黒猫雑貨店 第一幕 黒猫雑貨店 2.夢見る瞳

2
 海の見える、北の出窓。そこに腰掛け、見た目五歳ほどの無表情な少女が、まだナイト・ウェア姿のまま、静かに水平線を眺めていた。
 風にもてあそばれ、肩にかかる亜麻色の髪が微かに揺れている。
 目立った家具といえばテーブルくらいしかない、この殺風景なダイニング・キッチンに、開け放たれた窓たちは、新鮮な風と穏やかな陽光とを絶えず送り込んでいた。
 私がテーブルの上に白いマグカップを置くと、その音に反応してか、カタタ、という微音とともに、彼女は素早く私のほうを振り返った。ふわりと床板の上から降りると、カタカタと、ゆっくりテーブルに向かって歩んでくる。
 それまでおこなっていた朝食の準備を一度中断し、私は近寄ってきた少女を抱え上げると、背もたれつきの丸椅子の上に座らせた。
 しばらくの間、少女は、私がサニーサイドエッグやトーストの皿を運ぶのを大人しく眺めていたが、何を思ったか、ふと、バターナイフに手を伸ばした。それをそっと持ち上げると、物珍しそうに眺め、再び、繊細な手つきで元あった場所に戻す。
 一人分の朝食の準備が整うと、私は少女の向かい側の椅子に腰を下ろし、バターの入ったトレイとバターナイフとを手に取った。バターを少量すくい、トーストにまんべんなく塗る。塗り終えたら、トレイとナイフの両方を、同時に元の位置に戻した。続いて、跳ねないように留意しつつ、カップにミルクを注ぐ。
 少女は、その様子を逐一、ただ黙って見つめていた。
 私は、ミルクの入った紙パックをテーブルの上に置きながら、少女に言う。
「今日は出かけます」
 少女は暫時私を見つめ、軽く小首を傾げる。が、その後すぐに首を縦に戻して、カタン、と一つ頷いた。それが了承の意を表すものか否か、私には判じ得なかった。しかし、彼女は椅子から下りると、迷うことなく部屋の西側に位置するドアーから、静かに廊下へと出ていった。
 部屋に一人残された私は、まず、トーストを食べ終えた。次に、サニーサイドエッグに手をつける。完食すると、最後にマグカップの中身を飲み干し、トーストの皿、サニーサイドエッグの皿、マグカップと順に重ねた。
 私が食器を持って席を立つのとほぼ同時に、少女が再びダイニングのドアーをひらいた。服装が、ナイト・ウェアから、フリルやレースをふんだんに使用した、よそ行きの赤いワンピースへと換わっている。どうやら、私の言葉を理解してくれていたようだ。
 手にしていた食器の山をそっとシンクの底に置くと、私は少女に背を向け、一つ一つをスポンジで軽く洗い始めた。その間、背後からは、絶えず、カタカタという微かな音が聞こえていた。
 食器を乾いた布で拭き、食器棚の中の決められた位置に収めると、私は開いている全ての窓を閉めた。もうすぐ出かけるということを悟ったのか、少女は部屋の南側のドアーを開け、私が先に出るのを待っていた。
 他に閉め忘れた箇所がないか確認すると、私たちは部屋を出た。
 玄関前で立ち止まり、私は、右側の壁に設置されている外套かけに手を伸ばした。春用の黒いロング・コートに袖を通し、7つのボタンを、上から順にしっかりと閉める。
 私がそうしている間、右隣に大人しく立っていた少女は、いつの間にか、外套かけから白いシルクの手袋を取り外していた。いつもの手順を覚えていたのだろう。それを、私に差し出した。
 黙って受け取ると、私は両の手に手袋をはめる。そして、自分のコートの左ポケットから、少女用の小さな手袋を取り出した。私のものと同じく、シルク製の白い手袋だったが、縁には、繊細な糸で編まれたレースが縫い取りされている。
