああ、なるほど。とても楽しそうな様子ですね」
 涼やかにクスリと笑う青年。ここでようやくクラウスが「他の客」の存在に気付いた。
「……あれ? ミノリ?」
 目が合った瞬間、ミノリは反射的に視線を逸らす。そして、何も言わずに店外へ飛び出していってしまった。
「お、おいっ!? どうしたんだ!?」
 一瞬垣間見えたどこか苦しげな表情に、クラウスは胸騒ぎを覚え、慌てて彼女を追いかけた。
 
 
 走りながら振り返れば、自分を追う恋人の姿が視界の端に映る。ミノリは追い着かれたくなくて、必死で走った。ひらりと往来の間を縫い、転がり落ちる小石のように階段を駆け下りる。そうこうしている内に、貿易ステーションまで来てしまった。
 袋小路に足を止めると、ようやく追い着いたクラウスにがっしりと腕を掴まれる。
「……ミノリ」
 激しく肩を上下させながら、彼は愛しい彼女の名前を呼んだ。しかしミノリは荒い息を吐くだけで、俯いたまま何も言わない。
「……ミノリ?」
 再度の問いかけにも応じず、ミノリは不意に渾身の力で腕を振り払うと、再び走り出した。クラウスが驚いて顔を上げれば、その視線が、ミノリと、彼女の足が向かう先にあるものを捉える。
 クラウスは目を剥き、思わず叫んだ。
「ミノリ……っ!!」
 その切迫した声にミノリが顔を上げれば、真横に迫る馬。彼女は反射的に石畳を蹴り、前へ跳躍した。
 受け身を取りつつ、荷馬車の車輪の脇へ横向きに転がる。そのまま、二回転半。膝を立て、素早く身を起こす。
 荷馬車が、つい数秒前までミノリが立っていた位置で、ギギギッと大きな音を立てて停止した。
「……」
 ミノリの全身から、どっ、と汗が吹き出す。呆然と荷馬車を見上げる彼女の二の腕を、クラウスが乱暴に掴み上げ、力任せに引いた。
「馬鹿野郎! 荷馬車の前に飛び出すなんて、怪我でもしたらどうするんだ!」
 華奢な両肩に指を食い込ませ、怒鳴り散らす。そんなクラウスを、ミノリは感情の抜け落ちた白い顔で仰いだ。
「……ごめんなさい」
 ぽつりと呟かれた掠れ声に、クラウスはハッと我に返る。手の力を緩めると、その腕で、小刻みに震えるミノリをギュッと抱きしめた。
「大丈夫ですか!? おケガは!?」
 顔面蒼白で駆け寄るシルクロードの国の商人―アーシェに、クラウスはミノリを向き直らせる。その瞳には、色が戻っていた。彼女は黙って首を横に振ることで女商人に答え、がばっと頭を下げる。
「ごめんなさい……っ!! ホントにホントに、すみませんでした!!」
 次にアーシェを見上げたミノリは、泣きそうな顔をしていた。
「いえ、こちらこそすみません。ケガがなくて良かった……」
 クラウスはミノリをちらと見遣った後、ほっと胸を撫で下ろすアーシェと向き合い、軽く頭を下げる。
「私からも……本当に申し訳ない。ご迷惑をお掛けしました。後はこちらで面倒を見ますので、どうぞ先をお急ぎください」
「それでは、お言葉に甘えて……。本当に、すみませんでした」
「いえ、こちらこそ」
 アーシェは御者台に上がると今一度頭を下げ、再び荷馬車を進めた。
 
 
 深紅の幌を見送り終えると、クラウスはミノリの背を押してひと気のない場所まで移動する。そして、抑揚に乏しい低い声で彼女に語りかけた。
「……何で逃げたりしたんだ」
 尋ねてから、面を伏せたままのミノリに向き直る。恐る恐る顔を上げた彼女は、心なしか悲しそうな表情の恋人を見て申し訳なさでいっぱいになった。
「……ごめんなさい」
「そんな言葉が聞きたいんじゃない」
 ぴしゃり、と言い放つクラウス。ミノリは瞳を伏せ、きゅっと唇を引き結んだ。そのまましばらく黙っていたが、ようやく、ぽつぽつと語り始める。
「……お似合いに、見えたから……」
「ん?」
「……何で、わたしなんだろう、って……」
「うん」
「……クラウスは!」
 ミノリは突然頭を上げ、真っ直ぐに彼の目を見た。その顔は苦しげで、今にも泣き出しそうな。アンティークショップを出て行く直前に見せた、あの表情だった。クラウスはギクッとする。
「……どうして、わたしが恋人なんですか」
 質問しているのか、文句を言っているのか。その口調からは判別がつかず、クラウスが返事に困っていると、ミノリはふるふると首を横に振った。
「イリスさんみたいな人とお付き合いしたほうが、いいんじゃないですか?」
 吐き出されたその言葉に、クラウスの心が苛立つ。
「何故そうなる」
「……だって! どう見ても、お似合いじゃないですか」
「だから、どうし」
「クラウスは! ……クラウスは、それでいいんですか? わたしと一緒にいたら、さっきみたいにたくさん迷惑かけられて、……こんな、子供の相手をしないといけないんですよ?」
 一息にそう言って、ミノリは再び顔を伏せた。
「……絶対、イリスさんとのほうが、お似合いですよ……」
 ああ、とクラウスは納得する。自分はまだまだ子供だ、もっと大人になりたいと背伸びを続けていた彼女のコンプレックスを、イリスが刺激してしまったのか。彼はミノリの髪にそっと手を伸ばし、優しく撫でる。
「お前や周りの人間がどんな風に思っても、オレが好きなのは……オレの恋人は、ミノリだけだ」
 ミノリは俯いたまま、きゅっと緑色のコートを掴んだ。その仕草に愛おしさを感じながら、クラウスは続ける。
「それとも……お前は、オレの気持ちを疑ってるのか?」
 上手いこと丸め込もうとするような物言いを受け、年上の恋人へ非難がましい目を向けるミノリ。
「そうですよ! だってクラウスだけ、いっつも大人で余裕じゃないですか。ずるいです。……わたしばっかり、こんな……不安で……」
 彼女は消え入りそうに言って、ぽす、と目の前の胸板に額を預けた。クラウスは、やれやれ、と言わんばかりに小さく溜息を吐く。
「……馬鹿だな。余裕のある人間が汗だくになって恋人を追いかけてきたり、さっきみたいに声を荒げるか?」
「……」
「オレはミノリが思ってるような、余裕のある大人なんかじゃない。余裕そうに見えてるだけで、内心ちっとも余裕なんてないんだ」
「……嘘つき」
 ミノリがくぐもった声でぽつりと呟くが、彼は構わず続ける。
「正直オレだって、色んなやつと仲がいいお前を見てると、本当にこんなおっさんが恋人でいいのかとか、いろいろ考える時もある」
 そうだ。考えに考えすぎて、いっそ彼女を閉じこめて他の誰にも触れさせず、自分だけのものにしてしまいたい、などと思ってしまうくらいに。
「でもそれは、考えても仕方のないことだ。どうしたってオレとお前の年の差は縮まらないし、オレがお前の傍にいたいって気持ちは変わらない」
「……ん」
「なら、釣り合うとか釣り合わないとか考えるよりオレは、オレのことを好きだと言ってくれるお前の気持ちを信じたい。……余裕そうに見えるってのは、そういう考え方をしてるからってのもあるのかもしれないな」
 内実は、そういう建前で自身の卑屈さ、嫉妬や独占欲、その他諸々の汚い感情を隠しているだけなんだが、と彼は心の内で自嘲した。
「ミノリは、どうだ? そんな風には……思えないか?」
「……」
 小さく首を横に振るミノリ。
「……思えません。だってわたし、子供ですもん。やっぱり不安です」
 クラウスは、クスッと笑った。
「なら、いつでも、いくらでも言ってやる。……ミノリのことが他の誰よりも好きだ。愛してる、ってな」
 彼女の耳が、見る見るうちに赤くなる。押し当てられた額から、クラウスの胸にささやかな熱と震えが伝わってきた。
これだけ甘い言葉を囁けば、さすがに彼女も納得してくれるだろう。仲直りした後は、家でじゃれ合いながらお茶でも楽しもうか―そんな幸せ計画を練り始めていたクラウスだったが、彼の恋人は想像以上に聞き分けが悪かった。
「……く……口先だけの男ですっ」
 クラウスは珍しく、少々カチンとくる。
「じゃあ、こうしたら伝わるか?」
 ミノリの髪を梳いていた手を彼女の頬に移動すると、ぐいっ、と上を向かせた。
「なっ、何を……」
 言葉を継がせず、その口を自身の唇で塞ぐ。柔らかな口腔に舌を差し入れ、戸惑うように蠢く彼女の舌を弄んだ。
「……んっ! んーっ!」
 ミノリは彼を突き放そうと暴れるが、背中と後頭部をがっしり抱きしめられているため、叶わない。クラウスはお構いなしに行為を続ける。
「……ん……ふぅ……」
 やがてミノリの体から力が抜け、漏れる吐息が甘さを帯びてきたところで、彼はようやく恋人の唇を解放してやった。
「……」
 クラウスの腕の中で、ミノリは軽く身じろぐ。が、逃がしては貰えない。
「どうだ? 伝わったか?」
「……ひどい」
「ん?」
 ミノリはとろとろに溶けたチョコレートのような瞳で、クラウスを見上げる。彼は、鼓動が激しく脈打つのを感じた。
「ふぁ……ファーストキス、だったんですよ? それが、あんな無理やり……『大人の』……」
 特定の単語にぴくりと反応し、クラウスは一瞬で冷静になる。少しの間を置いて、ニヤリと口元を歪めた。
「……ん?『大人の』? ひょっとしてミノリ、『今の』が何だか知ってるのか?」
「!!」
 ミノリは真っ赤な顔で、慌てて首を横に振る。
「違うっ! 違います! 知りません!」
 クラウスはここ数年で初めて、イリスのお節介に感謝した。―後で、土産話の一つも持って行ってやらんこともない。
「……まっ、またそんないじわるな顔で……ホントに知らないですよ? 知りませんよ?」
 無言でニコニコしたまま、クラウスは微動だにしない。
「……そっ、そうやって! またわたしをからかって……!」
「ん? オレは何も言ってないぞ?」
 ミノリは悔しそうに歯噛みする。が、何を思ったのか、ふと難しい顔で押し黙った。そしてパッと顔を上げ、涙目のまま、フフッと悪戯っぽく笑う。
「ねえクラウス、頭、撫でてください」
 恋人の可愛いおねだりに、クラウスは舞い上がった。不自然なほど唐突だったにもかかわらず、疑いもせずに願い通りそっと頭を撫でる―と。
 突如、細い腕が首に周り、ぐいっと引き下げられる。幼げな顔が近付き、チュッと小鳥の鳴くような音を立てて、唇が優しく啄まれた。
 それは、一瞬の出来事。
 ぽかんと口を開けてミノリを見下ろせば、「エヘヘ」と照れ笑いを浮かべている。
「やり直しました。今のが正解ですよ」
 ドクン、とクラウスの心臓が跳ねた。かあっと顔が熱くなる。
―息苦しい。
堪らず、ハァ、と熱く湿った息を漏らした。
「……ミノリ」
 クラウスは、声を絞り出す。
「何ですか?」
「……たくさん話したら、喉が乾いてきたな。この後、時間あるか? あるなら、オレの家でゆっくりコーヒーでも飲んでいかないか?」
「……」
 ミノリは無言のまま、訝しげに彼を見つめる。
「……あー、回りくどい言い方はよそう。せっかくこうして絆が深まったんだ。ミノリともう少し、一緒にいたい」
 何とか外面を取り繕ってはいたものの、クラウスの理性はボロボロだった。
「……そう思うのは、オレだけか?」
 ミノリは不意をついて、するりとクラウスの腕を抜ける。彼が驚く間もなくタタッと数歩駆けると、満面の笑みで振り返り、ちろっと舌を出した。
「クラウスだけですっ。では、また明日!」
 
 
 「彼女が来ていたこと、すぐに気付いていたでしょう。知らない振りをするなんて、相変わらず人が悪い」
 紅茶の香りを楽しみながら、ミステルはどこか楽しげに言った。ウフフと笑うイリス。
「あの二人はもう少し距離を縮められる、縮めるべきだと思っていたのよ。今回は、いい機会だと思って」
 ねえ、と彼女は続ける。
「クラウスってば今日、私に何て言ってきたと思う?」
「さあ? 何でしょう」
「ミノリさんに『大人の恋愛の仕方』を教えてやって欲しい、ですって。……彼も大変ね」
 大の男が大真面目に宣う様を思い出し、イリスはクスクスと笑った。
 
 

二十五話 はじめては、レモン味

 
 
 クラウスは、ミノリの手にした「それ」を見て、ピクリと表情を強ばらせた。対するミノリも「一歩も引かない」と言わんばかりの態度で彼と対峙する。
「……オレは前に『自重してくれ』と言ったはずだが」
「自重、しました。……一ヶ月も!」
 ミノリは「自家製レモンワイン」を二本、ドンッ、とテーブルの上に置いた。
「ほら、ウチの初物ですよ? 苦労して育てた最高品質のレモンで作った、最高のワインですよ? ものすーっごく、おいしいんですよ?」
 そこまで言われると、呑まないわけにはいかない気がしてくる。が、クラウスは前回の晩酌での失態を思い出し、渋面のまましばし押し黙った。これはチャンスとばかりに畳み掛けるミノリ。
「このワインの原料になったレモンを最高の品質に育てるまでにはね、およそ一年もかかったんですよ。接ぎ木でいい株を作って、毎日欠かさず肥料をあげて、よく日が当たるように剪定して……台風の日はビニールシートをかけて、吹雪の日は藁を敷いて……」
「もういい、分かったから!」
 クラウスが根を上げた。その瞬間、ミノリは最高に輝く笑顔を彼に向ける。
「降参だ。……ミノリがそれだけ苦労して作ったワインだ、ありがたくいただくよ」
 クラウスは、盛大に溜息を吐いた。
 
 
「乾杯っ!」
「乾杯」
 彼は外面こそ穏やかに笑っていたが、ミノリほど純粋に楽しむ気にはなれなかった。しかし一口ワインを飲み下した瞬間、その思いは嘘のように吹き飛ぶ。
「……美味いな」
 心底驚いた様子で、クラウスは思わず呟いた。爽やかで、それでいて芯のある甘酸っぱさの後に、僅かな苦みが訪れ、やがて優しい甘さを残してそっと消えていく。そんなワインだった。
「ほらね、言ったでしょう?」
 ミノリは、フフッと自慢げに笑う。
「だから、絶対、クラウスと一緒に呑みたかったんです」
 彼女の最高の笑顔を肴に、クラウスは「もう一口」とグラスを煽った。
「これだけ美味いレモンワインは、なかなかないぞ」
「そうでしょう?」
 ミノリは顔を綻ばせ、自身のグラスに二杯目を注ぐ。その動きを、今日のクラウスは見逃さなかった。くいっ、と自身のグラスの中身を一気に飲み干すと、空になったそこになみなみとワインを注ぐ。
「ミノリ。こっちへ来ないか?」
 何気なく誘われ、ミノリは「エヘヘ」とはにかみ笑いを浮かべながら席を立つと、クラウスの股の間にストンと腰を下ろした。彼の安定感ある左腕で後ろから優しく抱きしめられ、幸せそうに目を細める。
「……ミノリは、ワイン三杯くらいで酔うんだったか?」
 頭上から耳元へ、男の色香を含んだ低音が降ってきた。ミノリは何の疑いもなく「はい」と答える。
「前回は、とても酔っている風には見えなかったな。少し饒舌になったくらいで」
「よく言われます。でも、酔ってるんですよ。ふわふわって。歩くと、ちょっとフラッとします」
「記憶を無くしたりはするのか?」
「いえ、それはないですよ。気持ち悪くなったり、二日酔いになったりしたこともないです」
 まさに鉄の肝臓である。クラウスは、少しだけ羨ましく思った。
「本当に強いんだな」
「……あっ、でも、一人で二瓶空けたときは、眠くなって寝ちゃいました」
 そんな会話をしている間もミノリはコクコクと美味しそうにワインを煽り、早くも三杯目へ突入する。自分のワインを注ぎつつ、クラウスのグラスへも静かに注ぎ足した。その所作を、彼はミノリから表情が見えないのを良いことに、苦々しげに観察する。
(オレは、こうやって潰されたのか……)
 クラウスは、もぞ、と手を動かした。
「……そろそろ、酔いが回ってきたか?」
「んー……あ、ちょっとだけ。頭がふわっとします」
「そうか」
 彼はミノリが三杯目を呑みきったことを確認すると、追ってグラスを空にした。タン、とテーブルの上に空きグラスを置き、次を注ごうとする彼女の手を、ふわりと握る。
 ミノリが振り返って、物言いたげな目をクラウスに向ける―と、射抜くようなトパーズの瞳と出会った。ドキン、と彼女の心臓が跳ねる。
「あの……クラウス?」
 困惑した声色で問うミノリ。クラウスは答えず、彼女の肩に掛かる髪に顔を埋め、静かに目を伏た。彼の心臓もまた、ドクドクと激しく脈打っている。
(ようやく、か)
 この時がくるのを、どんなに待ち望んだことか。しかし、まだ油断は禁物だ。すう、とミノリの香りを吸い込み、クラウスは逸る気持ちを無理やり抑えつけた。
 
 
「……ミノリ」
 耳元で名前を呼ばれ、背中にゾクッと震えが走る。ミノリは今まで味わったことのない感覚に緊張し、体を強ばらせた。
「何でしょう?」
 クラウスが後ろから、握った片手ごと両腕で抱きしめてくる。彼の体が、熱い。ミノリはようやく理解した。
(……そういうことなんですね)
 その瞬間、彼女の顔が真っ赤に染まる。小さな恐怖心に抗うように、ミノリはクラウスの腕をきゅっと握った。
「……あの、……クラウス」
 その声は、僅かに震えている。
「ん」
「好きですよ。……大好きです」
「……ああ」
 クラウスは顔を上げ、ミノリの細い腕を這うように両手を肩まで移動させると、こめかみに優しくキスを落とす。肩上の手を動かして彼女を誘導し、自分に向き合わせた。
 ミノリは今にも泣き出しそうな、苦しそうな、あるいは笑いを堪えているかのような、複雑な表情をしている。すぐにでもその緊張を解してやりたくて、クラウスは彼女の腰に手を回して抱き寄せると、唇を優しく啄んだ。
「……これが正解だったか?」
 彼は、フッと切なげに微笑む。ミノリも強がり、微笑み返そうとする―が、うまく笑顔にならない。
「クラウスが……そんな顔してなければ、正解です」
 ミノリは、存外に鋭い。クラウスはそれ以上会話を続けようとはせず、再び彼女に口付ける。舌で上唇をつつきながら首筋を撫でれば、狭い口腔は「ん」とくすぐったげな音を漏らし、簡単に恋人の侵入を許した。
 抵抗はなかった。クラウスはじわりと胸に広がる嬉しさを噛み締めながら、彼女の味を楽しむ。相手の動きにどうにかして合わせようともがくミノリの舌がいじらしく、頭の中で「もっと、もっと」とうるさいくらいに声が響いた。
「……ぅ……ふ」
 ミノリの声が徐々に甘さを帯び、声の間隔も短くなっていく。クラウスの肩を、恐る恐る伸ばされた細い腕がぎゅっと掴んだ。彼はゆっくりとミノリをソファに押し倒すと、濡れた唇をようやく離す。
 緩みきった口元から「はぁっ」と苦しげに息を漏らし、情けない顔でふにゃりと微笑むミノリ。
「レモン味……でした」
 この状況で、何を言うのかと思えば。クラウスは思わずクスッと笑った。
「最高品質の、な」
 そして、三度目のキスを首筋に。その場所で、低く、甘く、囁く。
「……ベッド、行くか?」
 ミノリは黙ったまま、小さく頷いた。
 
 
 クラウスはミノリを力強く横抱き、隣室のベッドへ運ぶと、ふわりと降ろした。羽の上に着地したかのようなその心地に、彼女はうっとりと瞳を閉じる。その間にクラウスは、手早くベストを脱ぎ、タイを外し、シャツの襟元を緩めた。
 ギシ、と音が鳴る。ミノリが静かに目を開けると、彼の顔が近付いてきた。ミノリは上体を半分起こし、ねだるようにクラウスの首元へ腕を伸ばして、自ら彼を迎え入れる。クラウスは両手を彼女の腰と後頭部に添え、優しく唇を包んだ。
「ん……ふ……」
 途端に漏れる、甘酸っぱい吐息。
 キスの楽しみ方をあっという間に覚えてしまったミノリの様相に、クラウスの征服欲が満たされる。
(この子にこんないけないことを教えたのは、他の誰でもない、このオレだ。……悪い大人だな)
 彼女を抱く腕に、力が入る。
「……っ」
 ミノリは、少し苦しげに身じろぎした。舌の動きも激しさを増す。
「……ん……ぅ、ふっ……」
 クラウスは彼女の頭をベッドに押しつけると、腰に回していた手で、若葉色の上衣をゆるゆるとスカートから引き抜く。そして、その内に手を忍ばせた。熱い指が素肌に触れた瞬間、ミノリの体がビクッと震える。
 腰から背中に掛けて這い回るぞわりとした感覚に、ミノリは身じろぎした。吐息が熱を増し、甘い声は切なげなものへと変化していく。調べのようなその声に酔いしれながら、クラウスは彼女の着衣を乱す。
 二人の体が離れた時には、ミノリを守るものは上衣と下着のみとなっていた。生まれて初めて知る快楽で惚けた頭の片隅にも僅かな羞恥心は残っていたらしく、彼女はもぞもぞと体を縮めた。
「……恥ずかしい、です」
 クラウスは、フッと意地悪げに笑う。
「何を今更」
 容赦なくミノリの上衣に手をかけ、それを優しく剥ぎ取った。その流れで、最後の砦であった下着をも奪われてしまう。真っ赤になって体を折りたたみ、ふるふると震えるミノリ。
 可愛い恋人を見下ろし、後ろ暗さにゾクゾクしながら、クラウス自身も手早く衣服を脱ぎ捨てる。ギシッとスプリングを軋ませ、彼はミノリと向かい合わせにベッドへ横になると、その小さな体に自身の硬い肢体を沿わせ、軽く抱いた。
 右手でさらりと髪を梳けば、ミノリが非難がましい上目遣いで見る。その額に一つ口付け、クラウスは彼女の足の間に自分の右足を差し込むと、体勢を変え、ミノリを押し倒す格好になった。
「……怖くないか?」
 シーツに広がった亜麻色の髪を軽く弄びながら、クラウスは問う。頬を紅潮させたミノリは、小さく首を横に振った。
「こ……怖くない、です。でも……恥ずかしいから、あんまり見ないで」
 ミノリは、揺れる声で精一杯強がって見せる。もうアルコールが抜けてきたのだろうか。
 クラウスは、美酒より夢心地になれるものを与えてやろうと彼女の頬に手を添え、額にキスを落とした。その唇は、額から口元へ、口元から首筋へ、首筋から鎖骨へ。以下は右手に任せ、繊細な刺激を与えながら、ゆっくり下半身へ下がっていく。
「……っ」
 もぞ、と体を動かすミノリ。
 クラウスは、ウエストや腰、鎖骨など、敏感な部分に代わる代わる触れながら、また彼女と唇を重ねた。すっかり「大人のキス」が気に入ってしまったミノリは、それだけで「ふぅっ」と甘い息を鼻から漏らし、受け入れる。
 彼女が口内への愛撫に夢中になっている間に、それより先を、とクラウスは一方の手を胸元へ、もう一方の手を細い腰へ這わせる。形の良い膨らみをそっと撫でると、ミノリの体がビクッと跳ねた。
 指先に力を入れれば、ふわりと優しく撓む。その感触をしばらく楽しんだ後、彼は一度手を離し、小さく色付いた先端をキュッと摘んだ。
「……っふ! ……ぅ……ん」
 クラウスは顔を離し、トロトロになったミノリの唇を名残惜しげに一瞥した後、今度は膨らみの先端を吸う。鼻孔をくすぐる、スズランに似た白い肌の香り。桃色に膨らんだ小さな実を舌先で転がせば、ミノリが高い声で囀る。
 腰に沿わせていた手を、クラウスは更にその下へと移動させた。さわ、と指先に触れた柔らかい毛の、更に奥。既に蜜を湛えたそこへ、無遠慮に指を差し入れた。
「あっ! ……やめ……」
 未知の異物感から逃れようとミノリは激しく身をよじるが、残念ながらそれは逆効果だった。クラウスは胸から唇を離して、彼女を見下ろす。薄く微笑みながら、熱い内壁を指でなぞった。
 ミノリは嬌声を上げ、体を仰け反らせる。追い打ちをかけるように、親指で芽を擦るクラウス。
「……やめてぇっ! イヤっ……!」
 激しく押し寄せる快楽に耐えきれず、彼女が一筋の涙を流して激しく頭を振っても、クラウスは手を緩めることをしない。その代わり、片手で優しく頭を撫で、頬を重ねた。
 ミノリは幾分落ち着きを取り戻し、叫ぶのを止める。そして、素直に快感へ身を任せ始めた。クラウスの指の動きに合わせ、ねだるように腰を揺らす。
 頬を摺り合わせただけで、この変わり様。相手が自分だからこそ安心して身を委ねてくれているのだと実感したクラウスは、溢れる愛しさを我慢出来なくなり、彼女の中から指を引き抜いた。
体勢を変えないまま、荒く息を吐くミノリのそこに、自身の先端を宛がう。小さく「んっ」と声が上がった。
「……挿れるぞ」
 耳元で低く囁かれたが、ミノリは恍惚とした表情のまま反応を示さない。クラウスは構わず、ゆっくりとそれを押し込み始める。
「……ッ! ……いッ! ……」
 ツキンと走った痛みに声を上げた小さな口を、クラウスが塞ぐ。ミノリは、きつく握りしめていたシーツをふわりと解放した。
 貫通の痛みを忘れるほどとは、どれだけキスが好きなんだか、と頭の片隅で笑うクラウス。しかし、これほど都合の良いことはない。彼は、この隙にと一気に男性を突き立てた。
 さすがにこれは痛かったようで、ミノリは声にならない叫びを上げ、再びぎゅっとシーツを握りしめる。が、再び継続される舌の遊技に、あっという間に緊張を弛めた。下半身の刺激も相まって、口の端から漏れる吐息は、いっそう甘さと切なさを増す。
 その幻覚剤のような声を、クラウスは目眩を起こしそうになりながらも激しく求めた。腕を立て、苦しさと愛しさの入り交じった表情でミノリを見下ろすと、ゆるゆる腰を動かし始める。
「……ミノリ」
 快感の沼で溺れるように喘ぎながら、ミノリは愛しい人が自分を呼ぶ声を霞がかった頭の片隅で捉え、涙で濡れた瞳を彼へ向けた。
「好きだ……愛してる、ミノリ」
 ミノリは、半ば無意識に彼の首元へ手を伸ばす。クラウスは上体を重ね、その手を受け止めた。
―わたしも。クラウスのこと、大好き。
 ミノリはそう伝えたかったが、全く声にならなかった。代わりに、思い人を抱き締めるかのように、彼女の中がキュウッと締まる。
 クラウスは「うっ」と苦しげな声を一つ上げると、ミノリの中で果てた。
 
 
 翌朝六時に彼女が目覚めた時には、クラウスは既に身支度を整え、作業机でコーヒーを飲んでいた。
 ミノリはもぞもぞと上体を起こした後、服を着ていないことに気付き、慌てて掛け布団を引き上げる。その衣擦れの音に反応したクラウスが、ベッドを振り返った。
「ミノリ、起きたのか」
 クラウスは、かなり眠そうな目をしている。彼の顔を見て昨晩の行為を思い出したミノリは、一瞬で頬を真っ赤に染め、慌ててそっぽを向いた。その初々しい様に、思わずクラウスの頬が弛む。彼は腰を上げ、コツコツと律動的な靴音を立ててベッドへ歩み寄った。
「体は大丈夫か?」
「……はい」
 ミノリはクラウスから視線を外したまま、拗ねたような声色で答える。その頭が、くしゃりと撫でられた。
「起きられそうなら、シャワーを浴びてから着替えるといい。服は洗面所に置いといたぞ」
「……ありがとうございます」
 クラウスはベッドサイドの棚の上に用意しておいた自分の白シャツを広げ、ミノリの頭に被せる。
「ひ、一人で着れますっ」
 突然シャツで目隠しされたミノリは少し怒った風で言ったが、あっという間に衿口から顔を出されたため、結局、半ば着せて貰う格好になってしまった。口を尖らせ、渋々ぶかぶかのシャツに腕を通す。
「不機嫌そうだな」
「そんなこと、ないです。その……ちょっと、恥ずかしいだけで……」
 クラウスは、ギシ、とベッドサイドに座ると、力強くミノリを抱き寄せる。彼女の肩から、仄かに自分の移り香が匂ってきた。どうしようもなく愛しさが込み上げ、クラウスは思わずミノリの額にそっと口付ける。
「……あのね、クラウス」
「ん?」
「わたし、いまさら気付いたんですけど……わたし、クラウスのこと、あんまり知らないんですよね」
 唐突なその言葉に、クラウスの表情が曇る。
「……そうか? ほぼ毎日のように話しているし、お互いのことはよく知り合ったつもりでいたが」
 ミノリは静かに首を横に振った。
「わたし、クラウスの昔の話も聞きたいです」
 ギクッとするクラウス。いつかは訊かれるだろうと覚悟していたが、まさかこのタイミングとは。一つ答えを誤れば、ミノリとの関係に大きな亀裂が入りかねない。
「イリスさんやマリアン先生から、ちょっとだけ聞いたんですよ。昔もカッコよかった、って」
 クラウスは思わず頭を抱えた。
(あいつら、絶対わざとだな)
 無邪気な好奇心を湛えたキラキラ輝く瞳で、ミノリが顔を覗き込んでくる。
「だからわたし、とっても気になっちゃって。クラウス、教えてください」
 クラウスは「余裕だ、大人の余裕だ」と自分に言い聞かせつつ、穏やかに微笑んだ。
「……やめておけ。若いなりにやんちゃだった。それだけだ」
「やんちゃって……? 何かやってたんですか?」
 見事に地雷を踏んだ。
「……悪いが、今は話せない。その……」
 言い淀んだ後、クラウスはふと思いつき、深刻そうな表情を装って俯き加減に言う。
「……長い話になるんだ」
 その様子に、優しいミノリは少し寂しげに微笑んだ。
「分かりました。いつか、聞かせてくださいね」
 クラウスは小さな罪悪感を抱きながらも、その「いつか」が永遠に訪れないことを願った。
 
 

二十六話 彼女の手料理

 
 
「クラウス、今日もブイヤベースを持ってきましたよ」
「おお! それは嬉しいな」
 クラウスは瞳を輝かせた。何しろ、ミノリの作るブイヤベースは絶品なのだ。
 彼女は自分で言わないが、クラウスはフリッツから聞いて知っていた。ミノリはサンマの養殖も行なっており、品質改善のためか、毎日欠かさず餌やりまでしているらしい。そんなにサンマばかり増やしてどうするんだ、とフリッツが尋ねたところ、料理に使うのだと答えたそうだ。その話を聞いた時、クラウスはすぐにピンときた。
 日に日にミノリの作るブイヤベースが美味くなっていくのは、そういうことだったのか、と。
 彼女は魚介類をあまり好まないから、自分で食べる料理に使うわけではないのだろう。だとすれば。
(オレのために、そこまでしてくれているのか)
 本人から直接聞いたわけではないのであえて口にしないが、クラウスはこのことを心から嬉しく思っていたし、いっそうミノリを愛おしく感じていた。しかしこの時のクラウスは、まさかそのブイヤベースが痴話喧嘩の原因になろうとは、考えもしなかったのだった。
 
 
 秋の料理祭の日。クラウスは祭りに出場する恋人を応援するため、会場へ駆けつけていた。
 前日の夜、クラウスが何の料理を出すのかとミノリに尋ねたところ、彼女はフフッと悪戯っぽく笑って、「すっごいものですよ。楽しみにしていてくださいね!」と宣った。その時の笑顔が脳裏に浮かび、否応なくクラウスを高揚させた。
 ベロニカが、出場者とその料理を紹介していく。最後にミノリの番がやってきた。クラウスは目を細めて、彼女の料理が紹介されるのを待つ。
「四人目は、ほのぼの牧場のミノリさん。審査対象は―ブイヤベースです!」
「……は?」
 その耳慣れた料理名を聞いた瞬間、クラウスは思わず誰にともなく尋ね返してしまった。それだけショックを受けたのだ。しかしすぐに冷静になり、考えを巡らせる。―ミノリのことだ、オレのための料理が世間でも高評価を得られれば、自信を持って食べて貰えるとでも思ったのだろう。しかし、彼女の気持ちは解っても、どうにもすんなり納得出来なかった。
 段上では審査員のサフランが順々に試食を行ない、とうとうミノリの番がやってくる。海賊風の風変わりな衣装に身を包んだその女性は、銀のスプーンに一匙スープを掬うと、すす、と「それ」を啜った。クラウスは、その光景を苦々しげに眺める。
「ほ~、なかなかいい味出してますね!」
 料理が審査員のお眼鏡に適ったのか、彼女はぱくぱくと皿の中身を胃袋に入れていく。結局、最後の一滴まで食べ尽くされた。
 クラウスはあまりの苛立たしさに耐えきれず、結果を待たずに踵を返し、会場を後にする。
(結果なんて、オレが一番分かってるさ。ミノリが優勝に決まってるだろ……!)
 