 少女は私のほうに手を差し出し、私は、彼女の手に手袋をはめる。
 続いて、首には薄桃色のスカーフを、頭には、リボンや花飾りのついた白い帽子を。それぞれ外套かけから取り、しかるべき方法で着せた。
 最後に、二人揃って、外出用のブーツに履き替える。
 準備がすっかり整うと、私はドアーをひらき、石段へと足を踏み出した。
 瞬間、陽の光が視界を覆う。
 私はあまりの眩しさに、立ち止まって左腕で両眼の前を覆った。急停止したからか、少女の顔が、私の両腿の裏側にぶつかった。
 目を光に慣らしながら、徐々に腕を下ろす。
 視力がすっかり回復すると、私は振り返り、少女を抱き上げた。いつも感じていることではあるが、やはり、軽い。
 そのまま、私は壁沿いに歩いて家の東側に回り、自転車の置いてある場所へと向かった。錆ひとつない銀色の自転車の前に立つと、少女を後部座席に乗せる。右足で軽く蹴ってストッパーを上げ、押して転がした。
 門の前までくると、一度、ストッパーを立て、両開きの扉を開ける。
 ギィ、という、耳に心地よい金属音。
 外に出たら、再び自転車を停め、門扉をきちんと閉めなおした。
 自転車を漕ぎ出し、一本の道伝いに、東へ向かって走る。周囲には、ただ草原しかない。
 やがてT字路に差しかかると、私は、ゆるやかなカーブ描く黒いハンドルを、左へ向けた。途端、眼下に、マヤの街並みと、青い海とが広がる。やや急な下り坂だ。ペダルは漕がず、速度をブレーキで調節しながら、ひたすら北へ下った。
 自宅を発ってから、およそ十分後。再び、道が二手に分かれた。私は速度を緩めないまま、迷うことなく右の道を選んだ。
 視線の先には、東西に伸びる、細い線路。
 草原の中の一本道をさらに北東へ下り、遮断機も信号もない踏切を突っ切ると、まもなく、目指す場所が見えてくる。
 首だけで後ろを振り返って、私は視界の端で少女の様子を窺った。
 少女は左手で帽子を押さえ、右手でしっかりと後部座席の握りを掴んでいた。視線は、真っ直ぐ海岸線に注がれている。帽子の飾りとして縫いつけてある白いリボンが、向かい風に吹かれて踊っているように見えた。
 その姿を確認すると、私は、再び前に向き直る。そして、徐々にブレーキを握る手に力を加えていった。
 自転車の速度が落ちていく。
 ふと、道が途切れた。
 自転車のタイヤが、短草の絨毯の中に埋もれる。
 私は頃合を見計らって、瞬間的にブレーキをかけた。キッ、という音とともに、車輪の回転が止まった。
 自転車から降りると、その位置でストッパーを立てる。私は後部座席へと回り込み、未だ左手を頭に置いたままの無表情な少女を、ふわりと抱きあげた。
 そのまま、白い砂浜へ向かって歩き出す。
 海水に反射する光を受け、少女の瞳がキラキラと虹色に輝いた。
 海面にほど近い、しかし、白波に足を撫でられる心配のない位置に到達すると、私は立ち止まる。同時に、少女を砂の上に下ろした。
 一瞬、よろける少女。が、すぐに私のコートの裾を小さな手で引いてバランスをとり、遠く前方に視線を移す。
 暫時、少女は黙って海を見つめていた。
 ふと、おもむろに右手を真っ直ぐ前方に伸ばし、人差し指で煌く海原を示すと、少女は私を見て、小さく首を傾げる。実際に、私がその光景を見たわけではないのだが。
 私は視線を前に投げた状態で、無言の問いかけに答える。
「海、です」
「うみ」
 ぽつり、と、少女が呟いた。
 私は、依然、水平線を見つめたまま。
「綺麗ですね」
 誰にともなく言った。
「綺麗」 というその単語を、まるでこだまのように、少女は反復する。
「きれい」
 
 
 そして、ふわり、と微笑んだ。
「きれい、ですね」