 優勝したことで浮かれきったミノリは、さっそくクラウスに褒めて貰おうと会場を見回す―が、恋人の姿が見あたらない。三十分ほどふらふらとステーション内を歩き回ってみたが、彼はどこにも居なかった。
(クラウス、今日は忙しくて来れなかったんでしょうか……?)
 ミノリはしょんぼりと肩を落とし、家路についたのだった。
 
 
 その夜、ミノリは出来たてのブイヤベースをバスケットに忍ばせ、クラウスの家を訪れた。
 いつになく上機嫌でバスケットを台所に置くミノリを、クラウスは複雑な気持ちで見遣る。その中身は、簡単に想像がついた。何の気なしに問うミノリ。
「クラウス、今日の料理祭、来てましたか?」
「いや……仕事が立て込んでいて、行けなかったんだ。すまなかった」
 嘘を吐いたことでチクリと胸が痛んだが、これはやむを得ない嘘なのだと、彼は無理やり自分を納得させる。
「そうなんですか……残念です。でも、すごくいい報告があるんですよ」
 薄く微笑んで「何だろうな?」と返してはみるが、その続きは分かり切っていた。
「あのね……実は今日、料理祭のスープ部門で、優勝しちゃったんです!」
「ほう。それはすごいな」
「でね、その料理を、今日作ってきたんですよ」
「そうか。そりゃ楽しみだ」
 ミノリは、バスケットの中から鍋を取り出す。
「じゃーん! ブイヤベースですっ」
 クラウスは、反応に詰まった。分かっていたはずなのに。答えも、用意していたのに。
 硬い表情で押し黙る恋人の様子に、ミノリの笑顔がふっと曇る。
「……クラウス?」
 クラウスは慌てて平静を装い、「ああ、すまない」と頭を振った。
「嬉しいよ。嬉しすぎて、思わず言葉を失っちまった」
 しかしミノリは、その言葉が嘘であることを敏感に感じ取る。
「クラウス、ひょっとして……あんまり嬉しくないですか?」
 図星を突かれ、彼はいたたまれずミノリから顔を逸らした。
「……どうして?」
 
 
 クラウスとミノリは、向かい合わせにソファへ座った。ブイヤベースの鍋を挟んで。
「……悪かった」
 ぼそりと謝罪するクラウス。しかしミノリは、ツンとそっぽを向いた。
「そんな言葉が聞きたいんじゃありません」
 焦りから、クラウスの心臓が早鐘を打つ。この状況をどう打開したものかと策を弄するが、全く良案が浮かばなかった。彼は黙って立ち上がり、ミノリの隣へ腰を下ろす―が、可愛い恋人は、すすす、と距離を取った。
「まさか、抱き締めてちゅーしたら許されるかも、なんて思ってないですよね?」
 じと目で尋ねるミノリ。今回は、彼女のほうが一枚上手だった。いつもの鈍さはどこへ行った、とクラウスは苦虫を噛みつぶしたような顔で目を伏せる。
「わたし、前に言いましたよね。そうやって隠そうとするから、クラウスについて知らないことも多いんですよ。クラウスは、いつもわたしから本音を引き出しちゃうのに……ずるいです」
 クラウスにも自覚はあった。普段から自分に都合の悪い情報はあえて話題にしないくせに、彼女について知りたいことがあれば誘導尋問を使って半ば無理やり聞き出しているのだから、全く反論の余地がない。しかし、彼は往生際が悪かった。
「……例え恋人でも、言えないことの一つや二つはあるだろう」
 その言葉に、ミノリはカチンときた。そして、すっと冷静になる。
「分かりました。それなら、言わなくていいです」
 途端に、心底ほっとした様子で彼女に向き直るクラウス。しかし、ミノリのそれは「許容」ではなく「宣戦布告」だった。
「その代わり、わたしも一つや二つの秘密は持たせてもらいますからね」
 そう言って、フフッと悪戯っぽく笑った。
 
 
 翌々日、クラウスが料理祭当日の修羅場をようやく忘れかけていた頃、不意にミノリの反撃はやってきた。彼が貿易ステーションで露天を覗いていると、後ろから肩を叩かれる。
「よっ、クラウスさん」
「ああ……レーガか」
 青年の爽やかな笑顔が、秋の日差しに映える。若いっていいな、とクラウスは微笑ましい気持ちになった。
「どうだ、店の調子は?」
「かなりいいよ。最近、貿易国が増えただろ? 客足も伸びてさ」
「そうか」
 立ち話はこの辺で切り上げておくか、とクラウスは思ったが、レーガが何気なく「そういえば」と続ける。
「この間、ミノリがオレのところへ相談に来たんだけど」
 ミノリ、という単語に、クラウスはぴくりと反応した。
「どんな内容だ?」
 気になって仕方のない彼は続きを促したが、レーガはハッとした表情で慌てて頭を振る。
「あっ、いや。ミノリに『言うな』って言われてたんだった。悪い、忘れてくれ」
 ハハハ、と笑って誤魔化すレーガ。口止めしたのが他でもないミノリであればそれ以上追求することも出来ず、クラウスは「そうか」と苦笑するにとどめた。が、内心穏やかでない。
二、三会話を交わすと、二人は別れた。家路につきながら、クラウスは思案に耽る。
(レーガの様子から察するに、それほど重い内容でもないのだろうが……相談に行ったのが他の男のところというのが気に入らないな)
 ミノリが口止めしたということは、オレには知られたくない内容なのかもしれない。聞き出すべきか、否か―そんなことをぐるぐる考えていると、今度はイリスとすれ違った。
「こんにちは、クラウス。いいお天気ね」
「ああ。絶好の散歩日和だ」
 目を細めて空を仰ぐクラウスに、イリスはウフフと微笑む。
「クラウス、ミノリちゃんから話は聞いた?」
 またミノリの話か。クラウスは動揺したが、そんな様子はおくびにも出さずに相槌を打つ。
「……いや。何の話だ?」
 イリスは少し驚いた顔をした後、「ああ、まだなのね」と呟く。
「何でもないわ。大したことじゃないのよ。それじゃ、またね」
 それだけ言って、イリスは去っていった。
(一体、今日は何なんだ……)
 
 
 クラウスの意地は、三日と持たなかった。
「なあ、ミノリ……教えてくれよ。頼むから」
「イヤですっ。わたしにだって、言えないことの一つや二つあるんですから」
 困惑を含む作り笑顔で懇願する向かい席の男を、ミノリは棘の立った声音で突き放す。
「自分で言ったことでしょう?」
 クラウスは、自身の軽はずみな発言を後悔した。ミノリに秘密なんて作れるわけがない、あっても隠し通せないはずだ―安易にそう考えていたが、完全に甘く見ていた。大方、イリスにでも相談したのだろう。嵌められていることは分かっていたが、「オレの知らないミノリ」がいることに自分は少しの我慢も出来ないのだと、クラウスは改めて思い知らされた。
「……降参だ」
 クラウスは、ぼすっとソファの背もたれに体を預け、ふうー、と深く溜息を吐く。そして小さく「おいで」と言って、開いた足の間にミノリを招き入れた。
 彼女を後ろから優しく包み込むと、クラウスはバツが悪そうな表情で低く囁く。
「今から大人げのないことを言うが、嫌ってくれるなよ?」
 ミノリは、こくんと頷く。
「どうぞ?」
 クラウスは僅かに息を吸い込み、言った。
「ミノリのブイヤベースを他のやつが口にするのは、我慢ならない」
 彼女の体を抱く手に、ほんの少し力が入った。大人の仮面の下から無理やり引っ張り出された、子供じみた独占欲。その一端が、彼の鼓動を早める。
 クラウスには分かっていた。ミノリはきっと拒絶しない、と。不安なのはそんな彼女に甘え、ドロドロした欲を思うまま押しつけそうになってしまう自分自身なのだ。
「あれの味を知っているのは、オレだけでありたかった。今更言っても仕方のないことだが……」
 今後ブイヤベースを見る度に今回の件を思い出すのだろうと考え、クラウスは苦々しい気持ちになった。
「……」
 ミノリは、何も応えない。クラウスは少々焦って、彼女の耳元に口を寄せる。
「……呆れたか?」
「はい。呆れました」
 即答され、彼の心臓がキュッと痛んだ。しかしミノリは、可笑しそうにクスクスと笑って続ける。
「クラウスも、まるでわたしみたいなこと考えてるんですね」
 膝の上で組まれたクラウスの手の上に、彼女は自分の掌をそっと重ねた。
「わたしだって、クラウスが他の女の人にお菓子をあげていたら、そのお菓子はわたしのなのに、って思っちゃいますよ。でも、クラウスは誰にでも優しいし……そんなところが、好き……です、けど……」
 言い終える前に、ほんのり頬を赤らめる様子が可愛らしかった。
「……そうか」
 ほっと胸を撫で下ろすクラウス。同時に、他の女性への嫉妬を示唆するミノリの発言に、じわじわと喜びが込み上げる。思わず口元を弛めたクラウスは、渦巻く独占欲から仮初めではあるが解放され、穏やかな気持ちで彼女の髪に頬をすり寄せた。
「それにしても、ミノリは余裕に見えるな」
「きっとね、大人の余裕、ってやつですよ」
 彼女は、ドヤ顔で宣った。
 
 
 結局、その日ミノリは、秘密をクラウスに打ち明けることはなかった。が、翌日には必ず教えると約束して帰って行った。
そして、次の日の夜。
「わたしのブイヤベースを独り占めしたい。そんなクラウスに、朗報です」
 部屋に入るなり、ミノリはフフッと悪戯っぽく笑って言った。芝居がかったその様に、クラウスは思わずクスッと噴き出す。
「……何だろうな?」
「『ブイヤベース改良版』が、ようやくできました!」
 ミノリはバスケットから鍋を取りだし、彼に向けて突き出した。
「今すぐ、ちょっとだけでいいから、味見してみてくださいっ」
 言われるがままキッチンに立って、クラウスはスープを一口啜る―と。
「美味いな。……前のより、味が立ってる。何か変えたのか?」
 エヘヘ、と照れたように微笑み、ミノリは頷く。
「クラウスに秘密で、研究してたんですよ。何かひと味足りない気がして。料理祭の後でサフランさんに聞いてみたり、イリスさんにお料理の本を貸してもらったり、レーガにコツを教えてもらったり……」
 なるほど、判明してみればなんて可愛らしい秘密だろう―クラウスはミノリの手からそっと鍋を取り上げると、それをコンロの上に置き、彼女を抱き締めた。
 ミノリは、ふわりと微笑む。
「改良版のブイヤベースは、クラウスだけのですよ」
 溢れる思いを口移すように、クラウスはいじらしい言葉を紡ぐ唇をそっと塞いだ。
 
 

二十七話 時には昔の話を

 
 
永遠に来ないで欲しいと願っていた「いつか」がやってきてしまった。
 普段の「大人の余裕」はどこへやら、クラウスは赤面し、俯いた。ミノリのキラキラした瞳が、追い打ちをかける。
「その話、もっと聞きたいです!」
 
 
 事の発端は、昨日に遡る。
「あのねクラウス、すみませんが、わたし明日は来られません」
 ミノリは本を読む手を止めると、申し訳なさそうに言った。珍しいこともあるものだと思いながら、クラウスは残念そうに微笑み、頷く。
「……そうか。何か用事でもあるのか?」
 尋ねてみれば、彼女の表情がぱっと明るくなった。
「はい。明日、ウチでお泊まり飲み会をやるんです」
「ほう。友達と、か?」
「はいっ。農畜学校時代の友だちです。一緒に実習をやってたグループの子たちと気が合って……全部で四人なんですけど、未だに一年に一回は持ち回りでお泊まり飲み会をしてるんですよ」
 若いな、とクラウスは目を細める。同時に、少し羨ましくも思った。
「あ。よかったら、クラウスも参加しますか?」
「いや、いいよ。オレなんかが行ったら迷惑だろう」
 彼女の誘いを嬉しく思いながらも、クラウスは苦笑し、手を振って断りの意思を示す。しかしミノリは、自分からした提案に自分のほうが乗り気になってしまったようだ。
「迷惑だなんて、全然そんなことないですよ。友達も手紙で『一緒に呑んでみたい』って言ってましたし。きっと楽しいですよ」
 もしかしたら、恋人の意外な一面が見れるかもしれない―そう考えたクラウスは「なら、少しだけ……」と応えかけたが、その輪の中にいる自分を想像し、やはり首を横に振る。
「若い女の子ばかりの飲み会に、こんなおじさんが参加するわけにはいかんだろう」
 ミノリは「もう一押し」と言わんばかりに、ずいっとテーブルへ身を乗り出した。
「大丈夫ですよ。みんな男の子ですから」
「……は?」
 
 
「参加するな」とは言えなかったクラウスは、結局自分も同席することにした。恋人の無防備さを苦々しく思いながら、彼はソファでくつろぎ、料理を作るミノリの後ろ姿を見守る。
 予定時刻を十五分ほど過ぎた頃、「彼ら」は到着した。
「よっ、ミノリ。元気してた?」
「久し振りだねー」
「はいっ。お久し振りです」
 適度な距離感で再会を喜び合う彼らの様子に、クラウスは少しほっとした。ひとしきり挨拶を終えると、ミノリは四人の青年に恋人を紹介する。
「今日は、前に言ってた彼氏が参加してくれることになったんですよ。紹介しますね。クラウスー?」
 名前を呼ばれたクラウスはソファから立ち上がると、僅かな緊張を隠し、余裕を持って自己紹介する。
「この町で調香師をやっている、クラウスだ。よろしくな」
 長身の彼を見上げ、青年たちは「ほー」と感心とも呆れともつかない声を上げた。
「十歳も上って聞いてたけど、全然そんな風に見えないな」
「だよな。ってか、背、高いっすね」
 クラウスは、アハハと笑う。
「お世辞はよしてくれ。……今日は、オレがいて迷惑じゃないか? 迷惑なら帰るが……」
「いや、全然そんなことないですよ。そもそも、『一緒に呑んでみたい』って言い出したの、オレだし」
 屈託なく笑う若者に、クラウスはほんの少しだけ、自身の汚れた心を恥じた。そこへ別の青年が横から口を出す。
「ってか、恋人いるのに男と呑んでるミノリが悪いだろ。オレ、言ったんすよ。まだ参加したいってんなら、せめてその人も連れて来いよ、って」
「それ、オレも言った。けどミノリ、お前スルーしただろ?」
 ミノリは黙ったまま、気まずそうに恋人を見上げる。クラウスはニコニコ笑いながら、彼女の頭をポンと叩いた。
「言い訳は、後でゆっくり聞かせて貰うからな」
 おお怖い、だの、ミノリ頑張れよー、だの、次々に囃し立てる友人一同。クラウスは、多少の居心地の悪さを感じた。
 
 
―が、アルコールが入ってしまえば、それもどこかへ吹き飛んでしまった。
 ミノリの言っていた通り、確かに楽しい飲み会だった。酒と料理は持ち寄り、それぞれが手酌で、近況と思い出話に花を咲かせつつ仕事の情報交換をゆるりと楽しむ。密かなお目当てであった「ミノリの昔話」も、存分に堪能することが出来た。
「クラウスさん、ミノリの恋愛遍歴とか、気になりません?」
 友人のその一言にミノリがあわあわと茶々を入れたが、クラウスの「気にならないと言えば嘘になるな」の一言で、話は続けられる。
「まあ知ってるとは思いますけど、こいつ、誰とも付き合ってなかったんですよ」
「だ……だって、勉強にしか興味なかったからっ。もういいでしょう? その話は」
 真っ赤になって話題を打ち切ろうとするミノリ。しかし友人たち、加えてクラウスは、ニヤニヤと意地悪げな笑みを浮かべてそれをチラ見するだけだった。
「でもまあ、一応貴重な女子だったから、告白とかされたことはあって。その時、なんて断ったと思います?」
「あー、それ覚えてる。確か、『わたしの恋人はトマトさんだから』だったっけ?」
 アハハ、と一気に笑いが巻き起こる。
「も、もうっ! やめてやめて」
「そんでそれ以来、誰も告白とかしなくなったんすよ。……あー、でも、オレの知ってる限り、クラスの四分の一くらいのヤツが、ミノリ狙ってたな」
「あれ、傑作だよな。結局、最後まで牽制し合って誰も手出さないの」
「知らないもんっ! そんなの知らないもん!」
「あ、ちなみにオレたちはただの友達ですよ? 信じないとは思いますけど」
 ああ、その通りだ、とクラウスは心の中で答えたが、外面は「どうだかな」とはぐらかすにとどまった。
「クラウスさん、ミノリの学生時代のことで、何か聞きたいことってあります?」
 この若造、よく分かってるな―クラウスは満足げに頷くと、少し考えてから尋ねた。
「……そうだな。ミノリは、昔から『こんな』なのか?」
 四人は一瞬、黙って顔を見合わせる。そして、堪らず笑い出した。
「そうそう。入学した時から『こんな』ですよ」
「夜に馬小屋の前に座り込んで酒呑んでて、何してるのかって聞いたら『月見酒ですー』とか、な」
「もうっ、いいじゃないですか。仕事の後の一杯くらい……」
「危機感なさすぎだよな。クラウスさん、大変じゃないっすか?」
「ああ、そりゃもう。お察しの通りだ」
 クラウスは、クックッと笑った。
「しっかしこんなんで、よく何もなかったよな」
「牽制隊の力が大きかったんだろ?」
「あー、確かに。あいつら、オレたちにもよく絡んできたもんな」
 なるほど、とクラウスは納得する。名も知らぬ過去のライバルたちに、密かに感謝した。
 予てからの疑問が晴れ、ホクホク顔で「さあ次は何を聞こうか」などと考えるクラウス。しかし、そんな「クラウスにとって」楽しい時間は、長く続かなかった。
 
 
「クラウスさんの若い頃の話も聞きたいな」
 そら、きた。そのうちそんな話題になるだろうとは思っていた。クラウスはやや身構えつつ、苦笑する。
「おっさんの昔話なんて、聞いたって面白くも何ともないぞ?」
「うわー、はぐらかそうとしてるぞ!? 大人ってずりーなー」
 ここで、反撃とばかりにミノリがニッコリ笑って、一言。
「わたしも聞きたいです。ねっ、クラウス、お願いしますよ。……ね?」
 甘え方が分かってきたじゃないか、と恨めしげに微笑し、可愛い恋人を見遣るクラウス。同席している友人たちが、そんな中年男を羨ましそうに眺めたことは言うまでもない。彼らは、鬱憤を晴らすように問い詰める。
「クラウスさんって、どこの学校に通ってたんすか?」
「……町外の、×××ってとこだ」
「あ、オレ知ってます。友人が行ってたトコですよ、そこ」
 その一言に、クラウスはギクリとした。世間の狭さを甘く見ていた。
「確か、荒れてる学校だった気が……」
「あっ、オレも知ってるわ。それ聞いて思い出した。ダチの兄貴がさ、ヤンキーの下っ端で」
「待った!」
 クラウスが、珍しく大きな声を出した。五人の視線が彼に集中する。
 まずい、とクラウスの中で警鐘が鳴った。―うまく立ち回れなかったのは、きっと酒が入っているせいだ。若者の飲み会なんぞにしゃしゃり出たのは、やはり失敗だったか。
「……あーっと、その話はだな……ミノリの前では……」
 そんな焦りに焦った大の男の反応に、一同は思わずニヤリと顔を見合わせる。
「さあ、続きを話してください!」
 ミノリが促せば、相方の許可は得た、とばかりに友人は話を進める。
「……ダチの兄貴がさ、ヤンキーの下っ端で。そいつんちに遊び行ったことがあんだけど、やたらと名前出してた人がいたのよ」
「おい待て、だからやめろと」
 柄の悪いミノリの友人は、ニヤリ、と笑い。
「……なあ、『クラウス』さん?」
「……」
 
 
 そして、後は冒頭の通りだ。
「アニキ、往生際が悪いぞー」
「よっ、アニキ!」
「おっ、大人をからかうんじゃない!」
「やんちゃはするもんじゃないなー」
 クラウスには、返す言葉もなかった。
「やんちゃって、そういうことだったんですね」
 ミノリは納得した様子で頷き、ふんわりと微笑む。
「でも、そんなクラウスもカッコよくていいと思いますよ。だから、お話聞かせてください」
 さらりと自然な惚気からの、凶悪なおねだり。その二段コンボに、クラウスはとうとうノックアウトさせられた。
「……分かった。何が聞きたい」
「要するに、クラウスって強い人たちのリーダーだったんですよね?」
 外野から、プークスクスと笑いを堪える音が上がる。
「……まあ、そういう言い方もあるか」
「具体的に、何してたんですか?」
「あー……喧嘩……とか、だな」
 口元に手をやり、言い難そうに述べるクラウス。そんな彼の回答に、ミノリは「ああ!」と底抜けに明るい声を上げる。
「だから、背中と、胸と、脇腹に傷があったんですね。何でかなっておも……」
 言いかけて、はたと口を噤んだ。クラウスは頭を抱える。ニヤニヤしながら、ヒュー、と口笛を吹く友人一同。
「いっ……今のなし! 今のなしです!」
 真っ赤になってバンバン机を叩いても、もう遅い。
「……おい、今の聞いたか?」
「あのミノリがなー……」
「で、クラウスさん、『どう』でした?」
 自棄っぱちになったクラウスは、伏せていた顔を上げてニヤリと笑った。いいだろう、受けて立とう。
「『どう』って、そりゃあもう、最高だったぞ?」
 友人は、ヒューヒューと囃し立てる。ミノリはと言えば、口をぱくぱくさせていた。そのざわめきが一段落つくのを待って、クラウスは反撃に転じる。
「……お前らには、彼女はいないのか?」
 今度は、友人一同がギクリとする番だった。
「こっちは散々質問攻めにしておいて自分たちの話はナシ、ってのは無いよなあ? ミノリ?」
 口角だけは上がっていたものの、その声と表情にはドスが効いていた。突然話を振られたミノリは、顔から湯気を上げながらもどうにか口元を弛める。そして「クラウス側」に付いた。
「そ、そうですね。……そういえばイブキくん、最近、恋人ができたとか言ってませんでした?」
「ほう? それはぜひ、惚気話を聞かせてもらわねばならんなあ?」
 
  
 お開きの後は、ぐだぐだだった。
 空き瓶、空き皿をそのままに、それぞれソファやら簡易ベッドやらを寝床と定めると、すぐさまグースカといびきをかき始める。ミノリとクラウスも、ダブルベッドへもぞもぞ潜り込んだ。
 ベッドはパーテーションの向こうにあるため、二人の様子は外から見えない。うまい配置だ、とクラウスは感心した。
 手を伸ばせば届く距離にあるミノリの柔らかな体に、クラウスの性欲は否応なく刺激される。しかし、そこは大人である。状況が状況なので、触れようとはしなかった。
「ね? クラウス。……楽しかったでしょ?」
 ミノリの問いに、彼はククッと笑って答える。
「そうだな。たまには、こういうのもいいかもしれない」
 数時間振りの静寂の中でクラウスは、ああ、酔いが回っているな、と改めて自覚した。
「若返った気分だ」
 ミノリは、エヘヘと微笑んだ。
「よかったです。途中、クラウス怒っちゃうんじゃないかと思いました」
「……まあ、そうだな。だが、悪い連中じゃない」
「はいっ」
 しかし、と彼は思う。
(ミノリのやつ、見方がいるのをいいことに散々オレをからかいやがって。……明日は、お仕置きだな)
 
 

二十八話 ベッド上の駆け引き

 
 
「ミノリ。そこへ座りなさい」
「……はい」
 クラウスはミノリをソファに座らせると、その前に仁王立ちした。彼の口角は上がっているが、目が笑っていない。
「昨日は、ずいぶんとおねだり上手だったな?」
「……ごめんなさい」
 ミノリは体を強ばらせ、下を向いたまま小声で謝罪する。顔を上げることは出来なかった。恋人が立腹している理由には、心当たりがある。
(やっぱり、怒ってたんですね……)
 相手の態度からそう判断したが、実のところ、クラウスは怒っているわけではなかった。それは「演技」であり、彼女を咎める言葉もただの「口実」である。これから始める遊技のための。
「ミノリ」
「……はい」
 クラウスは軽く屈み、乱暴にミノリを抱き上げる。突然の出来事に硬直する彼女をベッドまで運ぶと、少し高いところからドサッと落とした。自分を振り仰ぐ困惑顔をベッドサイドで見下ろし、低く宣言する。
「大人をからかう悪い子には、お仕置きが必要だな」
「……」
 ミノリは、紅潮した顔を伏せた。ドキドキとうるさい胸をキュッと握りしめる。運ばれた先がベッドであるからして、この先自分の身に起こるであろう事の半分程度は予想出来た。しかし、もう半分については全く予測がつかない。
(お仕置き……?)
 レモン味の初体験の後、何度か睦み事は致したが、その度にクラウスは優しい口付けでミノリを安心させ、蕩けさせてからそっとベッドへ運んでくれた。それなのに。
「……クラウス?」
 今、目の前に立つ男は、可愛らしく上目遣いで名前を呼んでみても、ニコニコと意地の悪い笑みを浮かべて見下ろすばかりで、触れてもこない。ミノリはただ目を伏せ、沙汰を待つしかなかった。
 クラウスはギシッとスプリングを軋ませてベッドサイドに腰掛けると、後ろ手をついてくつろいだ。長身のため、それだけでもミノリを俯瞰する形になる。
「じゃあ、まずは自分で脱いで貰おうか」
 頭上に降りかかった彼の威圧感たっぷりの声に、ミノリの肩がビクンと跳ねた。
「じ……自分で……?」
「そうだ」
 戸惑う彼女を楽しげに観察するクラウス。ミノリは困り顔を非難がましい表情に変え、ふるふると首を横に振る―が、静かに注がれ続ける熱い視線に観念し、やがて恥ずかしそうに俯くと、スカートのゴムに手を掛ける。「見ないで」と言おうとしたが、言っても無駄なのだろう―そう思い直し、彼女はクラウスに背を向け、もぞもぞと衣服を脱ぎ始めた。
「ミノリ、こっちを向きなさい」
「……」
 せめてもの抵抗として、その命令を無視するミノリ。するとクラウスは立ち上がり、調香の作業場から椅子を一脚運んできた。そこへドサッと腰掛け、足を組み、肘掛けに腕を預けて、手の動作だけで彼女に先を促す。
 恥ずかしさで真っ赤になったミノリは小刻みに震えながら、一枚、また一枚と自身の覆いを解いていく。クラウスはその光景を、まるでサロメでも観劇しているかのように満足げな様子で眺めていた。
「あの……これの、どこがお仕置きなんですか?」
 ミノリが声を絞り出して問えば、クラウスはニヤリと意地悪く口元を歪める。
「恥ずかしいだろ?」
 図星をつかれ、ミノリはふいっと彼に背を向けた。
「……いじわる」
 そして、ふと気が付く。相手は自分が恥ずかしがる様を見物して楽しんでいるのだから、恥ずかしがったら負けなのだ、と。負けず嫌いな彼女の対抗心に、ぽっと火が付いた。
 ミノリは一糸纏わぬ姿になると、顔から火が出そうなのを押し殺して、ふわりとクラウスに向き直る。それは、彼も想定外の行動だった。濡れた瞳と無理のある不敵な微笑みに、クラウスの心臓が鷲掴みにされる。
「……ねえ、クラウス。脱ぎ終わりましたよ。次は、どうすればいいんですか」
 甘えたような、怒ったような、僅かに震える声が彼の耳をくすぐる。自身の余裕が意図的に削られたのを感じ、クラウスはこの「遊び」のルールが変更されたことを理解した。本当に鋭い子だ、と苦々しく思ったが、同時に高揚感も沸き上がる。―女の顔をしたこのお子様が、どこまで駆け引きについてこれるか試してやろう。
 クラウスは、ふう、と息を吐くと、大したことでもなさげに命令する。
「そうだな。じゃあ、オレの方を向いて、足を開いて貰おうか」
「……!」
 いきなり上げられたハードルにミノリは目を剥き、ぶんぶんと頭を振った―が、「できません」を言うのが悔しくて、おずおずと股を開く。大事な部分を、手で隠して。
「ほ、ほら。開きましたよ?」
 ドヤ顔のミノリに対し、クラウスはそうきたかと感心しつつ、ククッ、と笑いを声を漏らす。
「うむ、手が邪魔だな。後ろに回しなさい」
 次はそうくるだろうとミノリも予想していたが、対策は考えていなかった。少し目を伏せてから、湿った秘部をシーツに押しつけ、足の付け根に力を入れると、これでよし、とばかりに手を背中に回した。
「こ……これでいいでしょう?」
 胸部が無防備になるだけでも相当の羞恥を感じたが、クラウスの手前、「恥ずかしくないもん」とでも言うように鼻で笑うミノリ。しかし、真っ赤に紅潮した顔では、どう見ても強がっているだけにしか見えない。
「手はそのまま、足も開いたままで、両膝を立てようか」
 だんだん、不穏な空気になってきた。そう感じながらも、ミノリは両膝を「足を閉じて」立てる。
「……」
 ミノリは黙り込み、クラウスから視線を逸らす。そこに、先程までの威勢はなかった。
「オレは『足も開いたままで』と言ったはずだが?」
「……」
「ん? どうした、出来ないのか?」
「……く……クラウスのえっち……」
「ああ、その通りだが?」
 絞り出されたミノリの言葉に、クラウスは「それが何か?」と言わんばかりの態度で臨む。
「ミノリ、最初に言ったと思うが、これは『お仕置き』なんだぞ?」
「い……いくらなんでも、こんなの……」
 こうなると、膠着状態に陥ってしまいそうだ。クラウスは少し考えてから次の声を発する。
「そうか、出来ないか。なら仕方ないな。もう服を着ていいぞ?」
 そして、ゆっくりと椅子から立ち上がった。彼の予想外の行動に、ぽかんと口を開くミノリ。
「え……? あ、あの」
 椅子を片付けようとするクラウスを、彼女は慌てて呼び止めた。
「クラウス!」
「ん? 何だ」
 しかしミノリには、継ぐ言葉が見つからない。一つ分かっているのは、このまま終わってしまうのは「何か気持ち悪い」ということ。彼女は再び真っ赤になって顔を伏せ、消え入りそうな声で呟く。
「え……えっと……やります……」
 
 
 自分に向けて足を開き、恥ずかしそうに目を瞑って顔を背けるミノリの姿態を眺め、クラウスは征服感で体中がゾクゾクと打ち震えるのを感じた。もっと虐めてやりたいとも思ったが、今日はこの辺にしておこうと椅子から立ち上がる。
 ギシリと音を立ててベッドに足を掛け、彼はミノリの左膝に右手を載せた。ピクンと反応して目を上げた彼女の深い茶色の瞳に、男の顔が映る。
 クラウスは左腕でミノリの背中から後頭部を抱くと、静かに顔を近付けて唇を重ねる。彼女はそれを待ち望んでいたかのように、自らクラウスの口内へ舌を伸ばしてきた。重なり合った間から漏れる吐息は、やがて微かな声に変わり、徐々に甘さを帯びていく。
「……ん……ぅ」
 クラウスの左腕にかかる重さが増した。彼はミノリに口付けたまま華奢な体ごとその腕をベッドに降ろし、亜麻色の髪を軽く梳く。緑色のシーツの上に、ふわりと花木の香りが広がった。
 そっと唇を離せば、ミノリは既に恍惚とした表情を浮かべている。
「キスに弱いな」
 からかうように言ったクラウスから、彼女はふいっと潤んだ瞳を逸らした。
「……だって……」
 何かを言いかけ、口を噤む。早く行為を進めたいという思いも頭を掠めたが、その続きが聞きたくて、クラウスは先を促す。
「だって?」
「……安心、するから」
 クラウスは、思わず頬を緩めた。―全く、可愛いことを言うものだ。どうしてこうも、男を喜ばせる台詞が出てくるのか。それが作為的なものでないからこそ、余計に愛おしく感じる。彼は、ミノリの頬に優しく口付けを落とした。
 僅かに冷えた掌でするりと白い肌を撫でた後、その手をミノリの下半身に伸ばす。未だ記憶に鮮明な彼女の恥丘を想起し、クラウスの鼓動は否応なしに高鳴った。
 窪んだそこに指でそっと触れてみると、既にぬるりとした感触が。体だけは立派に成熟している、ということか。そこがまた魅力的なところであり、この最高の素体にもっと淫靡なことを教え込みたいという後ろ暗い欲望をクラウスに抱かせる。
 焦らすように指の第二関節までを出し入れすれば、ミノリは漏れそうになる声を必死で押し殺して、ビクビクと体を震わせる。そのまましばらく続けていると、やがて切なげにクラウスを見つめてきた。
「……挿れて欲しいか?」
 ミノリは、無言で小さく頷く。
「だったら、昨日みたいに可愛くおねだりしてみるんだな」
 意地悪く突き放され、ミノリは今にも泣き出しそうな表情でふるふると頭を振った。彼女の小さく柔らかな手が、首元に置かれたクラウスの片腕を縋るように軽く握る。
 クラウスは今一度ミノリと唇を重ねたが、軽く舌を絡ませただけで、彼女が満足しない内に顔を離した。上も下も中途半端に弄ばれ、耐えかねたミノリは、羞恥からか被虐感からか、一筋の涙を流して懇願する。
「……ねがい……ください……」
「よく聞こえないな」
「きす……して」
 クラウスは思わず苦笑した。欲するのはそちらか、と。しかし、彼もそろそろ限界だった。
 一度体を起こしてベルトを外すと、クラウスはスラックスの前ボタンを外し、苦しかったそこを解放する。そして、熱く滾ったものを彼女の秘所に宛がった。
 眼下には、尚も物欲しげな視線を向けてくるミノリ。クラウスは体を折ると、願い通り深い口付けを与えてやる。蜜のようなその味を堪能しながら、ゆっくりと彼女の中へ入っていった。
「……んっ……ん……」
 ミノリの瑞々しい体が、もぞもぞとじれったそうに波打つ。
(そろそろ、少しくらい激しくしてもいいだろう)
 クラウスはミノリから顔を離し、腕を立てると、彼女の中に半分ほど納まった自身を、最奥目がけて勢いよく突き立てた。
「あぁっ!!」
 一つ、甲高い叫び声が上がる。クラウスの背筋に、ゾクリと快感が走った。
 間髪入れず、彼は律動的に腰を動かし始める。ミノリの中で往復する度に、薄紅色の控えめな唇の間から「あっ、あっ」と短く漏れる、艶やかな音。目が眩むような快感に身を任せ、クラウスは容赦なく彼女を責め立てながら、その名前を吐き出す。
「ミノリっ……ミノリ……っ」
 呼ぶ毎に、自身の放つ三音節の響きに更に煽られた。
 溢れて止まらない愛しさと、疚しい征服感。一見相反する感情がクラウスの中で渦巻き、強固な理性を狂わせる。彼は欲望のままにミノリへ熱をぶち撒けると、荒い息を吐きながら、くたりと彼女に覆い被さった。その熱く湿った体を、ミノリは薄い意識の中で優しく抱き締めた。
 
 
 「……不公平だと思うんです」
 乱れた髪にぶかぶかのシャツ一枚だけというしどけない格好のミノリは、膝を抱えて拗ねたように言った。寝起きでぼんやり頭のクラウスが、掛け布団の下から「何が?」と問えば、至極真っ当な答えが返ってくる。
「だってよくよく考えたら、クラウスだって飲み会の時、友達と一緒になってわたしのこと笑ってたじゃないですか」
「ああ……そうだな」
「なんで、わたしだけお仕置きなんですか」
「……そりゃ、先に言ったもん勝ちだ」
 眠そうに宣ってごろんと寝返りを打ち、クラウスはミノリに背を向けた。ミノリはもぞもぞと布団の中に潜り込むと、彼の広い背中にしがみつく。
「ずるいです。わたしもクラウスに、何かお仕置きしないと気がすみません」
 その言葉にクラウスは再び寝返り、ニコニコ顔で恋人と向かい合う。
「いいぞ? 大歓迎だ」
「……喜ばれたら、お仕置きにならないでしょう?」
 じと目で言ったミノリの表情は、少しの間をおいて、ぱあっと明るくなった。
「そうだ、いいこと思い付きました」
「何だ?」
 フフッ、とミノリは悪戯っぽく笑う。
「今日一日、クラウスのこと『アニキ』って呼んじゃいます」
 クラウスの頬が、僅かに赤く染まった。
「頼む。それだけは勘弁してくれ……」
 
 

二十九話 似た者同士

 
 
 散歩の帰り道、薄らと雪の積もる山の麓の路をクラウスが歩いていると、川縁の大きな石に腰掛けるミノリが目に入った。愛しい恋人の姿に、クラウスの胸は躍る。
「ミノリ、何してるんだ?」
 何の気無しに近付いて声をかけたが、彼女は考え事でもしていたらしく、ビクッと肩を震わせた。
「あ……クラウス」
 チョコレート色の大きな瞳が、クラウスを捉える。しかし、その双眸は困惑を含んでいた。いつものふわりとした笑顔を向けて貰えなかったことが気にかかった彼は、ミノリの隣へ静かに腰を下ろす。
「どうかしたのか?」
「いえ……何でもないです」
 彼女は、ふいとクラウスから目を背けた。川面の目映い反射光が、幼気な横顔を照らす。
「……何かあるんだろう?」
 今一度訊ねたが、答えはない。ミノリはそのまま少し黙った後、彼に向かって苦笑して見せた。
「ホントに、何でもないんです。大丈夫です」
 そしてすっと立ち上がると、町へ向かって足早に歩み始める。その歩き方に違和感を感じたクラウスは、慌てて彼女の腕を掴んで引き留めた。
「ミノリ、足」
 目ざとい恋人の指摘に、ミノリは「しまった」という顔で振り返る。クラウスが地面に屈み込み、彼女の右のブーツを強引に脱がせてよくよく見てみれば、足首が一回り太くなっていた。そっと手を添えると、小さく「痛っ」と声が上がる。その部位は腫れ上がり、熱を持っていた。
 渋面でミノリを見上げるクラウス。
「……何でもなくないだろ」
 彼女は、気まずそうに視線を逸らした。
「……ごめんなさい」
 クラウスは、ふうー、と大きな溜息を吐いて、屈んだ状態のままミノリに背を向けると、後ろ手を差し出し「ほら」と彼女を促す。
「診療所まで負ぶってやる」
「いっ、いいですよ。一人で歩けますから」
 ミノリは真っ赤になりながら、慌てて頭を振った。そんな恋人の態度に、クラウスはにわかに苛立つ。―どうして、こうも甘え下手なのか。恋人同士なのだから、もっと頼ってくれてもいいものを。
「拒否権はないぞ」
 不機嫌を隠そうともせず、彼は棘を含んだ口調で言い放った。ミノリは渋々その首に手を回し、大人しく背負われる。
「その足はどうしたんだ」
「……石の上から飛び降りたら、着地に失敗して……捻っちゃいました」
 恥ずかしさと申し訳なさとでいっぱいのミノリは、クラウスの広い背に揺られながら、拗ねたような口調で答えた。
「何故、正直にそう言わなかった」
「……だって……」
「クラウスに心配や迷惑をかけたくなかったから」とは言えなかった。
クラウスは、「はあ……」とあからさまな溜息を吐く。ミノリと付き合い始めてもう一年にもなるし、二人の仲もかなり深まったと彼のほうでは思っているが、時折こうして距離を置かれたと感じることがある。ミノリに悪気はないのだろうが、困った時に頼って貰えないというのは年上の恋人として少々堪えた。しかし何度指摘しても直らないのだから、根の深い何かがあるのだろう―クラウスは無理やり、そう納得しようとしていた。
 
 
 診療所で湿布を貼って貰ったミノリは再びクラウスに背負われ、彼の自宅を訪れる。今日は絶対安静と診断されたものの、一人で放っておくとちょこまか動き回りそうだということで、マリアンからそのように指示されたのだ。否定出来なかったミノリは、渋々承知した。
 彼女はいつものソファに降ろされ、紅茶とマドレーヌを出して貰った。普段なら喜び勇んで手をつけるところだが、今日ばかりはしょんぼりと紅茶を啜り始める。
「……ごめんなさい。お仕事があるなら、わたしのことは気にしないでください」
「いや、大丈夫だ。今日の仕事は午前中に済ませてあるからな」
―気まずい沈黙が流れる。
しばらくの間、黙って紅茶を啜っていた二人だったが、五分近く経ってようやくクラウスが口を切った。
「そういえば、お前の子供の頃の話は聞いたことがないな」
 傾けかけたティーカップを、顎の前で止めるミノリ。彼女はカップをソーサーに戻し、向かいに座るクラウスから少し視線を外すと、苦々しげな表情を浮かべた。
「……あんまり、面白い話なんてないですよ。今とそんなに変わらないですし」
「昔から農作業が好きだったのか?」
 ミノリは顔を上げ、苦笑する。
「はい。幼稚園の頃のお芋掘りでハマっちゃいまして……」
 そこで一旦言葉を切り、再び、今度は少し寂しげに語り始めた。
「その時ね、大きいミミズがいたんですけど、お芋を掘るのに邪魔だったので、摘んで投げちゃったんですよ。そうしたら、隣にいた女の子の顔に当たってしまって……それから、農畜学校へ上がるまでは友達もできなかったんです。『ミミズ』ってあだ名がついちゃいました」
「フフッ、笑っちゃいますよね」と彼女は自嘲する。
「……そうか」
その話を聞いたクラウスは、いろいろと察した。以前、「一緒に飲み会をした五人以外に友達はいない」と断言していた彼女だ。何年も一人で、作物と向き合うことだけを楽しみに生きてきたのかもしれない。女の子が「ミミズ」なんてあだ名を付けられるようであれば、いじめに遭っていた可能性だってある。そう考えれば、明るい性格なのに比較的内気で、誰に対しても丁寧口調だったり、変なところで甘え下手なところにも納得がいく。
 神妙な面持ちで紅茶を啜ったクラウスを前にして、つまらない話をしてしまったと思ったミノリは、慌てていつもの笑顔を取り繕い、話題を変えようとする。
「あっ、でも、農畜学校はとっても楽しかったですよ。友達もできましたし」
 恋人の弱さを垣間見たクラウスの胸に、切ない愛しさが込み上げる。彼は静かに席を立つと、ミノリの横に腰掛けた。そしてそっと抱き寄せ、優しく頭を撫でる。
ミノリは、じわりと頬を染めた。
「なっ……何ですか、急に……」
「何となく、な」
 彼女を抱き締めながら、クラウスは自分の子供時代に思いを馳せる。
「オレも、あまりいい思い出はないな。体を鍛えるのは嫌いじゃなかったが、一人で本を読んでいる時間が多かった」
「……そうですか」
 ミノリも彼の腰に手を回してぎゅっと抱き締め返し、良い香りのする厚い胸板に顔を埋めた。深い安心感が、彼女を包む。
「クラウスとわたしって、ちょっと似てますね」
「そうだな」
 
 

三十話 女友達ができました

 
 
「クラウスっ! すっごい報告ですっ!」
 ここ最近では珍しく、ミノリが午前十時のお茶の時間にクラウスの家へ飛び込んできた。自身が飲むための紅茶を淹れていたクラウスは、不意のことに驚いて、危うくティーポットを取り落としそうになる。が、すんでのところで柄を握り直した。
 振り返れば、彼女はクラウスがこれまで見たこともないような満面の笑顔だった。
「どうかしたのか?」
 ミノリはぴたっと止まり、にやけた顔で少しもじもじした後、「エヘヘ」とニヤニヤ笑いを浮かべてクラウスを見上げる。彼の心臓が、ドキンと跳ねた。
「あのね……ついに、ついに!『女友達』ができたんですよっ!」
 全く想定外の報告にクラウスは一瞬思考停止したが、少しの間を置いて、心底嬉しそうに微笑む。
「それはよかったな。……で、相手は誰なんだ?」
 ミノリは興奮冷めやらぬ様子で、つい今し方起きた出来事を語り始めた。
 
 
 この日は朝一で出荷を行ないたかったため、ミノリは畑への水やりを軽く済ませると、早朝に家を出た。馬に乗って山を駆け下りれば、冬の冷たい空気がチクチクと肌を刺す。しかし雪野原にキラキラと反射する朝日は、そんな痛みを忘れさせるほどに美しい。
 しばらくは誰ともすれ違わなかったが、山の麓まできたところで、ふと、見慣れぬ人影が目に留まる。いつも通り素通りしようとしたものの、その人物がぶつぶつ言いながら草をかき分けていたので、少し心配になったミノリは馬を降りて声を掛けてみることにした。
「あ、あの……何か、お探し物ですか?」
 声を掛けられた女性はビクッと肩を震わせ、ぎょっとした表情でミノリを振り返る。
「……いや、落とし物をしたわけじゃない」
「そうですか……。すみません、突然声をおかけしてしまって」
「いや、いいんだ」
 ミノリがぺこりと腰を折り、「では」と立ち去ろうとすると、相手の女性は慌ててそれを呼び止める。
「あ……あの、この町の人か?」
 ミノリは初対面の人と話す緊張でドキドキしながら、小さく「はい」と答えた。しかし相手も同じくらい緊張している様子で、辿々しく言葉を紡ぐ。
「わ……私は、怪しいものじゃないぞ。リコリスといって、植物を研究している者だ」
 それまで堅くなっていたミノリだったが、彼女の自己紹介を聞いた途端、ぱっと顔を輝かせた。
「……すごい! 植物の学者さんですか。わたしは山の上のほうで牧場主をやっている、ミノリっていいます。よろしくお願いしますっ」
 先程までの緊張感と僅かな恐怖心はどこへやら。何か作物について興味深い話が聞けるかもしれない―そんな期待に胸を膨らませながら、ミノリはがばっと腰を折って挨拶した。対するリコリスも、ミノリの言葉を聞いてぱっと顔を輝かせる。
「そうか、牧場主のミノリか。よろしくな。風の噂で、ここには珍しい植物があると聞いて来てみたんだが。この辺りを調べると、本当に珍しい植物がたくさんあって……」
「やっぱり、そうなんですね! 見たことのない植物が結構あったので、気になってたんです」
 ミノリがニコニコ顔で話に乗ると、リコリスは「おおっ」と声を上げた。
「ミノリは植物に詳しいのか?」
「いえ。専門ってわけじゃないんですけど、作物はもちろん、コンパニオンプランツとか、家畜への有害植物とか、飼料とかも研究してるので。毎日牧場を回ってると、野草も目に付きますし」
「そうか。それはぜひ、話を聞いてみたいな。今度、ミノリの牧場を見に行ってもいいだろうか?」
「はいっ、もちろんです! こちらこそ、お話を聞かせていただけると嬉しいです」
 そこまで話すと、二人はふっと会話を切った。そして、同時に顔を赤らめる。
「……す、すまない。つい、興奮して話してしまった」
「いっ、いえ、わたしこそ……」
再び、沈黙が訪れた。少しの間、顔を背け合ってお互いにもじもじした後、リコリスが切り出す。
「……ミノリ、よかったら、その……友達になってくれないか?この町に来たばかりで、知り合いもいなくてな。お前とは、気が合いそうだし」
 その言葉に、ぱあっと顔を輝かせるミノリ。
「はいっ! わたしなんかでよければ……。もちろんですっ」
「それじゃ、よろしくな。私はまだ作業があるから、これで失礼するよ」
「はいっ。では、また!」
 
 
「……と、いうわけなんですよっ」
 ミノリはあまりの嬉しさに興奮し、頬を紅潮させ、目を潤ませている。そんな彼女を、クラウスは目を細めて眺めながら、話を聴いていた。
「とうとう、気の合う相手が見つかったってわけだ。よかったな、ミノリ」
 クラウスは手を広げ、小さく「おいで」と言って彼女を自分の前に誘う。ミノリはパタパタと彼の元へ駆け寄ると、ソファに膝をつき、ぎゅっと抱きついた。クラウスが頭を撫でてやると、ミノリは声を上げて泣き出してしまう。
(そんなに嬉しかったのか……少し妬けるな)
 クラウスは暖かい気持ちで、ふう、と小さく溜息を吐いた。
 
 

三十一話 冬の感謝祭

 
 
 冬の感謝祭、前日。
「あの……ちょっと、ご相談があるんですけど……」
 恋愛経験豊富な女小説家を前にして、ミノリがおずおずと切り出した。
(きっと、クラウス絡みの相談ね)
 そう予想したイリスは、本題に入る前にまず彼女をお茶に誘った。ティーカップ片手に話を聞いてみれば、案の定。しかもその内容は、暇潰しに持ってこいのものだった。
「あの……男の人が喜ぶことって、なんだと思いますか?」
 イリスは「それはもう、あんなことやこんなことよ」とストレートに教えようかとも思った。しかしそれでは月並みで面白くない。彼女は少し考えた上で、ウフフと楽しげに笑いながら、耳打ちするようにミノリへアドバイスを与えたのだった。
 
 
 そして、翌日の夜。
 クラウスはミノリが来るのを楽しみに待っていた。日中は仕事で町外へ出ていたが早めに帰宅し、お気に入りのレコードを流し聞きながら逸る気持ちを落ち着ける。
夜九時を回った頃、いつも通り彼女はやって来た。ノックの音を聞いた瞬間クラウスはすっと立ち上がり、足早に玄関へ向かうと、扉を開ける。
「こんばんは、ミノリ」
「こんばんは、クラウス。冬の感謝祭のお菓子を持ってきましたよ」
 ミノリはふわりと笑って、手にしたバスケットを軽く持ち上げて見せた。
「それと、ブイヤベースと、ワインも。クラウスの好きな桃ワインにしました」
 その言葉に、クラウスは下心を隠して微笑みつつ「それは嬉しいな」と応える。ミノリを部屋に招き入れると、彼はすぐさまワイングラスを二客用意した。その間、ミノリはバスケットの中身をテーブルに並べる。ブイヤベースの鍋とワインボトルをクロスの上に置いた後、本日のメインである「冬の感謝祭のお菓子」を取り出した。
「クラウスは甘い物が苦手だから、お菓子はチョコじゃなくて、紅茶ゼリーを作ってみました。甘さ控えめだし、ワインにも合いますよ」
「それは嬉しい心遣いだな」
 グラスをテーブルに置くと、クラウスはソファに腰掛け、ワインボトルを手に取る。トクトクと気持ちの良い音を立て、グラスの中で琥珀色の液体が踊った。ワインボトルを戻し、クラウスはポンポンと自分の隣の席を叩いてミノリを呼ぶ。
「ミノリ。おいで」
 付き合い始めてから一年になるが、甘え下手なミノリは未だに誘われるか許可を取ってからでないと同じソファに座ろうとしない。しかし誘われれば嬉しそうにはにかんでやってくる様も、子犬のようで可愛らしかった。
 クラウスの隣に腰を落ち着けると、ミノリは紅茶ゼリーが載った皿を手に取る。そしてほんのり頬を染めて、愛しい恋人へ悪戯っぽく笑いかけた。
「クラウス。あーんしてあげます」
 クラウスはフッと一笑し、大きく口を開ける。その中へ、ミノリは一匙のゼリーをそろそろと差し入れた。ぱくっと口を閉じて、クラウスは彼女の愛情を受け取る。
「……うん、美味いな。甘くない」
「でしょ? あ、わたしも自分の分を食べたいので、残りはご自分でどうぞ」
 そう言ってミノリは一匙分減ったゼリーを彼に押しつけ、自分は新しいゼリーの皿を引っ張ってきた。幼気な恋人がお菓子に向けるキラキラした瞳を見て、クラウスは思わずククッと抑え気味の笑い声を上げてしまう。
「なっ、何が可笑しいんですか。自分の分も作ってきて、当然でしょう?」
「そうだな。何も可笑しくはない」
「じゃあ、何で笑ったんですか」
 拗ねた口調でミノリが問えば、クラウスはニヤリと笑って彼女の耳元に顔を近付け、答える。
「ミノリが可愛かったからだ」
 途端に真っ赤になったミノリは、ふいっと顔を逸らした。その初々しい反応に、早まるクラウスの鼓動。ハァ、と一つ湿った溜息を漏らし、彼は手にしたゼリー皿をテーブルの上にそっと置くと、彼女の頬に小さくキスする。
「ミノリ。悪いが、先にお前をいただきたくなっちまった」
 唇を離したクラウスがニコニコ顔で宣うと、ミノリはわたわたと自身のデザートを机に戻し、居住まいを正した。そして紅潮した頬で「仕方ないですね」と平静を装って言う。
「分かりましたっ。今日は特別ですよ」
 同意は得た、とばかりに早速ミノリの腰へ手を伸ばしかけたクラウスを、ミノリは「でも」と止める。
「その前に、聞いて欲しいことがあるんです」
 そのいつになく真剣な表情に、クラウスは僅かな胸騒ぎを覚えながらも、茶化すように「何だ、改まって」と問う。しかしミノリは、大真面目な風で言葉を紡ぎ始めた。
「わたし、クラウスとお付き合いを始めてから、迷惑かけっぱなしですよね……」
 少し寂しげに言った彼女に対し、クラウスは慌てて首を横に振る。
「いや、そんなことはないぞ。オレはお前のことを迷惑に思ったことなんて一度もないし、むしろ、もっと頼ってくれてもいいくらいだ」
 が、ミノリも負けじと首を横に振る。
「……分かってるんです。クラウスが、わたしのことを好きでいてくれるって……信じられなくなっちゃう時も、たまにありますけど……それでも、大事に思ってくれてるってことは、分かってるんです」
 だから、と言い、彼女はきゅっと両拳を握った。
「わたしも、クラウスに甘えるばっかりじゃなくて、何かしてあげたいなって思ったんです。これからも……恋人として、クラウスの隣にいたい、から……」
 そのいじらしい口述に溢れる愛しさを抑えきれず、クラウスは思わず彼女をきつく抱き締めた。ミノリは抵抗することなく身を任せ、彼の胸で更に続ける。
「でね、何をしてあげられるかなって、考えたんですよ。でも、あんまり思い付かなくて……」
 軽く身じろぎ、回された腕をそっと解いた。
「だから、今はこんなことくらいしか、できませんけど」
 ミノリはソファの上で膝立ちすると、クラウスの肩に優しく手を掛け、彼の耳へ口を寄せる。そしてミルクチョコレートのように甘い声で、そっと囁いた。
「……クラウス、愛してます。いつも、ありがとう」
 
 

三十二話 一緒にいたい

 
 
 ミノリは一口紅茶を啜ると、言いにくそうに切り出した。
「あのね、クラウス。ちょっと、相談があるんですけど……」
 なかなか人を頼りたがらないミノリが、まさか自分に相談事とは。クラウスは、珍しいこともあるものだと思いつつも、嬉しさに胸を躍らせた。
「何だ? 言ってみろ」
 何でもない風を装って訊ねたが、その口元は僅かに綻んでしまっている。そんな彼の表情変化を見逃さなかったミノリは少し嫌な顔をしたが、はぁ、と一つ小さな溜息を吐くだけにとどめた。
「明日、ウチの牧場に、リコリスが遊びにくることになったんですよ」
「そうか。そりゃ良かったな」
「はい。でも、ちょっと気になることがあって……」
 クラウスが「どうした?」と続きを促すと、ミノリは途端に真っ赤になってもじもじし始めた。
「女友達が家に遊びにくるときって、どうすればいいんでしょう?」
 答えに詰まるクラウス。―珍しく自分を頼ってきたかと思えば、何故、そんな思い切り人選を誤った相談なんだ。
考え込むフリをして少しの間を置いた後、彼は即答出来ない自分と、無茶な質問をしてきたミノリを内心恨めしく思いながら、真面目顔を取り繕って答える。
「そういう内容なら、イリスにでも相談したほうがいいと思うが……」
 しかしミノリは潤んだ瞳を心持ち伏せて、ふるふると首を横に振った。
「無茶な質問だっていうのは、分かってます。でも、こんな相談……クラウス以外の人に、できるわけないでしょう……?」
 そして、縋るような上目遣いで恋人を見上げる。
「この歳まで女友達が一人もいなかったなんて、恥ずかしくて誰にも言えないですよ……」
 クラウスの心臓が、ドキンと跳ねた。こういう台詞や仕草を無意識で繰り出してくるのだから、この子は恐ろしい。クラウスは「参った」とばかりに深く息を吐き、ミノリの隣の席へ移動した。
「オレはこんなおじさんだから、若い女の子同士の友達付き合いなんてよく分からないが……一緒に考えてみるか」
「……ごめんなさい。よろしく、お願いします……」
 しかし、およそ二時間を費やして出された結論は「とりあえず、お茶とお茶菓子を用意しておこう」のみだった。
 
 
 そして、翌日。
 コンコンと玄関扉がノックされた音に、自宅でお菓子を調理していたミノリは、ビクッと振り返った。
「ミノリー。いるか?」
「は、はいっ!」
 聞き覚えのある女性の声に、ミノリは慌てて扉を開け、顔を出す。
「こっ、こんにちは……リコリス」
 その声は、心なしか上ずっていた。気付いたリコリスにも、緊張が伝染する。
「こっ、こんにちは」
 二人は玄関先で向かい合ったまま、しばし硬直した。が、やがてリコリスが、ハッとした様子で口を開いた。
「……ああ、そうだった。今日は、例の『気になる植物』を見せて貰いに来たんだったな」
「そ、そうでしたね! あっちですよっ!」
 
 
 この日、クラウスは運動不足解消のため、山の中腹を散歩していた。静かに鳥の声に耳を傾けていると、ふと、昨夜のミノリとのやり取りが思い出される。
(そういえば、今頃はリコリスが来ている頃か)
 上手くやれているだろうかと気が気でなくなったクラウスは、覗き見するようで後ろめたさを感じながらも、ミノリの牧場の入り口まで足を伸ばしてみることにした。
 遠くから様子が窺えれば、程度に思っていたが、彼の予想に反し、二人は門の近辺にしゃがみ込んでいた。生け垣が邪魔をして彼女たちの姿が見えなかったため、声が聞こえるまですぐ傍にいることに気付かなかったクラウスは、踵を返すタイミングを失う。否応無しに、二人の楽しげな会話が耳に飛び込んできた。
「ほらっ、こっちもですよ。ユキノシタに似てますけど、ちょっと葉っぱの形が違いません?」
「おおっ、本当だ。茎の強度も強いな。持ち帰って、図鑑で確認してみよう」
「あとね、この根っこが気になるんです。結構根を張ってるので、生け垣を枯らしちゃわないか心配で……」
「そうだな。これは、何か対策を考えたほうがいいかもしれないぞ」
 その弾んだ会話に、クラウスの胸がチクリと痛む。
(随分と楽しそうだな)
 それは羨望、あるいは嫉妬に似た感情だった。同時に、先月の飲み会で出会ったミノリの友人たちの面々が思い出される。クラウスといる時のミノリは幸せそうだが、友人と農畜産業関連の話をしている時の彼女は、それ以上に楽しそうに見えた。
 自分なんかといるよりも、彼らの内の一人とでも付き合ったほうが、ミノリは幸せになれるのではないか―クラウスが今更になってそう思ったのは、先日の彼女の発言もあってのことだ。
(愛してる、か……)
 一年前まで恋も知らなかった無垢な女の子が、自分の腕の中で、まるで蛹が蝶へ変化するように、あっという間に大人の女性に成長していった。最初こそ「オレが守ってやりたい」という親心や使命感のような気持ちを抱いていたが、果たして今の彼女に「守ってやる人間」が必要なのだろうか。
ミノリは「選べる立場」にあるのだ。そろそろ、彼女を解放してやれ―そんな声が、頭の片隅で囁かれる。
「ここの葉っぱなんて、色が変わり始めて……って、あれ、クラウス?」
 ぼんやりしていたクラウスは、突然名前を出されてギクッとした。どうやら、生け垣越しに立ち姿が見えてしまったようだ。パタパタと足音が聞こえた後、門柱の陰からミノリがひょこりと顔を出した。
「あっ、やっぱりクラウスでした!」
 ぱあっと顔を輝かせるミノリ。その心底嬉しそうな表情に、クラウスの胸は締め付けられた。しかし普段通り、外面は穏やかに取り繕う。
「すまない。邪魔しに来たわけじゃないんだが……」
 実際そうなっているだろう、とクラウスは己を責めた。
 ミノリの後ろから、リコリスも頭を覗かせる。彼女とクラウスは、今日が初対面だ。クラウスは会釈すると、軽く自己紹介する。
「リコリス、だったか。ミノリから話は聞いてるよ。オレは町のほうで調香師をやっている、クラウスだ。よろしくな」
「……お、お噂は、かねがね。私は植物の研究をしている、リコリスという者だ。よろしく頼む」
 少し顔を赤らめ、僅かにどもりながら述べたその様子を、クラウスは「ミノリに似ているな」と思った。決定的に違うのは、彼にとってはミノリのほうが三割増し可愛い、ということ。
 リコリスはミノリとクラウスを交互に見遣ると、何かを察した様子で辿々しく述べる。
「ミノリ。すまないが、私はそろそろお暇しようと思う。この植物について、すぐにでも調べたいからな。また来てもいいか?」
 その言葉にミノリは、こくこくと頷いた。
「はいっ、もちろんです! 結果が分かったら、教えてくださいね。わたしも、根っこの対策について考えてみます」
「それじゃ、また」
 クラウスは、ありがたいようなそうでないような複雑な気持ちで、リコリスの背中を見送った。
 
 
「クラウス、どうかしました?」
 リコリスが去っていった道を放心状態で眺めていたクラウスの顔を、ミノリが心配そうに覗き込んだ。
「……何か、ありましたか?」
 眉間に皺が寄っていたことを自覚し、クラウスは慌てて表情を弛め、頭を振る。
「いや、何でもないんだ。……何でもない」
 クラウスは思わずミノリから目を背け、口元を隠してしまった。暫時、気まずい空気が流れる。その沈黙を破ろうと、ミノリは彼の袖をきゅっと握り、静かに口を開いた。
「……ホントに何でもないなら、いいんですけど。わたしで力になれることがあれば、何でも言ってくださいね」
 少し寂しそうに、彼女はふわりと微笑む。
 込み上げる愛しさと、苦しさが抑えきれない。クラウスは、ミノリをきつく抱き締めた。
「……ミノリ」
「はい」
「ミノリは、本当に、オレなんかが恋人でいいのか?」
 相手の答えには察しが付いていたが、クラウスはどうしようもない不安感に苛まれ、言葉が口を衝いて出てしまった。少しの間を置いた後、ミノリは優しくクラウスを抱き締め返す。
「もちろんですよ。クラウスじゃなきゃ、イヤです」
 ミノリは僅かに身じろぎし、彼の顔を真っ直ぐに見上げると、フフッと悪戯っぽく笑った。
「それって、わたしの気持ちを疑ってます?」
 どこかで聞いた台詞だ―そう思いながら、クラウスは苦笑する。
「ああ、そうだ。こんなおじさんにだって、そう思う時もある」
 冗談めかして言ったが、弱みを隠すための小賢しい演技だった。ミノリはふっと視線を落とすと、今一度、真剣な表情で彼を見上げる。
「……やっぱり、言葉だけでも、こうやってくっついているだけでも、足りないですよね。……あのね、クラウス」
 そして、きゅっと彼に抱きついた。
「クラウスがいなかったら、わたし、きっと働き過ぎで倒れちゃいます。危ない目に遭っても、誰にも助けを求められないし……一人で泣いちゃいますよ」
 言い切る直前は、僅かに声が揺れていた。彼女のいじらしい主張に、クラウスの心がじわりと暖かくなる。しかし、まだ足りない。
「オレでなくとも、別に構わないだろう」
 その擦れた声もまた、微かに震えていた。ミノリはクラウスに体を押しつけたまま、ふるふる首を横に振ると、涙声を絞り出す。
「何でクラウスなのかなんて、分かりません。でも、クラウスじゃなくちゃイヤなんです。わたしがこんな気持ちになるのは、クラウスだけなんです」
「……」
「信じてもらえないなら、それでもいいです。それでもいいですから……一緒に、いてください」
 その最後の一言が、全てだった。クラウスは思わず固唾を呑む。―そうだ、ミノリは最初から、自分と一緒にいることしか求めていなかったのだった。
 恋や愛を知る以前からただ一つ彼女の中で変わらない、強く純粋な願望。それでいいんだ、とクラウスの心が軽くなった。
「……そうだな。オレも、お前と一緒にいたい」
 人の気持ちも、周囲の状況も、否応無く変わりゆくものだ。そのことは、この歳に至るまでの経験で身に染みて解っていた。それでも信じられるものがあるとすれば、「お互いが望んで一緒にいる」というこの事実。今ここにいるのは、他の誰でもなく、ミノリと自分の二人なのだ。
 いずれ何らかの形で必ず別れは訪れるのだろう。ならばミノリが望む限り、また自分が望む限り、一緒にこうしていたい。
 クラウスは彼女の存在を再確認するように、ミノリを抱く手にそっと力を込めた。
 
 

三十三話 カウントダウン・二

 
 
 貿易ステーションでは、つい今し方カウントダウンが終わり、それぞれが新年の到来を喜び合っていた。
 レーガも例に漏れず、モーリスの一家と新年の抱負や他愛もない去年の思い出について語り合っていたが、ふと広場の入り口付近へ顔を向ける。そこでは、ミノリとクラウスが楽しげに談笑していた。
 今でこそすっかり衆知の仲となっているカップルだが、二人が付き合い始めた当時、広まったその噂に町人の多くが驚かされたものだ。年の差もさることながら、あの人見知りの女牧場主がいつの間に、と。
(ま、オレは、あの二人は遅かれ早かれくっつくと思ってたけどな)
 レーガは頬を緩め、ふう、と小さく溜息を吐いた。そして、一昨年の夏の出来事を思い出す。
 
 
 客足の少ない時間帯を狙ってレストランを訪れるミノリとの会話は、レーガのほぼ毎日の習慣になっていた。ミノリはその幼げな見た目とは裏腹に博識で、話をしていて面白い。一日中忙しく働くレーガにとって、良い息抜き相手だった。
 昨日、会話が弾んだついでに「敬称を付けないで欲しい」と申し出たところ、快く受け入れられた。そのことで彼は、彼女との仲が深まったものと有頂天になっていた。しかし。
「ミノリは一人でこんな辺鄙な町に出てきて、親御さん、心配してないか?」
 そんな他愛のない質問をした瞬間、ミノリの表情がさっと消えた。レーガはすぐにまずいことを訊いてしまったと気付き、慌てて二の句を継ごうとする。ところが彼女は存外落ち着いた様子で、少しの間を置いた後、心持ち寂しげにふわりと微笑んだ。
「わたしの両親は、もう他界してるんですよ。だから、問題ないです」
 レーガは、「すっかり消化している」といった風のミノリにほっとし、すまなそうに苦笑する。
「そうか。……悪かったな、変なこと聞いて」
「いえ、大丈夫ですよ。もうだいぶ前の話ですし」
 大したことでも無さげにそう答えた彼女に対し、この子は強いな、とレーガは尊敬と羨望の念を抱いた。―自分など、両親の離婚ですら未だに受け止めきれていないというのに。
 だが、彼は見誤っていた。
「ああ、ミノリも来ていたのか」
 不意に、レストランの入り口から低い声が飛んでくる。ミノリは、ぱっとそちらへ顔を向けた。声の主はクラウスだった。
 レーガは、ミノリの瞳がクラウスの姿を捉えたほんの一瞬だけ、彼女の表情が安心して泣き出しそうなそれに変わったのを偶然目にしてしまう。そして、察した。
(全然、大丈夫じゃないだろ……)
 同時に、そのことに気付けなかった自分と、クラウスの存在無しには気付かせなかったミノリに、僅かな落胆を感じた。これが彼女との間の壁か、と。
本気で恋をしていたならば、無謀にもその壁を越えようと思ったのかもしれない。しかし今のレーガには、黒く重く聳え立つそれを乗り越え、彼女の本心と向き合う自信がなかった。彼自身がそうであるように、下手に触れれば、きっと壊してしまうから。
 おそらくミノリは、誰に対してもこんな風に弱みを隠しているのだろう。それを受け止めてやれるのは、自分のような自らのことで精一杯な若造ではなく、もっと懐の広い人間でなければ無理なのかもしれない―レーガはそう思い、二人に気付かれぬよう、そっと苦笑した。
 
 
 新年の挨拶回りを終え、家路に就き始める人々。
 ギルドへと続く階段を上ろうとしていたミノリの背中を、レーガがぽんと叩いた。
「あけましておめでとう、ミノリ」
「レーガ! あけましておめでとうございます」
 ミノリは微笑み、ぺこりと腰を折る。隣に立つクラウスも振り返り、彼に笑顔を向けた。
「新年おめでとう、レーガ。今年もよろしくな」
「ああ。よろしく、クラウスさん」
 二人は恋人同士だというのに、人目を憚っているのか手も繋いでいない。にもかかわらず、誰もその間に入れない、独特の雰囲気を醸し出している。本当にお似合いのカップルだ、とレーガは呆れ半分、羨ましさ半分で笑った。
(オレにもいつか、そんな相手が出来るといいな……)
 
 

三十四話 今までとこれから

 
 
(……何だろう。とってもいい気持ち……)
 全身を包み込む暖かな安心感に、ミノリはうっすらと瞼を上げた。そこは、中等学校の保健室のベッドだった。
 ゆっくりと体を起こせば、ベッドサイドの窓から柔らかな春の日差しと薄桃色の風が吹き込んでくる。ミノリはぼんやりした頭で、窓枠に切り取られた青空を眺めていた。
 不意に、間仕切りの白いカーテンの向こうで電話のベルが鳴る。二、三度鳴った後、受話器が取られたらしく、保健の先生の話し声が聞こえてきた。
「……ええ、……ええ。分かりました。すぐに向かわせます」
 その深刻そうな声に、ミノリは嫌な感じを受ける。もぞもぞとベッドから這い出ると、スリッパをはいて立ち上がった。同時に、カーテンが開かれる。目の前に立つ先生の顔は、靄がかかってよく分からない。
「……ミノリさん」
 その悲壮感漂う声色に、ミノリの心臓がドキンと跳ねた。
(……嫌)
「大事なお話があるの。落ち着いて聞いてね」
(その続きは、言わないで)
「今し方、あなたのご両親が―」
(お父さん……、お母さん……)
 
「……嫌あぁっ!!」
 ミノリは叫んで、跳ね起きた。早鐘を打つ心臓。はぁ、はぁ、と荒らぐ息。
 全身にじっとりと脂汗をかきながらも、どうにか心を落ち着かせて周りを見回せば、そこはクラウスの部屋だった。ミノリは、ほう、と溜息を吐き―慌てて、隣で眠る男性を見下ろす。
(……良かった。起こしてませんね……)
 彼女は再び掛け布団の下へもぞもぞ潜り込むと、クラウスに背を向け、きゅっとシーツを掴んで大きく深呼吸した。
 
(何だ、今のは……)
 恋人のただならぬ様子を狸寝入りで窺っていたクラウスは、彼女が寝息を立て始めたことを確認すると、静かに目を開けた。ドキドキと鼓動が脈打つ。
そっとミノリの肩に触れてみれば、じっとりと汗ばんでいた。
(確か、「お父さん、お母さん」と言っていたか)
 怖い夢でも見たのだろうか。それにしても、寝言の内容が気に掛かる。クラウスはふと、ミノリと初めて出会った日のことを思い出した。
(……そういえば、いつからか「安眠の香」を作ってくれと言わなくなったな)
 不眠。ホームシック。お父さん、お母さん。その四つの単語が、クラウスの頭上をぐるぐると駆けめぐる。何か、恐ろしく嫌な予感がした。
 
 
 翌朝。二人はソファで眠そうな顔を突き合わせ、静かに紅茶を啜っていた。お互い寝起きの気分は最悪で、積極的に会話をする気になれなかった。しかし、ずっと黙ったままでいるわけにもいかない、とクラウスが意を決したように口を開く。
「……ミノリ」
 名前を呼ばれた彼女はビクンと肩を震わせて、少し困ったような笑顔でおずおずとクラウスを見上げた。
「……何でしょう?」
 呼んではみたものの、二の句が継げない。暫時考えた末、クラウスは彼女を傷つけないよう細心の注意を払って探りを入れてみることにした。
「そういえば、オレの両親について話したことはなかったな」
 ミノリは、目を丸くしてクラウスを見る。彼女の動揺は明らかだ。分かりやすくて助かる、とクラウスは思った。
「どうして、突然そんな話を……?」
「いや、何……大事なことだからな」
 クラウスは、ふう、と一つ溜息を吐き、静かに語り出す。
「……オレの両親は、十年前に事故で他界しているんだ」
 ミノリの顔が、さあっと青くなった。それでもどうにか冷静さは保っているようで、そっと瞳を伏せる。
「それは……悲しいですね」
「ああ。だがオレが二十六の時の事だし、今ではもう昔の話だ」
 それは彼の本心だった。化粧品製造の資格を取り、調香師として独立してやっと親孝行が出来ると思っていた矢先の事故に、ショックを受けたことは否めない。しかし既にそれなりの年齢であったし、両親の死をトラウマになるほど引きずることはなかった。
 問題は、目の前に座るこの女の子だ。
「……そうですか」
 青白い顔でその話を聴いていたミノリは平静を装って、絞り出すように声を発した。
「わたしも……」
 言いかけて、ふるふると首を横に振る。そして、きゅっとスカートを握りしめた。クラウスは静かに席を立つと、ミノリの隣に腰を降ろし、華奢な肩を抱く。彼女は小刻みに震えていた。
「……寝言、聞いてたんですか」
 非難とも落胆ともつかない声音でミノリが訊ねる。クラウスは小さく「ああ」とだけ答えた。
 彼女は一旦きゅっと唇を引き結んでから、僅かに口を開いて深く息を吐く。そして、ぽつぽつと言葉を紡ぎ出した。
「……わたしの両親も……事故で、亡くなりました。……十年前」
 苦しそうに、自らの胸をぎゅっと掴むミノリ。背中へ回した腕に伝わる微かな振動から、彼女の辛さの一端が伝わり、クラウスも沈痛な面持ちになる。
「悪かった。言い難い事なら、無理しなくていい」
「いえ。……いつかは話さないと、って思ってましたし……」
 ミノリは、ふうー、と一つ大きく息を吐いた。少しの時間を置いて、震えが引く。
「十年前……二つ隣の町で、路線バスの事故がありましたよね。……それで……」
 その話を聞き、クラウスは目を見開いた。
「『あの』事故か?」
「……はい」
 こくんと頷いたミノリに対し、彼は真顔で「そうか」と相槌を打つと、考え込むように顔を伏せる。そして、運命めいたものを感じながら低く言った。
「……オレの両親も同じだ」
ミノリは驚いた様子で「えっ」と声をこぼして顔を上げる。
「あの」事故とは、十年前、樫の木タウンからそれほど遠くない場所で起きた出来事を指していた。二つの町を結ぶ路線バスが山道で横転、炎上し、運転手を含む乗客全員が死傷するという大参事だった。そこに、運悪くミノリとクラウスの両親も乗り合わせていたのだった。
「こんな偶然があるとはな……。皮肉な話だ」
誰にともなく呟いて小さな溜息を吐き、「それにしても」と続けるクラウス。
「事故が起きた当時、お前はまだ中学生だったんじゃないか?苦労しただろう」
「……そうですね。でも、その後すぐ、寮のある学校に入れましたし……何とかなりました」
 彼女は苦笑しつつ答えたが、それが精一杯の作り笑いであることは明白だった。とても笑顔を返す気になれないクラウスは、未だ真面目な表情のまま、恋人を見つめて考える。
(だから、ミノリはこんなにも……)
 今までに感じてきた諸々の疑問に合点がいった。多感な時期に最も頼れる相手を失い、一人でいろいろな苦労を経験してきたのだろう。生活するのに手一杯で、交友や恋愛どころではなかったのかもしれない。その分、独立するための勉学に励んだということか。
「……そうか。頑張ったんだな」
 安定感のある大きな手に優しく頭を撫でられ、ミノリは堪え切れずに両目からぽろぽろと涙を流し始める。
「……ごめんなさい」
「いいんだ。辛かったら、好きなだけ泣くといい」
 そう言ってクラウスは、苦しげな表情で恋人を強く抱き締めた。ミノリは、堰を切ったように声を上げて泣き出す。
「……オレがいる。今のお前は、一人じゃない」
 ミノリの耳元で、クラウスがそっと囁いた。しゃくり上げながら、こくん、と力強く頷くミノリ。二人はお互いの体温を支えに、胸を押し潰されそうな苦しさに耐えていた。
 
 

三十五話 この秘密は、墓場まで

 
 
 泣き疲れ、膝の上ですうすうと寝息を立てるミノリの髪を優しく梳きながら、クラウスは苦々しい気持ちで自身の過去を振り返っていた。それは、両親を亡くした彼女と同じくらいの年齢の頃のことだった。
 
 
 ミノリと違って「全く」ではなかったが、幼少の時分より友達は少なかった。原因の一端は、身長の高さにある。特に何をしたわけでもないのに遠巻きにされることが多かったクラウスは、楽しそうに遊ぶ同級生たちを横目に、一人で本を読んでいることが多かった。
 羨望はいつしか妬みへ、そして怒りに変わり、思春期を迎える頃には、すっかり擦れた子供になっていた。親元にいる間は大人しく優秀な生徒を演じていたものの、中等学校を卒業するとすぐに樫の木タウンを離れ、町外の学校へ進学した。彼があえて治安の悪いところを選んだのは、特にやりたいこともなかったし、中等学校の同級生と今後一切顔を合わせたくなかったためだ。
 そうして安易に選んだ進学先でも、長身と目つきの悪さにより、よくない連中に目を付けられてしまう。毎日「ガリ勉」などと罵られ続けていた彼の中で、ある日、プツンと何かが切れた。
 気付けば、相手をボコボコに殴り倒していた。
 ゾクゾクするような背徳感と、爽快感。余計な事を考えず暴力に訴えることの楽しさを知ってしまった彼は、「悪い奴」を探しては、相手が「もうしません」と音を上げるまで喧嘩を続けた。悪事の現場へふらりと現れては、無言で、微かな笑みさえ浮かべて相手を殴り続けるその様は、ある種の人々に畏怖と尊敬の念を抱かせた。
 そして、いつの間にか彼の周囲には、彼の行動に賛同する人々が集まっていた。「アニキ」と呼ばれて担ぎ上げられるも、「勝手にしろ」と一言吐き捨てただけで、彼は変わらず誰とも連もうとはしなかった。唯一の例外がマリアンであったが、学生時代においては、どちらかといえば彼に付きまとわれる格好だった。
 名声に惹かれて寄ってきた女を、気まぐれに抱いたりもした。しかし、それはただ欲望を吐き出すだけの虚しい行為で、寂しさを紛らわすことはできなかった。
 日雇い労働で日銭を稼ぎつつ、そんな生活を六年も続けた。転機が訪れたのは二十一の春のことだが、それはまた、別の話として。
 
 
 思い返す度に、恥ずかしくなる。ミノリからは辛い過去を聞き出しておいて自分は詳細を語らないなど、卑怯なことだと分かってはいた。しかし彼女の話を聴いた後だからこそ、余計に「言えない」と思う。
 もしかしたら、いつかの飲みの席でのように、過去の一端が彼女に知れてしまうことがあるかもしれない。しかし、その時はその時だ。
(この秘密は、墓場まで持って行くしかないな……)
 クラウスは、ふう、と小さく溜息を吐いた。
 
 

三十六話 青い羽根

 
 
 西日が差す山の中腹は、秋でもないのに黄金色に染まっていた。凜と背を伸ばして少し前を歩くミノリの後ろ姿が、眩しい。
泉の前まで来たところで、クラウスはコートの内ポケットをそっと抑える。昨年の冬、ミノリが改めて「一緒にいて欲しい」と吐露してから、彼はずっと考え続けていた。―自分も、ミノリと一緒にいたい。可能な限り長く、と。
(渡すなら、今しかない)
 クラウスは、すう、と息を吸い込む。
「……ミノリ」
 名前を呼べば、愛しい彼女が僅かに赤くなった目で振り返った。そして、ふわりと笑う。
「何ですか?」
 その心なしかスッキリした表情に、クラウスはほっとした。同時に、胸の鼓動が早まる。
「その……大事な話がある」
 ミノリはくるりと半回転してクラウスに向き直ると、小首を傾げ、フフッと笑った。
「まだ、何か話すことがあるんですか?」
 そうだ。今日は、十分過ぎるほど、深く重い話をした。だが、まだ終わっていない。
 クラウスは、静かに頷く。
「さっき、今のお前にはオレがいる、と言ったな」
「……はい」
 先刻の会話を思い出したミノリは、はたと動きを止め、頬を赤らめた。泣きはらした目が痛むのか、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせてクラウスを見上げる。しかしその表情は、真剣だった。
 クラウスは真っ白になりそうな頭をようやっと制御し、語彙の引き出しを掻き漁って、次の言葉を探す。
「……正直なところ、オレはお前と付き合い始めてから、しばらくは保護者のような気持ちでいた」
 その言に、ミノリは驚いたように目を見開くと、ツンとそっぽを向いた。
「ふーん、そんなこと思ってたんですねっ」
 しかし、すぐに視線を落とし、拗ねたように言う。
「……分かってましたけど」
 その所作が面白く、また可愛らしくて、クラウスは思わずフッと失笑してしまった。
「なにが可笑しいんですか」
 何度もなされてきたやり取りに、クラウスの緊張が解れる。するりと次の言葉が口を衝いて出た。
「単に、独占したかったんだ、初めは。……いや、『今も』か。だが今は、心からミノリを愛してる。一人の、女性として」
 途端に、ミノリの顔が紅潮した。
「なっ、なにを突然……」
 二の句を継がせず、クラウスは胸元から青い羽根を取り出すと、そっと彼女に差し出した。
「お前の言葉を借りるなら……これからもずっと、『一緒にいて欲しい』」
 硬直するミノリ。
「オレと……結婚してくれ」
 ミノリは元々赤くなっていた顔を更に真っ赤に染め、ぱくぱくと口を開く。が、音は出てこない。
 俯いて唇を引き結び、少し考えた後、ようやくボソボソと声を発した。
「……ホントに、わたしなんかでいいんでしょうか……」
 クラウスは、思わず苦笑する。この段になって、その台詞か。ミノリらしいと言えばミノリらしいが。
「さっきも言っただろ。独占したいんだ、ミノリを。お前を一番近くで支える相手は、オレでありたい」
「……」
 返答はない。クラウスは、少々焦る。
「……ミノリ」
 クラウスが名前を呼ぶと、ミノリは縋るような目で彼を見上げた。
「……正直に言うと、怖いです。……いまさら、一人じゃなくなるのは」
 その声は、僅かに震えている。
「でもね、クラウス。わたしも、クラウスと……ずっと、一緒にいたいです」
 ミノリは顔を上げると泣きそうに微笑み、人差し指と中指で、そろそろと青い羽根に触れた。
「わたしも、クラウスのこと、愛してます。……受け取っても、いいですか?」
 クラウスの心臓が歓喜に震え、早鐘を打つ。
「ああ。オレを選んだことを後悔はさせない」
 一つ固唾を飲むと、クラウスは青い羽根をミノリの手の中に納め、その小さな両手を自身の掌で優しく包み込んだ。そして彼女の温かな体を、ぎゅっと抱き締める。
「……愛している、ミノリ」
 梢が、二人を祝福するようにさわさわと揺れた。
 
 

三十七話 ワーカーホリック

 
 
 ミノリと婚約して以降、クラウスには新たな心配の種が生じていた。
 目の前のソファでは、恋人が読みかけの本を膝の上に置いたまま、すうすうと気持ちよさそうに寝息を立てている。つい三分前―クラウスがトイレへ立つ前までは起きていたというのに、だ。
(これは、相当疲れているな……)
 クラウスは隣の部屋からブランケットを持ち出し、そっと彼女に掛けてやる。
 ミノリがここまで疲弊している原因には、察しがついていた。ベロニカから聞いた話によると、ここ数日、ミノリは急激に出荷額を伸ばしているらしい。その理由に思いを巡らせ、クラウスは恐縮する。
(結婚式の費用を稼ぐため、か)
 ベロニカから結婚式についての詳細を聞き、クラウスは式の費用を全額負担するとミノリに申し出たが、律儀な彼女はそれを断固辞退した。結局、プランはミノリが決めた上で、費用は折半する、ということになったのだった。
 クラウスは寝入っている彼女の隣へ静かに腰を降ろし、柔らかい亜麻色の髪をさらりと梳く。
(無理はして欲しくない……が、するな、とも言い難い……)
 切なげな表情で一つ深い溜息を吐くと、ミノリの頬に控えめなキスを落とした。
 
 
 翌日も、その翌日も、ミノリはクラウスの家を訪れては、彼が少し目を離した隙に居眠りを始めてしまった。
 そして、さらに翌日。この日もクラウスは、眠っている彼女を見下ろす。最初こそ、疲れているのだから仕方がない、寝かせておいてやろうと思っていたクラウスだが、手の届く距離にいるにもかかわらず触れ合えない時間が続いたため、苛立ちが募っていた。
 今日こそは物申そうと、恋人の傍らに座り、軽く肩を揺さぶる。
「ミノリ。起きなさい」
 元々眠りの浅い彼女は、すぐに瞼を開けた。
「……ん……はい……」
 とろんとした目を擦りながら、顔を左上に向ける。すると、心配そうに自分を見つめる金色の瞳と視線が合った。まだ寝ぼけ頭のミノリは、幸せそうにふにゃりと微笑む。
「……クラウス……さっき、夢見てたんですよ。収穫したトマトで、ミネストローネを作って……クラウスと、おいしいねって言いながら食べてました」
 その不意打ちに、クラウスは堪らずミノリを抱き寄せ、彼女の緩んだ唇を塞ぐ。どうしようもなく愛しくて今すぐ彼女を押し倒したい衝動に駆られたが、すんでのところで引き下がった。
 コホン、と一つ咳払いし、クラウスは気まずそうに切り出す。その頬は、理性を失いかけた恥ずかしさから、ほんのり赤くなっていた。
「……疲れているところを起こして悪かったな」
 ミノリもつられて赤面し、ふるふると首を横に振る。
「わたしこそ、いつの間にか寝ちゃってて……ごめんなさい」
 小声で謝ると、彼女はふわりとクラウスに抱きついた。跳ね回る鼓動を持て余しつつ、クラウスは彼女の頭をそっと撫でる。
「ミノリ、最近働き過ぎじゃないか?」
「……」
 ミノリは答えなかった。自覚はあるのか、とクラウスは小さく溜息を吐く。
「毎日そんな調子で、もしお前が体を壊すようなことがあったらと、オレは気が気じゃないんだが……」
 ミノリはクラウスから体を離し、申し訳なさげに俯いた。
「……ごめんなさい」
 殊勝な態度が返ってきたことにほっとしつつ、さあ、ここからどう説得したものか、とクラウスは考える。
 ミノリにとって牧場仕事は生き甲斐であり、人生そのものでもある。だから、単に「仕事量を減らせ」と言ってしまうのは彼女の身を削ぐことに等しく、気が引けた。とは言え、現状のままで良いとも思えない。
 クラウスはこれまでのミノリの言動を記憶の限り思い返し、最適解を導く。
「ミノリはいつも『品質第一主義』だと言っているよな?」
「はい」
 思いがけない話題を振られ、ミノリは不思議そうな顔でクラウスを見つめる。キラリと光る彼女の瞳に、これは食いついたな、とクラウスは心中でほくそ笑んだ。
「あまり多くの作物を一度に育てていると、一株当たりの品質が落ちるんじゃないのか?」
「……!」
 痛いところを突かれたミノリは、悔しそうに歯噛みする。
「クラウスの言う通りです。肥料の量にも限界があるし……。でも、今はたくさん出荷したいから、妥協するしかなくて……」
「いいのか?『妥協』して」
 クラウスは、ニヤリと笑った。ミノリはむっとして、彼に詰め寄る。
「じゃ……じゃあ、育てる作物の種類を減らして、品質を上げる株を限定します! 今より、稼げなくはなりますけど……」
 そう言い切ったが、後半に元気がなかった。まだ少し迷いがあるようだ。
「だが、信用が第一だろう。長い目で見たら、そのやり方のほうがいいと思うぞ?」
 クラウスは、もう一押し、とそれらしいことを言ってのけた。実際のところ、牧場仕事のことはよく分かっていないのだが。
 ミノリは自身の信条と目先の利益を天秤にかけ、難しい顔で「うー……」と唸る。そんな愛しい彼女の頭をくしゃりと撫で、クラウスはとどめとばかりに優しく囁いた。
「オレは、ミノリの作る『最高に美味い野菜』が食べたいな」
 その甘い言葉に、ミノリの心臓がトクンと跳ねる。頬を一瞬で真っ赤に染め、小さく身じろぎした。
「そ……そうですねっ。出荷量よりも、品質の方を優先するべきですよね。作物祭もありますし」
 ちょろいな、とクラウスは満足げに微笑む。しかしミノリはその笑顔に、ふと違和感を覚えた。そしてようやく、自分が掌の上で転がされていたことに気付く。
「……クラウス」
 名前を呼ばれ、クラウスは何の気無しに「ん?」と問い返す。視線を斜め下に移すと、ミノリが口を尖らせて自分を見上げていた。
(バレたか)
 ふいと目を反らすクラウス。小言を覚悟したが、対する彼女は意外にも素直だった。
「分かりました。お仕事の時間を減らします」
 その代わり、とミノリは上目遣いで悪戯っぽくフフッと微笑む。
「クラウスが他の野菜を食べられなくなっちゃうくらい、おいしいのを作りますからねっ」
 彼は、思わずごくりと生唾を飲んだ。
(……これは無理だ)
 そして今度こそ、ミノリをソファに押し倒した。
 
 

三十八話 わたしから

 
 
 春の二十四日、クラウスの誕生日。ミノリの手料理を食べ終えた二人は並んでソファに腰掛け、ワインを呑みながらくつろいでいた。
 クラウスは脇に預けられた恋人の頭を撫でつつ、よくここまで漕ぎ着けたものだ、と感慨に浸る。最近のミノリは、クラウスの方から近くに呼んでやれば自ら体を密着させてくるようになっていた。付き合い始めの頃からは考えられないことだ。
 思い返せばつくづく不思議なものだ、と彼は思う。決して遊びのつもりではなかったが、告白した当初は、まさかこの女の子にこれほど嵌り、自らプロポーズまでするとは考えてもみなかった。別れたいとは微塵も思わなかったものの、ミノリが精神的に成長すればいずれ別れを切り出される時が訪れ、その頃には己の独占欲も薄れているのではないか、などと考えていたくらいだ。
 しかしミノリは想像以上に奥が深く、知れば知るほど魅力的な女性で、どんどん手放せなくなっていった。構いたくなる愛らしさと、守りたいと思わせる脆さ、そして尊敬に値する強さを持ち合わせた、希有な女の子。そんな彼女が、自分のような十も年の離れた男を選んでくれたのは、奇跡と言っても過言ではない。
 クラウスはミノリの顔を正面から覗き込むと、そっと唇を重ねた。顔を離せば、彼女はほんのり頬を染めて恥ずかしそうに視線を逸らす。その様子が可愛らしくて、愛おしくて、クラウスはグラスをテーブルに置き、優しく抱き締めた。
「……あの、クラウス」
 ふと、ミノリが口を開く。
「今日は、クラウスのお誕生日ですよね」
 少し恥じらいながら、彼女は確認するように言った。今更こんなことを言うのはおかしいと本人も分かっていたが、切り出し方に困ってこのような発言になってしまった。そんな彼女の心中を察し、クラウスは「そうだな」と何の気なさげに相槌を打つ。
 ミノリは真っ赤に頬を染め、もじもじしながら言葉を続ける。
「……だから、あの……ええと……」
 何やら色っぽい雰囲気になったのを感じ、クラウスは僅かな期待を抱きつつ次の発言を待った。ミノリは目を伏せたまま、消え入りそうな声で言葉を紡ぐ。
「……今日は、わたしが……その……して、あげたいな、って……」
 クラウスの心臓が、一気に心拍数を上げる。計らずもその場で彼女を掻き抱きたくなったが、どうにか頭を落ち着かせた。こんなに美味しい状況を本能に任せてしまうのは勿体ない、と。クラウスは下心を悟られぬよう、穏やかに微笑んで見せる。
「そうか。それは嬉しいな」
 それでも、逸る気持ちは抑えられない。
「それじゃ、早速ベッドへ行こうか」
 クラウスは戸惑うミノリをひょいと抱え上げ、足早に隣室へ向かった。
 
 
 顔から火が出そうになりながらも、ミノリは頭の中で「手順」を確認する。が、緊張と恥ずかしさで思考能力はうまく機能せず、片肘をついて寝転がっているクラウスの傍らで硬直するしかなかった。そんな彼女の様子を楽しそうに眺めながら、クラウスは煽る。
「どうした? 何かしてくれるんじゃないのか?」
 ミノリは涙目で、ふるふると首を横に振った。
「……や……やっぱり、クラウスから……」
 クラウスは勢いを付けて体を起こすと、俯くミノリの肩をぽんと叩く。
「言い出したのはミノリだ。自分の言葉に責任を持ちなさい」
 ニコニコ顔で宣うクラウスへ、ミノリは悲しげな視線を送った。しかし、彼はお構いなしだ。
「まずは服を脱いでみたらどうだ?」
 ミノリは黙って首を縦に振ると、彼に背中を向け、素直に服を脱ぎ始める。「誕生日」の効果はすごいな、とクラウスは他人事のように思った。同時に、どこまで悪ふざけが許されるのだろうか、とも。
 全ての覆いを脱ぎ去り白い肌を露わにしたミノリは、胸と下半身を手で隠しながら、もぞもぞとクラウスに向き直る。そして、またもや固まった。クラウスは噴き出しそうになるのを必死で抑えながら、主導権を握っているのが自分だと悟られぬよう、彼女を誘導する。
「オレも脱がないと始まらないな」
 彼の言に、ミノリはきょとんとした顔をする。が、少しの間を置いてその意図するところを理解し、再び頬を真っ赤に染め、こくんと頷いた。
 ミノリはクラウスのベストにそっと手を掛ける。鼻先をふわりとくすぐる彼女の髪の香りに、クラウスの鼓動が早まった。真剣な表情でボタンを外していく幼気な恋人を間近で見下ろし、彼は思わず伸ばしかけた手をぐっと握り締める。
 ミノリは辿々しい手つきでボタンを外し終え、ベストを脱がせると、次はタイ、そしてシャツと、順々に剥がしていった。余程恥ずかしいのか、始終、クラウスと目を合わそうとはしない。会話もない中で、彼女の吐息と時折触れる指先がクラウスの理性を揺るがせたが、後の楽しみを想像して耐えた。
 ついにベルトに手をかけたところで、ミノリがぴたりと止まる。目に入ったそこは、僅かに膨張していた。見てはいけないものを見てしまったような気がして、彼女は慌てて顔を背ける。
「どうした?」
 クラウスは分かっていても気付かない素振りで、意地悪く微笑んだ。答えに詰まったミノリは、ふるふると首を横に振る。そして無言のまま、再び手を動かし始めた。静かな部屋に、カチャカチャ、しゅるりと音が響く。
 手にしたベルトをそっと脇へ追いやると、今度はスラックスの前ボタンを外しにかかった。が、震える指先には硬すぎた。
およそ一分もの間、必死でボタンと格闘するミノリ。見兼ねたクラウスは、妥協して手を貸してやる。チラと見上げてきたミノリにフッと微笑みかけるが、慌てて視線を逸らされた。
 ミノリは、スラックス、最後に下着を、そろりそろりと引き下ろす。そしてクラウスの引き締まった裸体から視線を外し、たった今大仕事を終えたと言わんばかりに、ふー、と息を吐いた。しかし休憩も束の間、生殺し状態の男が先を急く。
「これで終わり、じゃないだろうな?」
 ミノリはきゅっと唇を引き結び、仰向けに寝転がる彼の上へ、おずおずと跨った。期待と愛しさとが入り交じり、クラウスの鼓動は否応なしに激しくなる。
 彼の熱く硬くなったそれを入り口にあてがい、ミノリはゆっくりと腰を落とそうとする―が、痛みに顔を歪ませた。彼女がまだ濡れていないことに気付いたクラウスは、慌ててミノリの腰に触れ、制止する。
「ミノリ、ちょっと待て」
 彼女は、悲しげに潤んだ瞳でクラウスを見下ろした。その目が「どうして?」と問う。クラウスは上体を起こすと、ミノリの頭を軽く撫でた。
「……クラウスの時と、違う……」
 絞り出すように呟いたミノリの耳元で、クラウスは優しく囁く。
「濡れてないんだ、ここが」
 そう言って、彼女の秘所へそっと指を添えた。ミノリは、びくんと肩を震わせる。
「……どうしたら、いいですか?」
 上目遣いで答えを乞うミノリ。そんな初々しい彼女に、クラウスはニヤリと微笑みかけた。
「自分で弄ってみたらどうだ?」
 
 
 クラウスはミノリを後ろから抱き、その小さな手を掴んで彼女の下半身へ誘う。始めに「わたしがする」と言ってしまった手前か、ミノリは為すがままだ。抵抗することも出来るだろうに、こういうところが律儀で可愛い、とクラウスは思う。
 ミノリの中指を摘み、クラウスはその先端を窪みに差し入れる。彼女の背中が、微かに震えた。
「どうだ? 全部挿れられるか?」
 ミノリはこくんと頷き、そろりそろりと自身の中へ指を埋める。根元まで入ったが、難しい表情で押し黙るだけだった。まあそうだろうな、とクラウスは内心で苦笑する。
「試しに動かしてみるといい」
 彼の言葉通り、ミノリは指を適当に動かした―が、僅かな異物感を感じるだけだ。解せぬ様子の彼女を見て、クラウスは何も言わずに自身の中指をミノリの指に這わせるように挿入した。
 途端に、小柄な体躯がびくんと反応する。
「やっ……ん」
 二本の指に苛まれて高い声を上げるのも構わず、クラウスは彼女の指ごと、内部の敏感な部分を遠慮なく擦る。ミノリは切なげな声を上げて身じろぎした。
「ほら、ここだ」
 更に責めれば、薄紅色の唇から漏れる声が徐々に甘さを帯びていく。しかしここで果てさせるわけにはいかないと、クラウスは中途半端なところで自分の指を引き抜いた。
「……っ」
 ミノリは、ハァハァと小刻みに肩で呼吸をする。わけが分からない、といった顔で。それでも彼女のそこはしっとりと湿り始めていた。
「同じ所を擦ってみろ」
 クラウスが半ば命令するように言えば、ミノリは従って指を動かす―が、相変わらず反応は微妙だ。困惑顔でクラウスを仰ぐ。
「……やっぱり、クラウスの時とは違います……」
 素直な感想だったが、その台詞は彼を喜ばせるのに十分だった。クラウスは口元を緩ませて「仕方ないな」と低く呟くと、再びミノリの中へ指を滑り込ませる。ミノリは「あっ」と短い声を上げ、びくびくと体を震わせた。
「今まで、一人で『こういうこと』をしたことはないのか?」
 クラウスが耳元で囁くように問えば、頬を上気させたミノリは小さく首を横に振る。二十五になるまでこの調子で、性欲処理は一体どうしていたのだろうかという疑問が浮かんだが、それ以上訊かないことにした。
 クラウスは、ツンと膨らんだ芽を親指の先でぐりぐりと押し潰す。ミノリの声が、いっそう高くなった。小鳥の囀りにも似たその音を聞きながら、彼は「そろそろか」と指を引き抜く。
「これで痛くないはずだ」
 ミノリは荒い息を整え、蚊の鳴くような声で「はい」と返事した。
 間を置かず、クラウスはごろりと仰向けに寝転ぶ。ミノリは恥ずかしそうに顔を逸らしながら彼に跨り、とろとろになった自身のそこへ、今度こそ、とクラウスの男性を押しつけた。きゅっと唇を引き結び、恐る恐る腰を落とせば、拍子抜けするくらい簡単に入ってしまった。
 声こそ上げなかったものの、内部を熱いもので押し広げられる感覚に、ミノリの下半身がきゅうんと切なくなる。対してクラウスは、柔らかな曲線を描く肢体を見上げ、余裕を保つのに精一杯だった。腰を突き上げたくなるのを堪え、息の混じった声でミノリを促す。
「ミノリ……そのまま上下に動くんだ」
 彼の言葉にこくんと頷くと、彼女はクラウスの硬い腹筋に両手を当て、前屈み気味の体勢になる。そして、もぞもぞと腰を動かした。自身の感じやすい部分を自ら刺激するという未知の感覚に、ミノリは苦しげな表情で、ハァ、と湿った息を漏らす。
 お互い逝くに逝けない、微妙な上下運動が続いた。
―焦れったい。
 限界まで焦らされたクラウスの中で、とうとう、理性の糸がプツンと切れる。
 彼はミノリを逃がさないよう、彼女のくびれを確と掴み、勢いよく腰を突き上げた。不意を突かれたミノリは驚きで目を見開き、「あぁっ!」と叫び声を上げる。
 クラウスは髪を振り乱して喘ぐミノリを、後ろ暗い喜びをもって見上げながら、容赦なく下から攻め立てた。頭の片隅の冷静な自分が、結局こうなるか、と自嘲する。
 幾度となく同様の動きを繰り返していると、不意にミノリの中が彼女の鼓動に合わせて痙攣した。そして脈打ちながら、きゅうっと締まる。柔らかく、きつく包み込まれるその感覚に、一足遅れて絶頂を迎えるクラウス。荒い息を吐く彼の上に、ふわりとスズランの香りを漂わせ、ミノリの温かい体が覆い被さった。
 
 
 細い寝息を立て始めた愛しい彼の顔をチラリと見上げ、ミノリは一つ、幸せな溜息を吐く。
 思い返せば本当に不思議なものだ、と彼女は思う。彼の告白を受け入れたのは、「好きだったから」というよりは、いて欲しい時に傍にいてくれる温かな存在を失いたくないという、自分勝手な理由からだった。隠し通せない弱さから心情や過去を吐露する度に、いつか見捨てられてしまうのだろう、そうなっても仕方がない、と覚悟を決め続けてきた。
 しかしクラウスはそんな自分を、どこまでも優しく受け入れてくれた。甘えてはいけないと思いつつも依存していくことが怖くなったけれど、逆に甘えれば甘えるほど嬉しそうな顔をする彼に、どんどん惹き付けられていった。穏やかで、優しくて、カッコいい、大人な彼が、自分のような十も年下の子供を選んでくれたのは、奇跡と言ってもいい。
 ミノリは溢れる愛しさを抑えきれず、目の前に横たわるクラウスの胸に、そっと口付けた。
 
 

三十九話 紫陽花と白薔薇

 
 
「……驚いたな」
 花嫁の控え室に入るなり、クラウスは呆然と呟いた。
 目の前に立つ女性は、散々見慣れた彼女であるのに、全く別人とも思える。華奢な体系を引き立てる、純白のAラインドレス。纏め上げられた亜麻色の髪の下から覗く、滑らかな項。潤んだチョコレート色の瞳を縁取る、長い睫。頭上を飾る、春霞のようなベールと、淡いブルーの薔薇冠。
 思わず言葉を失った彼の名を、形の良いピンクベージュの唇が紡ぐ。
「……クラウス?」
 一瞬で現実に引き戻された彼は、僅かに頬を染め、硬い笑顔を作った。
「……悪い。見惚れてたよ」
 気を抜くと、つい口元が緩んでしまう。クラウスはつかつかと律動的な音を立ててミノリに歩み寄ると、改めて、最愛の女性をまじまじと見つめた。
「似合ってるな。そうやって髪をアップにしていると、いつもより大人っぽく見えるぞ」
「そ、そうでしょうか?」
 褒められたミノリは、はにかみ笑いを浮かべて少し俯いた。クラウスは今すぐにでも彼女を抱き締めたかったが、ここはぐっと我慢する。そして脇のブーケスタンドに立てかけられている紫陽花とホワイトローズの花束をそっと手に取り、ミノリに差し出した。
「ありがとうございます」
 彼女は満面の笑みで、それを受け取る。クラウスは一つ息を吸うと、よし、と軽く気合いを入れた。
「それじゃ、そろそろ行こうか」
「はいっ」
 ミノリはしっかりと頷き、差し出された大きな左手に自分の小さな掌を重ねた。
 
 

四十話 結婚式二次会

 
 
 結婚式が終わると、参列者たちはクラウスとミノリの背をぐいぐいと押して、雪崩れ込むようにレーガのレストランへ入っていった。外の看板には「本日貸し切り」の張り紙。
 テーブルの上には既に、オードブルと他何品かの料理、そしてミノリの牧場で醸造された高級ワインが並べられていた。一同はそれぞれ適当な席に着くと、手際よくワインを注ぎ合い、グラスを掲げる。
「それじゃ、クラウスさんとミノリの末永い幸せを願って……乾杯!」
 レーガの音頭で、結婚式の二次会は始まった。
 
 
 ミノリは式の最中もそうであったように、ガチガチに緊張していた。普段あまり話さない住民も多数参加していたためだ。しかし若い女性陣はそんなミノリの様子などお構いなしに、矢継ぎ早に質問を浴びせかける。ミノリは端の席に座るリコリスに潤んだ目で助けを求めたが、ふいと顔を反らされてしまった。
「ねえ、ミノリさんは、クラウスさんのどこが好きで結婚したの?」
 リーリエの唐突な質問に、別の出席者と会話をしていたクラウスの耳がぴくりと動く。非常に気になる話題だった。
 一方、質問された張本人であるミノリは頬を真っ赤に染めて俯いた。そして、「うー……」と唸りながらしばらく考えた後末ボソボソと答える。
「ぜ……ぜんぶ……でしょうか……?」
 途端に、キャーとかヒューヒューなどと囃し立てる声が沸き起こる。ミノリはいたたまれない気持ちで、きゅっと唇を引き結んだ。彼女の答えに喜んだものの、少々可哀想に思えてきたクラウスはハハッと笑って助け船を出す。
「あまり虐めてやるなよ。ミノリはこういう場に慣れてないんだ」
 彼の言葉に、ミノリは黙ってこくこくと頷いた。リーリエは少し残念そうに「そっか」と呟くと、標的を移す。
「じゃあ、クラウスさんに聞いちゃいますね。クラウスさんは、ミノリさんのどこが好き?」
「そうだな……オレも『全部』と言いたいが、強いて挙げるなら、真面目なところだな」
 落ち着いた態度で無難な回答をしたのは、詮索避けのためである。脇で聞いていたレーガやミステルは、大人だな、と思った。しかしこんなことでは引き下がらないのが女の子。
「プロポーズは? どっちからだったの?」
 この質問には、答えに詰まる。自分から、と言うのも気恥ずかしかったが、かと言って嘘は吐けない。こういう時は、はぐらかすに限る。
「それは、二人の秘密だ」
 クラウスは、フッと笑って言った。続いて、やれ出会いはどうだの、やれ初デートはどうだのといった問いが投げかけられたが、クラウスは見事な大人力でそれらをやり過ごす。やがて飽きたのか、リーリエは別の輪の中へ移動していった。
 それを確認し、レーガとミステルがクラウスの隣へ静かに移動する。
「……で、実際、どうなんだ?」
 レーガが、声を潜めて新郎に尋ねた。クラウスは怪訝顔で彼を見下ろす。
「何がだ?」
「プロポーズだよ」
「……」
 クラウスは、一瞬黙り込む。が、すぐに余裕たっぷりの外面を取り繕った。
「さっきも言っただろう? そういうのは……」
「クラウスからですよ」
 思わず、ぎょっと目を剥くクラウス。横から口を挟んだのは、他ならぬミノリだった。見れば、彼女の手元には空いたワイン瓶が一本。外面的には、酔っている様子は微塵もない、が。
「そのお話、もっと聞かせてください」
 ミステルがにこやかに微笑んで続きを促せば、ミノリもニコニコ顔で「お答えできることなら」と首を縦に振った。クラウスは、思わず頭を抱える。
 
 
 この日を境に、住民の間で「ミノリはワインを一瓶空けてからが面白い子」という共通認識が生まれた。
 
 
 終